Good News

その日の説教で語られる福音を、ショートメッセージにしました。毎週更新の予定です。

9月25日のGood News

2011年09月26日 | Good News
「心を一つに」(マタイによる福音書18章15節~20節)

『迷い出た羊』のたとえ話しに続いて、イエスさまは「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい」と命じられます。「罪」とは、聖書では、神さまとの関係から離れて迷い出てしまうことを表します。神さまの愛に背を向けて、勝手気ままに、自分の思いのままに生きること。そのような自己中心の生き方は、平気で他者をも傷つけ、踏みにじっていきます。ですから、自己愛に溺れ、他者を愛さない生き方も、聖書では「罪」と呼ばれます。そのような「罪」を兄弟姉妹が犯すようなことがあれば、行ってその人に忠告しなさい、とイエスさまは私たちに命じておられるのです。

イエスさまが、そのように私たちに命じられる理由は、彼らが自分たちの犯した罪に気付いて、愛を取り戻すため。そうして、彼らが本当の意味での良き「兄弟姉妹」となるためです。ですからイエスさまは、彼らが忠告を聞き入れたら「兄弟を得たことになる」と言われます。「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる」。「忠告」とは、罪を犯した兄弟姉妹を非難し、告発するためではなく、あくまで彼らが犯した罪に気付き、愛を取り戻し、そうしてお互いに心から信頼しあえる兄弟姉妹となるための「忠告」です。罪を犯した兄弟姉妹だからこそ、彼らがそのまま罪を犯し続け、罪の世界をさまよい続け、究極的な神の救いからもれることがないための「忠告」なのです。ですから、それはいわば「愛の忠告」です。愛のこもった忠告は、相手に配慮します。人前で名指しでその罪を暴くのでなく、まずは二人だけのところでそっと。それで聞き入れられなければ、ほかに一人か二人を連れて一緒に。それでも聞き入れられなければ、教会に申し出る、という手順を丁寧に踏むのです。まことの愛は、「忍耐強く、情け深い」からです。

一方、「罪」は兄弟姉妹のみならず、自分自身にもまとわりついています。「正しい者はいない。一人もいない」というパウロの言葉は、彼自身を含め、私たち人間としてこの世に生まれて来たすべての者に対して語られたものです。それゆえ、私たちは自分自身の中に潜む罪を見つめることも忘れてはなりません。と同時に、それら私たちの内に内在する罪が、キリストの十字架によって、すべて赦されているということをも。そのようにして、勇気をもって罪を罪と認める群の中に、かつ、それらの罪がキリストのゆえに赦されているという恵みを分かち合える群の中に、キリストも来られる!「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」と、イエスさまは約束してくださいました。教会とは、まさにそのような群なのです。



9月18日のGood News

2011年09月17日 | Good News
「天の父の御心」(マタイ福音書18章1節~14節)

本日の福音書の日課は、「いったい誰が、天の国で一番偉いのでしょうか」という弟子たちの質問で始まっています。それに対するイエスさまの答えは、意表をつくものです。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子どものようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」。イエスさまは、弟子たちの質問には直接答えられず、一人の子どもを呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて、そう言われたのです。誰が、天の国で一番偉いのか?誰が二番手、三番手なのか?という問題ではない。そもそも、おまえたちは天の国に入れていただけるとでも思っているのか!このままでは、到底無理だ。「心を入れ替え」「自分を低く」しなければ…とイエスさまは答えられたのです。

子どもは、生まれながらにして「低く」「小さい」ものです。彼らは、自らを小さく低くしようと思っているのではなく、存在そのものからして、小さく、低いのです。ですから、成長するまでは、親や家族の手助けが不可欠です。小さく弱い体をいたわり、傷つきやすい心を暖かく包み込む愛情が。おそらく子どもというのは、大人が思っている以上に、自分の小ささや弱さを実感しているのだと思います。それゆえ、自分よりも大きくて強い大人が横暴に振る舞う時、どれほど恐怖におののくことでしょう。このような「小さな者」をつまずかせる者に対して、イエス様は言われます。「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである」。子どもは、小さく、低く、弱いゆえに、保護してくれる者に信頼して、身を委ねるしか術がありません。同じように、たとえ大人であっても、自分自身のどうしようもない弱さ、小ささ、罪深さに気付いて、神の恵みと憐れみに身を委ねきる-そのような人こそ、幸いだ。天の国に入ることができるのだ、とイエスさまは言われているのだと思います。

「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい」。そう言われたイエスさまは、有名な迷い出た一匹の羊を探しにいく羊飼いの話をされます。「もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹よりも、その一匹のことを喜ぶだろう」。もちろんイエスさまは、迷わずにいる九十九匹のことも喜んでおられるのです。しかし、その群れから迷い出てしまった一匹が見つかった時、喜びは倍増されます。なぜなら、「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」からです。それゆえ、私たちもまた「小さな者」を軽んじず、「小さな者」と共に生き、神に養われて参りたいと思います。なぜなら、他でもない私たち自身が、実は「小さな者」の一人でもあるのですから。



9月11日のGood News

2011年09月12日 | Good News
「生ける神の子」(マタイ16章13節~20節)

