「神の業が現れるため」(ヨハネ福音書9章1〜41節)
本日の福音書の日課も先週と同様に大変長いテキストとなっています。『ヨハネ福音書』9章。ここには、生まれつき目の見えなかった一人の盲人が、イエスさまによって目を開かれ、心を開かれ、信仰の眼を開かれていった様が記されています。最初シロアムの池で目を癒された時にはイエスのことをただ単に「あの方」と呼んでいた彼が、ファリサイ派や同胞たちからイエスがなされた御業について問い詰められるに従って、「あの方は預言者です」「あの方は神のもとから来られた方です」と告白していく様は実に感動的です。こうして彼はとうとう外に追い出され、人々から仲間外れにされてしまうのですが、そこで再び彼はイエスさまと出会います。否、イエスさまの方から彼と出会ってくださった!すると、彼はイエスさまの前にひざまづいて言いました。「主よ、信じます。」今や確かに彼は開かれた眼でもって、然り、開かれた信仰の眼でもってイエスさまを見上げ、礼拝するのです。「主よ、信じます」と。これはイエスさまによる単なる奇跡物語では終わらない、一人の盲人の癒しの物語、真の信仰告白に至る物語なのです。
先週のサマリアの女の物語(ヨハネ福音書4章)と同様に、今日の物語も<起承転結>の4つの段落に分けることができます。起は、1節〜12節。承は、13節〜23節。転は、24節〜34節。結は、35節以下です。先述した通り物語自体は最後の結に向かってクライマックスを迎えていくわけですが、実はこの物語の主題そのものは最初の起の部分に既に提示されています。生まれつき目の見えない盲人を見かけられたイエスさまが、彼が負っている障碍の原因について弟子たちに教えられた言葉です。3節「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」障碍を負っている人に対して、その原因を本人や両親の罪に帰させるのではなく、それは神の業がその人に現れるためなのだ、と言われたイエスさまの御言葉は衝撃的です。それは多くの人々の常識を覆すものだからです。しかし、障碍を負っているその当人とっては飛び上がるほど嬉しい御言葉ではないでしょうか。これこそ福音ではないでしょうか。このイエスさまの御言葉に出会って救われた!という方はたくさんおられます。
私たちはみな何らかの障碍をもっています。誰からも後ろ指を指されない完全無欠な人間でありたいと願い努力しても、必ずどこかに傷や痛みがあるのが私たちなのです。それらを隠す必要はない。自分の罪のせいだと悩む必要もない。なぜなら、そのような私たちが抱えている傷や痛みを通して、神の御業が現れるからです。神が恵みをもって覆ってくださるからです。神の業はすべての人に現れます。主イエスの前にひざまづき、「主よ、信じます」と告白するすべての人に、神は驚くべき御業を現してくださるのです。
本日の福音書の日課も先週と同様に大変長いテキストとなっています。『ヨハネ福音書』9章。ここには、生まれつき目の見えなかった一人の盲人が、イエスさまによって目を開かれ、心を開かれ、信仰の眼を開かれていった様が記されています。最初シロアムの池で目を癒された時にはイエスのことをただ単に「あの方」と呼んでいた彼が、ファリサイ派や同胞たちからイエスがなされた御業について問い詰められるに従って、「あの方は預言者です」「あの方は神のもとから来られた方です」と告白していく様は実に感動的です。こうして彼はとうとう外に追い出され、人々から仲間外れにされてしまうのですが、そこで再び彼はイエスさまと出会います。否、イエスさまの方から彼と出会ってくださった!すると、彼はイエスさまの前にひざまづいて言いました。「主よ、信じます。」今や確かに彼は開かれた眼でもって、然り、開かれた信仰の眼でもってイエスさまを見上げ、礼拝するのです。「主よ、信じます」と。これはイエスさまによる単なる奇跡物語では終わらない、一人の盲人の癒しの物語、真の信仰告白に至る物語なのです。
先週のサマリアの女の物語(ヨハネ福音書4章)と同様に、今日の物語も<起承転結>の4つの段落に分けることができます。起は、1節〜12節。承は、13節〜23節。転は、24節〜34節。結は、35節以下です。先述した通り物語自体は最後の結に向かってクライマックスを迎えていくわけですが、実はこの物語の主題そのものは最初の起の部分に既に提示されています。生まれつき目の見えない盲人を見かけられたイエスさまが、彼が負っている障碍の原因について弟子たちに教えられた言葉です。3節「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」障碍を負っている人に対して、その原因を本人や両親の罪に帰させるのではなく、それは神の業がその人に現れるためなのだ、と言われたイエスさまの御言葉は衝撃的です。それは多くの人々の常識を覆すものだからです。しかし、障碍を負っているその当人とっては飛び上がるほど嬉しい御言葉ではないでしょうか。これこそ福音ではないでしょうか。このイエスさまの御言葉に出会って救われた!という方はたくさんおられます。
私たちはみな何らかの障碍をもっています。誰からも後ろ指を指されない完全無欠な人間でありたいと願い努力しても、必ずどこかに傷や痛みがあるのが私たちなのです。それらを隠す必要はない。自分の罪のせいだと悩む必要もない。なぜなら、そのような私たちが抱えている傷や痛みを通して、神の御業が現れるからです。神が恵みをもって覆ってくださるからです。神の業はすべての人に現れます。主イエスの前にひざまづき、「主よ、信じます」と告白するすべての人に、神は驚くべき御業を現してくださるのです。