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エウアンゲリオン

新約聖書研究は四福音書と使徒言行録が完了しました。
新たに、ショート・メッセージで信仰を育み励ましを具えます。

靴屋のマルティン

2010-10-03 | マタイによる福音書
 他方、左側の山羊側に対しては、『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ』(マタイ25:41)と呪い、何もしてくれなかったことをその理由とします。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである』(マタイ25:45)が、マタイの言いたかった残りの半分です。しかし、これら二つのことは、同じことを言っているに過ぎません。
 人の中にキリストを見る。美しいことです。トルストイはこのことによって、「愛あるところに神あり」という物語を遺しました。まさに、いつ私がそのようなことをしたのでしょうか、という具合で、絵本や紙芝居でも「靴屋のマルティン」という題でよく紹介され、子どもたちにも語られます。いえ、むしろ大人たちが癒されるようです。
 そこにいる人を一人のキリストだと見てもてなすことは、歴史的にも時折重要視されました。それが必ずしも聖書の教えであるのかどうかは別として、人を愛するということは、それが大切な愛すべき存在であるとして取り扱うことを意味します。それを道具のように扱うことなかれと説いた道徳哲学もまた、これと無関係ではないでしょう。
 なお、ここに悪魔の「手下」とされている語は、「天使」と同じ語です。つまり、天使と称されている存在は、肉体を持たぬいわば精神的なもので、神の御使いもいれば、悪魔の使いもいるということです。ユダヤ人がどのような世界観をもっていたのかを把握するためにも、これを「手下」とするのはもったいない気がします。
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「この最も小さい者の一人」(マタイ25:40)

2010-10-02 | マタイによる福音書
 この羊たち、つまり「正しい人たち」(マタイ25:37)は、そのように褒められたことを意外に感じて、王に答えます。いつそんなことをしたのか、と。
 マタイにとり、律法を全うする人は「義人」です。神の義をまず求めた人です。それは、自分が善いことをしている、という意識でしているのではありません。ただ神の命じたことであるから、当然のことをしているだけのことです。その効果を最大限に発揮するためにも、ここで、自分がどんな善いことをしたのか意識していない、という面を押し出す必要がありました。
 この王は、彼らにアーメン入りで答えました。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである』(マタイ25:40)と、マタイが告げたかったことの半分を口にします。「最も小さい者たち」のことは、ギリシア語の特性で、必ずしも「最も」でなくてもよいとされています。私たちもまた、「最高」とか「絶対」とかいう言葉を乱発しますから、厳密に大きさを計測しなくてよいでしょう。ところが問題は、「わたしの兄弟である」という形容です。これが、写本によっては欠けているというのです。果たしてマタイが入れていたのかマタイは入れていなかったのか、それは謎でしょうが、この語が私たちの理解の方向をずいぶんと変えてしまう点に気をつけたいと思うのです。
 というのは、この形容が入ることによって、とにかく社会的に虐げられた人や困窮した人を愛するという命令とは、違うものが響いてくるからです。つまり、クリスチャン仲間を愛するようにしよう、と。
 すでに「自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか」(マタイ5:47)と告げたマタイはどこへ行ったのでしょう。完全性とは、そのようなものではなかったのでしょうか。
 それとも、今の私たちのように、この「兄弟たち」を、グローバルなすべての人間と理解する博愛主義を読みとるべきなのでしょうか。
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よそ者

