Good News

その日の説教で語られる福音を、ショートメッセージにしました。毎週更新の予定です。

3月19日のGood News

2023年03月20日 | Good News
「神の業が現れるため」(ヨハネ福音書9章1〜41節)

本日の福音書の日課も先週と同様に大変長いテキストとなっています。『ヨハネ福音書』9章。ここには、生まれつき目の見えなかった一人の盲人が、イエスさまによって目を開かれ、心を開かれ、信仰の眼を開かれていった様が記されています。最初シロアムの池で目を癒された時にはイエスのことをただ単に「あの方」と呼んでいた彼が、ファリサイ派や同胞たちからイエスがなされた御業について問い詰められるに従って、「あの方は預言者です」「あの方は神のもとから来られた方です」と告白していく様は実に感動的です。こうして彼はとうとう外に追い出され、人々から仲間外れにされてしまうのですが、そこで再び彼はイエスさまと出会います。否、イエスさまの方から彼と出会ってくださった!すると、彼はイエスさまの前にひざまづいて言いました。「主よ、信じます。」今や確かに彼は開かれた眼でもって、然り、開かれた信仰の眼でもってイエスさまを見上げ、礼拝するのです。「主よ、信じます」と。これはイエスさまによる単なる奇跡物語では終わらない、一人の盲人の癒しの物語、真の信仰告白に至る物語なのです。

先週のサマリアの女の物語(ヨハネ福音書4章)と同様に、今日の物語も<起承転結>の4つの段落に分けることができます。起は、1節〜12節。承は、13節〜23節。転は、24節〜34節。結は、35節以下です。先述した通り物語自体は最後の結に向かってクライマックスを迎えていくわけですが、実はこの物語の主題そのものは最初の起の部分に既に提示されています。生まれつき目の見えない盲人を見かけられたイエスさまが、彼が負っている障碍の原因について弟子たちに教えられた言葉です。3節「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」障碍を負っている人に対して、その原因を本人や両親の罪に帰させるのではなく、それは神の業がその人に現れるためなのだ、と言われたイエスさまの御言葉は衝撃的です。それは多くの人々の常識を覆すものだからです。しかし、障碍を負っているその当人とっては飛び上がるほど嬉しい御言葉ではないでしょうか。これこそ福音ではないでしょうか。このイエスさまの御言葉に出会って救われた!という方はたくさんおられます。

私たちはみな何らかの障碍をもっています。誰からも後ろ指を指されない完全無欠な人間でありたいと願い努力しても、必ずどこかに傷や痛みがあるのが私たちなのです。それらを隠す必要はない。自分の罪のせいだと悩む必要もない。なぜなら、そのような私たちが抱えている傷や痛みを通して、神の御業が現れるからです。神が恵みをもって覆ってくださるからです。神の業はすべての人に現れます。主イエスの前にひざまづき、「主よ、信じます」と告白するすべての人に、神は驚くべき御業を現してくださるのです。


3月5日のGood News

2023年03月05日 | Good News
「風は思いのままに」(ヨハネ3:1〜17)

 3月に入りました。札幌の街はまだ雪に覆われたままですが、夜明けは早くなり、日の長さも少しずつ伸びています。春が少しずつ近づいていることを感じます。きっと花や木の芽も顔を出す準備をしていることでしょう。今は雪の下でみなそれらは息を潜めているように見えますが、命は決して絶えることなく生き続けているのです。

 今日の福音書の日課は、ニコデモがイエスさまのもとを訪ねた時の対話です。ニコデモはファリサイ派の議員であったと紹介されていますが、年も重ねていたのでしょう。「神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを誰も行うことはできません」という彼の挨拶を受けて、イエスさまは答えられました。「はっきり言っておく。人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」既に十分に齢を重ねていたニコデモでしたから、神の国を見るために「新たに生まれなければならない」と聞き、大変驚きました。今さら母の胎に戻って生まれ直すことなど出来やしない、と考えたからです。しかし、イエスさまが言いたかったのはそうではなく、私たちが「水と霊によって生まれる」ということでした。「水」とは、イエスをキリストと信じる時に注がれる洗礼の水。「霊」とは、洗礼を受けた時もまたその後も、神が日々与えてくださる聖霊を意味します。聖霊は私たちの目に見えませんが、まるで風のように私たちに吹き付けています。然り、聖霊は神の御心のままに私たちにいつも吹き付けている!そのことを信じるならば、私たちは日々新たに生まれることが出来るのです。たとえいくら年を重ねていったとしても。

