「聖霊よ、吹き来れ」(ヨハネ福音書15章26~16章4節)
聖霊降臨祭の日を迎えました。ペンテコステとも呼ばれるこの日は、北海道に住む私たちにとって特に嬉しい季節ではないでしょうか。ペンテコステはイースターと同様に移動祝日なので、年によって約一ヶ月の幅がありますが、それでも決まって5月~6月にかけて巡ってきます。この季節、北海道はまさに百花繚乱。鳥はさえずり、風はそよぎ、日は日増しに長くなっていく…そんなさなかに迎えることのできるペンテコステは、文字通り、聖霊の豊かな働きを感じることができる日です。
ところで、「聖霊」をいざ言葉で説明しようとすると、なかなか難しいものです。イエスさまが教えてくださったように、聖霊とはまさに「真理の霊」なのですが、「霊」という言葉が付いただけで私たちは少し敬遠したくなってしまうからです。ちなみに聖書辞典で調べてみますと、「創造者なる神の霊、またはキリスト教神観で言う三位一体の第三位格、人間の霊的経験の中に現臨して働きかける神」とありました。これでは、余計に混乱してしまいそうですね。私は、先週の昇天主日の教会学校の礼拝で栗原兄が子どもたちに話された「天に昇られたイエスさまが、聖霊として私たちの所においでくださるんだよ」という説明がストンと腑に落ちました。神学者や牧師というのは、どうも難しく考え過ぎるので良くありません。聖霊は、私たちの目にはみえないけれども、イエスさまそのものなのだと-聖霊は、今も私たちの傍らにいて、私たちを弁護し、励まし、慰めてくださるイエスさまなのだと-素直に信じてみたいと思いました。
ペンテコステを迎えると、毎年のように教会学校で歌う讃美歌があります。『こどもさんびか』の94番。第1節は次のような歌詞です。「ふしぎな風が びゅうっとふけば なんだか勇気がわいてくる イエスさまのお守りが きっとあるよ それが聖霊の働きです 主イエスの恵みは あの風とともに」。この季節にそよぐ風は、心地よいものです。風は、強過ぎると何もかも吹き飛ばしてしまいますが、逆にまったく無風でそよぎもしないというのも私たちにとって決して心地よいものではありません。ともすれば変化というものを望まない私たちは、万事が無風であることを願うものですが、それでは空気は澱み、やがて私たちも窒息してしまうでしょう。イエスさまを失ってしまった悲しみと恐れのあまり、家の窓という窓を閉め、戸にしっかりと鍵をかけてしまった弟子たちの二の舞とならないように、私たちはいつも心の窓と戸を全開にして、イエスさまから豊かに聖霊をいただきましょう。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい」。(ヨハネ福音書20章21節~22節)
聖霊降臨祭の日を迎えました。ペンテコステとも呼ばれるこの日は、北海道に住む私たちにとって特に嬉しい季節ではないでしょうか。ペンテコステはイースターと同様に移動祝日なので、年によって約一ヶ月の幅がありますが、それでも決まって5月~6月にかけて巡ってきます。この季節、北海道はまさに百花繚乱。鳥はさえずり、風はそよぎ、日は日増しに長くなっていく…そんなさなかに迎えることのできるペンテコステは、文字通り、聖霊の豊かな働きを感じることができる日です。
ところで、「聖霊」をいざ言葉で説明しようとすると、なかなか難しいものです。イエスさまが教えてくださったように、聖霊とはまさに「真理の霊」なのですが、「霊」という言葉が付いただけで私たちは少し敬遠したくなってしまうからです。ちなみに聖書辞典で調べてみますと、「創造者なる神の霊、またはキリスト教神観で言う三位一体の第三位格、人間の霊的経験の中に現臨して働きかける神」とありました。これでは、余計に混乱してしまいそうですね。私は、先週の昇天主日の教会学校の礼拝で栗原兄が子どもたちに話された「天に昇られたイエスさまが、聖霊として私たちの所においでくださるんだよ」という説明がストンと腑に落ちました。神学者や牧師というのは、どうも難しく考え過ぎるので良くありません。聖霊は、私たちの目にはみえないけれども、イエスさまそのものなのだと-聖霊は、今も私たちの傍らにいて、私たちを弁護し、励まし、慰めてくださるイエスさまなのだと-素直に信じてみたいと思いました。
ペンテコステを迎えると、毎年のように教会学校で歌う讃美歌があります。『こどもさんびか』の94番。第1節は次のような歌詞です。「ふしぎな風が びゅうっとふけば なんだか勇気がわいてくる イエスさまのお守りが きっとあるよ それが聖霊の働きです 主イエスの恵みは あの風とともに」。この季節にそよぐ風は、心地よいものです。風は、強過ぎると何もかも吹き飛ばしてしまいますが、逆にまったく無風でそよぎもしないというのも私たちにとって決して心地よいものではありません。ともすれば変化というものを望まない私たちは、万事が無風であることを願うものですが、それでは空気は澱み、やがて私たちも窒息してしまうでしょう。イエスさまを失ってしまった悲しみと恐れのあまり、家の窓という窓を閉め、戸にしっかりと鍵をかけてしまった弟子たちの二の舞とならないように、私たちはいつも心の窓と戸を全開にして、イエスさまから豊かに聖霊をいただきましょう。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい」。(ヨハネ福音書20章21節~22節)