Good News

その日の説教で語られる福音を、ショートメッセージにしました。毎週更新の予定です。

11月29日のGood News

2020年11月29日 | Good News
「主が来られる時」(マルコによる福音書13章24〜37節)

教会の暦は「アドベント」(待降節)に入りました。教会の新しい1年の始まりです。この1年も、主に導かれ、主の恵みと祝福に包まれて、歩むことが出来ますように。
 クリスマスを迎えるまでの「アドベント」が「待降節」と呼ばれるのは、文字通り私たちが救い主イエス・キリストの降誕を待ち、霊的な準備をする期間だからです。その期間は、4週間。4本のアドベントキャンドルに、火が一つまた一つと灯されていくにつれ、私たちはクリスマスを迎える喜びが増していきます。何にも変えがたい宝物を待つ喜び!神から私たちへの最高のプレゼントを待つ喜び!すなわち、救い主イエス・キリストが与えられるのを待つ喜び!それに優る喜びはありません。

「待降節」は、キリストの降誕を待ち、祝うだけではありません。私たちに真の救いを与えるためにこの世にお生まれになられたキリストは、十字架にかけられ、復活し、神のみもとに行かれましたが、再びこの世に来られると約束されました。それは、この世にあまねく神の支配をもたらすため。神の愛にあふれたみ国を完成させるため。そのために、キリストは再び私たちのところへ来られます。それは、主を信じる者にとっては主の救いが完成する時。その時を、待つ。主の再臨の約束を信じて、日々、主の御前で悔い改めながら待つ。「待降節」には、そのような意味もあります。

それでは、その日、その時はいつ来るのか?主の再臨はいつなのか?それは、誰も知りません。天使も知らなければ、キリストも知らない。ただ、父なる神だけが知っておられる。だから、その日がいつ訪れてもいいように、目を覚ましていなさい!そう、キリストは語られます。この1ヶ月間、教会暦の終わりに当たって与えられてきた御言葉が、今日もまた与えられました。「目を覚ましていなさい」。キリストが、私たちの所にいつ来られてもいいように、信仰の目を覚ましていなさい!救い主を迎えるための準備を抜かりなく、怠ることなく、やっておきなさい!洗礼を受けたにもかかわらず相変わらず罪人に過ぎないこの私を、「非の打ちどころのない者」としてくださるその日に備えて!

「主も最後まであなたがたをしっかり支えて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、非の打ちどころのない者にしてくださいます。神は真実な方です。この神によって、あなたがたは、神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです。」(第一コリント1:8〜9節)心配することはありません。イエス・キリストが、私たちを最後までしっかりと支え、私たちの罪をすっかり赦し、清め、非の打ちどころのない者としてくださるのですから。真実なる神が、私たちをそのキリストとの交わりに招き、導いてくださるのですから。安心して、主を迎えましょう。

11月15日のGood News

2020年11月15日 | Good News
「忠実な良い僕」(マタイによる福音書25章14〜30節)

教会の1年も残すところ2週間となりました。今日は聖霊降臨後第24主日。私たちに与えられた御言葉は、今日も「終わりの日」すなわち「終末」についてのメッセージです。 
 
先週の日課『マタイ福音書』25章1節〜13節は「十人のおとめのたとえ」でした。そこでは、私たちが主イエスと共に神の喜びの宴に集うためには、主を迎えるための準備が必要であることが語られていました。賢い五人のおとめたちが花婿イエスを迎えるために、ともし火だけでなく油壺も準備していたように、私たちもそれぞれの仕方で主を迎える準備がある。イエス・キリストを信じ、洗礼を受け、救いの約束に与ったからといって、何もせずにただぼんやりと主を迎えれば良い、と言うのではない。キリストが、私たち一人一人に信仰者として期待しておられる生き方がある筈だ。それをわきまえ、信仰者としての証しを立てながら、日々を歩んで行くこと。神から与えられた人生を最後までしっかりと歩み通すこと。その大切さが語られていたと思います。

