Good News

その日の説教で語られる福音を、ショートメッセージにしました。毎週更新の予定です。

10月23日のGood News

2011年10月26日 | Good News
「神の宴に招かれて」(マタイ22:1~14)

今日、イエスさまが話される「天の国のたとえ話」は、婚宴のたとえです。「天の国」は、しばしば「宴」にたとえられますが、「婚宴」は宴の中でも特別なものです。手塩にかけて育てて来た我が子が、愛する人と巡り会い、結ばれる…それを喜び、祝福する宴が婚宴です。この婚宴のメタファーが聖書で「天の国」のたとえとして用いられる時、それは神さまが私たちを愛するがゆえに、私たちと出会い、私たちと永遠の契りを結びたい!そうして、私たちに恵みと赦しと祝福を与えたい!という神の思いが込められています。そのために、神は御子イエス・キリストを、私たちのもとに遣わされたのです。

たとえ話は、以下のようなものです。ある王が、王子のために婚宴を催した。王は、我が子の婚宴のために、精一杯の準備をし、多くの人を招待した。ところが彼らは、婚宴の準備が整ったという知らせを聞いても無視し、伝えにきた家来たちまでも殺してしまった。そこで王は怒り、軍隊を送って殺人者たちを滅ぼし、彼らが住む場所を焼き払った…神の思いは、最初の招待者たちには通じなかったのです。そこで、王は家来たちに言いました。「町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい」。王の伝令どおり家来たちは通りに出て行き、見かけた人は誰であれ皆集めてきたので、婚宴は客でいっぱいになった…これこそ、福音!喜ばしき知らせです。神は誰をも分け隔てすることなく、救いの喜びが満ちる宴に招かれているという意味です。たとえ話しも、ここで終わればハッピーエンドでした。しかし、イエスさまの話しはまだ続きます。それは、宴の中に婚礼の礼服を着ていない者が一人いたからです。王は、彼に尋ねます。「友よ、どうして礼服を着ないでここに入ってきたのか」と。彼が何も応えようとしないのを見て、王は側近者に言いつけます。「この男の手足を縛って、外の暗闇に放り出せ。そこで泣きわめいて、歯ぎしりするだろう」。たとえ話は、ここに至ってようやく終止符を打つのです。最後に、イエスさまが言われた言葉は意味深です。「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」。

キリスト者とは、みな神の一方的な恵みゆえ、その招きゆえに、神の宴に招かれた者たちです。私たちが善人であろうと悪人であろうと、そのようなこととは関係なく、神さまは私たちすべての者に救いをもたらしたいがゆえに、その宴に招いてくださっています。神の国の宴の会場の扉は、いつでも、誰にでも、開かれているわけです。しかし、その喜びの宴に与るには、それにふさわしい礼服もまた必要だと言うのです。その礼服とは、私たち一人一人がまとうべき信仰の有り様とは、一体どのようなものなのでしょうか? 神の宴に招かれている者として、その宴にふさわしい信仰を尋ね求めていく者でありたいと思います。



10月16日のGood News

2011年10月19日 | Good News
「捨て石を拾う方」(マタイ福音書21章33~44節)

本日の聖書の日課は、旧約も新約も「ぶどう園」が舞台となっています。ぶどうは、聖書の中でしばしば取り上げられるシンボルの一つです。実もたわわに豊かに広がる「ぶどう園」は、神の祝福の象徴です。

イエスさまのたとえ話の内容は、以下のようなものです。ある家の主人が、ぶどう園を作った。周りには垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらまで立てて。そして、主人は大切なぶどう園を農夫たちに託して旅に出た。ところが、収穫の時期になって主人が僕たちをぶどう園に送り出すと、農夫たちは僕たちを捕まえ、袋だたきにして殺してしまった。主人が再度僕たちをぶどう園に送ると、農夫たちはまた同じ仕打ちをした。最後に、「わたしの息子なら敬ってくれるだろう」と主人が自分の息子を送り出すと、農夫たちは「これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう」と言って息子を捕まえ、ぶどう園の外に放り出して殺してしまった…という話です。現実にはありそうもない残酷な話のような気がしますが、実際には全く同じことがイエスさまの身に起こりました。神が、「わたしの息子なら敬ってくれるだろう」と差し出した御子を、人々は十字架につけ、葬ってしまったのです。

神の祝福のシンボルである筈の「ぶどう畑」で繰り広げられるこのむごたらしい光景は、一体、何を表しているのでしょうか。それは、私たち人間の強欲であり、罪でありましょう。ぶどう園の実りを独占したいばかりに、本来の持ち主を差し置いて、かつその跡取り息子までをも殺めてしまう残忍さ…そのようなエゴイズムを、私たちはどこかに持っているものであります。もちろん、実際に誰かを殺めるようなことはないにしても、自分がのしあがるためには、自分が評価され、自分が栄光を受けるためには、誰かを傷つけ、足蹴にしてしまう…そんな罪深い面を私たちは持っているのではないでしょうか。そのような私たちの罪をイエスさまは一身に担われ、自ら十字架に架かってくださったのです。

本日の旧約聖書の日課『イザヤ書』5章の「ぶどう畑の歌」は、預言者による「愛の歌」です。1節「わたしは歌おう、わたしの愛する者のために、そのぶどう畑の愛の歌を。」預言者がここで歌おうとしているのは、彼の愛する神のため、その神が所有しているぶどう畑の歌です。実に神は、私たち人間のために、素晴らしい世界を用意してくださいました。この地に、良いぶどうがたわわに実ることを願って。この地に、神の御心にかなった人間が満ちあふれることを願って。そのために、神は自らこの世界を耕し、手入れをされた上で、私たちをそこへ送り出してくださいました。良い実りが収穫されるその日を今か、今かと楽しみに待ちつつ。その神の期待に、私たちはいかに応えてまいりましょうか。



