Good News

その日の説教で語られる福音を、ショートメッセージにしました。毎週更新の予定です。

9月29日のGood News

2019年09月29日 | Good News
「思い出してみるがよい」(ルカによる福音書16章19〜31節)

イエスさまは「不正な管理人」のたとえ話しに続いて、「金持ちとラザロ」のたとえを話されました。両方のたとえ話しに共通するキーワードは、富です。

前者のたとえ話しに登場した管理人は、主人の財産を無駄遣いした挙句、債務者たちの借金を勝手に減額しました。いざ主人から仕事を取り上げられても、債務者たちから守ってもらおうというわけです。こうして不正に不正を重ねた富で友を得ようとした管理人を、意外なことにイエスさまは褒めました。それは、この管理人がとった行動が結果的に友のために尽くすことになったからです。かように人は、富と隣人とに仕えることは出来ない。ましてや、富と神に仕えることは出来ない。「一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである」というのです。

この「不正な管理人」のたとえに、「金持ちとラザロ」のたとえが続きます。ラザロといえば、イエスさまと親しかったマルタとマリア姉妹の弟ラザロを思い出しますが、ここに登場したラザロは金持ちの門前に横たわっていたできものだらけの貧しい男性です。ラザロは、せめて金持ちの食卓から落ちた残り物で腹を満たすことが出来ればと願っていましたが、金持ちはそんなラザロに目もくれず、毎日贅沢に遊び暮らしておりました。ほんのひと言、「大丈夫かい?」「ちゃんと食べているかい?」「できものに塗る薬は持っているかい?」と声をかけることさえしないで、金持ちは横たわっているラザロをまたぐようにして毎日家を出入りしていたのでしょう。こうして金持ちの家の門は、貧しいラザロのために一度も開かれることなく、壁となって立ちはだかったままでした。そんなラザロと金持ちは、死んだ後、全く立場が逆転します。ラザロは天使たちによって宴席にいるアブラハムのそばに、然り、神のみもとに招き入れられたのですが、金持ちは陰府に落とされて、炎の中でもだえ苦しまなければならなくなってしまったのです。「わたしを憐れんでください」「わたしの兄弟たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないようによく言い聞かせてください」という彼の訴えは、ことごとく神に退けられてしまいます。

私たちは誰でも、神から与えられた人生に感謝し、喜び、楽しむことが許されています。しかし、それだけで終わってしまってはならないのです。目の前にいる隣人の嘆きや苦しみに気づいたら、立ち止まる愛が必要なのです。ちっぽけな自分ですが、きっとその人のために出来ることがある筈だからです。イエスさまは言われました。「わたしの兄弟であるこの最も小さな者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と(マタイ福音書25章40節)。いと小さく、弱く、虐げられている人々の中に、ボロボロになって十字架に架けられたキリストがおられる。そのことを忘れずに、歩んでいきたいと思います。

9月15日のGood News

2019年09月16日 | Good News
「悔い改めの喜び」(ルカ福音書15章1〜10節)

『ルカ福音書』15章には、イエスさまのたとえ話しが3つ収められています。まず「見失った羊」のたとえ、次に「無くした銀貨のたとえ」、そして最後に有名な「放蕩息子のたとえ」。いずれのたとえ話しも、見失ってしまった物や無くしてしまった物、あるいはいなくなってしまった者が見つかった「喜び」が主題となっています。7節「言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない99人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」10節「言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」喜んでおられるのは、天におられる神と天使たち。この世においては、嫉妬や敵意が沸き上がるような出来事であっても(放蕩息子のたとえの兄のように)、天には大きな喜びがある。然り、神は喜ばれるお方なのです。

今日の日課は、最初の二つのたとえ話しです。「見失った羊のたとえ」は『マタイ福音書』18章にもありますが、そこでは「小さな者を一人でも軽んじないように」と言う勧めに従ってたとえが話されます。「小さな者」とは、子どものように自分を小さく低くして神に依り頼む人を指していますが、『ルカ福音書』ではそれが具体的には徴税人や罪人であることが分かります。彼らは律法に従った生活や仕事が出来なかったゆえに、人々からそう呼ばれ、つまはじきにされました。しかし、イエスさまだけは彼らをいつも受け入れ、食事も共にされたのです。そんなイエスさまを見て、律法遵守を良しとするファリサイ派や律法学者たちは不満で仕方ないのです。イエスさまがたとえを話されたのは、そのような面々に対してでした。片や、イエスさまを慕って近づいてくる徴税人や罪人たち。片や、彼らを忌み嫌って侮蔑の眼差しを投げつける宗教指導者たち。人々はイエスさまの話しをそれぞれどのような思いで聞いたのでしょうか。「悔い改める一人の罪人」と「悔い改める必要のない正しい人」。どちらに自分の身を置いたのでしょうか。皆さんはどうですか。

