Good News

その日の説教で語られる福音を、ショートメッセージにしました。毎週更新の予定です。

5月24日のGood News

2015年05月24日 | Good News
「聖霊よ、吹き来れ」(ヨハネ福音書15章26~16章4節)

聖霊降臨祭の日を迎えました。ペンテコステとも呼ばれるこの日は、北海道に住む私たちにとって特に嬉しい季節ではないでしょうか。ペンテコステはイースターと同様に移動祝日なので、年によって約一ヶ月の幅がありますが、それでも決まって5月~6月にかけて巡ってきます。この季節、北海道はまさに百花繚乱。鳥はさえずり、風はそよぎ、日は日増しに長くなっていく…そんなさなかに迎えることのできるペンテコステは、文字通り、聖霊の豊かな働きを感じることができる日です。

ところで、「聖霊」をいざ言葉で説明しようとすると、なかなか難しいものです。イエスさまが教えてくださったように、聖霊とはまさに「真理の霊」なのですが、「霊」という言葉が付いただけで私たちは少し敬遠したくなってしまうからです。ちなみに聖書辞典で調べてみますと、「創造者なる神の霊、またはキリスト教神観で言う三位一体の第三位格、人間の霊的経験の中に現臨して働きかける神」とありました。これでは、余計に混乱してしまいそうですね。私は、先週の昇天主日の教会学校の礼拝で栗原兄が子どもたちに話された「天に昇られたイエスさまが、聖霊として私たちの所においでくださるんだよ」という説明がストンと腑に落ちました。神学者や牧師というのは、どうも難しく考え過ぎるので良くありません。聖霊は、私たちの目にはみえないけれども、イエスさまそのものなのだと-聖霊は、今も私たちの傍らにいて、私たちを弁護し、励まし、慰めてくださるイエスさまなのだと-素直に信じてみたいと思いました。

ペンテコステを迎えると、毎年のように教会学校で歌う讃美歌があります。『こどもさんびか』の94番。第1節は次のような歌詞です。「ふしぎな風が びゅうっとふけば なんだか勇気がわいてくる イエスさまのお守りが きっとあるよ それが聖霊の働きです 主イエスの恵みは あの風とともに」。この季節にそよぐ風は、心地よいものです。風は、強過ぎると何もかも吹き飛ばしてしまいますが、逆にまったく無風でそよぎもしないというのも私たちにとって決して心地よいものではありません。ともすれば変化というものを望まない私たちは、万事が無風であることを願うものですが、それでは空気は澱み、やがて私たちも窒息してしまうでしょう。イエスさまを失ってしまった悲しみと恐れのあまり、家の窓という窓を閉め、戸にしっかりと鍵をかけてしまった弟子たちの二の舞とならないように、私たちはいつも心の窓と戸を全開にして、イエスさまから豊かに聖霊をいただきましょう。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい」。(ヨハネ福音書20章21節~22節) 

5月17日のGood News

2015年05月18日 | Good News
「祝福に包まれて」(ルカによる福音書24章44~53節)

イエスさまが父なる神のみもとに帰られたことを覚える日です。十字架の死から復活されたイエスさまは、まず婦人たちに現れ、それから弟子たちにも現れ、彼らに御言葉を語り、彼らのために平安を祈り、彼らと共に食事も楽しまれました。彼らはこのイエスさまとの再会によって、どれだけ力づけられたことでしょう。この幸せな時が、これからも続くことを弟子たちは願っていたに違いありません。しかし、神の御心はそうではありませんでした。神は御子を天へと引き上げ、御自身の右に座ることを望まれたのです。それは、神が御子と共にこの世をおさめ、私たちを見守り、支え、生かすためでした。それゆえ、イエスさまがそれまでなされた福音宣教の御業は、私たちに託されることになったのです。

私たちにとって、別れは辛いものです。家族や友人との別れ、尊敬する師との別れ、愛する人との別れ…私たちはこの世に生を受けてから、様々な別れを体験します。それらは、どれも悲しいものばかりです。しかし聖書を読む限り、イエスさまと別れた弟子たちには不思議と悲しさが見られません。それどころか、彼らはむしろ「大喜びで」エルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて「神をほめたたえていた」のです。弟子たちは、何故こんなにも明るく振る舞うことができたのでしょうか。それは、彼らが死から復活したイエスさまと、確かに再会することが出来たからです。それで、イエスさまは死んだのではない!これからもずっと生きておられる!たとえ神のみもとに帰られても、神と共に、イエスさまは私たちを見守っくださる!と、確信出来たのです。

弟子たちが喜びにあふれていたもう一つの理由は、イエスさまが弟子たちを最後まで愛し、祝福してくださったからです。十字架の死から復活されたイエスさまは、弟子たちと再会した時、一切彼らをとがめられませんでした。そう、弟子たちの方には十分にとがめられる理由があったのです。なにせ、口先では「私たちは最後まであなたに従います」と言いながら、十字架が迫って来た途端にイエスさまを裏切り、逃げてしまったからです。にもかかわらず、イエスさまは弟子たちを断罪されず、彼らを赦し、愛し尽くされました。弟子たちと別れる時も、然り。イエスさまは、彼らのために手を挙げて祝福を祈りながら、昇天されたのです。あなたたちが、これからも神によって守られ、支えられ、祝福されますように!と。あなたたちは皆こうして、神から愛され、祝福されるべき存在なのです!と。イエスさまのこの祝福は、私たちにも与えられています。ですから、私たちは神をほめたたえることが出来るのです。そう、人生の終わりの時まで、神を賛美しながら喜んで生きることが出来るのです。

