やさしい古代史

古田武彦氏の仮説に基づいて、もやのかかったような古代史を解きほぐしていこうというものです。

邪馬壹国(10)

2006-11-23 16:31:33 | 古代史
 倭国の風俗に関する記事を、どんどん進めていきましょう。前回の「一大率」の役目の続きです。

<王の使いを遣わして京都(魏の都洛陽)・帯方郡・諸韓国(馬韓・弁韓・辰韓など)に詣(いた)らしめ、郡の倭国に使いするに及ぶや、みな津に臨みて捜露(そうろ、臨検する)す。伝送の文書・賜遣(しけん)の物、女王に詣るに、差錯(ささく、交わる・入り乱れる)するを得ざらしむ。>
女王が洛陽や帯方郡衙あるいは諸韓国に使いを出し、その返礼として郡より倭国内の諸国(全部で三十国ある)に使いが来る場合、一大率はその軍事力を以って(倭国内)諸国の港を臨検し、送られてきた文書や贈り物をきちんと整理し、間違いなく女王のところへ届くようにしている…ということます。
この風景はどうも魏の使いが実際に見聞したことらしく、二十九国からの貢献の品は邪馬壹国が取りまとめて送り、送られてきた品々は一大率が各国別に整理して交わらないようにしている…というのです。女王国ともども他の二十九国も外交・通商していましたが、その手綱はしっかりと女王国が握っているのが分かります。

<下戸、大人と道路に相逢えば、逡巡(しゅんじゅん、尻込みして・ためらいながら)して草に入り、辞を伝え事を説くには、あるいはうずくまりあるいはひざまづき、両手は地に拠り(地に両手をついて)、これが恭敬を為す。対応の声を噫(あい)という。比するに然諾のごとし。>
身分制度の厳しいところが描写されています。大人同士の挨拶は手を打つだけでしたね。下戸が大人と道で会えば、道を譲って草に入り、両手を地につけて挨拶するようです。そして「あい」という…と。これら風俗の描写は、百五十年ほど後にできた范曄の「後漢書」に取り込まれています。しかしずいぶん簡略化され、意味がすこし違っている描写もありますが…。

<その国、本亦(もとまた)以って王となし、住(とど)まること(王位にあった期間)七・八十年。倭国乱れ、相攻伐すること暦年、すなわち一女子を共立てて王と為す。名づけて卑弥呼(ヒミカ)という。鬼道に事(つか)え、よく衆を惑わす。年すでに長大なるも、夫壻(ふせい、おっと)なし。男弟あり、佐(たす)けて国を治む。王となりしより以来、見るあるもの少なく、婢(ひ)千人を以って自ら侍せしむ。ただ男子一人あり、飲食を給し、辞を伝え居所に出入す。宮室(きゅうしつ、高床式の館)・楼観(ろうかん、物見櫓)・城柵(じょうさく、丸太の高い柵)厳かに設け、常に人あり、兵を持して守衛す。>
女王卑弥呼誕生のいきさつです。なお卑弥呼は「ヒミカ」と読みましょう。古田先生によれば、「こ」字は「卑狗=彦」の「狗」が使われており、「呼」字には「こ」と「か」音があるが「神様にささげるいけにえに入れる傷」を表す「か」音がよい…ということです(諸橋大漢和辞典)。ヒミカは巫女ですから…。
本来(本亦の意味から)男王が一般的だったのです。前王は、(二倍年礫ですから)三十五年~四十年間も在位されていました。亡くなった後、倭国は乱に見舞われ「無主」のときを迎えました。この「暦年」とは、古田先生の「三国志」全体の調査で「七・八年間」をいうそうです。
後で出てきますように魏使がヒミカに拝謁したのが240年ですから、そのとき「長大」な年齢だったとすると、古田先生の調査により、三十~三十五歳くらい…。(歴史を想像で語るのは禁じ手ですが…、ロマンとして聴いていただければ幸いです。もし「倭国乱」が後漢より禅譲されて魏が建国され続いて蜀や呉も国を建てた220~222年に関係があるとすると、つまり親魏派とか親呉派などの間で生じたとすると、230年ほどまでその乱が続いたことになります。そしてヒミカが共立されたのであれば、二十歳ちょっと過ぎの美しい女王の誕生だったのかもしれませんね。)。
范曄は何を読み違えたのか「後漢書」で、「桓・霊の間、倭国大乱、こもごも相攻伐し、暦年主なし。」と記しました。後漢の桓帝は147-167年の在位、霊帝は168-188年ですから、最大四十年ほどの乱…つまり「大乱」と記しました。そしてヒミカが190年ころ即位したとすれば…、二十歳だったとすれば240年には七十歳の老婆…、十歳だったとしても六十歳…。いやこれは、ロマンとはすこしずれすぎましたな。
弟が実質的な王として、ヒミカを助けていたようです。「佐治国」…、これは周の第二代成王を補佐した周公丹の故事「佐治天下」に淵源しています。ヒミカはもっぱら「巫女」として、宮室の奥深くいてめったに人前に出ないようです。表とのつなぎは、ただ一人の男子だ…と。
この「宮室・楼観・城柵」は、佐賀県の吉野ヶ里遺跡でそっくり出土したことはご承知の通りです。守衛する兵士の武器は…、「銅・鉄矛」でしょう。

