イザヤ32:9-20
どきりとします。自分が恰も「正義」の王であるかのように錯覚していた者は、イザヤの突然の呼びかけを、心に刺さるものとして聞くでしょうか。それとも感じないのでしょうか。「安逸を貪る女たちよ」と攻めてきます。私は女ではないから、などと呑気なことを言っている場合ではありません。「安心しきった娘たちよ」との声も重なります。
それらを自分への声として確かに聞き受ける者は幸いです。あと「一年と少したつと」震えおののくことになる、と言います。あてにしていたブドウは収穫されません。美しい畑はもう何の命もなく、ただそこに横たわっているだけです。「茨とあざみ」が生い茂るだけの土地となり、宮殿もなく賑わいも消えてしまいました。
野生の獣がそこらをうろつくようになります。人の町は見事に消え失せてしまうのです。愚か者とならず者のせいです。そしてそれは、私のことです。私を空しくさせたのは、誰か他の人ではありません。社会のせいでもありません。安逸を貪っていたのは、ほかでもない私自身ではありませんか。安心しきっていたのは、この私ではありませんか。
いま必要なのは、悔い改めです。「腰に粗布をまと」うことであり、「胸を打って嘆」くことです。イザヤは預言者です。慰めの言葉を準備しています。「しかし、ついに」それは起こります。「高き所から/霊が私たちの上に注がれる」のです。イエスを見失った後、教会は霊を受けました。注がれる霊によって命を得たのでした。
イザヤの見ている風景では、荒れ野が「果樹園」となり、「森」となります。「公正が宿り」「正義」が住むようになります。「平和」が造り出され、「とこしえに至る静けさと信頼」が生まれます。結局民は、「平和な住まい、安全な家/心配の要らない安らぎの場に住む」のではありますが、気になるのは、そこにある「安らぎ」という言葉です。
最初、「安逸を貪る女たちよ」と呼ばれていました。「安心しきった女たちよ」と言われていました。これと新たに与えられる「安らぎ」とは、もちろん違います。どこが違うのでしょうか。注がれた霊の故ではないでしょうか。自分の論理にしか根拠のない「安心」と、霊が与える「安らぎ」とは、まるで異なります。雲泥の差があるのです。
安逸を貪る女たちよ、起きて、私の声を聞け。
安心しきった娘たちよ、私の言葉に耳を傾けよ。(イザヤ32:9)
どきりとします。自分が恰も「正義」の王であるかのように錯覚していた者は、イザヤの突然の呼びかけを、心に刺さるものとして聞くでしょうか。それとも感じないのでしょうか。「安逸を貪る女たちよ」と攻めてきます。私は女ではないから、などと呑気なことを言っている場合ではありません。「安心しきった娘たちよ」との声も重なります。
それらを自分への声として確かに聞き受ける者は幸いです。あと「一年と少したつと」震えおののくことになる、と言います。あてにしていたブドウは収穫されません。美しい畑はもう何の命もなく、ただそこに横たわっているだけです。「茨とあざみ」が生い茂るだけの土地となり、宮殿もなく賑わいも消えてしまいました。
野生の獣がそこらをうろつくようになります。人の町は見事に消え失せてしまうのです。愚か者とならず者のせいです。そしてそれは、私のことです。私を空しくさせたのは、誰か他の人ではありません。社会のせいでもありません。安逸を貪っていたのは、ほかでもない私自身ではありませんか。安心しきっていたのは、この私ではありませんか。
いま必要なのは、悔い改めです。「腰に粗布をまと」うことであり、「胸を打って嘆」くことです。イザヤは預言者です。慰めの言葉を準備しています。「しかし、ついに」それは起こります。「高き所から/霊が私たちの上に注がれる」のです。イエスを見失った後、教会は霊を受けました。注がれる霊によって命を得たのでした。
イザヤの見ている風景では、荒れ野が「果樹園」となり、「森」となります。「公正が宿り」「正義」が住むようになります。「平和」が造り出され、「とこしえに至る静けさと信頼」が生まれます。結局民は、「平和な住まい、安全な家/心配の要らない安らぎの場に住む」のではありますが、気になるのは、そこにある「安らぎ」という言葉です。
最初、「安逸を貪る女たちよ」と呼ばれていました。「安心しきった女たちよ」と言われていました。これと新たに与えられる「安らぎ」とは、もちろん違います。どこが違うのでしょうか。注がれた霊の故ではないでしょうか。自分の論理にしか根拠のない「安心」と、霊が与える「安らぎ」とは、まるで異なります。雲泥の差があるのです。
安逸を貪る女たちよ、起きて、私の声を聞け。
安心しきった娘たちよ、私の言葉に耳を傾けよ。(イザヤ32:9)