Good News

その日の説教で語られる福音を、ショートメッセージにしました。毎週更新の予定です。

5月30日・31日の説教

2020年05月29日 | Good News
※コロナウィルス感染拡大のため5月31日まで礼拝が中止となりましたので説教原稿を配信します。札幌教会牧師 日笠山吉之

「聖霊を受けなさい」(ヨハネ福音書20章19〜23節)

イースター以降、7週間の復活節を経て、本日ペンテコステを迎えました。ペンテコステとはギリシャ語で「50」の意味。ユダヤ教では「五旬祭」と呼ばれてきました。元来この祭は、パレスチナにおける初夏の収穫感謝祭であり、またモーセに率いられてこの地に入ったイスラエルの民の土地取得を記念する日であり、神から与えられた律法の授与を覚える日でもありました。それは、ユダヤ教の中で最も大切な祝日である「過越祭」から数えてちょうど「50日目」に当たります。一方、キリストが十字架にかけられたのは過越祭の最中でしたから、イエスさまは私たちの罪を取り除く神の小羊だと、信仰者たちは理解しました。そのキリストが復活して、弟子たちの前に再び現れ、しばし交わりの時をもたれ、父なる神のみもとに帰られ、弟子たちに約束の聖霊を注がれた!キリストの十字架の死と復活からちょうど50日目のこの日を、教会では「ペンテコステ」(聖霊降臨祭)と呼ぶようになったのです。ですから信仰者にとってこの日は、神から豊かに聖霊を注がれる恵みを覚える特別な日なのです。

この特別な主日、ペンテコステの礼拝に、皆さんと共に礼拝堂に集いたかったのですが、今年はそれが叶いませんでした。イースターまではなんとか一緒に集まることができましたので、ペンテコステには再び皆さんと一緒に!という切なる願いはありましたが、その楽しみは来週の「三位一体主日」までお預けです。今年のペンテコステは、それぞれの場で、神様に対する願いと思いと心を一つにして、聖霊を受けましょう。

さて、本日の福音は、復活の主イエスが弟子たちの前に現れて言われた最初の言葉です。「あなたがたに平和があるように」。イエス様を見捨て逃げ隠れていた弟子たちに、イエス様は開口一番「平和があるように」と祈られました。弟子たちと同様に私たちもいつも弱く、臆病で、不安に駆られていますが、そんな私たちに対してもイエスさまは「あなたがたに平和があるように」と、いつも祈ってくださっているのです。その上で、イエス様は弟子たちを福音の宣教のために遣わされました。「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」1度ならず、2度も3度もイエスさまを拒み、裏切った者たちを、主は赦し、今再び、主の弟子として用いてくださるというのです。しかもイエス様ご自身の息、聖霊を吹きかけて!「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でもあなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」イエスさまが罪人である私たちを赦し、弟子として再び福音宣教のために用いてくださるというのも驚きですが、そればかりでなく、私たちが聖霊を受けて他者のために罪の赦しを与える者とされるという約束も、まったく驚くべきメッセージではないでしょうか?つまり、キリスト者は、すべての人に対して赦しと愛を与えることができるのだ!聖霊によって、その賜物が付与される!というのですから。自分のような罪人が、そんなこと出来るわけない…と思い悩むことはありません。私たちをそのようにして用いられるのは、主ご自身。主が与えてくださる聖霊が、私たちを赦し、遣わし、そうして他者にも赦しを与えるメッセンジャーとして押し出されるのです。

それにしても、「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」という主イエスの御言葉は、私たちにとってずしりと重くはないでしょうか?イエスさまによって自分の罪を赦されておきながら、なかなか他者の罪を赦せない私たちです。そんな愛の足りない私たちに、主イエスは罪の赦しの権限を与えてくださると言うのですから。それでは、自分の気にいらない人の罪は赦さなくていいのか?その人の罪は赦されないままでいいのか?というと、そうではありません。むしろイエスさまは私たちに対して、誰の罪をも赦しなさい!あなた自身の罪も赦されたのだから、誰の罪をも赦しなさい!さもないと、その人は罪に囚われたまま、神の救いから漏れたままになってしまうのだから。それは、父なる神の御心ではない。あなたの罪が赦されたのは、そんなことのためではない。あなたは誰の罪をも赦すことが出来る。誰をも愛することが出来る筈だ。そのためにあなたは聖霊を注がれたのだ!と、イエスさまは言われたのだと思います。

