Good News

その日の説教で語られる福音を、ショートメッセージにしました。毎週更新の予定です。

3月10日のGood News

2019年03月11日 | Good News
「聖霊に満たされて」(ルカ福音書4章1〜13節)

教会の暦は「四旬節」に入りました。これからイースターまでの40日間、私たちはキリストが歩まれた受難の道を共に辿りつつ、キリストが架かられた十字架の恵みを思い起こしていくことになります。と同時に、それは私たちが自分の内にある罪を見つめ、キリストのあがないのゆえに神に赦しを願うことでもありますから、悔い改めの時でもあります。なぜなら悔い改めとは、方向転換のことだからです。私たちが自分の思いのままに生きるのではなく、神に立ち帰って罪を告白する。そして、キリストが私たちのために担われた十字架を仰いで、赦しをいただく。これはも言うまでもなく私たちの日々の信仰生活そのものですが、特にこの四旬節には求められていることではないでしょうか。

さて、四旬節最初の主日の福音書の日課は、荒れ野における悪魔の誘惑です。悪魔というと、どのようなものを想像しますか?隙あらば私たちに危害を及ぼそうと狙っている邪悪で非道な存在でしょうか?ここで「悪魔」と呼ばれているディアボロスは「中傷する者」という意味です。「中傷する者」なら、周りにたくさんいるのではないでしょうか。私たちも信仰者であるがゆえに、中傷されることはしばしばあると思います。また「誘惑を受けられた」と訳されている言葉は、もともとは「試みられた」という意味を持っています。つまり、イエスさまはご自身の信仰を中傷する者から試みられたのです。これは、この荒れ野における40日間のみの出来事ではありませんでした。あらゆる誘惑を終えた悪魔はいったんイエスから離れますが、それは「時が来るまで」のこと。受難と十字架の「時」が来たら、再び中傷者は現れ、イエスさまを試みることになります。

不思議なことに、イエスさまが荒れ野で悪魔から誘惑を受けられたのは、ヨルダン川で洗礼を受けて聖霊に満たされた直後のことでした。しかも、その同じ聖霊によって、イエスさまは荒れ野の中を引き回され、悪魔の誘惑を受けたのです。同じように、聖霊は私たちをもさまざまな試練に引き合わせるのです。人生における様々な悲しみ苦しみ、また中傷者による嘲りや誹謗は、たとえ私たちが洗礼を受けて聖霊に満たされたとしても避けることはできません。否、信仰者であるがゆえに、受けなければならない試練もあります。そのような時に、私たちはどこに立つのか。自己憐憫に陥り、人を恨み、神を呪うのか?それとも、聖書の御言葉によって試練に立ち向かい、それらを乗り越えていくのか。『人はパンだけで生きるものではない』『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』『あなたの主である神を試してはならない』心配はいりません。聖霊は絶えることなく私たちに豊かに注がれています。ですから、しっかりと御言葉に立って、ひるむことなくあらゆる試練や誘惑に立ち向かっていきましょう。

3月3日のGood News

2019年03月11日 | Good News
「じっとこらえて」(ルカ福音書9章28〜36節)

本日「変容主日」の日課は、次のような御言葉で始まります。「この話をしてから八日ほどたったとき、イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。」「この話」というのは、直前に記されている最初の受難予告のことです。それは、弟子のペトロがイエスさまのことを「あなたは神からのメシアです」と告白して、その信仰を称賛された後に続けて語られたものでした。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている…」と、イエスさまは厳かに弟子たちに話されたのでした。その話をしてから一週間後に、イエスさまは3人の弟子たちを連れて山に登り、栄光に輝く姿をかいま見せてくださったのです。イエスさまの変容の姿は次のように描かれています。「祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた」。

ここで「最期」と訳されている言葉「エクソドス」には、二つの意味があります。一つは、文字通りこの世における私たちの最期である「死」。しかしこの「死」と言う意味は、ギリシャの辞典をひくと二つ目の意味として記されており、しかも比喩的に使われるとありました。「エクソドス」という言葉の意味として真っ先に書かれているのは、「出発」です。つまりイエスさまにとって、エルサレムで遂げようとしておられる十字架の「死」、この世における「最期」の時は、復活の命へと移される「出発」に他ならないのです。死と出発。それは、私たちの価値感においては相反する事柄のような気がしますが、信仰の世界においては一つの同じ真理なのです。なぜなら信仰者にとって、この世に別れを告げ、神の国への旅立ちの時こそ、永遠の命に移される新しい出発の時に他ならないからです。

