Good News

その日の説教で語られる福音を、ショートメッセージにしました。毎週更新の予定です。

8月19日のGood News

2018年08月19日 | Good News
「飼い主のいない羊たち」(マルコ福音書6章30〜44節)

有名な五千人の供食物語です。五千人とは、イエスさまの話しを聞くために人里離れた所まで押し寄せてきた男たちの人数。実際には、男だけでなく女や子どもたちもいたでしょうから、1万人以上もの人々だったと考えられます。こんなにも多くの人々をイエスさまはどうやってわずか5つのパンと2匹の魚だけで養われたのだろうか?という点に関心が向きがちですが、奇跡は奇跡として受け入れましょう。つまり、イエスさまにはこれほどの御業をなされるだけの力があるということです。誰かが差し出したわずかばかりのパンと魚をイエスさまが手に取り、賛美の祈りを唱え、それを弟子たちに渡して配らせるとすべての人が満腹した!そればかりでなく、パンの屑と魚の残りを集めると、12の籠にいっぱいになった!このようにイエスさまはすべての人々を養い、満ち足らせることの出来る唯一のお方だということをこの物語は伝えているのです。

私はむしろイエスさまが養われた1万人以上もの人々が「飼い主のいない羊のような有様」だったと表現されている箇所が気になります。彼ら大群衆がさながら「飼い主のいない羊」のようであったということは、彼らには「まことの良き羊飼い」がいなかったということです。預言者エレミヤが語ったように、この世の牧者たちはその群を養うどころか、散らし追い払うだけ…その厳しい御言葉を聞くと、私も牧師として襟を正される思いがいたします。もちろん牧師といえども罪人の一人に過ぎず、まことの良き牧者とはイエス・キリストを置いて他におられないのですが。「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。」(ヨハネ福音書10章14〜15節)

「飼い主のいない羊のような有様」だった人々は、身も心も飢えていました。だからこそ、疲れていた弟子たちへの迷惑も顧みず、イエスさまのもとに押し寄せて御言葉を貪るように聞こうとしたのです。そのような人々の悲惨な有様をご覧になったイエスさまは、決して彼らを追い返したり、無視することなく、「深く憐れみ、いろいろと教え」てくださったと言います。ここにイエスの愛があります。イエスさまはご自身のはらわたが痛むほどの愛を寄せて、彼らの飢えと渇きを満たして下さったのです。すなわち、御言葉と御糧をもって、主は彼らを憐れんでくださった!果たして私たちは、今日イエスさまのもとに押し寄せた人々のように、飢え渇いているだろうか?御言葉を心から求めているだろうか?「御言葉をください、降り注ぐ雨のように、恵みの主よ。飢えと渇きに苦しみ呻き、闇路さまよう命のために。」(教団讃美歌第2編80番)主のみ前にあって常に御言葉を渇望し、主によってのみ満たされる者でありたいと思います。

8月5日のGood News

2018年08月09日 | Good News
「イエスの掟」(ヨハネ福音書15章9〜12節)

8月という月は、この国にとって「平和」について考え、振り返り、思索し、祈る月です。天皇によるいわゆる玉音放送が流れたのは、1945年の8月15日。ですからいちおうこの日が終戦記念日と言われていますが、この日を境にしてピタッと戦争が終わったわけではなく、千島列島ではロシアとの激しい戦闘が始まったばかりでした。アジア諸国を侵略し、連合国と無謀な戦争を始めた日本は、当然のことながらその戦いに負けました。あれから73年…それは遠い昔の話でしょうか?確かに、私のような戦争を知らない世代はそうかもしれません。しかし、私の両親あるいは祖父母の世代になると、あの戦争のまっただ中で幼年時代を過ごし、兵隊にとられて、想像を絶する苦渋をなめた世代です。皆さんの中にも、同じような時代を生き抜かれた方がたくさんおられることでしょう。そのような方々の話に、今こそ私たちは真剣に耳を傾けなければならないと思います。

さて、本日の平和主日のテキストに入りましょう。イエス・キリストは言われました。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」。もっぱら福音を語られたイエスさまが唯一の掟として私たちに課したこと。それは、「互いに愛し合いなさい」という掟でした。互いに愛し合う…なんだ、それだけか?簡単じゃないか?と思われるでしょうか。もちろん私たちは自分と話しが合う人、気が合う人とは、うまく付き合っていけます。しかし、中にはそうでない人もいる。どうもうまくいかない人、気が合わない人、出来れば自分からは近づきたくない人というのが必ずいるものです。そのような人をも、例外なく愛する。その人の尊厳を認め、存在を慈しむ。それが、イエスさまが私たちに与えられた掟なのです。イエスさまが与えられたその唯一の掟を私たちが守ることさえ出来れば、この世からありとあらゆる戦争はなくなるに違いありません。

