Good News

その日の説教で語られる福音を、ショートメッセージにしました。毎週更新の予定です。

8月1日のGood News

2021年08月01日 | Good News
「喜びが満たされるため」(ヨハネ15:9〜12)」

東京オリンピックが始まりました。コロナ禍の中で賛否両論ありながら1年遅れの開幕となりました。選手やスタッフだけでなく日々コロナの対応に追われている医療従事者たち、そして応援する一人一人が守られて、無事に閉幕することを祈るばかりです。

オリンピックは、平和の祭典と言われます。オリンピック憲章には、次のようにあります。「このオリンピック憲章の定める権利および自由は人種、肌の色、性別、性的指向、言語、宗教、政治的またはその他の意見、国あるいは社会的な出身、財産、出自やその他の身分などの理由による、いかなる種類の差別も受けることなく、確実に享受されなければならない。」ここには、オリンピックに参加するすべての国の選手たちがいかなる差別も受けることなく、全く自由に自分の力を出し切る権利を持っていると謳われているのです。実際、選手たちは日夜スポーツマンシップに則って熱戦を繰り広げ、応援する私たちの心を熱くしてくれます。競技の後、勝者も敗者も共に健闘をたたえあう姿は実に清々しく、これぞオリンピック!平和の祭典と言われるゆえんだ、と思います。

今回オリンピックに参加したのは205の国と地域からです。それらの中には、政情が不安定な国があり、経済状況や食糧事情が大変な国があり…開催国である日本もコロナ禍で大変ですが、どこの国も何かしら問題を抱えています。それでも選手たちが同じ土俵に上がって全力を出し切って競技に挑む姿は、平和の象徴そのものではないでしょうか?なぜなら、そこには暴力はなく、選手一人一人が神から与えられた賜物を存分に発揮する姿を見出すことができるからです。もちろん勝負である以上、勝ち負けはつきものですが、彼らは手に武器を持たず、神から与えられた素手で持って、あるいは競技に必要な最小限の道具を手にして競技に臨みます。私はそこに『ミカ書』の御言葉の成就を見るのです。4章3節「主は多くの民の争いを裁き、はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。」私たちはもはや戦ってならない。二度と武器を持ってはならない。そうではなく、神から与えられた賜物を存分に用い、互いに手を取り合って歩んで行かなくてはならない!と、オリンピックを観戦しながら強く思わされます。

イエスさまは言われました。「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。私の喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるため」と。私たちは愛されることによって喜びが沸き上がります。愛と喜びは、既に神がキリストを通して私たちに与えてくださいました。従って私たちに与えられた役目は、それらの喜びと愛とを他者にも伝えること。それこそが、オリンピックのどんな競技よりも尊い私たちの長い人生をかけた競技ではないでしょうか。


7月11日の説教

2021年07月11日 | Good News
「欲しいもの」(マルコによる福音書6章14〜29節)

私たちの主なる神と御子イエス・キリストから 恵みと平安が皆さんにありますように。

本日の福音書の日課は、洗礼者ヨハネが殺害された出来事を記しています。洗礼者ヨハネは、ご存知のようにイエスさまの到来を人々に知らせ、ヨルダン川でイエスさまに洗礼を授けた人です。彼は荒野の預言者と呼ばれていました。その身なりはラクダの毛衣を着て、腰に皮の帯を締めただけ。また食べるものといえば、イナゴと野蜜。ヨハネは、質素な生活をしながら人々に悔い改めの御言葉を熱く語りかけたのでした。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、誰が教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを作り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」と。『マタイ福音書』3章に記された洗礼者ヨハネの説教です。人里離れた荒野に佇み、鋭いメッセージを放つヨハネはたちまち時の人となり、彼のもとには多くの人々が集まって、弟子集団も形成されました。しかし、彼の目的は自分が預言者として名を知られることではなく、自分の後から来る真の救い主=イエス・キリストを人々に指し示すことでした。ヨハネは言います。「私は、悔い改めに導くためにあなたたちに洗礼を授けているが、私の後から来る方は私よりも優れておられる。私は、その履物をお脱がせする値打ちもない」。こうしてヨハネは、自分の後から来るイエス・キリストを人々に知らせるために、語り続けました。「悔い改めよ。天の国は近づいた」と。天の国、神の御支配は、キリストの到来によって近づいた。今や、キリストによって、神の恵みと赦しがあなたたちにもたらされる。だから、悔い改めなさい。己の罪を告白し、神の愛に信頼しなさい!と、洗礼者は伝えたのです。