10月9日のGood News

2011年10月09日 | Good News
「気前のよい神」(マタイ福音書20章1~16節)

本日の日課の「ぶどう園のたとえ話」は、世間一般の常識からすると、あり得ない話です。朝早く夜明け前から働き始めた人も、その後9時、昼の12時、午後3時、そして夕方になってから働き始めた人も、全く同じ賃金をもらったとすれば、すぐに労働争議が沸き起こり、ストライキが発生するでしょう。これは、天の国とはどんなところなのか?神とはどんなお方なのか?ということを伝えるために、イエスさまが話してくださった「たとえ話」であるということを、まず押さえておきたいと思います。

たとえ話に登場する「ぶどう園の主人」とは、「神」を表しています。聖書の神、イエスさまが「わが父」と呼ばれる神は、私たちの思いをはるかに超えた方です。旧約の預言者イザヤが取り次いだ御言葉のとおりです。「わたしの思いはあなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると、主は言われる。天が地を高く超えているように、わたしの道はあなたたちの道を、わたしの思いはあなたたちの思いを、高く超えている」(55章8節)。たとえ話に登場するぶどう園の主人も、私たちの人間的な思いをはるかに超えて、憐れみ深く、優しいお方です。朝早くから仕事にありつけた者にも、やっとの思いで仕事にありつけた者にも、全く同じように報酬を与えるという恵み!とりわけ、その日、雇ってもらうことをあきらめていた人々にとっては、それはなんと大きな恵みだったことでしょう。彼らは、賃金が幾らもらえるかということより、最後の最後に雇ってもらったというだけで、満たされた思いだったに違いありません。

一方、朝早くから仕事にありつけた人にとっても、主人からいただいた恵みに変わりはありませんでした。主人は約束どおり、1デナリオンの賃金を支払ってくれたからです。しかし、朝早くから働いた人は、主人に不平を言うのです。「まる一日働いた私たちと、わずかしか働かなかった連中とを同じ扱いにするとは」と。然り、主人はどちらも同じ扱いにしたかったのです。神とは、そのようなお方なのです。先に来た者にも、後から来た者にも、同じように恵みを与えたい!神とは、そのように私たちすべての者にとって、憐れみ深いお方なのです。その神の思いを汲み取らず、すぐに異議申し立てをする私たち…お互いに比べ合っては、「なぜ、あの人と自分とが同じ扱いなのか!」と、まくしたてる私たち。私たちに恵みを与えてくださるのは神以外にはおられないにもかかわらず、まるで私たちが自分自身の力、知恵、能力、信仰深さでもって、神の恵みを得ることができるとばかりに…。  
 
「このように、後にいる者が先になり、先になる者が後になる」。神の恵みに背を向けて、神の恵みを取りこぼしてしまうことのないように、神から賜る恵みを共に喜び、感謝しあう者とされていきたいですね。



10月2日のGood News

2011年10月01日 | Good News
「七の七十倍まで」(マタイによる福音書18章21節~35節)

今日のイエスさまのたとえ話は、1万タラントンもの借金をしていた家来が王から借金を帳消しにしてもらったにもかかわらず、仲間に貸していた100デナリオンの借金を赦さずに、その仲間を牢に入れてしまった…というものです。

1万タラントンは、現在の貨幣価値に換算すると数10億円。一方、100デナリオンはその60万分の1ですから数千円ということになります。当時、借金が返せなかった場合は、自分の所有財産だけでなく家族までをも身売りして、返済に務めなければなりませんでした。そこで、家来は王にひれ伏して頼みます。『どうか待ってください。きっと全部お返しします』と。とは言っても、そもそも1万タラントンもの借金を家来が返せるわけはないのです。王も、そんなことはお見通しだったでしょう。そこで、王は信じられないような行動に出ます。なんと、王は家来の莫大な借金を帳消しにしてやったのです。おかげで家来は、死ぬまで汗水たらして働いて借金を返さなくてもよくなりました。家族を身売りしなくても、すみました。王が、なぜ家来にこのような驚くべき裁量を下されたのか?その理由は、ただ一つ。王が、家来を「憐れに思った」からです。王の「憐れみ」ゆえ、その測り知れない「愛」ゆえに、家来は赦され、借金を帳消しにされたのです。

ところが、今やこうして、王から膨大な借金を赦されたばかりのこの家来は、その足で自分が貸したわずかばかりの借金を取り立てに仲間のところに行き、彼の首を絞めあげ「返せ」と迫ったのです。そして、仲間の懇願にも耳を貸さず、そのまま彼を引っ張って行き、牢に入れてしまいました。事の顛末を耳に挟んだ王は、この家来を呼びつけて言います。『わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか』と。

私たちは、誰もが大きな負債を抱えて生きています。お金の負債はないかもしれませんが、心ならずも誰かを傷つけてしまったという負債、神に対して罪を犯してしまったという負債等を数え上げれば、途方もないものになります。それら私たちが犯した罪の一切を、神は私たちへの憐れみゆえに、赦してくださいました。ご自身の愛する御子を、私たちの代わりに十字架に引き渡すという仕方によって。そのようにして、神によってすべての罪赦された私たちが、どうして他者の小さな罪を暴くことができるでしょう。どうして、兄弟姉妹の犯した罪の裁き主となることができるでしょう。王が家来に申し渡したように、神も私たちに同じことを言われます。『わたしがお前を憐れみ、お前のすべての罪をゆるしたように、お前も自分の仲間を憐れみ、赦し、愛を注いでやるべきではないか』と。