宗教改革者マルチン・ルターがその著『エンキリディオン(小教理問答書)』で述べているとおり、私たちが洗礼を受けるということは、古い自分に死ぬことです。重荷を抱え、罪をかぶった古い自分に別れを告げて、キリストと共に始まる新しい人生のスタートラインに立たせていただくこと。そうやって、信仰者は既にキリストと共に、神の栄光に輝くゴールを目指して走り始めています。もちろん時々立ち止まってしまうこともあるでしょう。主の変容に立ち会った弟子たちのようにひどく疲れ、眠くなり、倒れそうになるかもしれません。それでも、キリストが私たちと共に伴走し、最期まで一緒に走ってくださいますから心配はいりません。キリストに聞き、キリストに従い、キリストと共に、その道を最期まで走り続けて参りましょう。

2月24日のGood News

2019年02月25日 | Good News
「キリストのひと言」(ルカによる福音書7章1〜10節)

平地での説教を終えたイエスさまに、百人隊長の部下が病気で死にかかっているので助けて欲しいという依頼が飛び込んで来ました。伝えたのは、ユダヤ人の長老たち。百人隊長は、自分が直接イエスさまにお願いに上がるのは失礼だと思って長老たちを使いに出したのです。彼らは百人隊長のために熱心にイエスさまに願いました。「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです」と。百人隊長とは、ガリラヤ地方に駐留していた外国人傭兵部隊の指揮官です。権力者とはいえユダヤ人から見れば異邦人ですから、両者の間には少なからぬ緊張関係がありました。しかし、この百人隊長は現地のユダヤ人から好意をもたれていたようです。そうでなければ、ユダヤの長老たちが百人隊長の願いを叶えるためにイエスさまに執り成す筈がありません。彼らがこれほどまでにこの百人隊長を愛していたのは、百人隊長自身が彼らを愛していたからに他なりません。然り、愛こそが人を動かすのです。

百人隊長の愛は、ユダヤ人だけにとどまりません。自分の部隊に属している部下にも、同じように注がれています。軍隊の指揮官といえば、自分の保身に走って部下を捨て駒のように扱う人もいますが、この百人隊長は違います。部下の病気が癒されるようにと必死に願い、そのためにイエスさまへの執りなしをまず長老たちに、次に友達に託したのです。

願いを聞きつけたイエスさまが百人隊長の家の近くまでやってきたことを知ると、今度は友達を使いに出して言わせました。「主よ、ご足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました」と。どこまでも謙遜で慎み深い百人隊長です。イエスさまに面と向かって会う資格はない、と自覚しているのです。それでも、百人隊長は愛する部下のためにイエスさまに願わずにはいられません。「ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。」百人隊長は、イエスさまのひと言さえあれば、部下の病気が癒されると信じているのです。イエスさまが部下のためにただひと言、「癒されよ」と発すれば、それでもう十分だと信じているのです。異邦人でありながら、なんという深い信仰でしょうか。イエスさまもこの百人隊長の信仰に驚き、称賛されました。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」と。イエスさまはこの百人隊長の中に、本物の信仰を見たのです。

百人隊長をこれほどまでの深い信仰に突き動かしたのは、何でしょう?もうお分かりですね。「信仰と希望と愛、この三つはいつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」(第一コリント13章13節) 

2月17日のGood News

2019年02月18日 | Good News
「心からあふれ出ること」(ルカ福音書6章37〜49節)

「平地での説教」の終わりの部分です。イエスさまは「人を裁くな」「人を罪人だと決めるな」と言われます。これは、私たちの耳に痛い言葉ではないでしょうか。というのも、私たちはいとも簡単に他者を裁く者だからです。あの人は間違っている、自分の方が正しい、と。明らかに自分の方が間違っていて、相手の言い分の方が正しくても、それを認めようとしない−自分の目の中の丸太に気付かない−ことが私たちにはままあります。それとは逆に、自分の言い分が正当で相手の方が間違っていることもあります。実に、相手の目の中にあるおが屑ならすぐに見つけることのできる私たちですから、そんな時は相手の過ちを見逃さずに裁いてしまいがちです。もちろんそれらを見過ごしていいということではないでしょう。小さな過ちや間違いがやがて取り返しもつかないような大きな過失に繋がってしまうこともあるからです。悪は悪と、罪は罪と、はっきりと指摘されなければなりません。然り、それこそが本当の愛でもあると思います。親は子どもを愛するがゆえに、悪いことは悪い、間違っていることは間違っていると、教え育てるのです。ただし、子どもがそのようなことをしたからといって、親は子どもを罪人だとは決して思いません。なぜなら、親は子どもを心から愛し、また子は親を慕い、信頼しているからです。「あなたはどうしようもない悪人だ。罪人だ。」というレッテルを張られてしまっては、誰一人として生きてはいけないでしょう。