その洗礼者ヨハネが、ガリラヤ地方を治めていたヘロデ王によって捕らえられ、処刑されました。このヘロデ王とは、イエスさまが生まれた時に幼児虐殺を命じたあのヘロデ大王の息子ヘロデ・アンティパスです。彼も父親に似て、残虐な権力者でした。しかし、彼以上に屈折していて、嫉妬深く、残忍だったのは彼の妻となったヘロディアです。彼女こそ、洗礼者を恨み、その命を取りたいとまで願い、それを着実に実行するために娘まで利用したのです。福音書によると、その経緯は以下の通りです。ヘロディアは、元々ヘロデ王の兄弟であるフィリポの妻でした。しかし、彼女はフィリポから離れ、ヘロデ王と再婚します。それは王自身が望んで行ったことなのか、それともヘロディアが仕向けたことなのかはわかりません。その後のヘロディアの行動を見てみると、どうも彼女が自分の名誉欲のために、進んでヘロデ王と再婚したような気がします。いずれにしても、それはユダヤの律法では許されることではありませんでした。自分の兄弟の妻と結婚することは、禁じられていたからです。それで、洗礼者ヨハネはヘロデ王とその妻に対して、そんなことはしてはいけない!とはっきり言ったわけです。すると王と王妃は怒ってヨハネを捕らえ、牢に繋いでしまいました。もちろん牢に繋がれても、釈放される可能性は大いにあったのですが、そして実際ヘロデ王はそうしようと思っていたようにも見受けられますが、妻のヘロディアはそうではありませんでした。彼女はヨハネから大いにプライドを傷つけられ、恨みをつのらせ、いつかヨハネを殺してしまおうとさえ思うようになったのです。果たして、絶好の機会が訪れました。王が自分の誕生日に盛大な宴会を催した際、ヘロディアの娘が踊りを舞って王や客人を喜ばせたのです。王は上機嫌で娘に言いました。「欲しいものがあれば何でも言いなさい。お前にやろう」と。すると、娘は母親に相談し、母親は即答しました。「洗礼者ヨハネの首を」。娘は母親の言いつけどおり、「今すぐに洗礼者ヨハネの首をください」と王に願いました。これにはさすがの王も心を痛めましたが、客の手前、娘の願いを退けるわけにもいかず、とうとうヨハネの処刑を命じたのでした。

この話しが事実かどうかは、議論のあるところです。というのも、当時の歴史家ヨセフスが書いた『ユダヤ古代誌』には、ヘロデ王がヨハネを処刑したのは人々からとても人望があり、「彼の勧めることならなんでもする気になっていたよう思われた」とあるからです。「そこでヘロデは、実際に革命が起きて窮地に陥り、その時になってほぞを噛むよりは、反乱に先手を打って彼を殺害しておく方が上策であると考えた」とも書かれています。この『ユダヤ古代誌』はれっきとした歴史書ですから、そこに書かれている事柄も信憑性が高いのです。ですから、洗礼者ヨハネの処刑の理由もヘロデ王の疑心暗鬼にあったというのが事実に近いのかもしれません。一方、この歴史書には王の妻ヘロディアも名誉心が高く、夫を言いくるめて様々な策略を弄したことが書かれていますから、おそらくヨハネの殺害に関しても絡んでいるのでしょう。いずれにしても、夫婦揃ってヨハネを葬り去ったことは確かです。特にヘロデ王は、洗礼者ヨハネの教えに喜んで耳を傾けていたにもかかわらず、最後は命を奪ってしまったのですから、その罪は消し去られません。
 