2010-10-01 | マタイによる福音書
 この羊たちのしたことについて、この王は「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ」(マタイ25:35-36)と理由を伝えています。
 困窮の中にいる者を助けることを愛と呼ぶなら、愛の行為があったかどうかが問われていることになります。律法は隣人を愛することに集約されますから、マタイにおいて律法の成就が結局問題になっているということが分かります。渇いたときに食を与えたのは分かりますが、旅をしていたときに宿をというのは、さして愛の行為のように見えない描き方であるように見えます。これは、旅行をしていたという意味ではなくて、あてもなく流れ着いた、たとえば「流れ者」というような意味で、田川建三はこれを「よそ者」とうまく訳しています。今の日本でいうならば、「住所不定」であるとか、あるいは「ホームレス」と呼ぶこともできるかもしれません。雇用契約を切られて寮を追い出された労働者にしても、まさにこの類に含まれると想定できますから、実は助けるということがそう簡単にできるものではないということが分かります。また、宿を貸すというのも実は難しい語であって、語そのものは「一緒に集める」という意味をもっています。畑の収穫物を集めるような意味なのだそうです。マタイのどこか誤解によってこの語が使われたのではないか、とも考えられますが、これも田川は「迎え入れる」と、分かりやすい理解で訳しています。どこの馬の骨か分からないけれども困惑している人、住まうところのない人を受け容れて、居場所を提供することを示します。いずれにしても、簡単にできることではありません。
 まして、裸のときに着せるというのは、私たちが最も手を伸ばすことをためらう世界のことを指していると捉えるべきでしょうし、病の人を見舞うというのも、おそらく励ましに顔を見せるというのではなく、聖書の中の他の用法からすると、その世話をするという意味に違いないので、おいそれとできることではないのです。つまり、介護です。ルカが描いた、いわゆる善きサマリヤ人のたとえが、このマタイの思い描く姿に相応しいモデルではないかと考えられます。
 もちろん、囚人を訪れる者は、自身の身をも危険に晒すことになります。イエス自身が、罪人のところに来たことへの思いを私たちは重ねることができるでしょう。
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「羊と山羊を分けるように」(マタイ25:33)

2010-09-30 | マタイによる福音書
 こうして忠告をした後、その終末の姿をさらにしつこいまでに描こうとするマタイです。「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く」(マタイ25:31)といいます。
 ここに羊と山羊の振り分けが語られますが、これはマタイ独自です。教会内でもさらに振り分けがなされることを、もっと指摘します。
 今度の審判は「人の子」が行います。審判そのものを父なる神がするのか子なるイエスがするのか、聖書はそう明確にしていないと言えるかもしれません。その一体性を明らかにすると共に、ヨハネは子が父のみこころのままに動くことを明らかにしました。
 いまマタイは、受難記事を目の前にして、マタイ独自の主張をここまで重ねてきたと言えますが、いよいよその結論のようなまとめをする時がきました。心おきなくマタイの立場をぶつけておきたいところでしょう。
 こうした事情ですので、これは通常の「たとえ」とは趣を異としています。ただの象徴で示しているに過ぎない、とも見られるからです。
 イエスは「すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く」(マタイ25:33)といいます。羊も山羊も、元来そう大きな違いがないように見える動物です。今の世界では羊はまるまるとしていて、全く違うように見えるイメージがありますが、本当は見た目では区別しづらいものです。毛の色が同じであれば、鴨と家鴨の区別より困難でしょう。ところが、羊は羊、山羊は山羊です。性質もずいぶん違います。神の審きというものは、その見た目で曖昧になるものではなく、その性質によってはっきりと完全に分けられるということです。
 右に置かれた羊が良いほうで、左の山羊が悪いほうを意味します。そこで人の子はいつのまにか「王」になって、「王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい』」(マタイ25:34)と言います。父を持ち出していますので、人の子が王であることは歴然としています。「天地創造の時」は意訳で、「コスモスの初めから」が直訳です。そのときから、用意されていた国があるということが述べられています。文字通りというよりも、神は創造において善しと思われていたこと、人を創造してもエデンに置かれたことを思い起こすだけで十分でありましょう。
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「外の暗闇に追い出せ」(マタイ25:30)

2010-09-29 | マタイによる福音書
 この一タラントンの僕、主人のことを悪く見なしている点は否めませんが、それにしても、リスクを悟り安全に保管していることが、やがて主人の怒りを買うことになるというのは、私たちからすれば、必ずしも分かりやすいとは言えない論理であると言えます。それは、次の結論のために用意されたシチュエーションであることを理解すべきだということなのです。
 イエスは「だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる」(マタイ25:29)と結論づけています。これは間違いなくイエスの語録にあったものだと受け取られています。ただ、それがマタイの描いたこの状況にぴったりと合う意味であったのかどうかは、ここだけでは分かりません。マタイの編集はマタイの意図によると考えることもできるからです。
 マタイは明確に、再臨と終末を描いています。そのときに、莫大な財つまり天の恵みを受けた者が、それをただじっと眠らせておいたのか、増やすために仕事をしたのか、その違いを明確にしたことになると言えるのではないでしょうか。
 あまりにも莫大すぎて想像もつかないような金額ですが、そのくらいに人間には才能が与えられているのですよ、などと呑気に喜んでいる場合ではありません。神の国の秘密を垣間見た読者がどう動いているか、審査されるというのです。
 マタイはマタイらしく、この臆病者に対して「この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう」(マタイ25:30)という主人の言葉を付け加えています。マタイ得意のフレーズですが、厳しい罰を与えられています。それは、ファリサイ派に与えられるのと同じ罰になっています。すでにファリサイ派批判というよりもキリスト信徒の中での選り分けのために話がスタートしているわけですが、そこでもファリサイ派の場合と同様の峻別がなされる、というふうに理解することもできますし、あるいはファリサイ派というものもまた、自分たちの律法を守るためだけに努めていたのだから宝を土の中に隠していたこの最後の者と同様だというふうに読むこともできるかと思われます。もちろん、それが主眼ではないのですけれど。
 律法の真の完成のために、教会に従いなさい、とマタイが告げている声が聞こえてくるような気がします。
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「怠け者の悪い僕だ」(マタイ25:26)