だからイエスさまは、人を罪人だと決めつけないこと。人を赦し、人に与えることを勧めるのです。「人を罪人だと決めるな」。あれ、私たちは誰もが神の前では罪人ではなかったっけ?と思われるかもしれません。そのとおりです。神の目から見ると、私たちの誰もが罪人です。神さまの御心を求めず、自分の思うままに生きようとして、すきあらば神さまから離れていこうとする罪人…それが私たちの偽らざる姿です。しかし、それは神の目から見てのこと、あくまで神が判断されること。私たち人間同志が勝手に相手を「罪人だ」「悪人だ」と決めつけてはならないのです。なぜならそうやって相手を決めつける私自身も、神の目からみれば「罪人」に過ぎないからです。ですから、イエスさまは私たちが互いに相手を裁き、罪人呼ばわりするのではなく、むしろ相手を赦し、相手に与えることを求めておられるのです。「赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうすれば、あなたがたも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである」と。人が人に対して寛大であるならば、神はその人が寛大である以上に、はるかに寛大にその人を受け入れてくださるのです。

2月10日のGood News

2019年02月10日 | Good News
「何も当てにせず」(ルカによる福音書6章27〜36節)

イエスさまによる「平地での説教」が続いています。イエスさまの説教と言えば『マタイ福音書』では「山上の説教」が真っ先に思い浮かぶことでしょう。5章〜7章にかけて記されている大説教です。一方『ルカ福音書』では、イエスさまはその説教を「山上」ではなく「平らな所」で語られたことになっています。つまり、御言葉を語ったイエスさまもそれを聞いた弟子たちも、目線の高さは同じだったのです。そう考えると、なんだか親近感が沸きますね。語られた説教そのものも『ルカ福音書』の方が簡潔です。

今日の福音は、ルカ版「平地の説教」の中でも真ん中に置かれています。その福音とは、ずばり、敵を愛しなさい!『マタイ福音書』では「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」とただ一言語られていますが、『ルカ福音書』ではもっと具体的に、現実的な勧めがいくつも列挙されています。いわく「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。求める者には、だれにでも与えなさい…」という具合です。ここまで面と向かって畳み掛けて言われると、自分にはお手上げだなあと思わずにはいられないのではないでしょうか。もちろん信仰者ですから、相手が敵であろうとその敵のために祈ることなら出来るかもしれない。しかし、ただその敵のために祈るだけでなく、敵から憎まれても親切にし、ぶたれても頬を向け、上着を取られても自分の下着を差し出す…そこまでは実際にはなかなか出来ないのではないでしょうか。というのも、私たちは自分が一番可愛いからです。他人の目の中に入ったゴミにはすぐ気付くのに、自分の目の中に横たわっている丸太には気付かない者だからです。そのような私たちをイエスさまは「罪人」と呼んでいるのです。いつも自分のことに精一杯で、他人のことは後回しの私たち。いや、私はちゃんと他人にも善いことをしている!と言い張ったところで、しょせんそれは自分によくしてくれる人に対してだけ。自分に利するものがある人に対してだけ。そんなことなら「罪人」と何ら変わらないではないか?とイエスさまは言われるのです。

イエスさまが私たちに求められているのはただ一つ「憐れみ深い者」となること。たとえ相手が自分の善き行いに対して感謝の意を示さなくても−それどころか逆に憎み、侮辱し、奪い取ろうとしてきても−ただひたすら与え、赦し、愛しなさい!そうイエスさまは言っておられるのです。なぜなら、「あなたがたの父が憐れみ深いように」。父なる神が愛するひとり子を私たちの救いのために与えてくださったほど憐れみ深いゆえに。これこそ、イエスさまから課せられた最も大きなチャレンジではないでしょうか。