<女王国の東、海を渡る、千余里。また国あり、みな倭種。また侏儒(しゅじゅ、背の低い人の)国あり。その南にあり。人長三・四尺。女王を去る、四千余里。また裸(ら)国・黒歯(こくし)国あり。またその東南にあり。船行一年にして至るべし。倭地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、あるいは絶えあるいは連なること、周旋(しゅうせん、巡ってみると)五千余里なるべし。>
博多湾岸より東に海を渡って千余里、つまり80kmあたりに倭種の国がある…と。山口県下関から小野田あたりでしょうか。そこより南へまた三千余里南下すれば、背の低い人々の国がある…と。古田先生は、高知県の足摺岬あたりだろう…といわれています。
そしてそこから東南方向に、船で一年…実際は半年くらいで行ける所に、裸国・黒歯国があるのだ…と。古田先生は、これは嘘でも誇張でもない…とおっしゃっています。ヨットで太平洋を横断した方々の話も参考にして、足摺岬を掠める日本海流(黒潮)に乗れば三ヶ月ほどで自然とサンフランシスコ沖へつき、そこから陸を左に南下すればまた三ヶ月ほどで南米はエクアドルに達する…と。帰りは南北赤道海流で、わが列島まで送ってもらえるのだ…と。実はアメリカ・エクアドルの学者の研究で、バルディヴィアという所から「縄文土器によく似た土器」が発見されたことがわかっています。「縄文人が海を渡った…」証拠かもしれませんね。
そして倭地、半島南岸にある狗邪韓国より倭地を巡ってみると、五千余里あるそうです。帯方郡衙より狗邪韓国まで七千余里でしたから、ここで邪馬壹国までの全道里「万二千余里」がわかったのです。
ここで「海中洲島の上に絶在し…」とあることからも、邪馬壹国は大和などではありえず、九州島であることは自明だったのです。では、次回より年代記事を見てみましょう。

 どうも来月の入院を考えてか、焦りが出ている様子が見て取れますね。焦って、下手なことを書かないよう自省します。

邪馬壹国(9)

2006-11-23 09:04:13 | 古代史
 前回の「練沐」についてわたしは「頭から水をかぶって身体を鍛える」としましたが、岩波文庫「魏志倭人伝」の解説では「一周忌の喪服である練(ねりぎぬ)をきて水に浴すること」とあります。後者が正しい? では次です。

<その行来・渡海、中国に詣(いた)るには、恒に一人をして頭を梳(くしけず)らず、蟣蝨(きしつ、ともにしらみ)を去らず、衣服垢汚(こうお、あかまみれ)、肉を食わず、婦人を近づけず、喪人(そうじん、本国を逃亡して他国にいる者・亡人)のごとくせしむ。これを名づけて持衰(じさい、神聖な仕事に従事するため飲食や行動を慎み心身を清めた人)と為す。もし行く者吉善なれば、共にその生口(せいこう)・財物を顧し(与えて目をかけ)、もし疾病あり、暴害に遭えば、すなわちこれを殺さんと欲す。「その持衰、謹(つつし)まず」といえばなり。>
中国へ使節を送ったり、交易するための航海のときの倭人の風習です。一人の男を「持衰」としてしらみや垢だらけのままにし、肉も食わさず婦人も近づけずに乗船させる…と。そして航海がうまくいけば、使節の長や交易の荷主は生口(戦争捕虜であり、労働力となる)や財物を与える…と。しかし病気が出たり暴風雨などに遭えば、「おまえが謹まなかったからだ!」とこれを殺すのだそうです。なかなかひどい風習ですね。

<真珠・青玉を出す。その山に丹(水銀あるいは朱色の原料の丹砂)あり。その木には、枏(だん)・杼(ちょ、どんぐり)・予樟(よしょう、くす)・楺(ぼう)・櫪(れき、くぬぎ)・投・橿(きょう、かし)・烏号(うごう)・楓香(ふうこう、かえで)あり。その竹には蓧(じょう、しの)・簳(かん、やがら)・桃支(とうし)。薑(きょう、はじかみ・しょうが)・橘・椒(しょう、はじかみ)・蘘荷(じょうか)あるも、もって滋味(うまい味、栄養のある食べ物)と為すを知らず。ビ(けもの犭へんに爾)猴(びこう、さる?)・黒雉あり。>
特産の植物のようです。分かる範囲で解説しました。