2010-09-28 | マタイによる福音書
 ところが、いよいよ一タラントン預かった者です。穴に金を隠しておいたのでした。彼は『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です』(マタイ25:24-25)と答えました。
 マタイはこの僕の返事だけを大きく変えました。いかにも厳しい主人です。もちろんこれは神のことですから、神のことをこのように厳しい理不尽な親父であると言い放つのは、先の忠実な良い僕と対照的に描かれます。この僕は、主人を怖れています。しかし、何かしらその場を離れてから、地中にタラントンを隠しています。これを本人は悪びれていません。「御覧ください」と示しています。原語では「見よ」の短い一言です。ここにあなたのものがある、と注目させている様子です。
 しかしこれに対して主人は怒りました。「怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか」(マタイ25:26)というのは、先の主人に対するイメージを払拭するためのものでしょうが、「怠け者」の語が気になります。「おどおどした・臆病な」というニュアンスが本来の語だからです。さぼっていたことが裁きの理由だったのか、臆病なことがそうだったのか、の違いは大きすぎます。蒔かぬところから刈り取るほどの厳しい主人を怖れていた、とはっきり言っているのですから、これを怠けたと言い切ってしまうのは飛躍しているように見えます。新約聖書の中にはあまり使われていない語ですが、怠け者と同様何もしないにしても、おどおどして何もできなかったという感覚を伝えなければならない語です。
 そんなにびびっているくらいなら、「わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに」(マタイ25:27)と主人は続けます。「銀行」とはやはり本来「両替商」というところでしょうか。そういう制度がしっかり機能していたのですから、現代の私たちとも何ら変わらない感覚があったということになるでしょうか。せめて利息でも付けよというのですから、ある意味で、蒔かぬところから刈り取っているようなところがあるようなものです。
 せっかくの一タラントンは取り上げられ、それを最初の十タラントンの者に上乗せされることになりました。
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天の国を拡大できたかどうか

2010-09-27 | マタイによる福音書
 神は「忠実な良い僕」という言葉で褒めています。たしかに人間は僕なのですが、このように忠実でいることがはたしてできるのでしょうか。ここにも、マタイの律法主義が顔を出していると理解すると、それも分かります。律法を守ったという判断は、人にもそれなりにできるわけです。愛を実行できたか、という言い方をされると、これは覚束ないものです。およそ、愛せました、などと返答する人間は、厚顔だと言われても仕方がないでしょう。しかし、律法規定を守れたかどうかは、一応判断ができます。然りは然り、否は否だと返答できることだと言えるでしょう。財を増やしたということは、神に与えられた才能を増やしたなどというケチな問題に終わらず、一つには、天の国を拡大できたかどうかという点が含まれているのではないでしょうか。
 そしてこの結果は、「あなたの主の喜びに入れ」と書かれています。奇妙な言い回しですが、喜びの集いに入ること、つまり天の国に入れ、という内容であることについては疑いがありません。
 そして、二タラントン預かり二タラントン増やした僕もまた、同様に祝福されました。増やした額ではなしに、割合で見られていることが分かります。
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「少しのものに忠実であった」(マタイ25:21)

