パンの仏道日記

仏道の思いを自由気ままに、勝手に記す。
時事問題を考える。市民運動を推進する。

終戦の日

2009-08-15 23:55:12 | 宗教
今日は、終戦の日。
首相、閣僚の靖国神社への参拝が気になるところだ。
ネットニュースを見てみると、
麻生内閣の閣僚では野田聖子消費者行政担当相が参拝したようだ。麻生首相は参拝せず、千鳥ケ淵戦没者墓苑を訪れて献花した模様。

日本の首相、閣僚が、千鳥ケ淵戦没者墓苑に慰霊に訪れるのは、よいだろうと思う。
首相、閣僚が、国家神道の象徴である靖国神社に参拝することは、国家神道の神社に参拝することと同じである。

靖国神社にまつられている英霊は、国のために尊い命を捧げた人たちであり、首相が英霊を参拝することは当然の務めだという、もっともらしい主張があるが、はたしてそうだろうか。国家神道そのものが持つ問題を考えれば、そのような単純なものではないだろう。そのような主張が国家神道の考えそのものであるからだ。

今日、行われた戦没者追悼式の、麻生首相の式辞は以下のようだ。
「 天皇、皇后両陛下のご臨席をかたじけなくし、戦没者のご遺族及び各界代表多数のご列席を得て、全国戦没者追悼式をここに挙行いたします。


 先の大戦では、300万余の方々が、祖国を思い、愛する家族を案じつつ、亡くなられました。戦場に倒れ、戦禍に遭われ、あるいは戦後、遠い異境の地において亡くなられました。また、我が国は、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えております。国民を代表して、深い反省とともに、犠牲となられた方々に、謹んで哀悼の意を表します。

 終戦から64年の歳月が過ぎ去りましたが、今日の日本の平和と繁栄は、戦争によって、命を落とされた方々の尊い犠牲と、戦後の国民の、たゆまぬ努力の上に築かれております。

 世界中の国々や各地域との友好関係が、戦後の日本の安定を支えていることも、忘れてはなりません。私たちは、過去を謙虚に振り返り、悲惨な戦争の教訓を風化させることなく、次の世代に継承していかなければなりません。

 本日、ここに、我が国は、不戦の誓いを新たにし、世界の恒久平和の確立に向けて、積極的に貢献していくことを誓います。国際平和を誠実に希求する国家として、世界から一層高い信頼を得られるよう、全力を尽くしてまいります。

 戦没者の御霊の安らかならんことを、そしてご遺族の皆様のご健勝をお祈りして、式辞とさせていただきます。」

これについて、国民のほとんどは、ほとんど違和感がないだろう。
ただ、先の「今日の日本の平和と繁栄は、戦争によって、命を落とされた方々の尊い犠牲」ということばに違和感を持つ人もいるだろう。
「尊い犠牲」とは何だろうか。おそらく、国のために尊い命を捧げた人たちの意味であるだろう。その国とは、国家神道に基づく国家である。
私はそれを尊いとは思わない。悲惨な犠牲となったと思う。
その犠牲を顕彰し、その犠牲者を英霊とし、まつっているのが靖国神社である。
その犠牲を追悼、慰霊するのではなく、顕彰しているから、問題なのだ。信教の自由であるから、それを一宗教団体がそうするのは自由だが、国家が関与するのは、政教分離の問題もあるが、国家神道の復活につながるからこそ、問題なのだ。

戦争を美化する人たちはこの国の国民のほとんどにはいないだろう。
国家神道は過去、国家の上層部の人たちの手によるものであったのが、国民の次第に浸透して、国民から支持され、大きな力を持つものとなった。国民も戦争の加担者となった面もあるという。この国家神道の危険な側面を見過ごしてはならないだろう。これは、他の多くの宗教にもあることたが。

心理学的には、自我肥大と影の否認という問題が当てはまるだろう。
高く舞い上がった自我は、自身の罪を決して認めようとはしない。傷つきやすい自我、過大な自信、自己への賞賛の要求、人への見下し、共感性の欠如、人を支配し、物として扱う、ちょっとしたことで、過度な攻撃性をみせる、など、自己愛的傾向を持つ人格の特徴を心理学はいっている。自我肥大は影の肥大を生み出すという。それははけ口を求めて、時に、破壊的な力となって現れるという。
ユングは、ドイツのナチスをヴォーダンの破壊的な現れであるといっている。ヴォーダンとは、ゲルマンの主神で、ドイツ地域ではこの名で呼ばれ、風や死を司り、暴風雨の夜に声をたてて疾走する霊たちや、稲妻や雷の霊を支配する神。ナチス、ヒトラーをドイツ国民が熱狂的に支持した点を見逃してはならないだろう。

心理学の知見に学び、われわれが、そのような危険に向かわないように、自ら、常にチェックしていくことが大事ではないかと思う。

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