<その俗、挙事行来に云為(うんい、言論と行動)する所あれば、すなわち骨を灼(や)きて卜(ぼく)し、以って吉凶を占い、まず卜する所を告ぐ。その辞は令亀(れいき)の法のごとく、火坼(かたく、焼いた骨に入った裂け目)を視て兆(ちょう、きざし)を占う。>
何か事を起こす-たとえば戦争をするとか交易の旅に出るとかの-とき、倭人は鹿などの骨を焼いて占うのだそうです。そして焼いたためにできた骨の裂け目で、その吉凶を見るのだそうです。どこかに遺跡で、そのような骨が発掘されたと聞いたことがあります。

<その会同・坐起には、父子・男女の別なし。人性、酒をたしなむ。(魏略にいう。「その俗、正歳・四節を知らず。ただ春耕・秋収を計りて年紀と為す。」)。大人(たいじん)の敬する所を見れば、ただ手を打ちて以って跪拝(きはい、ひざまづいたあいさつ)に当つ。その人の寿考(じゅこう、寿命)、あるいは百年、あるいは八・九十年。その俗、国の大人はみな四・五婦、下戸もあるいは二・三婦。婦人淫せず、妬忌(とき、ねたんだりさけたりする)せず。盗窃せず、諍訟(そうしょう、あらそいごと)少なし。その法を犯すに、軽き者はその妻子を没し(没収してなどに落とす)、重き者はその門戸(その家族)および宗族(その一族)を没す(殺してしまう)。尊卑、各(おのおの)差序(序列に従った違い)あり、相(あい)臣服する(臣下として従う)に足る。>
日常の行動には、父子・男女の区別はありません。民主的ですね。いまより進んでいるかも…。そしていまの私たちと同じく、こよなく酒を愛す…と。
そして五世紀の裴松之(はいしょうし、「後漢書」を著した范曄と同時期の人))の注釈があり、「倭人は年の数え方を、春の種まきから秋の収穫までを一年とし、そして冬を過ごして次の春までを一年、つまりわれわれ中国人の一年は倭人にとって二年になる」といっています。だから次の「倭人の寿命は百年、あるいは八・九十年」が書かれたのでしょう。いま「弥生墓の人骨を調べると、四十五歳前後…」という事実にもぴったり合いますね。
ここでいう「大人」とは、いわゆる倭国の貴族階級・支配階級の人々でしょうか。お互いが会えば、パンパンと手を鳴らして挨拶代わりとする…と。そして皆、四人や五人の妻を持っていたようです。一夫多妻の世界ですね。
次の「下戸」と呼ばれる階級の人は、実際の農業・工業・兵役の義務を負うていた町人…でしょうか。このごろでは下戸の富裕層も出て、二・三人の妻を持つ人も現れたようです。
婦人は、それでも嫉妬などしません。泥棒などいないので、めったに訴訟もありません。万が一罪を犯せば、軽い場合は妻子を没収してに落としました。反逆罪など重い場合は、罪人を出した家族や一族に死を賜ったようです。
大人と下戸の間はいうに及ばず、大人同士でも身分の差があれば序列が下位の者は上位の者に服従する…と。その上下は、鯨面文身で分かったのでしょうね。
倭国の身分制度が分かります。まず頂点に「王」、次ぎに貴族階級としての「大人」、そして一般の民として「下戸」、その下に「奴・婢」、彼らには、主を選ぶ権利はあったのでしょうか。そして最下層に、何の自由もない「生口」がいました。当然、大人同士でも下戸同士でも、身分や貧富に差はあったのでしょうね。

<租賦(そふ、いわゆる年貢)を収む。邸閣(ていかく、食料用倉庫)あり。国々市あり、有無を交易す。使大倭(しだいゐ、倭国から派遣された役人)これを監す。女王国より以北には、特に一大率(いちだいそつ)をおき、検察せしむ。諸国、これを畏憚(いたん、恐れはばかる・気兼ねする)す。常に伊都国に治す。国中において、刺史(しし、中央から派遣された巡察使)のごときあり。>
各国より徴収された年貢は、いったんその地にある倉庫に納められました。そして同じように市場があり、その地の特産品(例えば米)と不足する物品(例えば塩や魚)と交換する交易をしていたのでしょう。それを司っていたのは、使大倭という役所(役人)である…と。
そして伊都国には一大率という軍団を駐屯させ、諸国を巡察していたのでしょう。軍事権と警察権を持った強力な組織であったらしく、諸国はそれを恐れはばかっていたようです。一大率は、古田先生によれば、海人族の故郷である一大国出身の…あるいはそれに因んだ軍団だったのではないか…とされました。

 さて今回はここまで…。倭国の風俗、お分かりいただけたでしょうか。