「大きな淵」(ルカによる福音書16章19〜31節)
「金持ちとラザロ」のたとえ話です。ラザロは、生前は日ごとの食事にもありつけないほどの極貧のうちに金持ちの門前に横たわっていましたが、死後は神の永遠の命の中に生かされます。一方、金持ちはといえば、いつも紫の衣や柔らかい麻布を来てぜいたくに遊び暮らしていましたが、死後は陰府におとされ、さいなまされているのです。一体、金持ちがこんな目にあっているのは、彼が何か特別に悪いことをしたからでしょうか?門前に横たわっていたラザロを見て、悪態をつき、足蹴にでもしたとでも言うのでしょうか?いいえ、むしろ金持ちは何もしなかったのです。いつも門前に横たわっていたラザロが金持ちの目に触れなかった筈はないのですが、彼はおそらく見て見ぬ振りをした−否、一顧だにしようとしなかったのでしょう。つまり、金持ちはラザロの存在を終始全く無視していたのです。
私は、ひょっとするとこの金持ちは家の中では良き家庭人ではなかったろうか?と想像します。妻にとっては良き夫であり、子どもにとっては良き父親であり、両親にとっては良き息子であり…かのナチスの親衛隊たちが、自分の家では良き家庭人であったように…。彼らはユダヤ人を連行した強制収容所と隣接する家に住んでいましたが、家族の中では良識をもった優しく頼もしい人格者でした。しかし、門を隔てたゲットーの中にいるユダヤ人に対しては、まるで人格のない、存在しないもののように扱ったのです。労働力にならない女性や子どもや老人はすぐにガス室に送りこみ、働ける若い男性であっても奴隷のように働かせたあげく、ろくに食事も与えず、家畜小屋同然の所に押し込みました。彼らの中には、強制収容所に送り込んだユダヤ人一人一人も、自分たちと同じように神によって命を与えられ、愛されたかけがえのない人間であるという認識がまったく欠けていたのです。これはナチスに限らず、かつての日本兵によるあまたの残虐行為も同じことでしょう。人間は、神さまによって「いと良き者」として創られたに違いないのですが、同時にサタンの誘惑によって、償い難い程の罪を犯す者ともなりうるのです。
現代に生きる私たちも、他人事ではありません。私たちのこの豊かな生活は、多くの現代の貧しいラザロの犠牲の上で成り立っていることを知る必要があるでしょう。世界の人口は今や70億人まで膨れ上がりましたが、そのうちの3分の2を占める人々が貧困と飢餓で苦しんでいると言われています。富める国と言われている日本の中でさえ、貧富の差が広がり、3度の食事を満足に食べることができない子どもたちや貧困家庭が増えています。私たちは、そのような現代のラザロの存在を決して無視することなく、彼らから目をそらすことなく、私たちにできる関わり方を、奉仕の業を、模索していきたいと思うのです。なぜなら、イエス・キリストが真っ先にそのような方々の友となられたからです。
「金持ちとラザロ」のたとえ話です。ラザロは、生前は日ごとの食事にもありつけないほどの極貧のうちに金持ちの門前に横たわっていましたが、死後は神の永遠の命の中に生かされます。一方、金持ちはといえば、いつも紫の衣や柔らかい麻布を来てぜいたくに遊び暮らしていましたが、死後は陰府におとされ、さいなまされているのです。一体、金持ちがこんな目にあっているのは、彼が何か特別に悪いことをしたからでしょうか?門前に横たわっていたラザロを見て、悪態をつき、足蹴にでもしたとでも言うのでしょうか?いいえ、むしろ金持ちは何もしなかったのです。いつも門前に横たわっていたラザロが金持ちの目に触れなかった筈はないのですが、彼はおそらく見て見ぬ振りをした−否、一顧だにしようとしなかったのでしょう。つまり、金持ちはラザロの存在を終始全く無視していたのです。
私は、ひょっとするとこの金持ちは家の中では良き家庭人ではなかったろうか?と想像します。妻にとっては良き夫であり、子どもにとっては良き父親であり、両親にとっては良き息子であり…かのナチスの親衛隊たちが、自分の家では良き家庭人であったように…。彼らはユダヤ人を連行した強制収容所と隣接する家に住んでいましたが、家族の中では良識をもった優しく頼もしい人格者でした。しかし、門を隔てたゲットーの中にいるユダヤ人に対しては、まるで人格のない、存在しないもののように扱ったのです。労働力にならない女性や子どもや老人はすぐにガス室に送りこみ、働ける若い男性であっても奴隷のように働かせたあげく、ろくに食事も与えず、家畜小屋同然の所に押し込みました。彼らの中には、強制収容所に送り込んだユダヤ人一人一人も、自分たちと同じように神によって命を与えられ、愛されたかけがえのない人間であるという認識がまったく欠けていたのです。これはナチスに限らず、かつての日本兵によるあまたの残虐行為も同じことでしょう。人間は、神さまによって「いと良き者」として創られたに違いないのですが、同時にサタンの誘惑によって、償い難い程の罪を犯す者ともなりうるのです。
現代に生きる私たちも、他人事ではありません。私たちのこの豊かな生活は、多くの現代の貧しいラザロの犠牲の上で成り立っていることを知る必要があるでしょう。世界の人口は今や70億人まで膨れ上がりましたが、そのうちの3分の2を占める人々が貧困と飢餓で苦しんでいると言われています。富める国と言われている日本の中でさえ、貧富の差が広がり、3度の食事を満足に食べることができない子どもたちや貧困家庭が増えています。私たちは、そのような現代のラザロの存在を決して無視することなく、彼らから目をそらすことなく、私たちにできる関わり方を、奉仕の業を、模索していきたいと思うのです。なぜなら、イエス・キリストが真っ先にそのような方々の友となられたからです。