ではなぜ、そのような掟をイエスさまは私たちに課せられたのでしょう。それは、イエスさまご自身がすべての人を誰一人の例外もなく愛されたからです。すべての人間が負っている罪を赦し、あがなうために、自ら十字架に架かられたからです。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」。この御言葉は、真実です。この御言葉のとおりに生きられたキリストは、十字架の死から復活し、今も生きて私たちを愛してくださっておられます。だから、「互いに愛し合いなさい」。愛は、自らを他者に与えなければ、決して与えられることはありません。愛とは、その人のために考え、思い、祈り、絶えず目を覚ましていることです。皆さんの眼が、これからもしっかりと開かれ、研ぎ澄まされ、愛と慈しみに満ちた眼差しとなりますように。

7月29日のGood News

2018年07月29日 | Good News
「ただ信じなさい」(マルコによる福音書5章21〜43節)

本日の福音は、イエスさまが二人の女性を癒された物語です。一人は、会堂長の幼い娘。もう一人は、長血を患っていた婦人です。最初にイエスさまは、会堂長ヤイロの娘が危篤であることを知らされます。ヤイロはイエスさまのもとに来ると、足元にひれ伏してしきりに願いました。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって、手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう」と。ヤイロには、イエスさまに対する信仰があります。イエスさまもヤイロの信仰を認め、彼の家へと急ぎました。

ところが、その途中で思わぬ事が起こります。大勢の群衆に紛れて、誰かがイエスさまの服に触れたのです。それは、長血を患った女でした。12年もの長きにわたって多くの医者にかかり、全財産を使い果たしたにもかかわらず、ますます病状が悪化していた女でした。彼女もまたイエスさまの評判を聞き付け、この方ならきっと自分の苦しみを分かってくださる!この病を癒してくださるに違いない!と思ったのです。それで、イエスさまに気付かれぬようそっと控え目に、後ろからイエスさまの服に触れたのでした。すると、すぐに出血が止まり、病気が癒された!イエスさまは自分の内から力が出て行ったことに気付きます。一人の人間を癒し、救うということは、簡単に出来ることではありません。それは「力」を使うこと。その人のために、ご自身の力を差し出すことに他なりませんでした。イエスさまは女に、「あなたの信仰があなたを救った」と言って送り出します。実に、人はイエス・キリストに対する信仰によってのみ、救われるのです。

やがて、会堂長ヤイロの娘が亡くなったという知らせが届きました。うろたえる父親。弟子たちも顔を見合わせながら、心の中でつぶやいたに違いありません。イエスさまが、あの長血を患った女に気をとられてしまったからこんなことになったんだ、と。しかし、イエスさまは毅然として言われました。「恐れることはない。ただ信じなさい」と。ただ、信じる。私たちが置かれている情況がどんなに過酷なものであったとしても、絶望的な状態であったとしても、信じる。死から復活されたキリストが、私たちにまことの救いを与えてくださることを信じる。果たしてイエスさまはヤイロの家に急ぐと、ベットに横たわっていた娘の手を取って起こされました。「タリタ、クミ」。すると、少女はすぐに起き上がって、歩き出したのです。 

これら同時に並行して起こった二人の女の奇跡物語を読むと、改めてイエスさまの愛の深さを知らされます。イエスさまは、今、ここで、救いを必要としているすべての人の祈りに、応えてくださるのです。その愛のゆえに、ご自分の内から力が出て行くことも厭わずに。だから、私たちは何も恐れずに、安心してこの世に遣わされていくのです。





7月22日のGood News

2018年07月23日 | Good News
「なぜ怖がるのか」(マルコ福音書4章35〜41節)

イエスさまによる奇跡物語が始まります。本日の福音はイエスさまがガリラヤ湖上で突風を静められた物語ですが、更にこの後、悪霊に取り憑かれた人の癒し、ヤイロの娘の癒し、五千人の供食物語…と一連の奇跡物語が続きます。こうしてイエスさまを通して神の力が働いておられることを悟ったペトロは、「あなたはメシアです」という信仰告白(8章29節)に導かれることになるのです。