この痛ましい事件から-人間の欲や怒り、嫉妬や恨みが引き起こした罪の現実から-私たちは何を学べば良いのでしょうか?この物語のどこに福音を見出すことが出来るのでしょうか?私自身も困惑しています。ただ一つ言えることは、洗礼者ヨハネの殉教の物語は、イエス・キリストの受難と十字架の予兆であるということです。キリストも、また私たちの罪の故に、私たちが抱くあらゆる欲望やプライド、嫉妬や恨み、怒りや拒絶の報いを一身に受け、十字架上に架かられた!そのキリストの赦しと愛とを、洗礼者の姿の中にも見ることが出来るのではないかと思うのです。これは単なる昔話でもなければ、キリスト者の信仰だけに関わる物語というわけでもありません。なぜなら今も私たちは、ヨハネのように、無実の罪で捕らえられ、虐待され、命を奪われている人がいることを知っているからです。そのような人たちを助け出し、彼らと連帯し、この世界に真の平和を築き上げていくことはできないものでしょうか?神の愛と恵に溢れた世界を構築していくことはできないでしょうか?どうか一人一人にそのような力と霊が神から与えられますように。

人知では到底測り知ることのできない神の平安が、皆さんの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守りますように。

7月4日の説教

2021年07月05日 | Good News
「故郷の人々」(マルコによる福音書6章1〜13節)

私たちの主なる神と御子イエス・キリストから 恵みと平安が皆さんにありますように。

今日の福音は、ガリラヤで目覚ましい宣教活動を始められたイエスさまの初めての里帰りの様子を伝えています。先週の日課では、イエスさまが会堂長ヤイロの娘と長血を患っていた女性を癒やされた奇跡物語を読んだばかりですが、その舞台はガリラヤ湖畔での出来事でした。またイエスさまと弟子たちが乗っていた舟が突風のため転覆しそうになった時に静められたのも、ガリラヤ湖上での出来事でした。そのような奇跡を目の当たりにした人々や弟子たちはみな「驚きのあまり我を忘れた」のでありました。またイエスさまは奇跡を起こされただけでなく、人々に御言葉も語られました。その御言葉は、今までどんな指導者も教えることができなかったような「権威ある教え」として、人々の耳に届きました。こうしてイエスさまは、安息日になると会堂で、週日は湖のほとりで、休む間もなく人々に福音の恵みを語り続け、御業を示されたのです。その評判はまたたく間にガリラヤ一帯に広がりましたから、イエスさまは早くも律法学者やファリサイ派から目をつけられてもいます。そのようなイエスさまのガリラヤ地方を拠点とした宣教活動について、『マルコ福音書』は行き着く暇もないようなスピード感で筆を進めているのです。

ひるがえって、今日の舞台はイエスさまの故郷ナザレです。6章1節:イエスはそこを去って故郷にお帰りになった。「そこ」とは、弟子たちと共にいつも宣教活動に励んでいるガリラヤ湖岸に点在する町とその周辺一帯を指しています。一方、イエスさまの「故郷」とは生まれ育ったナザレの町です。ナザレは、ガリラヤ湖から30キロほど内陸に入った所です。そこには、イエスさまの母や兄弟姉妹、親戚や昔からの知人たちが住んでいました。ガリラヤから離れたナザレの町でありましたが、イエスさまのかの地での目覚ましい宣教活動の噂は既に聞こえていたと思われます。ナザレの人々は、さぞイエスさまのことが誇らしかったことでしょう。ですからイエスさまの久しぶりの里帰りは、人々からも大いに歓待されたに違いありません。日本の諺でいえば、「故郷に錦を飾る」ということでしょうか。久しぶりにイエスさまと会うナザレの人々の期待は、いやがおうにも膨れ上がっていたのです。