2010-09-26 | マタイによる福音書
 再臨のとき、つまり審きが行われるとき、まず最大の財産を預かった者が検討されました。最初に預かった五タラントンのほかに、さらに五タラントンという膨大な財産をそこに示すことができました。『御主人様、五タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけました』(マタイ25:20)と示す様が、果たして得意気であったのか、それとも僕として当然のことですという顔をしていたのか、その辺りが知りたいところです。それは読者の想像に任せるというのでしょうか。もちろんこれは「主よ」と呼びかけており、審判であることは明白です。なお、「預かる」と訳してある語は元来「受ける」という意味の語と、「渡した」という意味の語とを、僕と主人の立場によって使い分けて使用されていますが、日本語訳では、どちらも同一の語にしてしまっています。
 これに対して主人は『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』(マタイ25:21)と答えました。五タラントンというとてつもない額が「少しのもの」であるというのは、神の力の無限性を表すつもりなのでしょうが、荒唐無稽なレベルの話でさえ、本筋を見つめることを中心としておくべきことが注目されます。原文には本来「から」の語がありません。補われた写本もあるといいますから、昔の人も、「から」があったほうがスムーズに読めると判断したのでしょうが、たぶんマタイは「から」を付けずに書いています。そのほうが、きびきびとした表現であるからよいのではないか、という気がします。
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「かなり日がたってから」(マタイ25:19)

2010-09-25 | マタイによる福音書
 五タラントン預かった者は、早速「出て行き、それで商売をし」(マタイ25:16)ました。商売という訳語も引っかかります。「労働する」という意味の語だからです。金で働くのは商売に違いない、ということなのでしょうが、これはものすごい額のお金です。ほんとうは私たちにこのような「才能」などは与えられていないはずです。まかり間違って神から絶大な権力や財力を与えられた特権的な人が想定されているわけで、そのような人が汗水垂らして商売するはずがありません。株の売買など金融商品を頭に置いたほうが近いのではないでしょうか。それを「商売」とは普通呼びません。庶民には想像もつかないような多額を一気に動かすような仕事ですから、一大事業であったにしても、私たちの感覚の商売とは違うとすべきでしょう。でないと、またもや五タラントンを儲けるなどありえないものです。
 二タラントン預かった者も二タラントン儲けました。「しかし、一タラントン預かった者は、出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた」(マタイ25:18)のでした。「金」は銀貨です。たんなるお金の意味で使うこともあるかもしれませんが、それにしても、タラントほどの莫大な金が銀貨であるとは驚きです。これを穴の中に隠しておいたというのも、当時の考え方を伝えています。すでにマタイは、天に富を積むように告げた説教において、しみや虫のことに触れていましたが、この穴というのも、私たちのイメージする竪穴よりも、横穴を連想したほうが適切なのでしょうか。ちょうど、クムランの洞窟に巻物が隠されていたように。
 さあ、後の日のことです。「かなり日がたってから」(マタイ25:19)とあるのも、マタイの教会に、再臨はまだかという淀んだ空気があったことに関連しているものと思われます。少なくともマタイの関心はここにあります。「僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた」(マタイ25:19)のですが、どうやら原語には「帰って」の語がありません。状況からその語を日本語として補ったのかもしれませんが、マタイは「帰る」という意味では書いていません。キリストは「帰って来る」のではなく、再び「来る」のです。キリストの再臨のイメージを大きく変えかねない問題がありますから、少なくとも原文にない語を勝手には入れてほしくないと思う次第です。
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タラントンのたとえ

2010-09-24 | マタイによる福音書
 続いて、天の国をたとえるという看板の下、いわゆる「タラントン」のたとえが語られます。ここには、ルカの並行箇所がありますが、ルカでは「ムナ」となっていました。ただ、文献的には、ルカとは別のものと捉えるべきで、何か伝承としては共通のものが背景にあった、としておくことにします。ルカでは、王位を受けるための旅であり、明確にキリストを登場させ、それに敵対する者を殺すところまでが描かれています。これは、紀元前4年のアルケラオスの即位の事件を念頭に置いているとも理解されています。
 ところで「天の国はまた次のようにたとえられる」(マタイ25:14)とあるのは、原文を大きく変えてしまっています。「なぜなら~と同様である」とのみ書かれています。少なくとも「天の国」などという単語はありません。親切のつもりではあるのでしょうが、聖書はできるならば原文を伝えてもらいたいものです。それはたんなる著作ではなく、神の言葉であるのですから。
 マタイのようにたんに主人が旅に出る話は、たとえばマルコ13:34のような書き方にもあります。おなじみのフレーズです。主人は、僕たちに財産を預けました。預けたということは、これをただ持っておけというのではなく、うまく使えということなのでしょう。この金の使い道はおまえたちに任せる、という主旨が当然あるのだと思われます。
 この人は「それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた」(マタイ25:15)のでした。それにしても、多大な財産を管理させたものです。ルカの貨幣単位は、まだ私たちの自由にできるほどの金額であろうと考えられていますが、「タラントン」は膨大です。その金額は正確に今の貨幣に置き換えることなどではませんが、単純に億くらいだ、などとせず、当時の国家予算並みのものを想定しておくとよいでしょう。つまりこれは「天の国」の経営にも匹敵する話になっているのです。
 タラントンという単位は、西欧語で「才能」を意味する語として流通するようになりました。神からの賜物であるからです。今や日本では、無知を売り物にするほどの「タレントさん」にまでなってしまいました。
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自分たちの考えや行いを正当化すること

