正法正論
『涅槃経』の後の成立である『金光明経』では、護法の四天王と、護法の女神が登場し、その功徳を説いています。その女神の存在感は、四天王を凌ぐほどです。護法には女神の働きが重要であることを教えています。では、悪についてはどうなのでしょうか。
『金光明経』正法正論品では、国王が道徳によって治めず、悪を放置しているのであれば、諸天はこの国から去り、さまざまな災いがこの国に生じるだろうと説いています。このことから、この経典も道徳を重視していることがわかります。
では、『涅槃経』の後を受けて、厳しい理想主義であるのでしょうか。おそらく、そうではないようです。それは女神の登場すること事態がそれを語っています。また、『金光明経』正法正論品では、堅牢地神という女神が正法正論の重要性を知っており(仏伝によると、堅牢地神は釈尊成道のとき、魔王を下すために、それまでの善業を証明するために、地神を呼び、地神がそれを証明して、魔は退散するとあります。地神は善行を証明する役割があるのです。そのために、地神は善行を知るものとして、正法正論を知っているということになるのでしょう)、それが国の安泰と王の長期の君臨には必要であるから、釈尊に対して、堅牢地神である私とさまざまな国王のために、正法正論を説いてくださいとお願いしています。
大地の女神を無視したり、衰退させたりするような道徳ではなく、大地の女神が喜ぶ道徳の実践をこの地神は求めているのです。いかに道徳的であるとしても、大地の女神を苦しめるようなものを望んでいないのです。そのような道徳があれば、国土は実り豊かとなり、安泰となるというのです。女神を無視した政治は、国土を衰退させることにもなりかねないことをあらわしているでしょう。あまりに善くなろうとすることに、ブレーキをかけているのが、この経典の女神の役割のひとつです。
正法正論が行われなくなるとき、さまざまな災いが起こってくるということは、女神を無視した行動がさまざまな災いも当然含まれるでしょう。国の災いは、諸天が国から去ることから、生じるというのですから、諸天が国にいるように配慮し、諸天が喜ぶような実践をしていくことが国の繁栄につながるとこの経はいうのです。正法正論とは諸天が喜ぶあり方を説いたものを意味するでしょう。正法正論の正法をダンマと理解すると、見当違いとなってしまいます。法師となることばかりに熱中して、女神やそのほかのさまざまな神々が無視され、抑えられ、衰退させられると、それが後になって、災いとして現れてくるというのです。さまざまな神々を大事にしなければならないというのです。この経典は、『金光明経』を護持することが護法であるというのは、ダンマを体得し続けることばかりではなく、さまざまな神々も同じく大切にしていくあり方の実践を意味することになります。如来ばかりではなく、神々と関わっていくことが大事であると説いていることになるのです。
この経典は、現世利益を多く説いていることから、低俗に見做されることがあるようですが、それはこの経典に対する誤解に基づいているように思います。この経典は、自らを諸経の王というように、きわめて優れた経典であるように私には思えます。
(5年まえに書いたもの)
ダンマはがりが強調されてはならない。道徳・倫理が大切。それに基づいた政治が必要であると説く。女神を含む神々の登場は、魂の持つ豊かさを尊重しているのだと思う。戒律やダンマの専念ばかりに、魂の持つ豊かさを否定していしまう。人間性の否定につながっている。仏教は欲望の否定や禁欲などが大事であるという一般的な理解がいまだ世間に根強く広まっているが、この経典の説く立場からすれば、それは見当はずれのことになる。人間であることを否定しない。そのまま認めて、そこから、人のとるべき倫理・道徳の重要性を説いている。それによってこそ、社会は豊かになっていくのだという。ごく常識的なことを説いている。いまの仏教の偏りはかなり変だ。苦行や禁欲が偉いこととされているのは、その意味からいえは、おかしなこと。この傾向はいまもなお変わらない。変だ。もういい加減に、それをやめて、本質に立ち戻るべきだ。しっかりしろといいたい。