さて、故郷のナザレに帰られたイエスさまは、安息日になると会堂で教え始められました。いつもはガリラヤの会堂ですが、今日は故郷ナザレの会堂です。幼い頃、両親に連れられて弟や妹たちと何度も通った懐かしい会堂。その会堂の聖壇に立って、旧知の人々に御言葉を語ることは、イエスさまにとっても初めてのことだったのではないでしょうか。イエスさまは懐かしい顔をあちこちに見つけながらも、真剣に、熱意をこめて、御言葉を語られました。果たして、故郷の人々の反応も上々でした。2節:多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か」。ナザレの人々もガリラヤの人たちと同じように、イエスさまが語られる御言葉を聞いて驚いています。その恵みに満ちた福音を聞いて、驚いているのです。また、イエスさまが行われたというたくさんの奇跡についても、素直に驚いているのです。イエスはこのような知恵をどこから得たのだろう?イエスがその手で行われる奇跡はいったい何なのだろう?と問いかけながら。「問い」を持ち続けることは私たちにとって大切なことです。その問いが、信仰的な問いならばなお一層大切です。イエスは、どこからそんな深い知恵を得たのか?イエスがなされる驚くべき奇跡とはいったい何なのか?つまりイエスとはいったい誰なのか?何なのか?その問いを私たちが持ち続けつつ、その答えをイエスご自身からいただけるのなら、私たちはイエスから離れることなく信仰生活をまっとうすることができるでありましょう。然り、私たちにとって信仰とは、絶えず神に問い続け、祈りを通して神ご自身から答えをいただく営みにほかなりません。なぜなら、信仰は徹頭徹尾、神ご自身が与えてくださるものだからです。

しかし、イエスさまの故郷の人々はそうではありませんでした。彼らはせっかくイエスさまに「あなたはどこから福音を得たのか」「あなたの手で行われる奇跡は何なのか」と問いかけたにもかかわらず、その直後に「この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセフ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか」と、自分たちで答えを出してしまいました。あくまでも自分が知っている範囲の中で、自分の経験に基づいて、自分の知識をもって、そう結論づけてしまったのです。つまり、自分たちはイエスのことをとうの昔から知っているし、彼の家族もよく知っている、と。実のところ、彼らはイエスについて何も知っていなかったにもかかわらず、自分たちの持てる情報や知識や体験だけで、既にイエスを知ったつもりになってしまっていたのです。それで、彼らはイエスに「つまずいた」。もはや彼らは、イエスを通して働かれている神の恵み・神の御業に驚くことをやめてしまい、つまずいてしまった-信仰を取り戻すことが出来なかった。ですから、イエスさまも彼らに対しては奇跡を行うことがおできになりませんでした。なぜなら神の御業は、常に私たちに信仰を求められるからです。

エゼキエルが預言者としての召命を受けた時、神は言われました。2章1節:「人の子よ、自分の足で立て」と。この御言葉は、自分の足の力だけで、自分の知恵だけで、預言者として立て!と言われたのではありません。その証拠に、神はエゼキエルにそう命じた直後、彼の中に「霊」を入れられました。2節:彼(神)がわたしに語り始めたとき、霊がわたしの中に入り、わたしを自分の足で立たせた。預言者は、一人で立つことは出来ません。預言者は神から霊を注がれるからこそ、立つことが出来るのです。預言者としての務めに召され、応えていくことが出来るのです。私たちもまた、イエス・キリストを通して、神から豊かに聖霊を注がれます。その神の恵みを、キリストの愛を、聖霊を、私たちも信仰をもって素直に受け取っていこうではありませんか。

人知では到底測り知ることのできない神の平安が、皆さんの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守りますように。

6月27日の説教

2021年06月27日 | Good News
「ありのままに」(マルコによる福音書5章21〜43節)

