今日は、何となく思い立ち、東京都慰霊堂に行ってみた。はじめてである。
東京都慰霊堂 本堂
講堂内部
関東大震災 朝鮮人犠牲者 追悼碑
『 ・・・余震の続くなか辛うじて業火を逃れた人々は、飢渇にあえぎながら極度の疲労と不安に陥っていた。交通、通信が一切途絶し的確な情報も伝わらない混乱のなかで、さまざまな流言が飛び交い、社会不安はいやが上にも高まった。流言は警視庁の記録によれば「富士山爆発」「大津波襲来」など地震関連のものから、間もなく「社会主義者及び朝鮮人の放火多し」とか「不逞朝鮮人来襲」などその内容は一変した。「朝鮮人数十人門前仲町方面に来襲」「朝鮮人などが爆弾で放火、毒物散布」とか「清澄庭園に毒物投入、魚類多量死」さらに「朝鮮人数百人侵入、強盗、強姦、殺りく」など事実無根の流言に惑わされ、人びとはこれを真に受けて恐れおののいた。
こうした流言の発生源については、官憲当局が特定の予断に基づいて流したものとする一方、朝鮮人に対する差別意識と偏見による自然発生であるとするなど諸説があって、真相は明らかではないが、新たな恐怖が恐怖を呼んで、人びとは異常な興奮状態に導かれていった。軍隊や警察ばかりでなく、在郷軍人・青年団などを中心に各地区で結成された自警団の民衆までが凶器を携えて「朝鮮人狩り」に奔走する事態となった。この結果、多数の朝鮮人が殺害された。その数は正確には知りえないが、ニ七〇〇余名とも推定六四〇〇余人に上がるとの調査もある。当局は、事件に関する報道を一〇月ニ〇日まで禁止した。 ・・・ 』(江東区史 中巻 江東区 平成九年 より)http://www5d.biglobe.ne.jp/~kabataf/kantoujisin_isibumi/tokyo_sumida/kantousumida1.htmより。
石碑には以下の文が刻まれている。
「1923年9月発生した関東大震災の混乱のなかで、あやまった策動と流言蜚語のため6千余名にのぼる朝鮮人が尊い生命を奪われました。
私たちは、震災50周年をむかえ、朝鮮人犠牲者を心から追悼します。
この事件の真実を識ることは不幸な歴史をくりかえさず、民族差別を無くし、人権を尊重し、善隣友好と平和の大道を拓く礎となると信じます。
思想、信条の相違を越えて、この碑の建設に寄せられた日本人の誠意と献身が、日本と朝鮮両民族の永遠の親善の力となることを期待します。
1973年9月
関東大震災朝鮮人犠牲者追悼行事実行委員会」 http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/ireidou.htmより。
東京都慰霊堂内部に掛けられていた絵画 http://www.kmine.sakura.ne.jp/shinsai/shinsai.htmより。
『ウィキペディア(Wikipedia)』より。以下。
■■
東京都慰霊堂(とうきょうと いれいどう)は東京都墨田区横網の横網町公園内にある慰霊施設。1930年(昭和5年)に関東大震災の身元不明の遺骨を納め、死亡者の霊を祀る震災記念堂(しんさい きねんどう)として創建され、1948年(昭和23年)より東京大空襲の身元不明の遺骨を納め、死亡者の霊を合祀して、1951年(昭和26年)に現在の姿となった。東京都の施設であるが、仏教各宗により祭祀されている。
沿革と概要
東京都慰霊堂がある横網町公園は元陸軍被服廠があった場所である。この地にあった被服廠は大正8年に赤羽に移転し、その後公園予定地として更地になっていた。1923年(大正12年)9月1日、関東大震災が起きると、この場所は多くの罹災者の避難場所になった。多くの家財道具が持ち込まれ、立錐の余地もないほどであったが、周囲からの火災が家財道具に燃え移り、また火災旋風が起こったため、この地だけで(推定)東京市全体の死亡者の半数以上の3万8000人程度が死亡したとされる。
震災後、死亡者を慰霊し、このような災害が二度と起こらないように祈念するための慰霊堂を建てることになり、官民協力のもと、広く浄財を求められた。東京震災記念事業協会によって1930年9月に「震災記念堂」として創建され、東京市に寄付された。身元不明の遺骨が納骨され、1931年(昭和6年)には震災復興記念館が建てられた。
その後、第二次世界大戦における1944年・1945年(昭和19年・20年)の一連の空襲により、再び東京は焦土と化し、関東大震災を超える7万7000人あまりが死亡した。1948年より、各地に仮埋葬された身元不明の遺骨を納骨堂に改葬し、戦災者整葬事業が完了した1951年に「東京都慰霊堂」と改称した。