2010-09-23 | マタイによる福音書
 それが今や私たちとしては、この油を律法を守るなどとは受けとめないのが普通であって、むしろパウロの手紙の考え方に則って、そこに聖霊や信仰の力を感じるようになってきています。聖書は時代に応じて私たち人間に語りかけるものでしょう。過去のキリスト教の歴史において、聖書だ神だ教会だと言って、自分たちの考えや行いを正当化することは、常々なされてきました。そのことが、今の時代から見て、野蛮な悪辣事であるとしか思えないような出来事も多々あります。同様に、今もまた私たちが、後の歴史の中で批判を受けることも大いにありうることではないかと思います。今の私たちの理解がすべて正しいという保証は何もないばかりか、そういう捉え方が実に危険なものであるということを心得ておくべきです。
 マタイの意図はマタイの意図、そして私たちの受け止め方は私たちの受け止め方。正しいかどうかではなく、時代の要請としても、ここから示される生き方を私たちが実現していくことが、求められていることなのかもしれません。マタイのように、教会の言うことにすべて従うことが天の国に入る条件だ、と吹聴する必要は、ないと思われます。
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「わたしはお前たちを知らない」(マタイ25:12)

2010-09-22 | マタイによる福音書
 その後、あの「去った」おとめたちが戻ってきました。このとき、果たして油を手に入れていたのかどうかは分かりません。『御主人様、御主人様、開けてください』(マタイ25:11)というのは、マタイがもちろん「主よ主よ」という語で書いている箇所です。キリストに対しての言葉であることをはっきり示しています。
 マタイはアーメンを伴いつつ、「わたしはお前たちを知らない」(マタイ25:12)とこの主に語らせています。「知らない」というのは、「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」(マタイ7:21)のところで、これと同じ言葉をイエスが語っています。山上の説教と首尾一貫させているところです。
 この話の結論は「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから」(マタイ25:13)というものでした。これはこの辺りの流れにきっちり乗っています。
 それにしても、油というのは読者の理解に委ねられているとはいえ、本来マタイが何を頭に置いていたか、ということになると、これはもうやはり律法の世界を挙げなければならないはずでしょう。先の7章でもそうでした。律法に従って行いを正しくする者だけが、油を用意しているということになるのです。それは、ファリサイ派の義を超えるものであるというところにまでおまけがつくものでした。
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「戸が閉められた」(マタイ25:10)

2010-09-21 | マタイによる福音書
 突然「真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした」(マタイ25:6)のです。これはここまで述べてきた、終末のしるしを重ねて理解しましょう。主が来られることを忘れてしまったときに、知らせが来ます。おとめたちは、つまりクリスチャンたちは、自分たちの本来の仕事を思い出します。自分たちは主を待っていたではないか、と。起きて、「それぞれのともし火を整えた」(マタイ25:7)のでした。「調えた」のほうではないかと推測します。
 油とは何か。ともし火とは何か。それは、マタイが明確に示すものではありません。読者がそれぞれの信仰に応じて理解すればよいのかもしれません。まさにその「信仰」の炎を意味しているのかもしれません。さらに言えば、この油というのは、キリストの語源ともなっている、「油注がれた者」をイメージさせますから、まさに上より注がれる神の恵み、神の力を私たちに見せてくれるのではないでしょうか。神より受ける恵みを自分の中に用意している、というのは矛盾のように聞こえるかもしれませんが、それほどに、自分の中から自分の力で何かをするというのではなくて、上よりの力を私たちが求め、受け容れなければならないことを、より実感したいものです。
 しかし半分のおとめは、この予備の油を配慮していませんでした。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです』(マタイ25:8)と頼みました。賢いほうは『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい』(マタイ25:9)と答えます。イソップ寓話の中の「アリとセミ」を思い起こさせるような一幕です。原文の感じからいくと、「それを売ってくれる者がいるなら、行って自分のを買ってくればいいじゃないの?」と意地悪な返事に受けとめることもできるかと思います。
 そこで正直に愚かなほうは、買うためにその場を去りました。「去った」というところが重要です。「愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた」(マタイ25:10)のですが、ドラマというのはそういうものです。キリストが再臨したのです。すると賢いグループを招き入れた後、ノアの箱舟の戸がぴしゃりと閉められたように、この婚宴の間も、完全に閉じられてしまいます。
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「皆眠気がさして眠り込んでしまった」(マタイ25:5)