このたびの新型コロナウィルスの感染拡大によって、私たちは誰もが不安や苛立ちがつのっています。ここ北海道では3ヶ月にも及んだ緊急事態宣言がひとまず解除されたものの、またいつ再び発令されるか分からない…そんな中で、私たちはつい誰かをターゲットにして、苛立ちや怒りをぶつけたくなります。日ごと政治家たちの無能さぶりをあげつらいたくもなるわけです。そうやって物申すことは、何も悪いことではないと思います。さもないと、この社会はますます酷くなっていくばかりですから。言うべきことはしっかりと声を上げて伝えていかなければ、社会は何も変わらない。神の国の完成は遠いままです。その一方で、イエスさまは私たちに互いに赦しあい、愛し合うことも求めておられます。どんなに虚勢を張った人でも、他人の言うことに耳を貸さない人でも、一皮むけばちっぽけな弱い人間に過ぎません。(そのことを本人が自覚しているかどうかが大切なのですが。それを自覚することを聖書では「悔い改め」と言います)少なくとも神様のみ前では、私たちは皆そうでありましょう。だとするなら、やはりお互いに言うべきことは言ったとしても、最後のところでは互いに赦し合わないと、共に生きていけない。私たちにとって、罪を赦されないまま生きていくことは、まさに拷問です。人は互いにその存在を認め合い、赦し合い、愛し合ってしか生きていくことはできないからです。私たちにそのような全き受容を、赦しを、愛を示してくださったのがキリストであり、今なお私たちにそれらを与えてくださるのが聖霊の働きなのです。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」。この主イエスの御言葉を身をもって伝える者となるために、日々、豊かに聖霊をいただきましょう。


5月23日・24日の説教

2020年05月22日 | Good News
※コロナウィルス感染拡大のため5月31日まで礼拝が中止となりましたので説教原稿を配信します。札幌教会牧師 日笠山吉之

「祝福しながら」(ルカによる福音書24章44〜53節)

教会の暦は「復活節」の最後の主日である「昇天主日」となりました。来週には「ペンテコステ(聖霊降臨祭)」を迎えますが、残念ながら会堂に集まっての礼拝は来週までお休みです。その代わり、教会員の皆さんにはこれまで通り説教原稿をお送りしますし、ここにも掲載しますのでご利用ください。

さて、本日の聖書のテキストは、第1の日課である『使徒言行録』も、また『ルカ福音書』の日課も、いずれもイエスさまの昇天を伝える場面です。どちらの書も、執筆者はルカです。ルカの職業は医者でしたが、イエスさまが命をかけて人々に伝えられた福音と、その福音を受け取った弟子たちのこれまた命懸けの宣教について是非とも書き残さなければ!という使命感に駆られて、これら二つの書を書き記したのでしょう。どちらもテオフィロなる人物に献呈されていますが、もちろんルカとしてはテオフィロだけでなく、一人でも多くの人々に、イエスさまの十字架と復活の御業を、またイエスさまの福音を証しした弟子たちの宣教を伝えたいと願って、これらを書いたわけです。信仰者にとって、イエスさまの福音を知ること、そしてイエスさまの十字架と復活の御業を信じることは、大きな恵みですが、それだけで終わってしまってはなんとも勿体ない。イエスさまの福音に触れ、その御業を信じたからには、それを人々に伝える者となること-宣教者となることをルカは願ったのです。

