Good News

その日の説教で語られる福音を、ショートメッセージにしました。毎週更新の予定です。

1月26日のGood News

2014年01月31日 | Good News
「ついて来なさい」(マタイ福音書4章18~25節)

イエスさまは宣教活動を始められるに当たって、四人の漁師を弟子とされました。いずれも二組の兄弟で、名はシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネでした。最初にイエスさまが声を掛けられたのは、シモンとアンデレの兄弟。二人が湖で網を打っている様子をご覧になったイエス様は、自ら彼らの方に近づいて言われました。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」。すると、シモンとアンデレはすぐに網を捨てて従ったというのです。不思議なことです。見知らぬ男からいきなり「わたしについて来なさい」と声を掛けられて、そのままついていく人なんかいるでしょうか?しかし、二人の兄弟はその声の主についていきました。しかも、手にしていた網を捨てて…。この人について行けば、大丈夫!真の救いが与えられ、自分たちもその救いを人々に伝える手伝いができるのだ!と瞬時に感じたのでしょう。ゼベダイの子ヤコブとヨハネも然り。父親と一緒に舟の中で網の手入れをしていた二人は、イエスさまから声を掛けられるやいなや舟と父をその場に残して、イエスさまに従っていきました。イエスさまからの呼びかけに応えた四人の漁師たちの召命物語。召命とは、このように私たちが信頼するお方の呼びかけに応え、そのお方に従っていくことに他なりません。

召命は、何か特別な才能をもった人だけが体験することなのでしょうか?四人の漁師たちは、他のどの漁師たちよりも聖書に精通し、信心深く、人格者だったからイエスさまから声を掛けられたのでしょうか?そうでないことは、福音書を読み進めていくと次第に明らかになっていきます。パウロも言いました。「兄弟たち、あなたがたが召された時のことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。」(第一コリント1章26節~29節)無学な者、無力な者、主の御前に何も誇るものを持ち得ない者にこそ、主は声を掛けられるのです。「わたしについて来てみないか。わたしと一緒に人間をすなどる仕事をやってみないか。福音によって人間の魂を救うという仕事を。」この主の呼びかけに、私たちはなんと応えましょう。召命とは、牧師となる者だけが問われることではありません。既に牧師となった者も、あるいは牧師職ではない信徒であっても、主から選ばれ呼ばれたすべての者たちが日々、主から問われ続けていることなのです。「わたしについて来なさい。わたしが歩む受難の道に、あなたもついて来なさい。復活と永遠の命に繋がっている道を歩むわたしに、あなたも最後までついて来なさい」と。



1月12日のGood News

2014年01月18日 | Good News
「ふさわしいこと」(マタイ福音書3章13~17節)

本日は「主の洗礼日」です。この日与えられた福音は、イエスさまがヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた、というものです。これはマタイ福音書においては、成人されたイエスさまが公の場に初めて姿を現された出来事として記録されています。

洗礼を受けるために人々と共にヨルダン川にやってきたイエスさまを見て、ヨハネは言います。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」ヨハネは、イエスさまを見るやいなや、洗礼を施すことをためらいました。それは、イエスさまが罪なき神の御子であることを知っていたからです。方や、自分は人々に洗礼を施す者とはいえ、一人の人間であり、一人の罪人。洗礼を志願してやってきた人々に対して、「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ」と言い放ったとしても、それはまず、自分自身が真っ先に聴くべき御言葉であるということを自覚しつつ、言っているに過ぎません。したがって、まことの救い主を前にしては、自分なんかとるに足らない者、罪人の頭。この世の教会に遣わされている牧師もみな、この洗礼者ヨハネのように主の御前にうなだれつつ、しかし、主から託された御言葉を時に厳しく、ダイレクトに伝える者に他なりません。