『涅槃経』の後の成立である『金光明経』では、護法の四天王と、護法の女神が登場し、その功徳を説いています。その女神の存在感は、四天王を凌ぐほどです。護法には女神の働きが重要であることを教えています。では、悪についてはどうなのでしょうか。
『金光明経』正法正論品では、国王が道徳によって治めず、悪を放置しているのであれば、諸天はこの国から去り、さまざまな災いがこの国に生じるだろうと説いています。このことから、この経典も道徳を重視していることがわかります。
では、『涅槃経』の後を受けて、厳しい理想主義であるのでしょうか。おそらく、そうではないようです。それは女神の登場すること事態がそれを語っています。また、『金光明経』正法正論品では、堅牢地神という女神が正法正論の重要性を知っており(仏伝によると、堅牢地神は釈尊成道のとき、魔王を下すために、それまでの善業を証明するために、地神を呼び、地神がそれを証明して、魔は退散するとあります。地神は善行を証明する役割があるのです。そのために、地神は善行を知るものとして、正法正論を知っているということになるのでしょう)、それが国の安泰と王の長期の君臨には必要であるから、釈尊に対して、堅牢地神である私とさまざまな国王のために、正法正論を説いてくださいとお願いしています。
大地の女神を無視したり、衰退させたりするような道徳ではなく、大地の女神が喜ぶ道徳の実践をこの地神は求めているのです。いかに道徳的であるとしても、大地の女神を苦しめるようなものを望んでいないのです。そのような道徳があれば、国土は実り豊かとなり、安泰となるというのです。女神を無視した政治は、国土を衰退させることにもなりかねないことをあらわしているでしょう。あまりに善くなろうとすることに、ブレーキをかけているのが、この経典の女神の役割のひとつです。
正法正論が行われなくなるとき、さまざまな災いが起こってくるということは、女神を無視した行動がさまざまな災いも当然含まれるでしょう。国の災いは、諸天が国から去ることから、生じるというのですから、諸天が国にいるように配慮し、諸天が喜ぶような実践をしていくことが国の繁栄につながるとこの経はいうのです。正法正論とは諸天が喜ぶあり方を説いたものを意味するでしょう。正法正論の正法をダンマと理解すると、見当違いとなってしまいます。法師となることばかりに熱中して、女神やそのほかのさまざまな神々が無視され、抑えられ、衰退させられると、それが後になって、災いとして現れてくるというのです。さまざまな神々を大事にしなければならないというのです。この経典は、『金光明経』を護持することが護法であるというのは、ダンマを体得し続けることばかりではなく、さまざまな神々も同じく大切にしていくあり方の実践を意味することになります。如来ばかりではなく、神々と関わっていくことが大事であると説いていることになるのです。
この経典は、現世利益を多く説いていることから、低俗に見做されることがあるようですが、それはこの経典に対する誤解に基づいているように思います。この経典は、自らを諸経の王というように、きわめて優れた経典であるように私には思えます。
(5年まえに書いたもの)
ダンマはがりが強調されてはならない。道徳・倫理が大切。それに基づいた政治が必要であると説く。女神を含む神々の登場は、魂の持つ豊かさを尊重しているのだと思う。戒律やダンマの専念ばかりに、魂の持つ豊かさを否定していしまう。人間性の否定につながっている。仏教は欲望の否定や禁欲などが大事であるという一般的な理解がいまだ世間に根強く広まっているが、この経典の説く立場からすれば、それは見当はずれのことになる。人間であることを否定しない。そのまま認めて、そこから、人のとるべき倫理・道徳の重要性を説いている。それによってこそ、社会は豊かになっていくのだという。ごく常識的なことを説いている。いまの仏教の偏りはかなり変だ。苦行や禁欲が偉いこととされているのは、その意味からいえは、おかしなこと。この傾向はいまもなお変わらない。変だ。もういい加減に、それをやめて、本質に立ち戻るべきだ。しっかりしろといいたい。