私たちの主なる神と御子イエス・キリストから 恵みと平安が皆さんにありますように。

本日の福音には二人の女性が登場します。一人は、会堂長ヤイロの娘。もう一人は、12年間も出血の止まらない病気にかかっていた女性です。二人とも危機的な状況にありますが、イエスさまはそのどちらをも救い、癒し、命を与えてくださるのです。
 
まず、登場するのは会堂長ヤイロの娘です。娘の年齢は12歳。12歳といえば思春期に差し掛かる頃…ちょっと生意気盛りで反抗期かも知れませんが、父親にとっては言わずもがな目の中に入れても痛くないほど可愛い娘です。その愛娘が、重い病気にかかって死にそうだというのです。それで父親のヤイロはイエスさまを見るなり駆けつけて、その足元にひれ伏して、懇願しました。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」ヤイロは会堂長という名誉ある仕事を与えられていましたから、多くの人々から頭を下げられる毎日だったことでしょう。そんなヤイロが、自分の名誉ある立場を忘れ、プライドもかなぐり捨てて、イエスさまの元に駆けつけるやいなやひれ伏して願ったのです。この方なら、娘をなんとかしてくださるに違いない!死に瀕している娘を助けてくれるに違いない!と。ヤイロの娘に対する深い愛情と、イエスさまに対する全き信頼がなせる業です。イエスさまはそのヤイロの心からの願いに応えるべく、すぐに一緒に出かけられました。
 
ところが、ここで思わぬ横槍が入りました。然り、病に伏せる娘の元へ一刻も早く道を急ぎたいヤイロにとっては、出血の止まらない女性の登場は横槍以外の何物でもなかったでしょう。しかし不思議なことに、イエスさまがその女性のために足止めを食らっている間、ヤイロは一言も発していません。イエスさまに文句も言いませんし、その女性を睨みつけていたわけでもなさそうです。もっともその辺のことは聖書には何も書かれていないので想像するしかありませんが。いずれにしても、仮にも会堂長という立場の人からのたっての願い、しかもたった今しがた切迫した彼の願いを聞いたばかりのイエスさまとしては、先を急ぐ必要があったのでは?と思うのですが、いかがでしょうか?優先順位というものをいつも付けなければならないと考えている私たちとしては、イエスさまがここで長血を患った女性に時間をたっぷりと費やさなくても良いのでは?誰かが自分の服に触れたことを感じらからといって、その人を探し出し、その上、当人の話しをじっくり聞くことまでしなくても良いのでは?とは考えませんか。イエスさま、ぼやぼやしていたらヤイロの娘さんが死んでしまいますよ。早くヤイロと一緒にここを出発して!あまりこの女性に構ってないで!と。しかし、イエスさまはそうではありませんでした。長血を患った女性のために足を止め、彼女を探し出し、そして彼女の話しにじっくりと耳を傾けられたのです。33節:女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。彼女は、勿論イエスさまの服にでも触れさえすれば自分の病気を癒していただける!と信じて、それを行動に移したのですが、その願いが本当に叶えられてしまったことを知り、恐ろしくなったのです。それで、「わたしの服に触れたのは誰か」とイエスさまが振り向いて問われた時、とっさには手を挙げられなかった。それでも、イエスさまがなおも自分に触れた人を見つけようと見回しておられるのを見て、震えながらイエスさまの御前に進み出たのでありました。この方の前では嘘はつけない…否、むしろ何もかもありのままに話して良いのだ、と。そうして彼女は、12年もの間この病にかかってきたこと、多くの医者にかかったもののひどく苦しめられたこと、全財産を使い果たしてしまったこと、それでも症状は一向に改善されずますますひどくなっていったこと等をイエスさまに話したわけです。当時、女性がこのような類の病にかかった場合は、律法で汚れた者とみなされましたから、彼女は精神的にも追い詰められていました。人々から白い目で見られ、疎外され、除け者にされていたでありましょう。その辛さ、悲しさ、やるせなさ…誰にも分かってもらえない様々な思いを、彼女はすべて「ありのまま」イエスさまに話したのです。それは時間にしてどのくらいかかったでありましょうか?おそらく5分や10分で終わる話ではなかったでしょう。しかし、イエスさまは彼女の話しに黙って耳を傾けられたのです。そして、それを聞き終わると、一言「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい」と言われました。長年患った病を癒されただけでなく、心の中に閉じ込めていた様々な思いもすべて吐き出すことが出来た彼女は、文字通り身も心も救われたことでしょう。その彼女のありのままの姿を、嘘偽りのない飾らない姿を、イエスさまは彼女の「信仰」だと言われたのです。
 