信仰者は皆、神の御前で悔い改めて罪を告白し、キリストの十字架の贖いを信じる信仰のゆえに罪を赦された者として生きています。それはそれで間違ってはいないでしょう。しかし、悔い改めというのは、日毎、私たちが繰り返し忘れてはならないことなのです。ルターも言ったように、毎日の髭剃りを忘れると伸び放題になってしまうように、日毎の悔い改めを怠ると自分の抱えている罪が野放しになってしまう。だから、悔い改めは信仰者にとって必要不可欠。間違っても、「自分は悔い改める必要のない正しい人間だ」などと思ってはならないのです。神は、そのような傲慢な人間を喜ばれません。神が喜ばれるのは、常に悔い改めをやめない人。自らの小ささと弱さと罪深さを自覚し、絶えず神の御前で頭を垂れる人。そのような、神に喜ばれる人になりたいですね。

9月8日のGood News

2019年09月08日 | Good News
「主の弟子たる者」(ルカ福音書14章25〜33節)

イエスさまの評判と人気が高まるにつれて、大勢の群衆がイエスさまについて来ました。イエスさまは今、神から託された救いの御業を成し遂げるためにエルサレムを目指して進んでおられるのですが、その目的も知らず、またイエスさまが担おうとされている十字架の重さもわからず、ただ興味本位でついて来た人々が大勢いたようです。いつの時代でもそうです。私たちはいかに周りに流されてしまうことでしょうか。人の噂やマスコミの情報をすぐ鵜呑みにしてしまい、自分の目や耳や頭や心をフルに使って真実を知ろうとはなかなかしません。

そんな私たちに対して、イエスさまは厳しい言葉を突きつけられます。「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないならわたしの弟子ではありえない。」と。この御言葉を聞いて、たじろがない人はいないでしょう。たとえ「憎む」と訳された言葉がヘブライ語では「より少なく愛する」という意味であるということを差し引いたとしても、イエスさまが言われたこの御言葉の厳しさはいささかも変わりません。イエスさまの弟子たる者は、家族よりもまた自分自身よりも他の誰よりもイエスさまを愛することが求められているからです。しかし、それは信仰者にとっては当然のことではないでしょうか。なぜなら、イエスさまは私たちの罪を赦し、私たちを贖い、そして私たちに永遠の命を与えるために、十字架にかかってくださったからです。それほどまでに私たちを愛してくださった方を、私たちもまた愛するのは当然のことです。いったい自分が抱えている負いきれないほどの罪を、誰が代わりに担ってくれるというのでしょう?放っておけばサタンの誘うままに堕ちてゆくしかないこの私を、誰が体を張って守り救ってくれるというのでしょう?イエス・キリストしかおられません。

たとえ家族や友がどれほど自分を愛してくれたとしても、キリストの愛にはかないません。それは、私たち自身の彼らに対する愛を考えてみるとよくわかるでしょう。私たちの他者に対する愛の裏側には、必ずといっていいほど自己愛が潜んでいます。私たちは、愛されたいから愛するのです。相手から愛されてもいないのに、その人を愛し続けることは私たちには難しい。それが出来るのは、イエス・キリストただお一人。罵声を浴びせ、唾をかけた罪人のために、十字架に架かられたイエス・キリストだけ。だから、イエスさまはこうも言われたのです。「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。」と。

私たちが背負うべき十字架とは何でしょう?自分自身のどうにもならない性格や心や体や病、また自分の意思とは関係なく人から負わされたもの、そして自分の利益にはならないけれども自ら背負うと決めたもの…私たちにはそれぞれの十字架が与えられています。大切なことは、それらの十字架から逃げないこと。十字架を放り出さないこと。キリストが私たちへの愛のゆえに十字架を担い、自らそこに架かられたように、私たちも自分の十字架を背負って、キリストについていきましょう。