本日の福音書の日課は、有名なペトロの信仰告白の場面です。イエスさまから「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問われた弟子たちを代表して、ペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えたというこの箇所は、福音書における一つの大きな山場です。というのも、福音書は「イエスとは一体何者なのか」ということを説き明かすために、イエスさまの教えと御業を追いながら、書き下ろされた書物だからです。

「メシア」という言葉は、元来は「油注がれた者」という意味です。旧約聖書において「油注がれた者」とは、王のこと。民を良く導き治めてくれる王となることを願って、即位式の時に油が注がれたからです。しかし、この世の王たちは人々の期待を裏切り、独裁者として君臨しました。それで、人々は真の「救い主」としての王の到来を待望するようになっていきます。そのようなメシア待望が高まるさなか、この世にお生まれになられたのがイエスさまでした。ペトロは、そのイエスこそが「救い主」だと言ったわけです。とはいえ彼もまた他の弟子たちも、イエスさまに対して、相変わらず政治的かつ宗教的な力強い指導者としてのイメージを投影していたことは明らかです。しかし、イエスさまはむしろ人々に仕え、人々を愛し、そして最後は自ら十字架にかかることによって私たちの罪をあがなう仕方で、救いを全うされたのでした。

今年も、9.11の日が巡ってきました。あの痛ましい事件は、自らの力でもって敵対する国の人々を殺めることこそ、神への良き奉仕だと考えた倒錯者たちがもたらした悲劇でした。それは、あの日、飛行機を乗っ取って建物に突っ込んだ側だけではありません。標的となったビル、軍事拠点、政治の中心地…すべてがあの国の、否、私たちが住む世界の、力の象徴でした。いわば、力と力の対決。それが、暴力的な様相を帯びて露となってしまったのが、あの痛ましい出来事だったのではないでしょうか。しかし、力と力の対決は決して平和をもたらさない!自分が力をつけることに躍起となり、その力でもって他者より優位に立とうとし、他者を抑圧し、蹂躙するのでは、決して平和は訪れない!それゆえ、今日のペトロの告白は、今もなお有効だと思うのです。なぜなら、イエスこそ、私たちに真の平和をもたらすために何が必要かということを、自らの命をかけて伝えられた唯一のお方だからです。すなわち、力ではなく、愛が必要であるということを。自らの力を誇示することではなく、相手の存在と尊厳を認め、相手に寄り添い、仕え、自分に与えられた力と賜物を相手に惜しみなく与えるということを。その意味で、イエス・キリストこそ、私の真の「救い主」である…私も、そう告白いたします。



9月4日のGood News

2011年09月03日 | Good News
「主よ憐れみたまえ」(マタイによる福音書15章21節~28節) 

本日の福音書の日課に登場する人物は、ひとりの異邦人の女性です。彼女は、ティルスとシドンの地方に生まれた「カナンの女」と紹介されています。旧約聖書の時代から、そこは異邦人が住む土地ゆえ、神の裁きの対象でありこそすれ、救いの対象ではないとされてきました。しかし、イエスさまは今日敢えて、その地へと足を踏み入れ、そこに住む異邦人の女と出会ったのです。イエスさまの中には、異邦人もまた神の救いの対象であるという明確な意志と、それを支える愛があったからでしょう。

とはいえ、カナンの女に接するイエスさまの物腰は、決して優しく柔和なものではありませんでした。「主よ、憐れんでください」という女の第一声には沈黙を守り、弟子たちから「この女をどうにかしてください」と要請をされても「わたしはイスラエルの家の失われた羊の所にしか遣わされていない」と言われ、女が「主よ、どうかお助けください」と畳み掛けても「子どもたちのパンを取って子犬にやってはいけない」と答えられ…。イエスさまがこのような一見冷たい態度をとられた理由は、神の救いはまず同胞のユダヤ人たちに!というお考えのゆえだった、としばしば説明されます。しかし、それだけでないでしょう。私は、イエスさまはこの異邦人の女が本当の信仰をもっているのかどうか、それを試そうとされたのではないかと思います。

俗に、「ご利益宗教」と言われるものがあります。自分の願いや夢や希望が叶い、悩みや苦しみはなくなりますように…と祈る。その結果、自分の願いどおりに事が運んだら、感謝して喜ぶ。しかしそうでなかったら、もう神も仏もあるものか!となる。キリスト教は、そのような「ご利益宗教」ではありません。勿論、自分の願いや希望が叶えられ、また苦しみや悲しみが取り去られることを祈り求めてもよいのです。しかし、たとえそれら祈り願った事柄がそのまま実現しなくても、それでも祈り続ける。カナンの女のように「主よ、憐れんでください」「主よ、助けてください」と、祈ることをやめない。そうやって祈り続ける中で、自分の当初の思いとは違った仕方で、確かに神が憐れんでくださった!助けてくださった!と確信する。神は、決して私を見捨てられなかった!私を愛してくださった!と…告白するに至る。それが、本物の信仰なのだと思います。だから、イエスさまはカナンの女の信仰をほめてくださったのでしょう。私たちの信仰は、どうでしょうか?