Good News

その日の説教で語られる福音を、ショートメッセージにしました。毎週更新の予定です。

12月30日のGood News

2018年12月30日 | Good News
「お言葉どおりに」(ルカによる福音書2章25〜38節)

本日の福音には、二人の老人が登場します。シメオンとアンナです。シメオンは「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない」とのお告げを聖霊から受けていました。彼の年齢はつまびらかにされていませんが、幼子イエスにまみえて歌ったその歌の内容から、齢を重ねた老人であることは明らかです。「今わたしは、主の救いを見ました。主よ、あなたは、み言葉のとおり、僕を安からに去らせてくださいます」。皆さんもよくご存知の『ヌンク・ディミテイス』です。彼は、長い間待ち望んでいた救い主に出会えた喜びゆえに、もはや安心してこの世を去ることができます!と歌っているのです。これは、やはり齢を重ねた信仰深い人でなければ歌えない歌でありましょう。私なんかは、まだまだその域に達しておりません。

信仰というのは、齢を重ねるほどに深まっていくものです。いくら聖書の勉強に励み、神学書を読みあさったところで、それで即、信仰が深まるわけではありません。信仰には、時間が必要なのです。上質のお酒がそうであるように、信仰も十分に寝かせなければなりません。その点、長い信仰生活を送って来られた方々には、大いに見倣うべき点があります。そのような方々は、信仰というものを頭ではなく体全体で分かっておられるからです。シメオンのように、「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安からに去らせてくださいます」と一気に歌い切る信仰があるからです。たとえ歌う声は小さくかすれていようとも、心の底から本気で歌っておられる…そのような凛とした姿に、どれだけ後に続く者たちは励まされることでしょうか。それこそが、まさに伝道でありましょう。

シメオンに続いて登場したアンナは、女預言者でした。新約聖書中、女預言者として名前まで記されているのは、アンナただ一人です。彼女が幼子イエスと出会ったのは、84歳の時。彼女はこの年になっても「神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていた」と紹介されています。つまり彼女は84歳にして、現役バリバリの女預言者だったのです。私たちも終生、教会から離れずに、兄弟姉妹たちと共に神に祈り、讃美をささげていると、アンナのように長生きできるのかもしれません。否、たとえ身体的には衰え弱ろうとも、その信仰は最後までアンナのように生き生きと燃えているのではないでしょうか。彼女は、神殿で幼子イエスを見つけると、「近づいて来て、神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話し」ました。アンナは主の救いを待ち望んでいたすべての人々に向かって、この幼子こそまことのキリストである、と伝えたのです。こうしてアンナは、文字通りイエスを救い主として証しする最初の預言者となり、宣教者となったのです。私たちもアンナやシメオンにあやかりたいですね。

12月23日のGood News

2018年12月24日 | Good News
「幸いな者」(ルカ福音書1章39〜55節)

クリスマスおめでとうございます。クリスマスは、私たちの救い主イエス・キリストの誕生日です。ですから毎年クリスマスになると、私たちは「おめでとう」と挨拶を交わし合うのです。嬉しいことに、今年のクリスマスは「おめでとう」がさらに増えました。新たに神の家族となった兄弟姉妹たちがおられるからです。親子3人が洗礼の恵みに与り、3人の方々が堅信し、お二人が転入されました。洗礼は、罪人が古い自分に死に、神の賜る新しい命に生きること。いわば、第2の誕生日です。堅信は、洗礼の恵みに与った人が、神への信仰を告白すること。どちらも嬉しくおめでたいことです。転入される方も、私たちの教会で新たに信仰生活を始められるわけですから、おめでたいことですね。

さて、本日与えられた福音もおめでたい響きで満ちています。洗礼者ヨハネの母エリサベトとイエスの母マリアとの出会い。二人の母親は、それぞれに神から託された子どもをみごもっていました。それで、互いに「おめでとう」と祝福しあったのです。すると、胎内にいた我が子も一緒に喜び踊ったというのです。母親の胎内に宿る子どもは、母親と同じように喜び、楽しみ、悲しみ、泣くと言われています。神の思いがそのまま御子に宿ったように、母の思いもまたその子に宿るのです。