5月10日のGood News

2015年05月10日 | Good News
「キリストの友」(ヨハネ福音書15章11~17節)

イエスさまが御自身をぶどうの木にたとえて話された福音の続きです。「わたしはまことのぶどうの木」と言われたイエスさまは、父なる神を「農夫」に、私たちを「ぶどうの枝」にたとえられました。農夫は、ぶどうの木に繋がった枝がたわわな実を結ぶように、愛情をこめて手入れをします。すなわち、私たちがイエスさまにしっかりと繋がり、神の愛を受けるなら、豊かに愛の実を結ぶことができるのです。それゆえ、イエスさまは繰り返し勧められました。「わたしに繋がっていなさい」「わたしの愛にとどまりなさい」と。

今日のテキストは、イエスさまがそれらのことを話されたのが、「わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである」という御言葉で始まっています。イエスさまは、私たちを喜びで満たすためにいつも福音を語られるのです。イエスさまは私たちとの関係を、主従関係のようには考えておられません。主-僕としての関係ではなく、友-友としての関係。それが、イエスさまが私たちに望まれていることです。「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。あなたがたは、わたしの友である」。イエスさまにとって、私たちは友なのです!イエスさまは、こんな私の友となってくださる…こんなに惨めで、罪深い私の友となってくださるのです。そう、決して私を裏切ったり見捨てたりすることのない、まことの友となってくださるのです。嬉しいではありませんか。

「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」と、イエスさまは言われます。私たちは、この世の友を選ぶことができます。それで誰しも、いい友を一人でも多く持ちたい!と躍起になって友達作りに励みます。その試みが、うまくいくことも勿論あるでしょう。しかし、手痛い目にあうこともあるのです。親友と思って信じた人に裏切られてしまうことも、この世ではままあるのです。しかし、イエスさまはそんなことはなさいません。それどころか、イエスさまの方から進んで私たちの友となってくださるのです。それほどまでに、イエスさまは私たちを愛してくださっているからです。

「わたしがあなたを選んだ。あなたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるように…」。イエスさまが私たちの友となってくださるのは、私たちが出かけて行って多くの人と出会い、彼らに愛の実を手渡すためです。そのために、私たちはイエスさまの名によって、何でも父なる神に願ってよいのです。ただし、それはイエスさまの名によって願われるにふさわしいものでなければ、与えられません。私たちにすべてを与えてくださるのも、逆に私たちからすべてを取り上げられるのも、神だからです。私たちは、イエス・キリストを通して、愛なる神としっかりと繋がっているのです。

5月3日のGood News

2015年05月03日 | Good News
「愛にとどまる」(ヨハネ福音書15章1~10節)

イエスさまが、御自身をぶどうの木にたとえて話されたメッセージです。「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。あなたがたはその枝である」。

旧約聖書を読むと、ユダヤの人々は昔から葡萄を神の祝福の象徴としてとらえていたことが分かります。たとえば、『イザヤ書』の5章には、次のような御言葉があります。「わたしは歌おう、わたしの愛する者のために、そのぶどう畑の愛の歌を。わたしの愛する者は、肥沃な丘にぶどう畑を持っていた。よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り、よいぶどうが実るのを待った。」ここで預言者イザヤが語っている「良いぶどう」とは、神さまが心をこめて、祈りをこめて、神の御心に叶った民となるように!と、約束の地カナンの地へ導いてくださった「イスラエルの民」のことです。しかし、彼らはどうなったか?先ほどの『イザヤ書』は、こう続きます。「しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった…主は裁きを待っておられたのに、見よ、流血。正義を待っておられたのに、見よ、叫喚。」神に救われ、導かれた筈のイスラエルの民は、神の愛を忘れ、お互い同士の愛も忘れ、互いにいがみ合い、憎しみ、不正と不義を重ねてしまったのです。それゆえ、神は民を告発します。「さあ、エルサレムに住む人々、ユダの人々よ、わたしとわたしのぶどう畑の間を裁いてみよ。わたしがぶどう畑のためになすべきことで、何か、しなかったことがまだあるというのか。わたしは良いぶどうが実るをの待ったのに、なぜ、酸っぱいぶどうが実ったのか」と。良い実をむすばないぶどうの枝に対するイエスさまの御言葉は、こうです。「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。」神の御心に背き、イエスさまの愛を踏みにじる者は、神から取り除かれて、投げ捨てられてしまうのです。

今日、イエスさまが私たちに命じておられることはただ一つ、イエスさまに「つながっている」ことです。「わたしにつながっていなさい。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」。イエスさまの呼びかけに応えて、そのからだに連なることには、何の資格も条件もいらないのですから、難しいことではありません。私たちは、イエスさまの「わたしにつながっていなさい」という御言葉に、ただ「はい」と答え、従うだけで、主の枝とされ、良い実を結ぶ筈なのです。それでも、私たちが良い実を結べないとしたら、それは私たちがイエスさまから離れてしまっているからです。私たちは、キリストの枝としてつながっているかぎり、日々、その木の幹から命の水を送られ、恵みをいただき、真の光を浴びて、日々、新しく造り変えられていきます。そうして、日々、豊かなキリストの愛の実りを結ぶ枝とされていくのです。