本堂は伊東忠太設計によるもので、寺院風の建築となっている。200坪の講堂を持ち、三重塔がその奥にある。三重塔は高さ約41mで、基部は納骨堂となっている。講堂には祭壇があり、震災死亡者、空襲死亡者の霊をそれぞれ合祀した巨大な位牌が2基祀られている。
■■
東京大空襲 焼け焦げた遺体の山。死者・行方不明者は8万人(民間の調査では10万人)以上といわれている。(石川光陽撮影)『ウィキペディア(Wikipedia)』より。
東京都慰霊堂祭壇 http://www.kasen.net/disaster/19230901/ireidou/index.htmより。
祭壇にて、ローソクと線香を捧げ、静かに合掌する。
心静かにお休みになっておられるでしょうか。二度とこのような悲劇が起きないように。いま、世の中が右傾化し、危ない方向へ向かっています。どうか、そのような過ちをわれわれが犯さないようにお守りください。
しずかに、堂を出る。何か、「またお出でなさい。」とお誘いくださっているように感じた。「また来よう」と思った。
7月20日はネットで調べたら、海の記念日とある。
「1876年7月20日に明治天皇が東北地方の巡幸を終えて、軍艦ではなく灯台巡視の汽船によって航海して横浜港に帰港したことに由来し、1941年に制定。
その後1996年に「海の日」と名前を変えて国民の祝日になった。
祝日法の改正により、2003年から「海の日」は7月の第3月曜日となっている。」
「国民の祝日に関する法律(祝日法)では「海の恩恵に感謝するとともに、海洋国日本の繁栄を願う」ことを趣旨としている。国土交通省の文書の記述などによると「世界の国々の中で『海の日』を国民の祝日としている国は唯一日本だけ」という。」
『ウィキペディア(Wikipedia)』より。
海ね~。海水浴は大好きだけど…。
明治天皇、汽船にのって航海。「世界の国々の中で『海の日』を国民の祝日としている国は唯一日本だけ」
ふ~ん。
そうそう、ソマリア沖へ海上自衛隊が行っていますね。海賊対処法が最近成立した。
東京都慰霊堂の霊は何と思っているのだろうか。
東京都慰霊堂 本堂
講堂内部
関東大震災 朝鮮人犠牲者 追悼碑
『 ・・・余震の続くなか辛うじて業火を逃れた人々は、飢渇にあえぎながら極度の疲労と不安に陥っていた。交通、通信が一切途絶し的確な情報も伝わらない混乱のなかで、さまざまな流言が飛び交い、社会不安はいやが上にも高まった。流言は警視庁の記録によれば「富士山爆発」「大津波襲来」など地震関連のものから、間もなく「社会主義者及び朝鮮人の放火多し」とか「不逞朝鮮人来襲」などその内容は一変した。「朝鮮人数十人門前仲町方面に来襲」「朝鮮人などが爆弾で放火、毒物散布」とか「清澄庭園に毒物投入、魚類多量死」さらに「朝鮮人数百人侵入、強盗、強姦、殺りく」など事実無根の流言に惑わされ、人びとはこれを真に受けて恐れおののいた。
こうした流言の発生源については、官憲当局が特定の予断に基づいて流したものとする一方、朝鮮人に対する差別意識と偏見による自然発生であるとするなど諸説があって、真相は明らかではないが、新たな恐怖が恐怖を呼んで、人びとは異常な興奮状態に導かれていった。軍隊や警察ばかりでなく、在郷軍人・青年団などを中心に各地区で結成された自警団の民衆までが凶器を携えて「朝鮮人狩り」に奔走する事態となった。この結果、多数の朝鮮人が殺害された。その数は正確には知りえないが、ニ七〇〇余名とも推定六四〇〇余人に上がるとの調査もある。当局は、事件に関する報道を一〇月ニ〇日まで禁止した。 ・・・ 』(江東区史 中巻 江東区 平成九年 より)http://www5d.biglobe.ne.jp/~kabataf/kantoujisin_isibumi/tokyo_sumida/kantousumida1.htmより。
石碑には以下の文が刻まれている。
「1923年9月発生した関東大震災の混乱のなかで、あやまった策動と流言蜚語のため6千余名にのぼる朝鮮人が尊い生命を奪われました。
私たちは、震災50周年をむかえ、朝鮮人犠牲者を心から追悼します。
この事件の真実を識ることは不幸な歴史をくりかえさず、民族差別を無くし、人権を尊重し、善隣友好と平和の大道を拓く礎となると信じます。
