Good News

その日の説教で語られる福音を、ショートメッセージにしました。毎週更新の予定です。

5月28日のGood News

2017年05月28日 | Good News
「キリストの証人として」(ルカによる福音書24章44〜53節)

教会の暦は、復活節から聖霊降臨祭へ移ろうとしています。今日は、「昇天主日」。イエスさまの昇天を覚える日です。『使徒言行録』の著者ルカによると、十字架の死から復活されたイエスさまは、御自分が生きていることを数多くの証拠をもって弟子たちに示すために、40日間にわたって彼らに現れ、神の国について話されたとあります。自分たちの裏切りや弱さや罪のゆえに、十字架で死んでしまったとばかり思っていたイエスさまが、復活して1ヶ月以上もの長い期間を共に過ごしてくださったのですから、弟子たちは大いに励まされたことでしょう。しかも、イエスさまは弟子たちに聖霊が与えられる約束までしてくださいました。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」イエスさまはそのように弟子たちに遺言を残して、天に上げられたとルカは『使徒言行録』1章8節に書き留めています。ペンテコステ(聖霊降臨)の出来事が、もうすぐそこまで近づいているのです。

『使徒言行録』の著者と同じルカが書いた福音書にも、イエスさまの昇天の有様が描かれています。そこでも、イエスさまは弟子たちに「父が約束されたもの」=「聖霊」をあなたがたに送る…と言い残された上で、天に上げられたことになっています。その時の弟子たちの様子は、不思議なことに喜びにあふれています。「彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。」(ルカ福音書24章52〜53節)愛するイエスさまとの正真正銘の別離の時が訪れたというのに、なぜ弟子たちは喜びにあふれていたのでしょう?もはや弟子たちはイエスさまをこの世で見ることも出来なければ、親しく話しをすることも、そして共に食卓を囲むこともできないというのに、なぜ彼らは喜びにあふれているのでしょう?それは、イエスさまがこれからもずっと祝福してくださることを彼らが確信できたからでしょう。なんとなれば、イエスさまは昇天される時、手を上げて弟子たちを祝福しながら、天に上げられたのですから。

愛する人との別れは、辛く悲しいものです。時に堪え難く、絶望の淵に落とされてしまうこともあります。しかし、信仰を抱いて召された方は、イエスさまと同じ道を通って、父なる神のみもとへ行かれる!そして、そこで私たちを待っていてくださる!イエスさまが弟子たちにされたように、私たちをたえず祝福しながら、愛する人も主のみもとから私たちを見守り、やがて私たちがそこへ来るのを待っておられる!そのことは、確かだと思うのです。イエスさまの昇天の出来事が、その恵みをあますことなく私たちに伝えてくれているのです。

5月21日のGood News

2017年05月24日 | Good News
「愛し、愛されて」(ヨハネによる福音書14章15〜21節)

イエスさまの告別説教の続きです。今日、イエスさまは、「聖霊」について教えられます。

聖霊とは、私たちの傍らに立ち、いつも私たちを弁護してくださる方。私たちを常に励まし、支えてくださる方です。弱くて小さな存在である私たちが、たとえ罪を犯してしまったときにも、キリストの十字架のゆえに罪を執りなし、私たちを悔い改めと導いてくれる霊、それが聖霊です。イエスさまは、言われました。「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからもあなたがたの内にいるからである。」聖霊は、確かに私たちの目には見えません。私たちが耳で聞いてその音を聴くことも、手で触ってその存在を確かめてみることもできません。それで、多くの人々は聖霊を見ようとも知ろうともしないのです。しかし、「あなたがたに聖霊を遣わそう」という主の御言葉を信じる者たちには、聖霊は必ず与えられるのです。ペンテコステの日の主の弟子たちがそうであったように、主イエスを求め、主イエスを信じるものたちには、聖霊が豊かに与えられる−なぜなら聖霊は、死から復活されたイエスさまそのものであり、父なる神御自身の息、命だからです。

本日の使徒書の日課である『ペトロの手紙』の著者は、教会の人々に書き送りました。「終わりに、皆心を一つにし、同情し合い、兄弟を愛し、憐れみ深く、謙虚になりなさい。悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。」あらゆるものの創り主である神を信じ、私たちの罪のあがない主である御子イエス・キリストを信じ、キリストが私たちのために遣わすと約束された聖霊を信じる教会に集う者たちは、みなその同じ信仰のゆえに、心を一つにして、愛しあい、互いに憐れみ深く、謙虚に仕え合うことが求められています。とはいえ、お互いに人間同志でしから、罪や悪に陥ってしまうこともあるでしょう。それでも、悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはならない!むしろ、祝福もって返す。相手のために、祝福を祈る。そうして、互いに祝福を受け継いでいく…それが、教会に期待されていることです。なぜなら、教会とは神の祝福が注がれる所、愛なるキリストが共におられる所だからです。主に深く限りなく愛されているがゆえに、主を愛し、人を愛する。主から豊かな祝福を受けているがゆえに、人にも祝福を分かち、主を賛美する。そのような祝福と愛の絶え間ない喜ばしい交換がなされる群として、私たちの教会がこれからも歩んでいけますように。

5月14日のGood News

2017年05月14日 | Good News
「その道を知る」(ヨハネによる福音書14章1〜14節)

