Good News

その日の説教で語られる福音を、ショートメッセージにしました。毎週更新の予定です。

8月23日のGood News

2020年08月23日 | Good News
「あなたは幸いだ」(マタイによる福音書16章13〜20節)

ペトロの信仰告白は、福音書における一つのクライマックスです。いうまでもなく福音書のクライマックスといえばイエスさまの十字架と復活ですが、ペトロの信仰告白もそれに匹敵するくらい大切な箇所だと思います。もちろんペトロは、肝心なイエスさまの十字架の時に逃げ出してしまい、イエスなんか知らない!と3度も否認した臆病者だったのですが。それでも、そのペトロが曲なりにもイエスさまのことを「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白し、イエスさまから「あなたは幸いだ」と言われたこと。それだけでなく、ペトロを「岩」と呼び、あなたの上に教会を建てよう!天の国の鍵も授けようと!とイエスさまから言われたことは、やはり特別な出来事だったと思うのです。

イエスさまのことを「メシア」と呼び、「キリスト」と告白することは、信仰者にとっては当然のことです。イエスさまは、私たちの罪をあがなうために十字架に掛かり、復活されたのですから、そのイエスさまをキリストと呼ぶことに信仰者は何の躊躇もありません。然り、私たちはイエスさまのご生涯、その教えと御業、十字架と復活のすべてを既に知っているのですから、イエスをキリストと告白することが出来るのです。しかし、イエスの弟子たちはどうだったのでしょう?彼らはイエスさまのそばでその教えを聞き、御業も見ていましたが、イエスさまのご生涯すべてに立ち会ったわけではありません。何よりもイエスさまの受難と十字架の時には、その場にいませんでした。ですから、イエスさまのことを心から「キリスト」と呼ぶまでには至らなかったのではないでしょうか。然り、イエスさまが復活して弟子たちの前に現れ、すべてを明らかにしてくださるまでは。

それでもペトロは今日、イエスさまを「キリスト」だ、と告白しました。これはペトロが弟子たちのリーダーだったからでしょうか?彼の信仰深さゆえでしょうか?ペトロ自身は多少なりともそのような自負があったようです。(だからこの直後にイエスさまから叱られます)しかし、イエスさまはペトロにこう言われました。「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」つまりペトロが信仰告白に導かれたのは、神がなされたことなのだ、とおっしゃったのです。これは忘れてはならないことです。私たちは自分で一生懸命に聖書を読み、熱心に祈り、信仰深くなりたいと願ったからクリスチャンになったのではない。そうではなく、神が私たちをキリストに導いてくださった!神が私たちをキリストと出会わせてくださったのです。そうでないと、何とも弱く罪深い私たちは瀕死の状態になってしまいかねなかったからです。この神の恵みゆえに、私たちはキリストと出会い、信仰を与えられました。キリストによって教会の礎の一つとされ、ペトロと共に天国の鍵を預かる者とされたのです。奢り昂ってはなりません。

8月9日のGood News

2020年08月09日 | Good News
「主よ、助けてください」(マタイによる福音書14章22〜33節)

本日の福音は、ガリラヤ湖上で舟を漕ぎ悩んでいた弟子たちをイエスさまが救われた物語です。イエスさまはこの湖のほとりでしばしば人々に説教をされましたし、弟子たちの中にはかつてこの湖で漁を営んでいた者もいましたから、彼らにとってはよく知り尽くした湖でした。しかし、その湖で突如暴風が吹き荒れ、彼らは一晩中舟を漕ぎ続けても向こう岸までたどり着けないという事態に陥ったのです。疲労困憊の弟子たちのところに、やっとイエスさまが助けに来てくださいました。ところが弟子たちは、それを幽霊だと思い込み、恐怖のあまり叫び声を上げてしまう始末。無理もありません。イエスさまは舟を漕ぎ悩む弟子たちの所へ、湖上を歩いて来られたのですから!そんな弟子たちを落ち着かせるために、イエスさまは開口一番彼らに語りかけられました。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」紛れもないイエスさまの御声を聞き、弟子たちはどんなに安心したことでしょう。風はまだ湖上を吹き荒れていましたが、弟子たちはもう大丈夫!イエスさまが一緒におられるのだから!と確信したに違いありません。事実、イエスさまが彼らの舟に乗り込まれるや否や風はやみ、いつもの穏やかなガリラヤ湖に戻ったのです。

このイエスさまの湖上歩行の物語は他の福音書にも記されていますが、『マタイ福音書』ではさらにペトロとイエスさまとのやりとりが続きます。イエスさまが助けに来てくださってすっかり安心したペトロは、「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください」と言いました。ペトロは一刻も早くイエスさまの懐に飛び込みたかったのでしょうか。イエスさまはペトロの願いを受け入れ、「来なさい」と答えられました。すると、ペトロは舟から降りて、イエスさまを目指して湖の上を歩き始めたのです。ところが、強い風に気を取られた途端に怖くなり、沈みかけてしまいます。ペトロは叫びました。「主よ、助けてください。」もちろんイエスさまはすぐにペトロに手を伸ばし、助けてくださいました。そして言われたのです。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」。果たして、私たちはペトロを責めることができるでしょうか?イエスさまを幽霊だと思って怖気付いた弟子たちとは違う!と胸を張って言えるでしょうか。

信仰者の生活も弟子たちと同じようなことが起こります。見慣れた場所、何度も体験してよく知っている筈の状況が、突然豹変し、動揺してしまう。恐れに包まれてしまう。そんな私たちの所へ、キリストはすぐに来てくださるのに、そのキリストが見えない。キリストを真っ直ぐに見ながら歩いているつもりなのに、現実の厳しさに思わず足元がすくわれそうになる。それでも、最後の最後に「主よ、助けてください」と大声で言えるお方がいる人は幸いです。然り、主は必ずや私たちを助けてくださるのですから。