パンの仏道日記

仏道の思いを自由気ままに、勝手に記す。
時事問題を考える。市民運動を推進する。

正法正論

2009-08-17 03:24:52 | 仏教
正法正論

 
『涅槃経』の後の成立である『金光明経』では、護法の四天王と、護法の女神が登場し、その功徳を説いています。その女神の存在感は、四天王を凌ぐほどです。護法には女神の働きが重要であることを教えています。では、悪についてはどうなのでしょうか。

『金光明経』正法正論品では、国王が道徳によって治めず、悪を放置しているのであれば、諸天はこの国から去り、さまざまな災いがこの国に生じるだろうと説いています。このことから、この経典も道徳を重視していることがわかります。

では、『涅槃経』の後を受けて、厳しい理想主義であるのでしょうか。おそらく、そうではないようです。それは女神の登場すること事態がそれを語っています。また、『金光明経』正法正論品では、堅牢地神という女神正法正論の重要性を知っており(仏伝によると、堅牢地神は釈尊成道のとき、魔王を下すために、それまでの善業を証明するために、地神を呼び、地神がそれを証明して、魔は退散するとあります。地神は善行を証明する役割があるのです。そのために、地神は善行を知るものとして、正法正論を知っているということになるのでしょう)、それが国の安泰と王の長期の君臨には必要であるから、釈尊に対して、堅牢地神である私とさまざまな国王のために、正法正論を説いてくださいとお願いしています。
大地の女神を無視したり、衰退させたりするような道徳ではなく、大地の女神が喜ぶ道徳の実践をこの地神は求めているのです。いかに道徳的であるとしても、大地の女神を苦しめるようなものを望んでいないのです。そのような道徳があれば、国土は実り豊かとなり、安泰となるというのです。女神を無視した政治は、国土を衰退させることにもなりかねないことをあらわしているでしょう。あまりに善くなろうとすることに、ブレーキをかけているのが、この経典の女神の役割のひとつです。

 正法正論が行われなくなるとき、さまざまな災いが起こってくるということは、女神を無視した行動がさまざまな災いも当然含まれるでしょう。国の災いは、諸天が国から去ることから、生じるというのですから、諸天が国にいるように配慮し、諸天が喜ぶような実践をしていくことが国の繁栄につながるとこの経はいうのです。正法正論とは諸天が喜ぶあり方を説いたものを意味するでしょう。正法正論の正法をダンマと理解すると、見当違いとなってしまいます。法師となることばかりに熱中して、女神やそのほかのさまざまな神々が無視され、抑えられ、衰退させられると、それが後になって、災いとして現れてくるというのです。さまざまな神々を大事にしなければならないというのです。この経典は、『金光明経』を護持することが護法であるというのは、ダンマを体得し続けることばかりではなく、さまざまな神々も同じく大切にしていくあり方の実践を意味することになります。如来ばかりではなく、神々と関わっていくことが大事であると説いていることになるのです。
この経典は、現世利益を多く説いていることから、低俗に見做されることがあるようですが、それはこの経典に対する誤解に基づいているように思います。この経典は、自らを諸経の王というように、きわめて優れた経典であるように私には思えます。

(5年まえに書いたもの)

ダンマはがりが強調されてはならない。道徳・倫理が大切。それに基づいた政治が必要であると説く。女神を含む神々の登場は、魂の持つ豊かさを尊重しているのだと思う。戒律やダンマの専念ばかりに、魂の持つ豊かさを否定していしまう。人間性の否定につながっている。仏教は欲望の否定や禁欲などが大事であるという一般的な理解がいまだ世間に根強く広まっているが、この経典の説く立場からすれば、それは見当はずれのことになる。人間であることを否定しない。そのまま認めて、そこから、人のとるべき倫理・道徳の重要性を説いている。それによってこそ、社会は豊かになっていくのだという。ごく常識的なことを説いている。いまの仏教の偏りはかなり変だ。苦行や禁欲が偉いこととされているのは、その意味からいえは、おかしなこと。この傾向はいまもなお変わらない。変だ。もういい加減に、それをやめて、本質に立ち戻るべきだ。しっかりしろといいたい。

ダイモーンとヒトラー

2009-08-17 00:46:37 | 仏教
ダイモーンとヒトラー

ヒルマン著『魂のコード』には、「ヒトラーの習癖には彼が彼のダイモーンと一体化していた、ないし憑依されていたことの証拠を見いだせる。」
「どんぐりは、警告を与え、守護し相談にのり、導き、呼びかける天使であるばかりではない。どんぐりはまた、死に神のような力をふるう。一九四四年の暗殺未遂のおりにも、地下壕の最後の日々ですら、どんな状況でも恐れを知らぬと報じられたあのヒトラーを夜中に震え上がらせ、脅えさせたのはその力だ。」
また、ヒトラーの絶対に正しいという完全な確信はそれが要因となっているといいます。