思想、信条の相違を越えて、この碑の建設に寄せられた日本人の誠意と献身が、日本と朝鮮両民族の永遠の親善の力となることを期待します。
1973年9月
関東大震災朝鮮人犠牲者追悼行事実行委員会」 http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/ireidou.htmより。
東京都慰霊堂内部に掛けられていた絵画 http://www.kmine.sakura.ne.jp/shinsai/shinsai.htmより。
『ウィキペディア(Wikipedia)』より。以下。
■■
東京都慰霊堂(とうきょうと いれいどう)は東京都墨田区横網の横網町公園内にある慰霊施設。1930年(昭和5年)に関東大震災の身元不明の遺骨を納め、死亡者の霊を祀る震災記念堂(しんさい きねんどう)として創建され、1948年(昭和23年)より東京大空襲の身元不明の遺骨を納め、死亡者の霊を合祀して、1951年(昭和26年)に現在の姿となった。東京都の施設であるが、仏教各宗により祭祀されている。
沿革と概要
東京都慰霊堂がある横網町公園は元陸軍被服廠があった場所である。この地にあった被服廠は大正8年に赤羽に移転し、その後公園予定地として更地になっていた。1923年(大正12年)9月1日、関東大震災が起きると、この場所は多くの罹災者の避難場所になった。多くの家財道具が持ち込まれ、立錐の余地もないほどであったが、周囲からの火災が家財道具に燃え移り、また火災旋風が起こったため、この地だけで(推定)東京市全体の死亡者の半数以上の3万8000人程度が死亡したとされる。
震災後、死亡者を慰霊し、このような災害が二度と起こらないように祈念するための慰霊堂を建てることになり、官民協力のもと、広く浄財を求められた。東京震災記念事業協会によって1930年9月に「震災記念堂」として創建され、東京市に寄付された。身元不明の遺骨が納骨され、1931年(昭和6年)には震災復興記念館が建てられた。
その後、第二次世界大戦における1944年・1945年(昭和19年・20年)の一連の空襲により、再び東京は焦土と化し、関東大震災を超える7万7000人あまりが死亡した。1948年より、各地に仮埋葬された身元不明の遺骨を納骨堂に改葬し、戦災者整葬事業が完了した1951年に「東京都慰霊堂」と改称した。
本堂は伊東忠太設計によるもので、寺院風の建築となっている。200坪の講堂を持ち、三重塔がその奥にある。三重塔は高さ約41mで、基部は納骨堂となっている。講堂には祭壇があり、震災死亡者、空襲死亡者の霊をそれぞれ合祀した巨大な位牌が2基祀られている。
■■
東京大空襲 焼け焦げた遺体の山。死者・行方不明者は8万人(民間の調査では10万人)以上といわれている。(石川光陽撮影)『ウィキペディア(Wikipedia)』より。
東京都慰霊堂祭壇 http://www.kasen.net/disaster/19230901/ireidou/index.htmより。
祭壇にて、ローソクと線香を捧げ、静かに合掌する。
心静かにお休みになっておられるでしょうか。二度とこのような悲劇が起きないように。いま、世の中が右傾化し、危ない方向へ向かっています。どうか、そのような過ちをわれわれが犯さないようにお守りください。
しずかに、堂を出る。何か、「またお出でなさい。」とお誘いくださっているように感じた。「また来よう」と思った。
7月20日はネットで調べたら、海の記念日とある。
「1876年7月20日に明治天皇が東北地方の巡幸を終えて、軍艦ではなく灯台巡視の汽船によって航海して横浜港に帰港したことに由来し、1941年に制定。
その後1996年に「海の日」と名前を変えて国民の祝日になった。
祝日法の改正により、2003年から「海の日」は7月の第3月曜日となっている。」
「国民の祝日に関する法律(祝日法)では「海の恩恵に感謝するとともに、海洋国日本の繁栄を願う」ことを趣旨としている。国土交通省の文書の記述などによると「世界の国々の中で『海の日』を国民の祝日としている国は唯一日本だけ」という。」
『ウィキペディア(Wikipedia)』より。
海ね~。海水浴は大好きだけど…。
明治天皇、汽船にのって航海。「世界の国々の中で『海の日』を国民の祝日としている国は唯一日本だけ」
ふ~ん。
そうそう、ソマリア沖へ海上自衛隊が行っていますね。海賊対処法が最近成立した。
東京都慰霊堂の霊は何と思っているのだろうか。