さて、こうして長血を患った女性との出会いに時間を割かれている間に、会堂長ヤイロの家から使いの人がやって来て、イエスさまに報告しました。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう」。案の定です。イエスさまが長血を患った女性に時間を取られている間に、ヤイロの娘は息絶えてしまったのです。ヤイロは、さぞがっくりしたことでしょう。イエスさまを恨めしくさえ思ったかも知れません。しかし、イエスさまは思いがけないことを言われました。「恐れることはない。ただ信じなさい」と。そうして、ヤイロの家に駆けつけると、息を引き取ったばかりの娘の手を取り、一言「タリタ、クム」と言われました。「少女よ、起きなさい」という意味です。すると、少女はすぐに起き上がって、歩き出した!「人々は驚きのあまり我を忘れた」と書かれています。こうして、この日、二つ目の奇跡が起きました。イエスさまにとって奇跡とは、神の御業のしるしに過ぎません。ですから、奇跡だけが一人歩きしてしまわぬよう、「このことを誰にも知らせないように」と厳しく命じられたのです。私たちの現実の世界では、このような奇跡はまず起きないでしょう。しかし、たとえ奇跡が起きなくとも、イエスさまの愛は私たちに注がれ、神の御業は確かに示されているのです。その神の御業を、イエス・キリストの愛を、信仰の眼によって見ることのできる人は幸いです。

人知では到底測り知ることのできない神の平安が、皆さんの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守りますように。

6月20日の説教

2021年06月20日 | Good News
「なぜ怖がるのか」(マルコ福音書4章35節〜41節)

私たちの主なる神と御子イエス・キリストから 恵みと平安が皆さんにありますように。

本日の福音は、イエスさまがガリラヤ湖で突風を静められた出来事です。弟子たちが乗っていた舟が、激しい突風のため波をかぶって難破しそうになったところ、イエスさまが「黙れ。静まれ」と発されるやいなや、風はやみ、すっかり凪になりました。奇跡です。『マルコ福音書』では、ここからイエスさまによる一連の奇跡物語が続きます。イエスさまが悪霊に取り憑かれた人を癒された話、ヤイロの娘と長血に患わされた女性を癒された話、5つのパンと2匹の魚で5000人もの人々を養われた話、障がいをもった人々を癒やされた話などが続いたところで、「あなたはメシアです」というペトロの信仰告白に至るのです。今日、イエスさまが湖の突風を静められた奇跡を目の当たりにした弟子たちは、「いったい、この方はどなたなのだろう」と互いに言い合ったと記されていますが、この問いに対する答えが、一連の奇跡物語を通じて、準備されていくわけです。「この方はどなたなのだろう」「イエスはいったい誰なのか」という問いは、神学的にはキリスト論と呼ばれるものですが、その問いが今や弟子たちに目覚めたのです。
 