それでは、私たちが福音の宣教者となるのに、何か特別な資格や条件が必要なのでしょうか?聖書を一生懸命勉強して、神学校を出て、牧師にならないと宣教者にはなれないのでしょうか?いいえ、そんなことはありません。イエス・キリストに出会って福音に触れ、キリストが担われた十字架と復活によって救われ、その恵みを誰かに伝えたい!と思う人なら誰でも宣教者になれるのです。なぜなら、キリストを証ししたい!という思いは、その人自身の内から出てくる情熱というよりも、むしろ聖霊のなせる業だからです。イエスさまは天に昇られる前、弟子たちの心の目を開いて言われました。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国々の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまで、都にとどまっていなさい。」イエスさまが言われた「父なる神が約束されたもの」「高い所からの力」-これが聖霊です。弟子たちは、この聖霊を確かに受けたからこそ、キリストの証人とされたのです。聖霊によって弟子たちは、キリストを知らない…と拒絶する者から、キリストを大胆に証しする者へと変えられたのです。

「聖霊」は、目には見えませんから「風」や「息」に形容されます。神が私たちに送ってくださる「風」、神ご自身が私たちに吹きかけてくださる「息」。旧約聖書の『創世記』2章に「主なる神は、土の塵で人を形作り、その鼻に命の息を吹き入れられた。こうして人は生きる者となった」とある通りです。私たちは、神ご自身の手によって形作られ、その鼻に命の息を吹き入れられることによって、初めて生きる者となった!すなわち、私たちは神が吹き込んでくださる命の息、聖霊なしには、人間らしく生きることができないのです。私たちはただ空気中の酸素を吸い、二酸化炭素を出して生きているのではない。それでは、単なる肉の塊です。そうではなく、私たちは、神ご自身の息、神が私たちに吹きかけてくださる聖霊によって、生きている!神によって創造された者として、神と向き合い、神と共に歩む者として、私たちは生かされているのです。

ご存知のように先週は、検察庁法改正案の件で、国会が揺れました。コロナウィルスが治らない中、まだまだ様々な手立てを講じなければならない最中に、政府はそれを粛々と進めようとしました。それに対して、大きな反対の声が沸き上がりました。一般市民だけでなく、学者、俳優、タレント、アーティストなど、最後は検察庁のOBまでが声を上げました。私たちのルーテル教会も社会委員会が声明を出しています。もし、この検察庁検事長の定年延長を閣議で決定した改正案がそのまま通ってしまえば、私たちの国が戦後曲なりにも形作ってきた民主主義、三権分立がなし崩しにされかねません。その危機意識を多くの人々が感じたのでしょう。もっとも政府はまだこの改正案を取り下げたわけではなく、今の国会では採決しないと言っているだけですから、まだまだ油断は出来ません。しかし、大きな風が吹いたことは確かです。これほどの政府に対する反発は、数年前の「秘密保護法」や「安保法制」の時以来ではないかと思います。私は、この度の大きな風、民主主義を守り抜くのだという大きなうねりは、聖霊が人々に吹き付けたのではないかと、そんな気がするのです。私たち一人一人は大海の中のほんの一雫に過ぎませんが、聖霊がこの大海を吹き付けると、大きな波となり、うねりとなる。だから、私たちは諦めてはならないのです。「聖霊よ、来たり給え」「聖霊よ、この世界にまことの平和を来たらせ給え」と祈り続けたいと思います。

『ルカによる福音書』は、聖霊を待ち望んでいた弟子たちがエルサレムの神殿の境内で神をほめたたえていた、と結ばれています。それは、イエスさまが天に上げられる時、弟子たちを祝福しながら父なる神のみもとへ行かれたからです。私たちも今、それぞれの場で神をほめたたえています。イエスさまからの祝福を受けながら、神をほめたたえています。その讃美の声は、必ずや神の耳に届き、私たちには約束の聖霊が与えられるでありましょう。来週は「ペンテコステ(聖霊降臨祭)」です。皆で同じ会堂に集まることはまだ出来ませんが、主イエスの約束の言葉を信じ、神を讃美しながら、この1週間を過ごして参りましょう。


5月16日・17日の説教

2020年05月15日 | Good News
※コロナウィルス感染拡大のため5月31日まで礼拝が中止となりましたので説教原稿を配信します。札幌教会牧師 日笠山吉之

「主を愛する人は」(ヨハネによる福音書14章15〜21節)