今週の福音もその続きです。「十人のおとめのたとえ」に続くのは「タラントンのたとえ」です。タラントンとは、当時用いられていた通貨の単位で、6000デナリオンに相当します。デナリオンは、新約聖書にもよく出てくる単位なのでご存知の方も多いでしょう。1日の労働賃金に当たる単位です。ですから1タラントンは、その6000倍。それが今日のたとえ話に出てきたように、2タラントン、5タラントンともなると、かなりの額のお金になります。現在の貨幣価値に換算すると、1タラントン=6000万円、2タラントン=1億2千万円、5タラントン=3億円位になるでしょうか。それほどの大金を主人は僕たちに託して、旅に出たのです。14節「ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。それぞれの力に応じて、一人には5タラントン、一人には2タラントン、もう一人には1タラントンを預けて旅に出かけた」。

ここで主人が僕たちに財産を預ける時に、「それぞれの力に応じて」預けたと言うのがポイントです。ある僕は、才覚もあるし、仕事もバリバリ出来るタイプだから、たくさんのお金を預けても大丈夫。この僕は、体が弱くて仕事は出来ないだろうから無理をしないよう、でもせめて銀行に預けることくらいはやってくれる筈だ、と。「才能」や「素質」と言う意味を持つ英語の「タレント」の元になった「タラントン」。然り、神様は私たち一人一人に異なった才能や素質や賜物を与えてくださっているのです。それを私たちがいかに感謝し、豊かに用いていくか。単なる自己実現のためだけにではなく、隣人のために、神の栄光を表すために、神から与えられた賜物を用いていくか。それを主イエスは私たちに問われているのです。

11月1日のGood News

2020年11月01日 | Good News
「天の国に招かれた人たち」(マタイによる福音書5章1〜12節)

今年も「全聖徒の日」が巡って参りました。「聖徒」とは、キリストを信じて救われ、義とされ、聖とされて、主のみもとに召されたすべての人々のことです。すなわち、私たちの信仰の先達者たちです。ですから、この日、私たちは彼らの懐かしいお顔の遺影を見ながら、その熱い信仰に思いをはせ、キリストの御言葉に耳を傾けながら、自らの信仰を省みるのです。キリストが「幸いである」と言われた人々のように、私も「心貧しき人」だろうか?「柔和な人」だろうか?「義に飢え渇」いているだろうか?「憐れみ深い人」だろうか?「心の清い人」だろうか?「平和を実現する人」となっているだろうか?と。

キリストが語られたこれらの御言葉は、初めから「天の国」に召された人々に私たちの視線を促します。それは、最初の御言葉が「心の貧しい人々は幸いである、天の国はその人たちのものである」と始まることからも明らかです。ここで「心の貧しい人」と言われているのは「霊において貧しい人」、すなわち自分の霊の足りなさを知り、主の霊で満たしてくださいと祈り求めている人のことです。私たちの信仰の先達者たちを思い出してみましょう。自分は霊において十分だ!自分の信仰は完全だ!と思い上がった人は、誰一人としておられませんでした。それどころか、年を重ねるごとに自分の罪深さに思い至り、主のみ前で謙遜に頭を垂れた人ばかりでした。実に、信仰の先達者たちは「心貧しい」ことを知っている人たちばかりでした。だから、彼らはキリストから「幸いな人」と呼ばれ、父なる神がおられる天の国に招かれたのです。私たちの教会にはそのような信仰の先達者たちがたくさんおられ、私たちもその後に続くようにと祈っておられるのです。

この1年に限って振り返っても、天の国に召された人たちが何人もおられました。札幌教会でも、恵み野教会でも、本当に敬愛する兄弟姉妹たちが次々に召されていきました。私自身、牧師として親しい交わりをいただいた方々ばかりなので、それらの方々とのこの世での別れが訪れるたびに胸を引き裂かれるような思いがしました。お一人お一人の名前を挙げてそれらの方々との思い出を語りたいところですが、それは皆さんも同じことでしょう。週報に挟まれた召天者名簿を見ながら、それぞれの方々との交わりを思い返してください。

天に召された方々は、確かに今、私たちが住んでいるこの世界にはおられません。しかし、主なる神はこの世界も天の国も、すべてを支配しておられます。ですから、主を信じる信仰によって、この世界も天の国も一つとされている!つまり、私たちはいつも信仰の先達者たちとともに、場所は違っても同じ礼拝に与り、同じキリストの復活の命に生かされているのです。この世の現実に打ちひしがれて、とかくうつむきがちになる私たちですが、信仰の眼はしっかりと天に向けて歩んでいこうではありませんか。