それでは、一連の奇跡物語のトップを飾った今日の福音を見て参りましょう。35節:その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。このように物語は始まります。「その日の夕方」とはいつの日のことかはっきり書かれていませんが、その日のイエスさまはガリラヤ湖畔に集まってきたおびただしい群衆を前にして御言葉を語っておられました。先週の日課であった「からし種のたとえ」もその一つです。ガリラヤ湖畔にはあまりにもたくさんの人々が集まってきたので、イエスさまは舟に乗って、湖上から集まった人々に語りかけたと書かれています。そうして人々に御言葉を語られた後、もはや夕暮れとなり人々も家路につく頃となったので、イエスさまは弟子たちに声をかけられました。「向こう岸に渡ろう」と。「あちら側に住む人々にも御言葉を届けるために、向こう岸へ渡ろう」と。御言葉は限られた場所だけでなく、あらゆる所に届けられなければならないからです。福音は、すべての人にもたらされるべき神の賜物なのです。

さて、舟が向こう岸へ漕ぎ出し始めると、突然、激しい突風が起こりました。三方を山に囲まれたガリラヤ湖は、実際に天気が急変することがあるそうです。この日もそうでした。突風のため、舟は波をかぶって、水浸しになってきました。このままでは、舟が転覆して湖に放り出されてしまうのでは?と弟子たちは怯えています。ところがイエスさまはと言うと、なんと木の葉のように揺れている小舟の艫で枕して眠っておられるではありませんか!弟子たちは慌ててイエスさまを起こして叫びました。「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」。するとイエスさまは起き上がって、風を叱り、湖に、ただ一言「黙れ。静まれ」と言われました。すると、風は途端にやみ、すっかり凪になった。今まで荒れ狂っていた湖が、嘘のようにいつもの穏やかな湖となったのです。まさに奇跡です。嵐が収まったのを見て、弟子たちは命を脅かされる恐怖からは解放されたことでしょう。しかし、今度は別の恐れが沸いてきました。それは、このような奇跡を起こされたイエスに対する恐れ、否、畏れと言った方がふさわしいでしょうか。イエスさまは弟子たちに言いました。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」弟子たちが恐れているのは、もはや突風ではありません。風や湖さえも従わせることのできるお方を目の当たりにして、畏れているのです。それで、「いったい、この方はどなたなのだろう」と言う問いを発さずにはいられなかったのです。

旧約聖書によると、風や湖を従わせることのできる方は、それらを造られた神のみです。今日の第一の朗読で読まれた『ヨブ記』38章は、それまで沈黙を守っておられた神がヨブに対して初めて語りかけられた箇所ですが、神は大地を据えたとき、また海を造ったとき、それに自ら限界を定められたのだ、と言います。そのわたしに対して、ヨブよ、お前は何か申し立てをすることがあると言うのか?知識もないのに、言葉を重ねて、神の経綸を暗くするとは、お前はいったい何者なのか?と問われるのです。弟子たちはイエスを見て、「いったい、この方はどなたなのだろう」と問いましたが、実は問われているのは弟子たちの方でもあるのです。「お前たちはいったい何者なのか」と。神の前で、キリストの前で、いったいあなたは何者なのか?と。私たちはその問いにどう答えるでしょう。

使徒パウロはこの問いに対して、次のように答えました。「私たちは人を欺いているようでいて、誠実であり、人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています」と(コリントの信徒への手紙Ⅱ 6章8〜10節)。パウロは、神から恵みをいただいた者として、このように言っているのです。キリストを信じる者として、そう告白しているのです。このパウロの言葉は、私たちが何者なのかという問いに対する一つのヒントになるのではないでしょうか?パウロはまた次のようにも言っています。同6章1節〜:私たちはまた、神の協力者としてあなたがに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。なぜなら、「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた」と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日。私たちは、キリストを信じる信仰のゆえに、神によっていつも助けられ、祈りを聞き入れられます。時として信仰が揺らぎそうな時でさえ、イエスさまが弟子たちを助けてくださったように、私たちも常に救われ、神からの恵みが約束されているのです。その愛なる神の前で、いつも執りなしてくださるキリストの傍で、私たちはどのように歩んでいきましょうか。神は私たちのすべてをご覧になっておられます。

人知では到底測り知ることのできない神の平安が、皆さんの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守りますように。