Good News

その日の説教で語られる福音を、ショートメッセージにしました。毎週更新の予定です。

9月25日のGood News

2016年09月26日 | Good News
「大きな淵」(ルカによる福音書16章19〜31節)

「金持ちとラザロ」のたとえ話です。ラザロは、生前は日ごとの食事にもありつけないほどの極貧のうちに金持ちの門前に横たわっていましたが、死後は神の永遠の命の中に生かされます。一方、金持ちはといえば、いつも紫の衣や柔らかい麻布を来てぜいたくに遊び暮らしていましたが、死後は陰府におとされ、さいなまされているのです。一体、金持ちがこんな目にあっているのは、彼が何か特別に悪いことをしたからでしょうか?門前に横たわっていたラザロを見て、悪態をつき、足蹴にでもしたとでも言うのでしょうか?いいえ、むしろ金持ちは何もしなかったのです。いつも門前に横たわっていたラザロが金持ちの目に触れなかった筈はないのですが、彼はおそらく見て見ぬ振りをした−否、一顧だにしようとしなかったのでしょう。つまり、金持ちはラザロの存在を終始全く無視していたのです。

私は、ひょっとするとこの金持ちは家の中では良き家庭人ではなかったろうか?と想像します。妻にとっては良き夫であり、子どもにとっては良き父親であり、両親にとっては良き息子であり…かのナチスの親衛隊たちが、自分の家では良き家庭人であったように…。彼らはユダヤ人を連行した強制収容所と隣接する家に住んでいましたが、家族の中では良識をもった優しく頼もしい人格者でした。しかし、門を隔てたゲットーの中にいるユダヤ人に対しては、まるで人格のない、存在しないもののように扱ったのです。労働力にならない女性や子どもや老人はすぐにガス室に送りこみ、働ける若い男性であっても奴隷のように働かせたあげく、ろくに食事も与えず、家畜小屋同然の所に押し込みました。彼らの中には、強制収容所に送り込んだユダヤ人一人一人も、自分たちと同じように神によって命を与えられ、愛されたかけがえのない人間であるという認識がまったく欠けていたのです。これはナチスに限らず、かつての日本兵によるあまたの残虐行為も同じことでしょう。人間は、神さまによって「いと良き者」として創られたに違いないのですが、同時にサタンの誘惑によって、償い難い程の罪を犯す者ともなりうるのです。

現代に生きる私たちも、他人事ではありません。私たちのこの豊かな生活は、多くの現代の貧しいラザロの犠牲の上で成り立っていることを知る必要があるでしょう。世界の人口は今や70億人まで膨れ上がりましたが、そのうちの3分の2を占める人々が貧困と飢餓で苦しんでいると言われています。富める国と言われている日本の中でさえ、貧富の差が広がり、3度の食事を満足に食べることができない子どもたちや貧困家庭が増えています。私たちは、そのような現代のラザロの存在を決して無視することなく、彼らから目をそらすことなく、私たちにできる関わり方を、奉仕の業を、模索していきたいと思うのです。なぜなら、イエス・キリストが真っ先にそのような方々の友となられたからです。

9月18日のGood News

2016年09月20日 | Good News
「本当に価値あるもの」(ルカによる福音書16章1〜13節)

「不正な管理人のたとえ」は、イエスさまが語られたたとえ話しの中でも難解なものの一つです。というのも、どう見ても不正なことをしているとしか思えない管理人の振る舞いを、イエスさまはほめておられるように思えるからです。たとえ話を見てみましょう。

ある金持ちに一人の管理人がいました。彼は、主人の財産をきちんと管理するどころか無駄遣いをしていました。それが主人の知るところとなり、管理人は申し渡されます。「会計報告を出しなさい。もうお前に管理を任せておくわけにはいかない」と。このままでは路頭に迷ってしまうと思い悩んだ管理人は、たとえ解雇されても、自分を家に迎え入れてくれる人たちを作っておけばいいのだ!とひらめきます。それで、主人に借りのある人々を一人ずつ呼び出しては、借金の証文をことごとく減額した額に書き直させたのです。借金を減額してもらった債務者は、もちろん喜びました。一方、主人は管理人の勝手な振る舞いに怒り心頭!?と思いきや、彼の「抜け目のなりやり方」をほめたというのです。確かに、この管理人は抜け目がありません。しかし、彼の行動は不正に不正を重ねたものです。そんな勝手な振る舞いが、なぜほめられるのでしょう?それは、この管理人が危機に瀕して、投げやりになることなく、自ら機敏に対応したからです。同じように、終末が迫っている今、信仰者もこの管理人のように、機敏に賢く振る舞うべきだ…と、このたとえは教えているというのが、伝統的な解釈です。

とはいえ、たとえ話しはそのように理解できたとしても、イエスさまご自身が語られたテキストの後半部分(9節以下)は、さらに私たちを当惑させます。そこでは「不正にまみれた富で友達を作りなさい」と、はっきり言われているからです。友を作るために、汚いお金を使っていいのか?友情とは、もっと純粋なものではないか?しかし、ここで「不正にまみれた富」と訳された言葉は、「この世の富」という意味に過ぎません。この世の富やお金は、罪人である人間が使う以上、いつも清く正しく用いられるとは限りません。だからこそ、それを正しく、有効に用いることが勧められているのです。すなわち、自分のためだけに使うのでなく、むしろ他者のために使い、施すことが!それが、ひいては「永遠の住まいに迎えて入れてもらえる」ことに繋がる、というのです。