イエスをみごもったマリアは、嬉しさのあまり歌を歌い出しました。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます…」と。『マニフィカート』と呼ばれるマリアの賛歌です。自らを小さく低くし、ひたすらに神をほめたたえるこの素晴らしい信仰告白に、多くの作曲家たちが曲をつけました。J.S.バッハの作品がよく知られていますが、最近私が好んで聴くのは現代イギリスの作曲家、ジョン・ラターによるものです。弾むようなリズムに乗って軽やかに歌われる『マニフィカート』を聴いていると、本当に踊り出したくなります。

一方、同じ現代の作曲家でもポーランドに生まれ、ホロコーストを体験したグレツキは、『悲歌のシンフォニー』を作曲しました。その第1楽章では、中世の修道院で歌われていた哀歌のテキストがソプラノによって切々と歌われます。「わたしの愛しい、選ばれた息子よ、自分の傷を母と分ち合いたまえ。愛しい息子や、わたしはあなたをこの胸のうちにいだき、忠実に仕えてきたではありませんか。母に話しかけ、喜ばせておくれ」と。十字架に赴くイエスを嘆く母マリアの歌です。これはマニフィカートとなんと対照的なことでしょう。しかし、どちらもまぎれもなく神の子イエスを与えられたマリアの歌なのです。マリアの喜びと悲しみと歓喜と苦悩のただ中にイエスがおられたように、私たちが人生で味わう喜怒哀楽のすべてにおいて御子は共におられるのです。

12月9日のGood News

2018年12月09日 | Good News
「主の道を整えて」(ルカによる福音書3章1〜6節)

アドベント・キャンドルに二つ目の火が灯りました。待降節第2主日です。クリスマスまでもうあと2週間あまり。今年も札幌教会では、4日間にわたって(12月22日〜25日)クリスマスの様々な礼拝が計画されています。それぞれの礼拝堂でもたれる「クリスマス礼拝・祝会」はもちろんのこと、24日のクリスマス・イブに行われる「燭火礼拝」にも、また25日の朝の「降誕祭礼拝」にも、どうぞお越しください。

さて、今日の福音には洗礼者ヨハネが登場します。ヨハネはイエスの親戚に当たります。二人の母親は、エリサベトとマリア。互いに子どもをみごもった喜びを祝福しあう美しい物語が『ルカ福音書』の冒頭に収められています。やがてヨハネもイエスも成長し、共に神の言葉を宣べ伝える者となりました。ヨハネは悔い改めを、イエスは福音を。

ヨハネは自分の役目をわきまえていました。神から託された使命を知っていたのです。それは、主の道を整えること−救い主を迎えるための道を備えることでした。ですから、彼は荒れ野で叫び、呼ばわる者となったのです。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と。人の心を惑わすものが何もない荒れ野で、人を簡単には寄せ付けない厳しい荒れ野で、ただ主にのみ心を向け、主を迎える準備をせよ!と人々に説いたのです。その言葉は、鋭く、激しく、聞く者の耳に迫り、人々を悔い改めの洗礼へと促しました。それで人々は、彼こそ待ち望んでいた救い主ではないかと期待したのです。しかし、ヨハネは「わたしよりも優れた方」が後から来られると、はっきりと伝えました。然り、イエスです。ヨハネはイエスと自分を比べつつ、イエスについてこう述べました。「わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」(3章16節)と。つまりヨハネは、イエスを指し示すことに徹したのです。真の救い主はイエス・キリストただお一人である、と。自分はいわばキリストの黒子に過ぎないのだ、と。

異邦人伝道に力を尽くしたパウロも、洗礼者ヨハネとよく似ています。彼もまた自分が各地に建てて行った教会の数や業績を並べ立てることなく、徹頭徹尾キリストを伝え、証しすることに徹しました。彼が書き残したたくさんの手紙を見ても、そのことが分かります。その一つ、パウロがフィリピの教会の人々に当てた手紙の一節を最後に読みましょう。「わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。」(1章9節〜11節)

12月2日のGood News

2018年12月03日 | Good News
「石が叫び出す」(ルカ福音書19章28〜40節)

教会の暦は、今日から待降節に入りました。今日は、待降節の最初の日曜日。アドベントクランツに立てられた4本のろうそくにも、最初の火が灯りました。私は毎年このアドベントを迎えるたびに、何か清々しい厳粛な気持ちになります。一般の日本人の感覚で言うならば、大晦日が明けてお正月が来た感じとでもいいましょうか。年の初めのなんとも静かで、穏やかで、それでいて厳粛な気持ちにさせられる新年。そう、教会では一足早く、今日の待降節から新しい教会の暦が始まるのです。

