※コロナウィルス感染拡大のため5月31日まで礼拝が中止となりましたので説教原稿を配信します。札幌教会牧師 日笠山吉之
「聖霊を受けなさい」(ヨハネ福音書20章19〜23節)
イースター以降、7週間の復活節を経て、本日ペンテコステを迎えました。ペンテコステとはギリシャ語で「50」の意味。ユダヤ教では「五旬祭」と呼ばれてきました。元来この祭は、パレスチナにおける初夏の収穫感謝祭であり、またモーセに率いられてこの地に入ったイスラエルの民の土地取得を記念する日であり、神から与えられた律法の授与を覚える日でもありました。それは、ユダヤ教の中で最も大切な祝日である「過越祭」から数えてちょうど「50日目」に当たります。一方、キリストが十字架にかけられたのは過越祭の最中でしたから、イエスさまは私たちの罪を取り除く神の小羊だと、信仰者たちは理解しました。そのキリストが復活して、弟子たちの前に再び現れ、しばし交わりの時をもたれ、父なる神のみもとに帰られ、弟子たちに約束の聖霊を注がれた!キリストの十字架の死と復活からちょうど50日目のこの日を、教会では「ペンテコステ」(聖霊降臨祭)と呼ぶようになったのです。ですから信仰者にとってこの日は、神から豊かに聖霊を注がれる恵みを覚える特別な日なのです。
この特別な主日、ペンテコステの礼拝に、皆さんと共に礼拝堂に集いたかったのですが、今年はそれが叶いませんでした。イースターまではなんとか一緒に集まることができましたので、ペンテコステには再び皆さんと一緒に!という切なる願いはありましたが、その楽しみは来週の「三位一体主日」までお預けです。今年のペンテコステは、それぞれの場で、神様に対する願いと思いと心を一つにして、聖霊を受けましょう。
さて、本日の福音は、復活の主イエスが弟子たちの前に現れて言われた最初の言葉です。「あなたがたに平和があるように」。イエス様を見捨て逃げ隠れていた弟子たちに、イエス様は開口一番「平和があるように」と祈られました。弟子たちと同様に私たちもいつも弱く、臆病で、不安に駆られていますが、そんな私たちに対してもイエスさまは「あなたがたに平和があるように」と、いつも祈ってくださっているのです。その上で、イエス様は弟子たちを福音の宣教のために遣わされました。「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」1度ならず、2度も3度もイエスさまを拒み、裏切った者たちを、主は赦し、今再び、主の弟子として用いてくださるというのです。しかもイエス様ご自身の息、聖霊を吹きかけて!「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でもあなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」イエスさまが罪人である私たちを赦し、弟子として再び福音宣教のために用いてくださるというのも驚きですが、そればかりでなく、私たちが聖霊を受けて他者のために罪の赦しを与える者とされるという約束も、まったく驚くべきメッセージではないでしょうか?つまり、キリスト者は、すべての人に対して赦しと愛を与えることができるのだ!聖霊によって、その賜物が付与される!というのですから。自分のような罪人が、そんなこと出来るわけない…と思い悩むことはありません。私たちをそのようにして用いられるのは、主ご自身。主が与えてくださる聖霊が、私たちを赦し、遣わし、そうして他者にも赦しを与えるメッセンジャーとして押し出されるのです。
それにしても、「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」という主イエスの御言葉は、私たちにとってずしりと重くはないでしょうか?イエスさまによって自分の罪を赦されておきながら、なかなか他者の罪を赦せない私たちです。そんな愛の足りない私たちに、主イエスは罪の赦しの権限を与えてくださると言うのですから。それでは、自分の気にいらない人の罪は赦さなくていいのか?その人の罪は赦されないままでいいのか?というと、そうではありません。むしろイエスさまは私たちに対して、誰の罪をも赦しなさい!あなた自身の罪も赦されたのだから、誰の罪をも赦しなさい!さもないと、その人は罪に囚われたまま、神の救いから漏れたままになってしまうのだから。それは、父なる神の御心ではない。あなたの罪が赦されたのは、そんなことのためではない。あなたは誰の罪をも赦すことが出来る。誰をも愛することが出来る筈だ。そのためにあなたは聖霊を注がれたのだ!と、イエスさまは言われたのだと思います。