イエスさまが十字架にかかる前に弟子たちに話された最後の説教です。イエスさまは、「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」と話し始められました。それは、弟子たちが動揺していたからです。今やはっきりとご自分の受難ついて語られたイエスさまを見て弟子たちが動揺したのは、当然のことです。誰しも自分の愛する人が突然別れを告げ、目の前からいなくなってしまったら、心がざわざわと騒ぎ、どうしたら良いか分からなくなってしまうでしょう。弟子たちにとって、イエスさまは誰よりも愛するお方でした。なぜなら、何のとりえもなかった彼らをイエスさまはこよなく愛され、「わたしについて来なさい」と声をかけてくださったからです。弟子たちは、このお方こそ、まことの愛と真理と命に満ちた方だ!と信じて、今まで従ってきたのでした。

動揺する弟子たちを前にして、イエスさまは話しを続けられます。「わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」イエスさまがこれから歩まれる道について、弟子たちは確かに聞かされましたが、認めたくはありません。イエスさまには、離れることなく、ずっとそばにいて欲しいからです。それで、弟子の一人であるトマスが正直にその思いを吐露しました。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか」と。本当は、弟子たちには分かっていたのです。イエスさまがこれから歩まれる道を−人々の罪のあがないのためにイエスさまが担って歩まれる十字架の道を。でも、その道をイエスさまには歩いて欲しくなかった…。

そんな弟子たちに、イエスさまはとうとうはっきりと言われました。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」。イエスさまがこれから歩まれる道こそが、父なる神に至る唯一の道。その道は、確かに平坦で歩きやすい道ではありません。その道の途上で、イエスさまは茨をかぶせられ、石を投げつけられ、ついには十字架に架けられることになるからです。しかし、イエスさまがその道を歩み通されることによって初めて、人々に真の救いと、赦しと、永遠の命が与えられる!だから、イエスさまはその道を歩むことにされたのです。試練と受難に満ちた十字架の道を−やがて、復活へと繋がるその道を。

私たちは、イエスさまを通してその道を知らされました。ですから、私たちもまたその道を歩くことができます。それは、何も難しいことではありません。なぜなら、イエスさまによってその道は既に開かれているのですから。「主イエスの道を 歩こう まっすぐに。真理の道を 歩こう 迷わずに。主イエスは道です 真理です 命です。命の道を 歩こう 終わりまで。」<こどもさんびか120番> 

5月7日のGood News

2017年05月12日 | Good News
「ただ一人の羊飼い」(ヨハネによる福音書10章1〜16節)

本日の福音は、イエスさまがご自身を「羊の門」に、また「羊飼い」にたとえられたお話しです。当時、羊たちを守る門番の務めを担っていたのは羊飼い自身だったので、両者は同じ意味で使われています。古代のパレスチナ地方では、羊の所有者は村の郊外に共同の羊小屋をもっていました。羊たちは、昼間は羊飼いに連れ出されて、牧草を食みに出掛けますが、夜になると羊小屋に帰って来て、そこに収容されます。夜気にあたらないように、また野獣から襲われないようにするためです。羊小屋は、周りを石や茨の木で囲まれていましたが、だからと言ってそれだけで万全というわけではありませんでした。野獣は時として囲いを越えて侵入してくることもありましたし、また盗人が夜にこっそり羊を盗むに来ることもあったからです。ですから、囲いの出入り口に当たる門のところでは、羊飼いたちが交替で見張りをしながら、寝ずの番をしていました。つまり、羊飼い自身が門の役目を果たしていたわけです。やがて朝になると、他の羊飼いがやって来て、自分の羊を群の中から呼び出して、牧草地や連れ出していく…そのように、羊たちにとっての良き門番であり、かつ良き羊飼いこそ、イエスさまご自身だとおっしゃるのです。

イエスさまは、ただの羊飼いでもなければ、単なる雇い人でもありません。イエスさまは「良き羊飼い」です。羊飼いと一言で言っても、おそらくいろんな羊飼いがいるでしょう。雇い人同然、自分に危険が迫って来たら、羊を置き去りにして逃げてしまう羊飼いもいるに違いありません。しかし、イエスさまは「良き羊飼い」です。いざとなったら、羊のために「命を捨てる」覚悟をもった羊飼いです。事実、イエスさまはわたしたちかよわき羊のために−放っておけば、すぐに群から離れてしまって、自分勝手に彷徨い始めるそんな私たちのために−命を捨ててくださいました。私たちをサタンの攻撃から守り、罪から救い出すために。

イエスさまは、私たちの魂の監督者であり、また牧者です。私たちの罪を担うために十字架に架かられたキリストは、死に打ち勝ち、復活して、今も私たちと共におられます。キリストは、私たちのただ一人の羊飼いとして、まことの良き羊飼いとして、私たちを日々、青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる−そうして、私たちを主の御名にふさわしい、ただしい道に導いてくださるのです。然り、私たちが主の道から外れそうになった時には鞭を与え、また私たちがつまずき転びそうになった時には杖となって支え、力づけてくださる!それゆえ、私たちはキリストと共にあって、キリストと共に歩み、キリストのもとに帰る−そうして生涯、キリストのもとにとどまり続けるのです。私たちの唯一の主、ただ一人の良き羊飼いであるイエス・キリストのもとに。