他方、左側の山羊側に対しては、『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ』(マタイ25:41)と呪い、何もしてくれなかったことをその理由とします。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである』(マタイ25:45)が、マタイの言いたかった残りの半分です。しかし、これら二つのことは、同じことを言っているに過ぎません。
人の中にキリストを見る。美しいことです。トルストイはこのことによって、「愛あるところに神あり」という物語を遺しました。まさに、いつ私がそのようなことをしたのでしょうか、という具合で、絵本や紙芝居でも「靴屋のマルティン」という題でよく紹介され、子どもたちにも語られます。いえ、むしろ大人たちが癒されるようです。
そこにいる人を一人のキリストだと見てもてなすことは、歴史的にも時折重要視されました。それが必ずしも聖書の教えであるのかどうかは別として、人を愛するということは、それが大切な愛すべき存在であるとして取り扱うことを意味します。それを道具のように扱うことなかれと説いた道徳哲学もまた、これと無関係ではないでしょう。
なお、ここに悪魔の「手下」とされている語は、「天使」と同じ語です。つまり、天使と称されている存在は、肉体を持たぬいわば精神的なもので、神の御使いもいれば、悪魔の使いもいるということです。ユダヤ人がどのような世界観をもっていたのかを把握するためにも、これを「手下」とするのはもったいない気がします。
人の中にキリストを見る。美しいことです。トルストイはこのことによって、「愛あるところに神あり」という物語を遺しました。まさに、いつ私がそのようなことをしたのでしょうか、という具合で、絵本や紙芝居でも「靴屋のマルティン」という題でよく紹介され、子どもたちにも語られます。いえ、むしろ大人たちが癒されるようです。
そこにいる人を一人のキリストだと見てもてなすことは、歴史的にも時折重要視されました。それが必ずしも聖書の教えであるのかどうかは別として、人を愛するということは、それが大切な愛すべき存在であるとして取り扱うことを意味します。それを道具のように扱うことなかれと説いた道徳哲学もまた、これと無関係ではないでしょう。
なお、ここに悪魔の「手下」とされている語は、「天使」と同じ語です。つまり、天使と称されている存在は、肉体を持たぬいわば精神的なもので、神の御使いもいれば、悪魔の使いもいるということです。ユダヤ人がどのような世界観をもっていたのかを把握するためにも、これを「手下」とするのはもったいない気がします。