イエスさまの告別説教が続いています。今日のテキストでは、「愛」と「掟」という言葉が枠となっています。14章15節「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。」21節「わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。」どちらの節にも「愛」と「掟」という言葉が使われています。ここでの「愛」とは、イエスさまに対する弟子たちの愛。「掟」は、イエスさまが弟子たちに与えてくださった掟を意味しています。

実はこの告別説教に入る直前に、イエスさまは既に「新しい掟」を弟子たちに与えておられます。13章34節「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」つまり「新しい掟」とは、互いに愛し合いなさいという「愛の掟」に他なりません。この「愛の掟」の根拠は、イエスさまご自身が弟子たちを愛されたから、然り、十字架の極みまで愛し抜かれたからです。こうしてイエスさまの測り知れない愛を知った者は、主イエスを愛するのと同じように、主が愛されたすべての人々をも愛するよう促されていくのです。同35節「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」。すなわち教会の宣教に当たってまず問われているのは、そこに集う者たちが互いに愛し合っているかどうか。教会が互いに愛し合う信仰共同体であるなら、それすなわちイエスの弟子であることの証しであり、それがやがて皆の知れ渡るところとなって、福音の宣教は自ずから進んでいくのだ、と主イエスは約束されているのです。

教会がどのようにしてキリストの福音を伝えていけば良いのか、伝道をすればいいのか、ということを私たちはいつも考えています。牧師も役員会もそのことにいつも頭を悩ませ、教会としての宣教方策を立て、伝道方法について熱心に話し合います。それらはもちろん大切なことです。しかし、イエスさまが私たちに対して望んでおられる宣教方策、伝道方法というのは、もっとシンプルです。それは「互いに愛し合うこと」。ただ、それだけ!「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」。イエスさまは、確信を持ってそのように言われるのです。逆に言えば、教会に集う兄弟姉妹同士の中に愛がなければ、いくら熱心に宣教や伝道をしても無駄だ、ということです。このイエスさまの御言葉は、私たちが宣教や伝道について考える際に、いつも忘れてはならないことでしょう。なぜなら福音の宣教や伝道は、私たちが行うことではなく、主ご自身がなされる業だからです。私たちはみな主が用いられる器、土の器に過ぎない。それゆえ自らガラスの器になって他の器を見下したり、傷つけ合ったりしていては、いつまでたっても主が用いてくださらないのです。

今日イエスさまが伝えようとしておられるもう一つのメッセージは、「別の弁護者」の派遣です。それは、この世が見ようとも知ろうともしない「真理の霊」とも呼ばれていますが、私たちはそれが「聖霊」であることを知っています。イエスさまが十字架で死なれ、復活し、そして父なる神のみもとへ帰られた後、この世を裁くために再び戻って来られるその日まで、私たちと一緒にいてくださるのが、この「聖霊」です。聖霊は、私たちを力づけ、慰め、励まし、真理の道に導くために与えられるいわば私たちの人生の同伴者です。私たちが決してみなしごになることがないようにと、イエスさまは父なる神に願って、聖霊を送る約束をしてくださったのです。

この聖霊派遣の約束が果たされたのが、『使徒言行録』の2章に記された「ペンテコステ」の出来事です。『使徒言行録』を読み進めていくと、このペンテコステの出来事を機に、弟子たちがどれほど大胆にキリストを証しする者へと変えられたかがよく分かります。弟子たちのリーダーだったペトロが、まず先頭を切って力強く御言葉を語り、次々と奇跡を起こしていきます。そこには、十字架の道を歩まれたイエスさまとの関わりを人々から問われて3度も「知らない」と言い放ったあの臆病なペトロの姿は、もはや見られません。そのペトロが書き残したとされる手紙の中で、彼はこう言っています。本日の第2の日課です。「人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません。心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。それも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい。」(Ⅰペトロ3章15〜16節)主から約束の聖霊を与えられたペトロは、もはや誰をも恐ることなく、また誰からも心乱されることなく、キリストを主とあがめることが出来るようになったのです。「心の中で」そうすることはもちろんのこと、説明を要求するすべての人に対して、いつでも公然とキリストを証しし、弁明できるようになったペトロ。しかも、彼はあくまで穏やかに、相手に対する敬意を持って、正しい良心で弁明できるようになったのです。これが、聖霊の働きです。主から約束の聖霊を注がれた者は、みなペトロのように変えられるのです。そう、私たちも。聖霊の働きと助けによって、私たちはいつでも、イエスをキリストと証しすることが出来る。誰をも恐れずに、そして誰に対しても穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、キリスト・イエスを証しすることが出来るのです。