ヨハネは、自分に託された務めがキリストを指し示すことであるということをよく認識していました。したがって、自分が施している洗礼も人々を悔い改めに導くための洗礼に過ぎず、人々の罪を赦し、あがない、まことの救いに至らせる洗礼は、キリストその人によって決してしかもたらされない、ということを。だから、目の前にイエスさまが現れたのを見て、驚いたのです。しかも、そのお方がこの自分から洗礼を受けようとしておられる!御言葉を取り次ぐ者に過ぎないこの私から、一人の罪人に過ぎないこの私から!それでヨハネは、イエスさまを思いとどまらせようとして、思わず口走ったのでした。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」イエス様は、答えられました。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」我々にふわさわしい-イエスさま御自身とヨハネだけでなく、ここにいる我々にとって、洗礼を受けるためにここにやってきたすべての人々にとって、これは正しくふさわしいことなのだ!そう、イエスさまはおっしゃるのです。これは、神の御子であるイエスさまが私たち人間のところにまで降りてこられ、私たちの苦しみや悲しみまでもすべて負ってくださり、ついには私たちの罪さえも担って、十字架に架かられるお方であるということを示しているのではないでしょうか。然り、イエスさまはご自分を無にして、私たち罪人と同じ土俵に立ってくださったのです。そこに、キリストの謙遜と、私たちに対するまことの愛。なんとかして、私たちに福音を語り、まことの救いを与えたい!というイエスさまの強い意思を感じるのです。



1月5日のGood News

2014年01月07日 | Good News
「喜びにあふれて」(マタイ福音書2章1~12節)

新年明けましておめでとうございます。新しい年、2014年が幕をあけました。年のはじめにあちこちで耳にする「明けましておめでとうございます」という言葉はいかにも日本的な新年の挨拶ですが、キリストを信じる者たちには、この年もキリストが与えてくださるに違いない恵みと祝福を確信しつつ、お互いに「おめでとう」と挨拶しあうことが許されています。「おめでとう」という言葉は、まずは相手を慮り、あなたに神の恵みと祝福がありますように!という祈りを込めて発される言葉です。ですから新しい年の始まりにあたって、私たちも共に「おめでとう」の挨拶を交わし合いたいと思います。

さて、新年最初の主日は教会暦の上では「顕現主日」と呼ばれる日です。「顕現」とは「具体的な形をとって明らかに現れる」という意味。すなわち、神の御子がイエス・キリストという姿を通して、誰の目にも明らかになったことをこの日の日課は伝えています。クリスマスの夜、ベツレヘムの片隅にある家畜小屋でひっそりと生まれ、両親と羊飼いたちによって誕生を祝われた幼子が、今やエルサレムの住民と民の祭司長や律法学者、その地を支配する王にまで明らかにされました。そのきっかけとなったのは、はるか東方の国でひときわ輝いた星と、星に導かれてはるばるエルサレムまでやってきた占星術の学者たち。彼ら占星術の学者たちはユダヤ人たちから見れば異教徒でしたが、真実を見極める目は彼らの方が持っていました。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。」彼らは知っていたのです。数多の苦しみや悲しみに喘ぐ人々を救うまことの王は、ヘロデ王ではない!と。しかし、この世の王であることに固執したいヘロデと彼に擦り寄ることで既得権にしがみついていたい人々は、この喜ばしい知らせに耳を貸そうともしません。それどころか「不安を抱いた」。ヘロデ王だけでなく、エルサレムの人々も皆同様に。

人はえてして、自分が変えられるということに不安を抱くものです。もちろん、誰かから強制的に変えられるというのは、真っ平ごめんです。しかし、主が私を変えてくださるというのなら、私たちは主にわが身をすっかり委ねて変えられて行く。主が私たちにまことの救い主を明らかに現してくださるのだとしたら、その方をこそ私たちはキリストとして見上げ、拝む。そのように開かれた目と耳が私たちには必要なのではないでしょうか?
 
主によって変えられた者は、決して同じ道を通りはしません。いつか来た道を再び戻ることもしません。主が示されるままに「別の道を通って」行くことも厭わない。たとえ帰り着いたところが自分たちの国であっても、懐かしい場所であっても、そこへ帰り着いた当人は主によって変えられた人。まことの救いを知った人だからです。私たちも主によって変えられることをおそれず、主に導かれて今年も歩んで参りましょう。