Good News

その日の説教で語られる福音を、ショートメッセージにしました。毎週更新の予定です。

6月20日の説教

2021年06月20日 | Good News
「なぜ怖がるのか」(マルコ福音書4章35節〜41節)

私たちの主なる神と御子イエス・キリストから 恵みと平安が皆さんにありますように。

本日の福音は、イエスさまがガリラヤ湖で突風を静められた出来事です。弟子たちが乗っていた舟が、激しい突風のため波をかぶって難破しそうになったところ、イエスさまが「黙れ。静まれ」と発されるやいなや、風はやみ、すっかり凪になりました。奇跡です。『マルコ福音書』では、ここからイエスさまによる一連の奇跡物語が続きます。イエスさまが悪霊に取り憑かれた人を癒された話、ヤイロの娘と長血に患わされた女性を癒された話、5つのパンと2匹の魚で5000人もの人々を養われた話、障がいをもった人々を癒やされた話などが続いたところで、「あなたはメシアです」というペトロの信仰告白に至るのです。今日、イエスさまが湖の突風を静められた奇跡を目の当たりにした弟子たちは、「いったい、この方はどなたなのだろう」と互いに言い合ったと記されていますが、この問いに対する答えが、一連の奇跡物語を通じて、準備されていくわけです。「この方はどなたなのだろう」「イエスはいったい誰なのか」という問いは、神学的にはキリスト論と呼ばれるものですが、その問いが今や弟子たちに目覚めたのです。
 
それでは、一連の奇跡物語のトップを飾った今日の福音を見て参りましょう。35節:その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。このように物語は始まります。「その日の夕方」とはいつの日のことかはっきり書かれていませんが、その日のイエスさまはガリラヤ湖畔に集まってきたおびただしい群衆を前にして御言葉を語っておられました。先週の日課であった「からし種のたとえ」もその一つです。ガリラヤ湖畔にはあまりにもたくさんの人々が集まってきたので、イエスさまは舟に乗って、湖上から集まった人々に語りかけたと書かれています。そうして人々に御言葉を語られた後、もはや夕暮れとなり人々も家路につく頃となったので、イエスさまは弟子たちに声をかけられました。「向こう岸に渡ろう」と。「あちら側に住む人々にも御言葉を届けるために、向こう岸へ渡ろう」と。御言葉は限られた場所だけでなく、あらゆる所に届けられなければならないからです。福音は、すべての人にもたらされるべき神の賜物なのです。

さて、舟が向こう岸へ漕ぎ出し始めると、突然、激しい突風が起こりました。三方を山に囲まれたガリラヤ湖は、実際に天気が急変することがあるそうです。この日もそうでした。突風のため、舟は波をかぶって、水浸しになってきました。このままでは、舟が転覆して湖に放り出されてしまうのでは?と弟子たちは怯えています。ところがイエスさまはと言うと、なんと木の葉のように揺れている小舟の艫で枕して眠っておられるではありませんか!弟子たちは慌ててイエスさまを起こして叫びました。「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」。するとイエスさまは起き上がって、風を叱り、湖に、ただ一言「黙れ。静まれ」と言われました。すると、風は途端にやみ、すっかり凪になった。今まで荒れ狂っていた湖が、嘘のようにいつもの穏やかな湖となったのです。まさに奇跡です。嵐が収まったのを見て、弟子たちは命を脅かされる恐怖からは解放されたことでしょう。しかし、今度は別の恐れが沸いてきました。それは、このような奇跡を起こされたイエスに対する恐れ、否、畏れと言った方がふさわしいでしょうか。イエスさまは弟子たちに言いました。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」弟子たちが恐れているのは、もはや突風ではありません。風や湖さえも従わせることのできるお方を目の当たりにして、畏れているのです。それで、「いったい、この方はどなたなのだろう」と言う問いを発さずにはいられなかったのです。

旧約聖書によると、風や湖を従わせることのできる方は、それらを造られた神のみです。今日の第一の朗読で読まれた『ヨブ記』38章は、それまで沈黙を守っておられた神がヨブに対して初めて語りかけられた箇所ですが、神は大地を据えたとき、また海を造ったとき、それに自ら限界を定められたのだ、と言います。そのわたしに対して、ヨブよ、お前は何か申し立てをすることがあると言うのか?知識もないのに、言葉を重ねて、神の経綸を暗くするとは、お前はいったい何者なのか?と問われるのです。弟子たちはイエスを見て、「いったい、この方はどなたなのだろう」と問いましたが、実は問われているのは弟子たちの方でもあるのです。「お前たちはいったい何者なのか」と。神の前で、キリストの前で、いったいあなたは何者なのか?と。私たちはその問いにどう答えるでしょう。

使徒パウロはこの問いに対して、次のように答えました。「私たちは人を欺いているようでいて、誠実であり、人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています」と(コリントの信徒への手紙Ⅱ 6章8〜10節)。パウロは、神から恵みをいただいた者として、このように言っているのです。キリストを信じる者として、そう告白しているのです。このパウロの言葉は、私たちが何者なのかという問いに対する一つのヒントになるのではないでしょうか?パウロはまた次のようにも言っています。同6章1節〜:私たちはまた、神の協力者としてあなたがに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。なぜなら、「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた」と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日。私たちは、キリストを信じる信仰のゆえに、神によっていつも助けられ、祈りを聞き入れられます。時として信仰が揺らぎそうな時でさえ、イエスさまが弟子たちを助けてくださったように、私たちも常に救われ、神からの恵みが約束されているのです。その愛なる神の前で、いつも執りなしてくださるキリストの傍で、私たちはどのように歩んでいきましょうか。神は私たちのすべてをご覧になっておられます。

人知では到底測り知ることのできない神の平安が、皆さんの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守りますように。