教会では、イエス・キリストの復活を祝う「イースター」と並んで、弟子たちに聖霊が注がれた「ペンテコステ」も大切な日として毎年過ごしています。今年の教会の暦では、5月31日が「ペンテコステ」です。しかし、コロナウィルスの感染拡大がまだ収まらないため、札幌教会はその日まで礼拝を中止することになりました。なんとも無念ですが、だからと言って私たちに主から約束の聖霊が与えられないというわけではありません。主イエスが約束してくださった御言葉を信じつつ、聖霊を待ち望みましょう。ペンテコステを経て、聖霊を豊かに注がれた皆さんに再会できることを楽しみにしています。




5月9日・10日の説教

2020年05月08日 | Good News
※コロナウィルス感染拡大のため5月10日まで礼拝が中止となりましたので説教原稿を配信します。札幌教会牧師 日笠山吉之

「主イエスを通って」(ヨハネによる福音書14章1〜14節)

イエスさまの弟子たちに対する最後の説教、いわゆる告別説教が始まりました。『ヨハネ福音書』において、この告別説教は14章から16章にかけて収録されています。続く17章は「イエスの祈り」という小見出しが付けられている通り、弟子たちに対する説教ではなく父なる神への祈りとなっています。共観福音書では「ゲッセマネの祈り」に相当する部分です。そして、18章に入るとイエスさまがユダの裏切りにあい、祭司長やファリサイ派たちの手に渡され、他の弟子たちは散り散りバラバラに逃げ出してしまう…受難物語が大きく動き出していくのです。イエスさまはこれから起こるすべてのことをご存知の上で、然り、弟子たちがみなイエスさまを見捨てて逃げ去ってしまうこともご存知の上で、この最後の告別説教を語られたのでした。そう考えると、イエスさまの弟子たちに対する測り知れない愛と赦し、恵みと祝福がここには語られていると思うのです。

「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」。弟子たちに対する告別説教を、イエスさまはこの御言葉で始められました。というのも、彼らはみな心が騒いでいたからです。直前の13章で、イエスさまは弟子たちと最後の食卓を囲みながら、ご自身が裏切られることを告げられ、これから行く所にあなたがたの誰もついて来ることが出来ない、と言われました。つまり、弟子たちはイエスさまから別離を言い渡されたのです。今までいつも一緒にいてくださったイエスさまが、いなくなってしまう!イエスさまが突然、自分たちの手の届かない所に行ってしまわれる!それを聞いた弟子たちは、さぞショックだったことでしょう。弟子たちのリーダーだったペトロは、思わず、「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます」と勇ましく答えたものの、「はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう」と言われてしまう始末。リーダーのペトロでさえそうなら、ましてや自分たちは?と弟子の誰もがそう思ったに違いありません。イエスさまから引き離されてしまう悲しみと不安で、弟子たちの心はたちまち張り裂けんばかりになってしまったのです。そんな弟子たちを慮って、イエスさまは開口一番に言われたのでした。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」と。「わたしと神とを信じるなら、あなたの心は穏やかになるはずだ」と。