このたびの新型コロナウィルスの感染拡大によって、私たちは誰もが不安や苛立ちがつのっています。ここ北海道では3ヶ月にも及んだ緊急事態宣言がひとまず解除されたものの、またいつ再び発令されるか分からない…そんな中で、私たちはつい誰かをターゲットにして、苛立ちや怒りをぶつけたくなります。日ごと政治家たちの無能さぶりをあげつらいたくもなるわけです。そうやって物申すことは、何も悪いことではないと思います。さもないと、この社会はますます酷くなっていくばかりですから。言うべきことはしっかりと声を上げて伝えていかなければ、社会は何も変わらない。神の国の完成は遠いままです。その一方で、イエスさまは私たちに互いに赦しあい、愛し合うことも求めておられます。どんなに虚勢を張った人でも、他人の言うことに耳を貸さない人でも、一皮むけばちっぽけな弱い人間に過ぎません。(そのことを本人が自覚しているかどうかが大切なのですが。それを自覚することを聖書では「悔い改め」と言います)少なくとも神様のみ前では、私たちは皆そうでありましょう。だとするなら、やはりお互いに言うべきことは言ったとしても、最後のところでは互いに赦し合わないと、共に生きていけない。私たちにとって、罪を赦されないまま生きていくことは、まさに拷問です。人は互いにその存在を認め合い、赦し合い、愛し合ってしか生きていくことはできないからです。私たちにそのような全き受容を、赦しを、愛を示してくださったのがキリストであり、今なお私たちにそれらを与えてくださるのが聖霊の働きなのです。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」。この主イエスの御言葉を身をもって伝える者となるために、日々、豊かに聖霊をいただきましょう。
「聖霊を受けなさい」(ヨハネ福音書20章19〜23節)
イースター以降、7週間の復活節を経て、本日ペンテコステを迎えました。ペンテコステとはギリシャ語で「50」の意味。ユダヤ教では「五旬祭」と呼ばれてきました。元来この祭は、パレスチナにおける初夏の収穫感謝祭であり、またモーセに率いられてこの地に入ったイスラエルの民の土地取得を記念する日であり、神から与えられた律法の授与を覚える日でもありました。それは、ユダヤ教の中で最も大切な祝日である「過越祭」から数えてちょうど「50日目」に当たります。一方、キリストが十字架にかけられたのは過越祭の最中でしたから、イエスさまは私たちの罪を取り除く神の小羊だと、信仰者たちは理解しました。そのキリストが復活して、弟子たちの前に再び現れ、しばし交わりの時をもたれ、父なる神のみもとに帰られ、弟子たちに約束の聖霊を注がれた!キリストの十字架の死と復活からちょうど50日目のこの日を、教会では「ペンテコステ」(聖霊降臨祭)と呼ぶようになったのです。ですから信仰者にとってこの日は、神から豊かに聖霊を注がれる恵みを覚える特別な日なのです。
この特別な主日、ペンテコステの礼拝に、皆さんと共に礼拝堂に集いたかったのですが、今年はそれが叶いませんでした。イースターまではなんとか一緒に集まることができましたので、ペンテコステには再び皆さんと一緒に!という切なる願いはありましたが、その楽しみは来週の「三位一体主日」までお預けです。今年のペンテコステは、それぞれの場で、神様に対する願いと思いと心を一つにして、聖霊を受けましょう。
