やさしい古代史

古田武彦氏の仮説に基づいて、もやのかかったような古代史を解きほぐしていこうというものです。

邪馬壹国(6)

2006-11-20 13:14:09 | 古代史
 前回は、魏の使いが倭国へ行くさわりを紹介しましたね。(帯方)郡衙(ソウル付近)からいったん仁川あたりに出て、船でたぶん牙山湾奥深くに上陸し、そこより陸路で乍ち南し乍ち東する旅を続け、倭国の北岸狗邪韓国へ到達。そこまで七千余里であった…と。
古田先生は、この魏使の旅は倭国が魏の臣下になったことを宣伝するデモンストレーションの旅であったろうし、また倭国が窮地に陥ったとき魏軍を派遣するための日数・距離そして道順を知るための旅でもあったろう…といわれます。
いやその調査結果に従って、陳寿は「三国志魏志倭人伝」を著したのです。ですから通説のごとく、魏使は倭国へは行っていず倭人から聞いたことを誇張を交えて記録した…などということは決してない、といわれます。

これは、一里約435mであるとする固定観念よりすると、後に出てきます倭国までの総距離「万二千余里」ははるかフィリッピンあたりの海を指す…と見られるからです。
明治の白鳥庫吉博士(東大)はその著書「卑弥呼問題の解決(1)」で、「一体倭人伝に見える魏使経行の里程や、不彌国から邪馬臺(元字は壹であるが…)国までの日程に、非常な誇張があることは何に依るであろうか。…ここに一々数字を挙げてみるまでもなく、現行の正確な地図・海図等により、最も普通なる航路を測ってこれを魏里に引きなおしてみると、約五倍の誇張がある」とされたそうです。論敵であった内藤湖南博士(京大)もこれを承認し、里数値を論証に使わないほうが賢明である…と共通の土台が作られ、現在に至るまで「倭人伝は信用できない」といわれているのだそうです。確かに一里が435mと思い込んでいるのであれば、本来「魏・西晋朝の短里」である77mで書かれてある里程は、5.65倍ほどの違いがありますよ…ね。今回は、狗邪韓国よりの船旅にご案内しましょう。

<始めて一海を度(わた)る、千余里、対海国に至る。その大官を卑狗(たぶん「ひこ、彦」だろう)といい、副を卑奴母離(ひぬもり?)という。居るところ絶島、方四百余里なるべし。土地は山険しく、深林多く、道路は禽鹿(きんろく)の径のごとし。千余戸あり。良田なく、海物を食して自活し、船に乗りて南北に市糴(してき、米を買う海産物を売るの取引)す。>
魏側よりいう対海国・倭側よりいう対馬へ着きました。たぶん下県のことでしょう、面積は四百余里四方のようです。狗邪韓国より千余里で、人口は千余戸…と。
対馬海流を考えれば、狗邪韓国を出て島伝いにできる限り西へ行き、帆に風を受け力いっぱい漕げば自然に海流に乗り、対海国へ着く…ということではないでしょうか。海の航路は、すべて西へ出て海流に乗る…ことが肝要なのでしょう。
ここで注意!! 通説では対海国を「点」としか見ていませんが、古田先生は、里程としては半周八百里を考慮すべき…とされました。ですからここを発つまで、魏使は千八百里を旅したことになりますね。
因みに、人口の単位「戸」は、税や軍事力の元となる下部単位であり、「国(郡に相当)-県(けん、あがた)-邑(ゆう、村・に相当)-戸」という魏の制度が導入されているのではないか…とされました。興味深い問題です。
さてこの国のありさまを、民俗的な目で見ています。どうも米はあまり取れず、船で半島側や北九州側に渡って交易しているようすが伺えますね。
そしてもう一つ、「卑狗」に注意ください。これが「彦」なる官位であろうということは、記紀においてある所の長官に「日子」や「比古」「毘古」などが多出し、これらは「彦」であろうことは間違いないとされているからです。同じように、「みみ、彌彌・耳」や「たらし、足・垂」も長官を表しているようです。
さて、次の航路です。

<また、南、一海を渡る。千余里、名づけて瀚海(かんかい)という。一大国に至る。官をまた卑狗といい、副を卑奴母離という。方三百里なるべし。竹林・叢林(そうりん)多く、三千ばかりの家あり。やや田地あり、田を耕せども食するに足らず。また南北に市糴す。>
ここはいまの壱岐で、対海国を出てから千余里で到着です。古田先生は同じように、航路には島の半周六百里を加えなければならない…とされました。
なお「瀚海」に意味を考えられたとき、「瀚」じのサンズイを取ったら「はね、やまとり、はやくとぶ」などの意味(諸橋漢和辞典)があることを見いだされました。そこでひざを打って、「なるほど、対馬海流だ」と叫ばれたのだそうです。
次ぎにここの人口は「家」で示されていますね。先生が検証された結果、この「家」は税などの対象となる倭人の「戸」と半島などの人々が交易などのため留まっている人口とを加えたものだ…とされました。いまの感覚でいえば、国際都市…なのですね。
なお、倭国の官名とか人名は、当時の倭人から聞いた倭語の発音を漢字で書き残したもの…と考えられます。しかしお気づきのように、あまたある同じ発音の漢字の中からあまり芳しからぬ漢字を選んで表わしています。「ひ・卑」「こ・狗」「ぬ・奴」「や・邪」のごときです。注意して見ていてください。

<また一海を渡る、千余里。末盧(まつろ)国に至る。四千余戸あり。山海に沿うて居る。草木茂盛し、行くに前人を見ず。好んで魚鰒(ぎょふく、魚やあわびなど貝類)を捕え、水深浅となく、みな沈没して(潜って、さすが海人・海女だ!)これを取る。>
一大国より千余里で、末盧国へ着きました。いまの「松浦」は、「末盧」の遺称ではないでしょうか。いまの唐津市街の北東部(西唐津?)ではないかと考えられています。「みな沈没してこれを取る」とはいい表現ですね。そのしぐさが、目の前に生き生きとよみがえります。
この末盧国からは、倭国本土の陸の旅です。

 さてここまでは、一応直線的な旅の行程でした。「郡衙-(仁川-牙山)-狗邪韓国(七千余里)-(千余里)対海国(半周八百余里)-(千余里)一大国(半周六百里)-(千余里)末盧国」でした。
さて陸路は、どのような行程を通るのでしょうか。次回をお楽しみに…。