2010-09-20 | マタイによる福音書
 目を覚ましていなさい、という指示は、マルコにも門番などの中であるわけですが、このいわゆる「十人のおとめ」のたとえは、マタイ独自のものです。
 冒頭の「そこで」(マタイ25:1)はうまく訳したものですが、原語では「その時・同時に」の意味の語です。これはマタイでは有名な使われ方であって、マタイの癖として、これを「そこで」の感覚で使っているというのです。
 たとえは「天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く」(マタイ25:1)と始められます。このおとめたちは、クリスチャンたちを指しているものと思われます。しかし「そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった」(マタイ25:2)という状況設定です。クリスチャンであるので万事オーケーといかないところが、マタイの狙いです。この「賢い」というのは、配慮がありよく気が利いている様子を表すとも言われます。
 問題は「愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった」(マタイ25:3)ということでした。これをクリスチャンではなく、ユダヤ人なのだという解釈もあるようですが、マタイは度々クリスチャンの中に区分けを行おうとしていますので、ここではそうは理解しないことにしておきます。これに続くたとえもまた、その路線で読むのが自然だと考えるからです。
 この「ともし火」は、私たちのイメージとしては「松明」に近いと理解するとよいでしょう。油を補給しないとともし火は消えてしまいます。そこまで気が回っていたのかどうか、というところが問われています。賢いほうは、油を壺に入れてちゃんと予備まで配慮していました。
 さらに問題が発生します。「ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった」(マタイ25:5)というのです。これは、賢いほうも同様だと言います。「遅れた」の中に、マタイの教会で、キリストの再臨がまだかまだかと待たれている様が想像されます。いったい主はいつ来るのか、世の終わりは今すぐに来るとパウロなども言っていたではないか、どうなっているんだ。そんな声に対する答えになっていなければならないわけです。
 目を覚ましていなさい、というイエスの忠告があっても、それにただ素直に従っているだけではなかったのです。
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「偽善者たちと同じ目に遭わせる」(マタイ24:51)

2010-09-19 | マタイによる福音書
 この後「主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである」(マタイ24:46)以下はルカと同じになっています。教会の管理者らしく描かれています。アーメンに伴って、「主人は彼に全財産を管理させるにちがいない」(マタイ24:47)と、表彰します。これは、教会に奉仕する者を表彰しているのと同じことになります。
 これに対比させる表現が続きます。「しかし、それが悪い僕で、主人は遅いと思い、仲間を殴り始め、酒飲みどもと一緒に食べたり飲んだりしているとする」(マタイ24:48-49)というのです。「悪い僕」は、教会の読者にとっては、たとえばどんな奴のことを言うのか、簡単に想像ができたのではないでしょうか。このあたり、確定はできませんが、おそらく執筆者の心理として、分かる人には分かるようなほのめかし方をするのは当然すぎるくらい当然のことであるので、おそらく具体的なイメージがあったものと思われます。もちろん、それはマタイの目の前にいた、というよりも、マタイやルカが資料としたものが記された当時の教会にいたというのが前提ですが、たぶんその後も常々教会というところには、そのような者がいたということをも意味しているのでしょう。もしかすると、これは教会内に限らず、世の中にいる政治的な状況を風刺しているのかもしれません。たとえば、ユダヤ人などを支配する為政者が一般市民をいたぶっているというような。描写からすれば、その方が可能性が高いようにも見受けられます。
 主人は、「思いがけない時」(マタイ24:50)に戻って来るでしょう。「彼を厳しく罰し、偽善者たちと同じ目に遭わせる」(マタイ24:51)と、例の「偽善者」をやっつけるマタイらしい表現をここに用いています。すると、先の支配者を批判するような言い回しは、律法学者やファリサイ派を直接指していると言えるのかもしれません。
 なお、「厳しく罰し」というのは、原語のニュアンスは、「二つに切る」という語です。恐ろしい響きです。
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