「ついて来なさい」(マタイ福音書4章18~25節)
イエスさまは宣教活動を始められるに当たって、四人の漁師を弟子とされました。いずれも二組の兄弟で、名はシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネでした。最初にイエスさまが声を掛けられたのは、シモンとアンデレの兄弟。二人が湖で網を打っている様子をご覧になったイエス様は、自ら彼らの方に近づいて言われました。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」。すると、シモンとアンデレはすぐに網を捨てて従ったというのです。不思議なことです。見知らぬ男からいきなり「わたしについて来なさい」と声を掛けられて、そのままついていく人なんかいるでしょうか?しかし、二人の兄弟はその声の主についていきました。しかも、手にしていた網を捨てて…。この人について行けば、大丈夫!真の救いが与えられ、自分たちもその救いを人々に伝える手伝いができるのだ!と瞬時に感じたのでしょう。ゼベダイの子ヤコブとヨハネも然り。父親と一緒に舟の中で網の手入れをしていた二人は、イエスさまから声を掛けられるやいなや舟と父をその場に残して、イエスさまに従っていきました。イエスさまからの呼びかけに応えた四人の漁師たちの召命物語。召命とは、このように私たちが信頼するお方の呼びかけに応え、そのお方に従っていくことに他なりません。
召命は、何か特別な才能をもった人だけが体験することなのでしょうか?四人の漁師たちは、他のどの漁師たちよりも聖書に精通し、信心深く、人格者だったからイエスさまから声を掛けられたのでしょうか?そうでないことは、福音書を読み進めていくと次第に明らかになっていきます。パウロも言いました。「兄弟たち、あなたがたが召された時のことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。」(第一コリント1章26節~29節)無学な者、無力な者、主の御前に何も誇るものを持ち得ない者にこそ、主は声を掛けられるのです。「わたしについて来てみないか。わたしと一緒に人間をすなどる仕事をやってみないか。福音によって人間の魂を救うという仕事を。」この主の呼びかけに、私たちはなんと応えましょう。召命とは、牧師となる者だけが問われることではありません。既に牧師となった者も、あるいは牧師職ではない信徒であっても、主から選ばれ呼ばれたすべての者たちが日々、主から問われ続けていることなのです。「わたしについて来なさい。わたしが歩む受難の道に、あなたもついて来なさい。復活と永遠の命に繋がっている道を歩むわたしに、あなたも最後までついて来なさい」と。
イエスさまは宣教活動を始められるに当たって、四人の漁師を弟子とされました。いずれも二組の兄弟で、名はシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネでした。最初にイエスさまが声を掛けられたのは、シモンとアンデレの兄弟。二人が湖で網を打っている様子をご覧になったイエス様は、自ら彼らの方に近づいて言われました。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」。すると、シモンとアンデレはすぐに網を捨てて従ったというのです。不思議なことです。見知らぬ男からいきなり「わたしについて来なさい」と声を掛けられて、そのままついていく人なんかいるでしょうか?しかし、二人の兄弟はその声の主についていきました。しかも、手にしていた網を捨てて…。この人について行けば、大丈夫!真の救いが与えられ、自分たちもその救いを人々に伝える手伝いができるのだ!と瞬時に感じたのでしょう。ゼベダイの子ヤコブとヨハネも然り。父親と一緒に舟の中で網の手入れをしていた二人は、イエスさまから声を掛けられるやいなや舟と父をその場に残して、イエスさまに従っていきました。イエスさまからの呼びかけに応えた四人の漁師たちの召命物語。召命とは、このように私たちが信頼するお方の呼びかけに応え、そのお方に従っていくことに他なりません。
召命は、何か特別な才能をもった人だけが体験することなのでしょうか?四人の漁師たちは、他のどの漁師たちよりも聖書に精通し、信心深く、人格者だったからイエスさまから声を掛けられたのでしょうか?そうでないことは、福音書を読み進めていくと次第に明らかになっていきます。パウロも言いました。「兄弟たち、あなたがたが召された時のことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。」(第一コリント1章26節~29節)無学な者、無力な者、主の御前に何も誇るものを持ち得ない者にこそ、主は声を掛けられるのです。「わたしについて来てみないか。わたしと一緒に人間をすなどる仕事をやってみないか。福音によって人間の魂を救うという仕事を。」この主の呼びかけに、私たちはなんと応えましょう。召命とは、牧師となる者だけが問われることではありません。既に牧師となった者も、あるいは牧師職ではない信徒であっても、主から選ばれ呼ばれたすべての者たちが日々、主から問われ続けていることなのです。「わたしについて来なさい。わたしが歩む受難の道に、あなたもついて来なさい。復活と永遠の命に繋がっている道を歩むわたしに、あなたも最後までついて来なさい」と。