やさしい古代史

古田武彦氏の仮説に基づいて、もやのかかったような古代史を解きほぐしていこうというものです。

邪馬壹国(5)

2006-11-16 14:50:39 | 古代史
 前回の補強をします。当時三世紀の「三国志」の読者は、まず「魏志」の「帝紀」から読み始め、ついで「列伝」「夷蛮伝」へと読み進むはずです。列伝の最後にある「夷蛮伝」から読む人はいないのではないでしょうか。そうであれば、最初の「倭」を次の記述に見出すはずです。

<(正始四年)冬十二月、倭国女王俾彌呼、使いを遣わして奉献す。>(「魏志三少帝紀」第四斉王)
「倭国女王」があります。倭国に住み女王の統治下にある人々が「倭人」でしょう。ここに「俾彌呼」と書いてありますね。「俾」とは「従う」意味ですから(前回の「率俾」を思い出してください)、この名は国書に署名した女王の自称ではないでしょうか。「倭人伝」の中では、「卑」で書かれていますが…。次です。

<韓は帯方の南にあり、東西、海を以って限りと為し、南、倭と接す。>(魏志韓伝)
当然ここの「倭」は、帝紀にあった女王の治める「倭国」だな…と理解されるはずです。上の記述から当時、半島の南岸は「倭の領土」であったことがわかります。そして倭地に拡がりがあったとすれば、それは壱岐・対馬から九州島を含みいまの中国地方…であったのではないでしょうか。いわゆる「銅矛・銅剣」祭祀圏です。

<(辰韓)国に鉄を出だす。韓・濊・倭、みな従いてこれを取る。>(魏志韓伝)
<いま辰韓人、みな褊頭、男女、倭に近し。また文身す。>(魏志韓伝)
<弁辰は辰韓と接す。…その瀆盧(とくろ)国は、倭と界を接す。>(魏志韓伝)
「韓伝」は「倭人伝」の前にありますから、読者はここまでで「倭国」の位置をはっきりと認識するはずです。
これで「倭人伝」に唐突に「倭人」が出てきても問題なかった…ことはお分かりいただけたでしょうか。

 さて古田先生の仮説の中には、「魏・西晋朝の短里」という概念も含まれます。
『「三国志」という史料の中で、魏本国に使われた「里」単位と、夷蛮伝などにある「里」単位は違うはずはない』というものです。
何の証明もせずに、「中国本土と韓伝や倭人伝の中の「里」単位は違う」と各個改訂に走られる先生方もおられるのです。魏の前の漢(周を除く)や後の東晋以降の王朝では、「1里=約435m」だったのです。いまの中国では「1里=500m」ですし、日本では「1里=約4km」だったことはご承知の通りです。
古田先生は、韓伝の次の記述に注目されました。

<韓は帯方の南にあり。東西、海を以って限りと為し、南、倭と接す。方、四千里なるべし。>(魏志韓伝)
そうです。先にあげた記述の後のほう「方、四千里なるべし」のところです。「方」とは、ある面積を概正方形(四辺みな同じ長さのひし形でも良い)で表すやり方で、「方法」の元となった概念です。ソウルあたりに帯方郡の郡衙(ぐんが、出先の役所。つまりこのあたりは魏領)があったとすれば、その南部を四千里四方…と概算したのです。
これによって先生は、「三国志で使われている「里」単位は、1里が75m~90mであり、75mに近い数字」とされました。そのご谷本といわれる方が、西周のころ著されたという最古の天文算術書「周髀算経(しゅうひさんけい)」を研究されて、「1里=76m~77m」と導かれました。そして「この一致は偶然ではない」といわれたのです(「邪馬一国の証明」角川文庫版)。つまりこの「短里」は、周と魏・西晋のみで使われたことが証明されたのです。このブログでは、「1里=77m」としましょう。さて「魏志倭人伝」に戻ります。

<郡より倭に至るには、海岸に循(したが)いて水行し、韓国を歴(ふ)るに乍(たちま)ち南し、乍ち東し、その北岸、狗邪(こや)韓国に至る、七千余里。>
郡より倭に至るには…、たぶん仁川(インチョン)あたりに出て船路を取り、西岸を島伝いに南下して牙山(アサン)湾の奥深くに上陸したのでしょう。ざっと見て110km~120kmとしましょう。千五百里…。「歴」は「並んだ点を次々と通る」という意味で、「陸行」に変わったことを示します。また「乍」字は「Aと思えばたちまちBになる」ということで、「南に行ったと思えばすぐ東する」という陸路の道中がよく表れています(因みに「~しながら」と読むのは日本語特有のもの)。そして着いたところは「その北岸、狗邪韓国」…。「その」は何の代名詞でしょうか。すこし前に出てくる「倭に至るには…」の「倭」ですね。すなわち、ここは倭の領地だったのです。「狗邪韓国」は魏より見た名、倭より見れば「任那(みまな)」です。いまの「釜山(プサン)から金海(キムヘ)」あたりがそうだといわれています。郡より狗邪韓国まで七千余里、郡より仁川を経て牙山までを約千五百里としましたから、陸路は五千五百里であったことになります。

 さて次は対馬海流を突っ切って、対馬・壱岐経由でいよいよ倭国本土への船旅です。では…。