さて、本日の福音は、復活の主イエスが弟子たちの前に現れて言われた最初の言葉です。「あなたがたに平和があるように」。イエス様を見捨て逃げ隠れていた弟子たちに、イエス様は開口一番「平和があるように」と祈られました。弟子たちと同様に私たちもいつも弱く、臆病で、不安に駆られていますが、そんな私たちに対してもイエスさまは「あなたがたに平和があるように」と、いつも祈ってくださっているのです。その上で、イエス様は弟子たちを福音の宣教のために遣わされました。「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」1度ならず、2度も3度もイエスさまを拒み、裏切った者たちを、主は赦し、今再び、主の弟子として用いてくださるというのです。しかもイエス様ご自身の息、聖霊を吹きかけて!「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でもあなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」イエスさまが罪人である私たちを赦し、弟子として再び福音宣教のために用いてくださるというのも驚きですが、そればかりでなく、私たちが聖霊を受けて他者のために罪の赦しを与える者とされるという約束も、まったく驚くべきメッセージではないでしょうか?つまり、キリスト者は、すべての人に対して赦しと愛を与えることができるのだ!聖霊によって、その賜物が付与される!というのですから。自分のような罪人が、そんなこと出来るわけない…と思い悩むことはありません。私たちをそのようにして用いられるのは、主ご自身。主が与えてくださる聖霊が、私たちを赦し、遣わし、そうして他者にも赦しを与えるメッセンジャーとして押し出されるのです。
それにしても、「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」という主イエスの御言葉は、私たちにとってずしりと重くはないでしょうか?イエスさまによって自分の罪を赦されておきながら、なかなか他者の罪を赦せない私たちです。そんな愛の足りない私たちに、主イエスは罪の赦しの権限を与えてくださると言うのですから。それでは、自分の気にいらない人の罪は赦さなくていいのか?その人の罪は赦されないままでいいのか?というと、そうではありません。むしろイエスさまは私たちに対して、誰の罪をも赦しなさい!あなた自身の罪も赦されたのだから、誰の罪をも赦しなさい!さもないと、その人は罪に囚われたまま、神の救いから漏れたままになってしまうのだから。それは、父なる神の御心ではない。あなたの罪が赦されたのは、そんなことのためではない。あなたは誰の罪をも赦すことが出来る。誰をも愛することが出来る筈だ。そのためにあなたは聖霊を注がれたのだ!と、イエスさまは言われたのだと思います。
このたびの新型コロナウィルスの感染拡大によって、私たちは誰もが不安や苛立ちがつのっています。ここ北海道では3ヶ月にも及んだ緊急事態宣言がひとまず解除されたものの、またいつ再び発令されるか分からない…そんな中で、私たちはつい誰かをターゲットにして、苛立ちや怒りをぶつけたくなります。日ごと政治家たちの無能さぶりをあげつらいたくもなるわけです。そうやって物申すことは、何も悪いことではないと思います。さもないと、この社会はますます酷くなっていくばかりですから。言うべきことはしっかりと声を上げて伝えていかなければ、社会は何も変わらない。神の国の完成は遠いままです。その一方で、イエスさまは私たちに互いに赦しあい、愛し合うことも求めておられます。どんなに虚勢を張った人でも、他人の言うことに耳を貸さない人でも、一皮むけばちっぽけな弱い人間に過ぎません。(そのことを本人が自覚しているかどうかが大切なのですが。それを自覚することを聖書では「悔い改め」と言います)少なくとも神様のみ前では、私たちは皆そうでありましょう。だとするなら、やはりお互いに言うべきことは言ったとしても、最後のところでは互いに赦し合わないと、共に生きていけない。私たちにとって、罪を赦されないまま生きていくことは、まさに拷問です。人は互いにその存在を認め合い、赦し合い、愛し合ってしか生きていくことはできないからです。私たちにそのような全き受容を、赦しを、愛を示してくださったのがキリストであり、今なお私たちにそれらを与えてくださるのが聖霊の働きなのです。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」。この主イエスの御言葉を身をもって伝える者となるために、日々、豊かに聖霊をいただきましょう。