神が備えたもう永遠の住まいには、私たちはこの世の富を一切持って行くことができません。信仰者にとって「本当に価値あるもの」は、言うまでもなくこの世の富ではなく、神と共にある永遠の住まいなのですから、そこに迎え入れていただくために、私たちはこの世のものに執着することなく、他者のために喜んでささげる生き方をしていきたいものです。

9月11日のGood News

2016年09月12日 | Good News
「天上の喜び」(ルカによる福音書15章1〜10節)

本日の福音書の日課は、イエスさまが話された「見失った羊のたとえ」です。この有名なたとえ話しを元にして作られたこどもさんびかがあります。「1節:小さい羊が家を離れ、ある日遠くへ遊びに行き、花さく野原のおもしろさに、帰る道さえ忘れました。2節:けれどもやがて夜になると、あたりは暗くさびしくなり、家が恋しく羊は今、声も悲しく鳴いています。3節:情けの深い羊飼いは、この子羊のあとをたずね、遠くの山々谷底まで、迷子の羊をさがしました。4節:とうとう優しい羊飼いは、迷子の羊を見つけました。抱かれて帰るこの羊は、喜ばしさに踊りました。」札幌教会の教会学校でもよく歌うさんびかです。子どもたちはいつも、1節、2節と進んでいくにつれて不安な表情になっていきますが、3節になって羊飼いが登場し、4節でその羊飼いが「迷子の羊を見つけました」という下りになると、再びにっこり笑顔になります。この迷子になった羊について、皆さんはどんなイメージをおもちですか?羊飼いに従わず、勝手に群から離れ、迷い出てしまった愚かな羊だ!とお思いでしょうか?神さまに背き、逆らう罪深い人間そのものだ!と。

私も今までそのように解釈していましたが、それは少し違うのではないか?と教えてくださった方がいます。めばえ幼稚園が毎月発行している『めばえだより』9月号の巻頭言に、理事長の栗原成郎兄が次のように書いておられます。「雲の峰が崩れて秋風が吹くころ、高くなった空を覆うのは羊雲。羊雲は、大牧者イエス・キリストに護られている羊の群れを連想させます。迷える羊のたとえ話は有名です。迷える羊は、牧者に従わず勝手な自由行動によって迷い出た羊だ、と長いあいだ思っていましたが、そうではなくて何らかの障害をもった羊であると、と考えるようになりました。羊たちはみな平等に神によって創造された筈ですが、100匹の羊がすべて100パーセント健常で1点の欠点もない羊であるのではない。99匹の羊がたとえ1パーセントずつでも欠陥を持っているとすれば、みんなのマイナス(負)を全部集めて一身に負っているのが100匹目の羊です。その羊は、視力か身体のどこかに障害があったから群れの行動についていけずに迷ったのです。迷える1匹の羊は、他の99匹の羊が健康で幸福であることの証しですから、失われてはならない存在です…」と。 

『マタイによる福音書』18章14節では、この「迷い出た羊のたとえ」が語られた後、イエスさまはこう締めくくっておられます。「そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」と。神さまは、私たち一人一人の存在を心から喜び、私たちが神さまから与えられた命を感謝しつつ日々生きていくことを心から願っておられるのです。嬉しいですね。

9月4日のGood News

2016年09月07日 | Good News
「主イエスの弟子として」(ルカによる福音書14章25〜33節)

まことの弟子とはどのような者であるかについて、イエスさまは言われました。「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子ども、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついてくる者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」と。

この御言葉があまりにも厳しいので、私をいつも慰めてくれる神学者の書いた注解書を久しぶりに開いてみました。すると、以下のような注釈がなされていました。「父親の意思は、私たちにとって聖なるものである。しかし、それを踏み越えない人は、結局父親に服従して、イエスには服従しない。妻の願いは、私たちの心をつかむ。その願いを聞くことを拒む力のない人は、彼女に忠実になり、イエスには不忠実になる。子どものしあわせは、私たちの心からの望みである。しかし、それを断ち切ることのできない人は、勇気をふるって行動すべきところで、屈服してしまう。自分たちの生活を大切にし、それを養うことに私たちは努力を傾ける。しかし、それを犠牲にできない人は、イエスの召しを拒んでいるのである…」。とても分かりやすい注釈ですが、イエスさまの御言葉と同様、一切の曖昧さや妥協の余地を残していませんでした。

イエスさまはここで、何も今すぐ家族を捨てて私に従いなさい!殉教を覚悟して、伝道に励みなさい!と言われたわけではないと思います。なぜなら、愛する家族も、自分に与えられた賜物も、そしてたった一つの命も、どれもかけがえのないものばかりだからです。それらを慈しみ、大切にすることは、主の御心にかなうことに違いありません。しかし、それらに心をすっかり奪われ、溺愛してしまうと、やがて私たちがそれらのものに隷属し、屈服してしまうことにもなりかねない。そうして、まことの主ではないものを主として愛し、拝んでしまう危険性があります。ですから、私たちにはあらゆるものから距離を置く一種の冷静さ、客観性というものが必要なのだと思います。そうすることによって、私たちはすべてのものに対して、自由に振る舞うことができるからです。ルターが、その著『キリスト者の自由』の冒頭で、言ったとおりです。「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な主人であって、だれにも服しない。キリスト者はすべてのもののに仕える僕であって、だれにでも服する」。

ルターが言ったように、私たちには他者を愛し、他者に仕える義務があります。しかし、だからといって愛に溺れてはならない。誰かの奴隷となってもならない。なぜなら、私たちが唯一主とすべきお方は、イエス・キリストを置いて他におられないからです。それが、イエスの弟子となる者の心構えなのではないでしょうか?