エウアンゲリオン

新約聖書研究は四福音書と使徒言行録が完了しました。
新たに、ショート・メッセージで信仰を育み励ましを具えます。

自然とは何か

2024-07-09 | メッセージ

詩編104:10-18 
 
「自然」という概念が、今と昔とではまったく違っていることは、もはや常識です。日本ではこの言葉は、原義として「自発」の意味合いがありました。自然に自分からそのようになる、という意味を表す言葉でした。人の心もまた「自然」でありうるわけです。近代的主観の確立と友に、「自然」は「人間」と対置されるようになってゆきます。
 
そして人間は、自然の一部から剥がれ落ちるように離れ始め、世界を客観的に眺める存在だと思い込むようになりました。それがいまの私たちの常識です。神の創造した業としてのすべてを認める感覚が、詩編の中にはきっとあったことでしょう。この詩が描く情景も、神が主体となって成し遂げた、あたりまえのことを並べているだけのことです。
 
「神は自然を支配している」などとわざわざ言葉にする必要がなかったものと思われます。「主の業の実りで地は満ち足りる」のも、当然のことですが、そこには少々人間への恩恵という見え方も感じられるかもしれまん。「人間の働きに応じて青草を生やす方」だと主を飾るのも、人間が受ける恵みという視点が反映しているのではないでしょうか。
 
地から「パン」を生み出しますが、それは「人の心を強くする」ものです。「ぶどう酒」は「人の心を喜ばせる」ものです。「油」は「人の顔を輝かせる」ものです。人の食が悉く神から与えられるものであることを、こうして堂々と掲げます。こうして人へのやや特別な配慮があるように見せておきながら、詩人は再び生き物を大きく取り上げます。
 
レバノン杉、糸杉といった植物や、鳥や野山羊、岩狸といった動物の名が並びます。人間が特別な地位を与えられているという思想を、ここに読み取ることは難しいのではないでしょうか。凡そ地上での命あるものは、人間がなにか手を加えた故にそこにあるのではなく、ただ神の創造の業の故にそこにいます。人間は生命を生み出すことはできないのです。
 
もちろん、人間はそれを加工することはできます。自分に都合の好いように改造するのは得意かもしれません。時に、人間が発明して存在せしめたものもあるでしょう。ただ、さすがに私たちもそれを「自然」とは呼びません。「人工」と区別します。人間だけが、知恵の実のせいなのかどうか、「自然」の中で空気の読めないことをしているようです。


家畜のために草を
人間の働きに応じて青草を生やす方。
こうして主は地からパンと
人の心を喜ばせるぶどう酒を生み出し
油で人の顔を輝かせる。
パンは人の心を強くする。(詩編104:14-15)

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