ガリラヤ湖は、弟子たちが知り尽くしていた場所でした。彼らの多くはそこで漁を営んでいた者たちでしたし、イエスさまにの弟子とされてからもここで宣教活動をするために、頻繁に舟を利用していたからです。南北20㌔、東西10㌔程度の湖ですから、支笏湖や洞爺湖よりも少し大きいくらいでしょうか?普段は波も穏やかな湖なのです。ところが、この日に限って、ガリラヤ湖が牙を剥きました。激しい突風が沸き起こったかと思うと、舟は波をかぶって水浸し。あわや舟は転覆の危機です。そうなれば弟子たちはみな湖に投げ出され、溺れ死んでしまうかも…命の危険を感じた弟子たちは、イエスさまを起こして大声で叫びました。「先生、わたしたちが溺れてもかまわないのですか」。なんとこの暴風の中、舟が木の葉のように揺さぶられ、弟子たちが慌てふためいていたそのさなかで、イエスさまはともの方で枕をして眠っておられたのです!弟子たちとは全く対照的なイエスさまの姿です。イエスさまはすっかり主に信頼しておられるのです。主に身を委ねておられるのです。それでも弟子たちの叫びに応えるために、イエスさまは身を起こして風を叱りつけ、荒れ狂う湖に言われました。「黙れ。静まれ」。その一言で、風はピタリとやみ、すっかり凪に。あっけにとられた弟子たちを見て、イエスさまは言われました。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」。然り、弟子たちは怖いのです。イエスさまが共におられるにもかかわらず、怖いのです。なぜなら、イエスさまがまことの救い主であるということをまだ信じ切れていないからです。だから、弟子たちは互いに顔を見合わせて言いました。「いったい、この方はどなたなのだろう」と。この方に呼ばれ、召され、弟子として従っている自分たちではあるけれども、いったいこの方はどなたなのだろう?と。

私たちは弟子たちのこの問いに対する答えを知っています。ペトロと同じように、イエスこそメシアであると告白する信仰を与えられています。それでも、疾風怒濤の人生を歩む中で、信仰さえ揺り動かされてしまいそうになるその中で、「主よ、わたしが溺れても構わないのですか」と叫びたくなる時が確かにある…。その時は、はばかることなく叫んで良いのです。「主よ、憐れんでください」「主よ、助けてください」と。私たちといつも共にいてくださる主イエスが、必ずや救ってくださるのですから。

7月15日のGood News

2018年07月16日 | Good News
「主のみ翼の陰に」(マルコによる福音書4章26〜34節)

イエスさまによる二つのたとえ話しです。まず一つ目のたとえでは、神の国の伸展が一粒の「種」の成長にたとえられています。土に蒔かれた種は、やがて芽を出し、成長するが、どうしてそうなるか人は知らない。土はひとりでに実を結ばせる…と言われています。確かにそのとおりです。この春、教会の花壇のあいたスペースに何でも植えていいですよと言われたので、何種類かの花の種を蒔きました。すると、すぐに芽が出て、茎が伸び、葉っぱもついてきました。もうすぐ花も咲きそうです。何も手入れらしい手入れもせず、水も雨まかせ。それでも、種は芽を出して成長しています。驚くべき種の持つ力です。ここで言う「種」とは、イエスさまが語られた「福音」のことです。イエス・キリストの福音は、福音そのものに力が秘められていますから、人間の手を介さずとも大きく豊かに成長していくのです。かえって私たちが下手に手を入れ、種の成長を妨げるようにことをしてしまうと、花は咲かないし、実も結ばない。つまり、やれ伝道だ、宣教だといって、人が下手に手を出すと、ろくなことはないのです。私たちはむしろ、キリストの福音を勝手にねじ曲げないこと、福音を骨抜きにしてしまわないことが肝要でありましょう。

二つ目のたとえ話では、具体的に「からし種」が取り上げられています。からし種とは、パレスチナの地方で自生または栽培される黒からしのことです。初夏になると黄色の十字の花をつけ、その種は古来より重要な商品とされてきました。大きいものでは高さが3〜4メートルまで成長すると言われていますが、その種はゴマ粒のように黒くて小さなものです。このからし種の驚くべき成長が、神の国の広がりにたとえられているのです。まさに使徒パウロがコリントの教会の人々に書き送ったように、ごく小さなからし種を大きく豊かに成長させてくださるのは、神なのです。「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です」(第1コリント3章6〜7節)。私たちは何か事がうまく進むと、ついつい自分が一生懸命にやったから、自分が頑張ったのだからと、なんでもすぐに自分の功績にしてしまいがちですが、神の働きがあってこその豊かな実り、収穫であることを忘れてはなりません。

私たちの「信仰」は、最初は小さなからし種のようなものです。洗礼を受けたばかりの頃は、誰もが吹けば飛ばされてしまうようなちっぽけな信仰しか持っていません。何かあると、すぐに折れそうになり、元気がなくなってしまう…それでも、神が私たちに与えてくださった信仰は、決して枯れることなく、少しずつ、確実に成長していくのです。そのことを信頼して、神への感謝と賛美を日々ささげてまいりましょう。