イエスさまが告別説教の冒頭でこのように言われたのには、れっきとした理由があります。2節〜「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所にあなたがたもいることになる。」イエスさまが今しばらく弟子たちと別れなければならないのは、彼らが神のみもとで永遠に住む場所を用意しに行くためだ、とおっしゃるのです。そのために、イエスさまご自身は苦しみを受け、十字架へ赴かれます。しかし、それで終わりではない!十字架の死から復活し、神のみもとに行って、そこであなたたちが住むための場所を確保したら、また必ず戻って来る!あなたたちを迎えに来る!そうして、わたしのいる所にいつもあなたたちもいるようになるのだ!と、そうイエスさまは約束してくださっているのです。受難と十字架は、言うまでもなくそれを担われたイエスさまご自身にとっても、またそこから逃げた弟子たちにとっても、大いなる悲しみと痛みにほかなりませんが、神はその出来事を通して、弟子たちに主イエスとの復活の喜びを与え、主と共に永遠にいます平安を備えてくださるのです。

新型コロナウィルスの感染拡大のため、礼拝が再び中止となってはや1ヶ月になろうとしています。4月の第2週のイースター礼拝に与って以来、札幌教会では主日礼拝が出来ておりません。そのため私もあらかじめ週報や説教原稿を送って、皆さんがそれぞれの場所で礼拝ができるようにと心がけていますが、それでもお互いに顔を合わせて礼拝に集えない辛さや、一緒に声を合わせて讃美歌を歌い、祈りを捧げ、聖餐の交わりに与れない物足りなさは、如何ともしがたいものがあります。このような状況の中で、私たちの誰もが心騒いでいるのではないでしょうか?信仰が揺らいではいないでしょうか?信仰は、一人きりで保ち続けることは出来ません。兄弟姉妹同士がお互いに顔を合わせて祈りと讃美を共にし、主の体と血によって養われることによって、信仰は保持され養われていくものです。それが以前のように出来なくなった今、私たちの心は否応なくざわつき、不安や苛立ち、恐れや悲しみに駆られ、信仰が揺さぶられているのではないでしょうか?しかし、このような時であるからこそ、キリストが私たちに対して語り掛けられたこの告別説教の御言葉に耳を傾けましょう。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」キリストの御言葉に、従って歩むのです。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことが出来ない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」

私たちが神の御心を知るには、キリストが語られる御言葉に耳を傾けると同時に、その御言葉を信じることが必要です。「はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。」今、私たちは心の底から真剣に願い、祈りたいと思います。全世界を不安に陥れているこのウィルスが1日も早く収束しますように。このウィルスと戦っている人々に励ましと慰めが与えられますように。心騒いでいる私たちに平安が与えられますように。愛と寛容、思いやりと優しさ、勇気と力を失いつつあるすべての人々が、それらを取り戻すことが出来ますように。イエス・キリストの名によって真剣に願い、祈ろうではありませんか。私たちが、今よりも「もっと大きな業を行う」賜物を、神から与えていただくために。



 


5月2日・3日の説教

2020年05月02日 | Good News
※コロナウィルス感染拡大のため5月10日まで礼拝が中止となりましたので説教原稿を配信します。札幌教会牧師 日笠山吉之

「命を豊かに受けるため」(ヨハネによる福音書10章1〜10節)

主日礼拝が中止となって3週目を迎えました。信徒の方にはそれぞれ自宅で家庭礼拝が出来るようにと、あらかじめ週報や説教原稿を送っていますが、活用していただけているでしょうか?先日行われた役員会では、少々郵送料がかかっても週報と牧師の説教原稿は毎週送って欲しい!信徒はみな御言葉を待ち望んでいるのだから!と言われたので、私も主日に間に合うように皆さんのお手元に届けています。幸いなことに息子も学校が休校中なので、妻と一緒に発送作業を手伝ってくれています。我が家の汗が詰まった郵便物を大いに用いていただければ嬉しいです。

本日の第1の朗読『使徒言行録』2章42節以下は、初代教会時代の礼拝の様子を伝えています。キリストの復活後、弟子たちがどのようにして礼拝を守り始めたか?まだ礼拝を行うための場所がなかった頃のこと、彼らは「家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していた」とあります。これこそ、家庭礼拝のはしりでしょう。弟子たちはこの家庭礼拝を「毎日ひたすら心を一つにして」行っていました。それで彼らは「民衆全体から好意を寄せられ」「主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされた」。つまり真心と喜びをもって守られていた家庭礼拝が、周りの人々への証しとなり、伝道となったのです。私たちも今まさにこのような状況であるからこそ、それぞれの家庭での礼拝を、心静かに一人で守る礼拝を大切にしたいと思います。