 本日の旧約聖書の日課では『創世記』12章のアブラムの召命が読まれました。アブラム-後にアブラハムと神から命名される一人の男は、ある日、住み慣れた故郷を離れて、神が示す地に行きなさい、と命じられたました。「あなたは生まれ故郷 父の家を離れて わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし あなたを祝福し、あなたの名を高める 祝福の源となるように。」アブラムは、この時75歳。その歳になっての旅立ちに不安はなかったのでしょうか?聖書は何も記していません。ただ一言「アブラムは、主の言葉に従って旅立った」(4節)と記すのみです。アブラムは、主の御言葉を信じたがゆえに、それに従って旅立ったのです。「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」(15章6節)とある通りです。神が私たちに求められるのは、信仰だけです。神の御言葉を聞き、信じる。その信仰によってのみ、私たちは神から義とされ、神の祝福をいただくことができるのです。そうして幾つになっても、私たちは日々新たに生まれることができる、と主イエスは約束されたのです。この主の御言葉に驚くことなく、堅く信じて、日々、聖霊を豊かに受けながら歩んで参りましょう。

1月22日のGood News

2023年01月22日 | Good News
「宣教の始まり」(マタイ福音書4章12〜23節)

イエスさまの宣教活動が始まりました。その拠点として選ばれた場所は、ガリラヤ湖畔の町カファルナウム。なぜ、イエスさまはユダヤの中心地であるエルサレムやその近郊の町を選ばず、遠く離れたガリラヤを宣教の拠点とされたのか。洗礼者ヨハネが捕らえられたと聞いて怖気付き、エルサレムから遠く離れたガリラヤに退かれたのでは?と考える人もいますが、そうではないと思います。むしろ、当時辺境の地と言われ、エルサレムに住む人々たちからは蔑まれていたガリラヤでイエスさまが福音宣教を始められたのは、かの地で差別や貧困に苦しめられていた人々の悲しみに深く共感されたからでしょう。イエスさまの眼差しは、いつも弱く、小さくされた者たちに真っ先に注がれるからです。

福音書の著者マタイは、『イザヤ書』の御言葉を引用しながらイエスが宣教の拠点としてガリラヤを選ばれた理由を示しています。「〜異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」旧約の時代から、異邦人が多く住んでいたガリラヤは、暗闇に住む民、死の陰の地に住む者と呼ばれていました。しかし、神は彼らを見捨てはしません。彼らが大いなる光を見、深い喜びと大きな楽しみを与えられる日が必ず来る、と約束されたのです。それは、誰によってもたらされるのか?預言者は語ります。「血を踏み鳴らした兵士の靴 血にまみれた軍服はことごとく火に投げ込まれ、焼き尽くされた。ひとりのみどりごが私たちのために生まれた。ひとりの男の子が私たちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」と唱えられる。」(イザヤ書9章4節〜5節)この平和の君と唱えられるひとりのみどりごこそ、イエス・キリストである、とイエスの弟子とされた者たちは信じたのです。真の平和は、大人がすぐに頼ろうとする軍事力によってではなく、何も持たないひとりのみどりごによって、ただ神にのみ依り頼む御子によって、もたらされるのだと。

ひとりのみどりごとしてお生まれになったイエスさまは、成長して大人になり、福音宣教者として活動するようになってからも、神の御子の本質を失うことなく平和の君であり続けられました。然り、相変わらず手には何も持たず、ただ「悔い改めよ。天の国は近づいた」と宣べ伝えられたのです。そしてその御言葉どおり、悲しみ苦しむ人々に自ら近づき、寄り添い、彼らに天の国の到来を告げられました。イエスの弟子の群れである教会が伝えるべきメッセージも変わりありません。「悔い改めよ。天の国は近づいた」。イエス・キリストが私たちの所へ来てくださったことにより、神の国は近づいた!罪は赦された!救いは約束された!このグッドニュースを伝え続けるべく、私たちもペトロやアンデレ、ヤコブやヨハネに続いて、主イエスの弟子として従って参りましょう。

1月1日のGood News

2023年01月01日 | Good News
「すべて心に納めて」(ルカ福音書2章15〜21節)

遅ればせながら、クリスマスおめでとうございます。札幌教会での最後のクリスマスというのにコロナに罹ってしまい、皆さんと一緒にクリスマスを迎えることが来ませんでした。申し訳ありません。おかげさまですっかり元気になりましたし、クリスマスはまだ続いていますから、気を取り直して残り3ヶ月間を皆さんと過ごして参りたいと思います。

さて、教会の暦の上では今日を「降誕節第2主日」とも「主の命名」ともあるいは「新年」とも呼んで良いことになっていますが、例年にならって「主の命名」としました。主の命名とは、私たちの救い主としてお生まれになられた主が「イエス」と命名されたことを意味します。それは、キリストがお生まれになって八日目のことでした。