 このことは、原始仏典のいう終地の絶対の確信と通じるものであることがわかります。宗教と狂気は紙一重であることがこのことからもいえるでしょう。それは両刃の剣ということになります。その自覚がないことは恐ろしいことであることがわかります。玉城康四郎のいう終地を実現し、ブッダのなったつもりが、ヒトラーと同じような誇大と絶対の確信を持ち、死神のような残虐性を顕わにし、人々に襲い掛かることは十分にありえることになるでしょう。世界平和のためと思い、行動することが、実は、世界を破滅へと導こうとしていることにもなりかねないということが考えられるでしょう。

 ヒルマンは悪魔主義を「ダイモーンのかかわりの失敗から生まれる。人はあたりまえの人間の限界を否定して、ダイモーンのもつビジョンを満たそうとやっきになる。―言い換えれば誇大妄想が生み出すのだ。

 この悪魔主義に陥ることを阻止するには、ヒルマンは「心の弱さとダイモーンの強さ、超越的な召命と召命を受けたパーソナリティの間のバランスを正すことに中心がなる。」「必要な心理的課題は「グロウ・ダウン」なのだ。
「グロウ・ダウン」とは人格の中心点をダイモーンのもつ単一眼的な自我中心性からあたりまえの人間性に移行させ、拡大に向かう超越への呼び声を、この世、この世界の要請へと着地させることだ。

 このことは、『十地経』の無生法忍を実現した者に対して、諸仏がまったき涅槃に入ることなく、まず三界を観察せよという指示や、『法華経』の終地を実現した舎利弗の誤りを竜女が正すことに通じるものです。

 自分自身を見失い、ダンマのもつビジョンを満たそうとする利他的な行動は、誇大妄想による行動であるということを意味するでしょう。それは如来を習うどころか、意図はないとしても、ヒトラーに習うことになってしまう可能性が十分あるでしょう。たとえ、極端な悪は行うことがないとしても、不適切な行動による害悪を撒き散らしながらも、それに気がつかない愚行を行うこと十分考えられるでしょう。何度も強調するように、自分自身を見失わないことがまず何よりも重要ということができるでしょう。

(5年まえに書いたもの)

不退心

2009-08-17 00:24:16 | 仏教
不退心

 『涅槃経』の説く不退心とは次のようであるといいます。それは玉城康四郎のいう終地の不退転の境地や、『涅槃経』以前の成立である大乗経典の不退転の境地と区別して述べられていると考えられます。

 「衆生のさまざまな苦を除いて、安楽を施すために、財物、身命を惜しむことなく捨てることができれば、そのものは、自ら、必ず無上正等覚に達するに定まっていることを知る。また、自らの身体を火によって焼き、大苦を受ける。そのとき、自らの心を叱りつけて次のように思う。この苦は地獄の苦の百千万分の一にも満たないほどである。それゆえ、軽苦といえる。もし、この軽苦を受けることをできないとすれば、どうして、よく地獄の苦の衆生を救うことができるのであろうか。また、頭目や手足、血肉を衆生に施し、釘をもって身体を打ち、巌に身を投じ、火の中に入る。このようなさまざまな苦を受けるといえども、心が退かず、動じないのであれば、自ら、必ず無上正等覚に達するに定まっていることを知る」といいます。

 つまり、『涅槃経』は本当の不退転ということはこのことをいうのであるといいます。このことは、衆生の救済に不退転であるともいえるでしょう。如来の大慈、菩薩の大慈というものは、衆生の救済に不退転であるといえるのでしょう。

 終地に達することができたとしても、『涅槃経』のいう不退転の境地とは全く違うことになります。終地と『涅槃経』の説く極愛一子地、不退転の境地は全く比較にならないほどのレベルが違っているということができるでしょう。

 不退心も極愛一子地の境地も、人間にはその実現は不可能と思えるものであり、現実離れしていると思えるものです。母性と父性の極みと思えるものがごく普通に生きているわれわれの現実に適用されることはほとんどありえないでしょう。しかし、このような常人離れしたことを除いて、父性と母性はわれわれが生きていくうえで、誰もが必要とされるものであることはいうまでもないことであるでしょう。特に、心理療法では、治療者にこの両者が要請されるといいます。心理療法家はそのために、厳しい訓練を受けて初めて身につけていくといいます。母性と父性を具えて、クライアントとともにするということは、厳しい訓練を経て、初めてできることなのでしょう。そのことは、素人の身勝手な善意で行えるものではないといっています。終地を実現すれば、利他などということはまったくありえないことですし、素人的な努力によって、心理療法家のそれを真似ようとしても無理なことでしょう。

(5年まえに書いたもの)

この不退心は狂気の沙汰としか思えない。人間離れしている。人間を超えている菩薩のみが可能であって、われわれには縁がないだろう。