さて、本日の福音はイエスさまがご自身を「羊の門」にたとえられた箇所です。7節〜「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」。羊たちが囲われている場所の門を出入りすることが出来るのは羊飼いですから、イエスさまはご自身を「羊飼い」にもたとえられています。1節〜「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。門から入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊を全て連れ出すと、先頭に立っていく。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである」。イエスさまはこのたとえ話しをファリサイ派の人々に話したのですが、彼らは理解できなかったようです。直前の9章でも、ファリサイ派はイエスさまが一人の盲人を癒された出来事を理解できませんでした。イエスさまの御言葉に耳を傾けて従ったのは癒された盲人の方で、「私たちは何でも見えている」と豪語していたファリサイ派ではありませんでした。聞く耳のない者には、主の御言葉はいつまでも届かないのです。

羊飼いと羊たちのイメージは、旧約聖書にもしばしば登場します。よく知られ親しまれている御言葉は『詩編』23編でしょう。「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく、わたしを正しい道に導かれる。死の陰の谷を行く時もわたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける。」たとえ死が迫ってきた時でもわたしは恐れない!あなたがわたしと共にいてくださるのですから!と、主への揺るがぬ信頼を告白するこの詩編は、葬儀の際にも朗読されます。私たちが青草の原に休む時も、憩いの水のほとりに佇む時も、死の陰の谷を歩まなければならないその時にも、主は必ず共にいてくださる。羊飼いである主は、いつもその杖と鞭で私たちを支え、力づけ、魂を生き返らせてくださる。ほかならぬ主イエスが、そのような真の良き羊飼いである、とそうおっしゃるのです。ヨハネ福音書10章11節〜「わたしは良い羊飼である。良い羊飼いは羊のために命を捨てる…わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。」

マルチン・ルターは、1527年にヨーロッパ全土に感染が拡大したペストの猛威がヴィッテンベルグの町を襲った時、フリードリヒ選帝侯の避難命令を拒否して、病人のケアのために町に残りました。その際に『死の災禍から逃れるべきか』という文章を残しています。先日、総会議長から出された文書の中にもありましたので紹介します。(なお議長が引用した出典は、神戸改革派神学校校長の吉田隆氏が「キリスト新聞」に寄稿されたもの)

(1)困難な時にこそ神の召しに忠実であれ
ルターはまず牧師たちに、また他者に仕える召しのある者たち(行政官や医療関係者、召使、子を持つ両親に至るまで)に対して、命の危険にさらされている時こそ持ち場を離れるべきではない、と戒めています。「人々が死んでいく時に最も必要とするのは、御言葉と聖礼典によって強く慰め、信仰によって死に打ち勝たせる霊的奉仕だからである」。その根拠として挙げているのが、今日の御言葉です。「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いではなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。」

(2)不必要なリスクを避けよ
他方ルターは、死の危険や災禍に対して拙速かつ向こう見ずな危険を冒すことについても戒めています。それは神を信頼することではなく、試みることである。むしろ理性を用いよ、と語ります。「私はまず神がお守りくださるようにと祈る。そうして後、私は消毒をし、空気を入れ替え、薬を用意し、それを用いる。行く必要のない場所や人を避けて、自ら感染したり他者に移さないようにする。私の不注意で、彼らの死を招かないためである。しかし、もし隣人が私を必要とするならば、私はどの場所も人を避けることなく、喜んで赴く。」

どちらもいかにもルターらしい言葉だと思います。不必要なリスクは避けなさい、と現実主義に立ちつつも、どこまでも神の召しに忠実であれ、とそう呼びかけています。私たちが神から与えられている「召し」とは何でしょう?一人一人それは違うことでしょう。いずれにしても、神からの召しに、神が私たち一人一人に呼びかける御声に、しっかりと耳を傾け、忠実に歩んでいきたいと思います。