親は子を授かると、どんな名前をつけようかと一生懸命考えるものです。そこには、えてして親としての願いや夢が託されます。時にはそれが子どもにとって、後々プレッシャーとなる場合もあるかもしれません。それでも親が授かったばかりの子を抱きしめ、その子の行く末を思い描きながら命名するという行為は、人にのみ許された神の恵みでありましょう。しかし、ヨセフとマリアの夫婦にはそれが許されませんでした。というのも「イエス」という名前は、天使がそう命名するよう告げられたものだったからです。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。」(ルカ1章30〜31節)「ダビデの子ヨセフ、恐れずマリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。その子は自分の民を罪から救うからである。」(マタイ1章20〜21節)然り、イエス・キリストはただ両親を喜ばせるために生まれて来たのではなく、人々を罪から救うためにこの世にお生まれになられたのです。

神の御子イエス・キリストの誕生は、その両親として選ばれたマリアとヨセフをもってしても理解できないことの連続でした。天使のお告げに、マリアはすぐさま反問しました。「どうしてそのようなことがありえましょうか」。しかし、一呼吸おいて彼女は応えるのです。「私は主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように。」このマリアの信仰が、今日の日課にも現れています。キリスト誕生の知らせを伝えに来た羊飼いたちの話しを不思議に思いながら聞いていた人々の中で、ただ一人マリアだけは「これらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」のです。こうして、キリストがイエスとして母マリアに育てられていきました。私たちに起こるすべての出来事にも意味があります。そこには、神の見えざる御手が働いておられるからです。新しい年も、すべてのことを心に納め、心の内で思い巡らし、神に祈りつつ、歩んで参りましょう。

12月4日のGood News

2022年12月05日 | Good News
「悔い改めに導かれて」(マタイ福音書3章1〜12節)

アドベントキャンドルに二つ目の火が灯されました。待降節第2主日です。クリスマスまであと3週間。今年のカレンダーでは、12月24日が土曜日、25日が日曜日となっていますので、クリスマス礼拝もその日に迎えることになります。したがって、アドベントの主日もちょうど4回過ごすことができます。これはちょっと珍しいことなのです。というのも、例年なら便宜上4本目のアドベントキャンドルに火が灯された主日をクリスマス礼拝として守るのが常だからです。でも、今年は違います。しっかりアドベントを4週間過ごした上で、クリスマスを迎えることが出来ます。嬉しいことではありませんか。

毎年この時期になるとよく演奏される音楽があります。ヘンデルの『メサイア』です。『メサイア』といえば「ハレルヤコーラス」が有名ですが、全部通して聴くと約3時間もかかる大作です。合唱団やソリストによって歌われる歌詞は、すべて聖書の御言葉から取られているのも特徴です。全体の構成は、救い主の降誕の預言から始まり、キリストの誕生、受難、復活、そして永遠の命へと続きます。その音楽はまるでイエス・キリストの一大絵巻を見ているかのようです。『メサイア』の冒頭を飾るテノールの独唱とそれに続く最初の合唱が歌うのが、『イザヤ書』の40章です。「慰めよ、わたしの民を慰めよと あなたたちの神は言われる…呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。」呼びかける声とは、一体誰の声でしょう?その名は、洗礼者ヨハネ!福音書を書いた著者たちはそう証ししています。ですから今日の福音にも、ヨハネの登場と共にこの『イザヤ書』の御言葉が引用されているのです。

洗礼者ヨハネの風貌や説教に関する記述を読むと、何だか近寄り難くおっかない感じがします。腰に革の帯を締め、らくだの毛衣を身にまとっていたヨハネが口にするものといえば、いなごと野蜜だけ。そんなヨハネが荒れ野の真っ只中で、洗礼を受けようとしてやってきた人々に向かって言い放ちます。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。」と。凄まじい迫力です。しかし、ヨハネは自分の使命をしっかり認識していました。それは、「後から来る方」を指し示すこと。自分は、そのお方の履物をお脱がせする値打ちもない者であること。そのお方とは、言うまでもなくイエス・キリストでした。つまりヨハネはイエス・キリストの到来を知らせるために、自ら嫌われ役を買って出て、人々に激しい言葉を浴びせかけたのでした。すべては人々を悔い改めに導くために-人々をキリストに導くために。洗礼者ヨハネのその熱い思いに心を打たれます。そして、自分はヨハネのように激しく、厳しく、燃えたぎるような思いで御言葉を伝えているだろうか?と反省させられるのです。