さて、本日の福音は、イエスさまのエルサレム入城の場面です。私たちの罪をあがない、私たちに赦しと救いを与えるために、エルサレムの町を目指すイエスさまの姿がそこには描かれています。「イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムに上って行かれた。」他の弟子たちが尻込みする中、イエスさまは弟子たちの先頭に立ってゴルゴタの丘へと続くその道を進まれたのです。 

いよいよエルサレムの町に近づかれた時、イエスさまは弟子たちに子ろばを調達させました。ろばは、平和の象徴です。『ゼカリヤ書』9章に次のように書かれているとおりです。「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者。高ぶることなく、ろばに乗って来る。雌ろばの子であるろばに乗って。わたしはエフライムから戦車を、エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ、大河から地の果てにまで及ぶ。」ろばは馬とは違って体も小さく、足も遅く、したがって戦争で華々しく活躍することはありません。ただ黙々とひたすらに、人々のために重い荷物を運んでくれます。ろばには軍人は決して乗りはしません。その代わり、ろばは平和を願う市井の人々を乗せてゆっくりと確実に歩みを進める。あたかも、神の御心である平和な世界へ私たちを導いてくれるかのごとくに。だから、イエスさまはろばに乗られ、ゴルゴタの道を進まれたのです。その有様を見た人々は、口々に叫びました。「主の名によって、来られる方、王に、祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光」と。

平和の主であるイエス・キリストは、私たちの世界にも、私たちひとりひとりの間にも、まことの平和が訪れることを何よりも願っておられます。それゆえ、その歌声を妨げようとする者には容赦しません。「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫び出す。」平和を祈り願う歌をさまたげようとする輩がいたとしても、石が代わりに叫び出し、歌い出す。「天には栄光、地は平和」と。私たちはろばに乗ったキリストを迎えた人々と共に、今日高らかにこの歌を歌おうではありませんか。

11月25日のGood News

2018年12月03日 | Good News
「滅びないもの」(マルコ福音書13章24〜31節)

教会の暦も1年の終わりに差し掛かってきました。本日は「聖霊降臨後最終主日」。ペンテコステ以降、約半年間にわたって過ごしてきた聖霊降臨節の最後の主日です。来週からは、「アドベント」。新しい教会の1年がまた始まります。

さて、本日与えられた福音は、キリストの「再臨」について述べたものです。「それらの日には、このような苦難の後、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる。そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗ってくるのを、人々は見る。そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」ここで「人の子」と言われているのは、この御言葉を語っているイエス・キリストご自身です。そのとき、キリストが大いなる力と栄光を帯びて来る。そのとき、キリストが天使たちを遣わして、主ご自身が選ばれた人々を四方から呼び集められる。イエスをキリストと信じた者たちを呼び集め、完成した神の国に招き入れ、永遠の命を与えてくださる「そのとき」が、必ず来る!と言われているのです。それゆえ、そのときは、信仰者にとって待ちに待った喜ばしい時にほかなりません。

しかし、そのときが到来するまで、私たちには様々な苦難があると聖書は述べています。天災があり、戦争が起こり、偽りを語る者たちが多数現れる…そのような中で、信仰者は人々から迫害されることもあるのです。にもかかわらず、「まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられなければならない」。そして「最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」たとえ悪と罪にまみれたこの世界であっても、福音があらゆる人々に宣べ伝えられなければならない。然り、そのような世界だからこそ、福音があまねく伝えられないうちにこの世が終わることはない。だから、恐れずに、あきらめずに、福音を宣べ伝えなさい!私たちの罪のために十字架に架かられたイエスこそまことのキリストであると、宣べ伝えなさい!たとえどんな試練や迫害があろうとも、最後まで耐え忍んで、キリストを証しし続けなさい!と、主イエスは私たちに語りかけておられるのです。

この1年、私たちの周りではいろいろなことが起こりました。各地で大雨の被害が相次ぎ、北海道にも台風や地震が襲いかかりました。多くの人が命を奪われ、いまだ落ち着いた生活に戻れない人がたくさんおられます。片や金や名誉や権力に目がくらんだ指導者たちは迷走を続け、市井の人々は振り回されています。弱く貧しい人々は切り捨てられ、強く声の大きい者だけがますますのさばっている暗澹とした社会です。それでも、この世界に福音が宣べ伝えられるまでは、この時代は決して滅びない。だからこそ、今、ここで、私たちがキリスト者として召されている意味があるのです。