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エウアンゲリオン

新約聖書研究は四福音書と使徒言行録が完了しました。
新たに、ショート・メッセージで信仰を育み励ましを具えます。

この教会を離れてはいけない

2010-10-18 | マタイによる福音書
 イエスは向こうで祈りました。園の入口でしょうか、「ここに座っていなさい」と称された場所に、弟子たちは残されていました。イエスはそこに戻ります。すると、そこにはペトロがいました。イエスに連れられてまだ深いところにいて、イエスのそばを離れなかったのではなかったのでしょうか。若干シチュエーションを把握し損ないます。ペトロは、イエスと共に目を覚ましていよ、とは命じられました。実はこのとき、少し進んで行ったことが記されていました。この「少し」が案外、いくらかの距離があったということになるはずです。そしてイエスが戻ってきたのは、この三人のところに、少しだけ戻ってきたということになるのです。「ここに座っていなさい」と言われた場所ではありません。「ここを離れず」と言われた場所です。
 もしかすると、離れるなと言われた場所は、教会のことを含ませてマタイが記したのかもしれません。「わたしと共に」(マタイ26:38)がマタイでは挿入されています。教会には、イエスがいます。ペトロを初代指導者として、キリストの教会が建てられました。マタイはそのグループに属しています。マタイは、この教会を離れてはいけない、と言いたかった気持ちがあり、マルコの叙述に重ねるとそれが伝えられる、と喜んだのではないでしょうか。この教会を離れてはいけません。ここから出て行くというのは、終末のときに、たとえクリスチャンだなどと口で言っていても、神は厳しい審きを下すことになる、そのことをこの直前まで長々と説いてきたところでした。
 弟子たちは眠っていました。「あなたがたはこのように、わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い」(マタイ26:40-41)
 まだ、キリストが目の前に姿を見せなくなって、半世紀ほどです。これを踏まえたマタイは、再び「わたしと共に」の句をマルコに付け加えて念を押し、たったこれくらいの間でもイエスの教会と共に目を覚ましていなかったのか、と読者に訴えます。聖なる弟子たちを決して馬鹿にしたり貶めたりしないマタイですが、ここばかりは、教会に厳しく沿わない分子を完全に排除するためにも、魂が腐ったわけでなく、たんに肉体が弱いということのゆえに、くじけそうになっていると弟子たちを庇いつつ、誘惑に負けるなと読者を励まします。マルコを踏襲しながらも、マタイの意図を伝えやすくしているのかもしれない、とそんな読み方を、ここではしてみました。
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「悲しみもだえ始められた」(マタイ26:37)

2010-10-17 | マタイによる福音書
 ゲッセマネに来ます。オリーブ山の西側にあると言われています。ブドウを絞る場所というふうな意味を示す言葉であるそうです。「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい」(マタイ26:36)とイエスが言います。マルコに「向こうへ行って」が加わっています。これは意味を明確にしているのでしょう。しかし、訳出からは区別できませんが、「ここに」の原語が替わっています。マタイのほうか強調してあると思われます。イエスは「向こう」、弟子たちは「まさにここ」と、峻別している姿が浮かび上がります。
 そして「ペトロおよびゼベダイの子二人を伴われたが、そのとき、悲しみもだえ始められた」(マタイ26:37)と述べられています。マルコは、ヤコブとヨハネと、名前をはっきり出していたのに、マタイには、ペトロ一人で十分のようです。ルカに至っては、どの弟子の名前もなく、何人来たかも明らかにされていません。この辺り、著者の関心がどこにあるのか、うかがわせるような気がします。
 また、マルコは恐れて祈っているのに対して、マタイは悲しみを伴っています。これも感覚的には、マルコがかなり感情の起伏を現す語感を持たせているのに対して、マタイはどちらかと言うと通常の感情を感じさせているかのようです。
 イエスは、「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい」(マタイ26:38)と言いました。そばに連れて行った三人に対して言っているのです。この三人は、イエスと共にいなさいと誘われているわけです。とくに、名を出されたペトロの役割を重大です。直前に大口をたたいたペトロですが、イエスからすれば、このペトロはやはり後の時代を築くリーダーだとされていたというのでしょう。マタイはとくに、その権威を重要視しています。
 イエスは三人のところからも少し離れたようです。そこで俯せになりました。マルコのように、ひれ伏すのは、救い主としては誤解を招くと考えたのでしょうか。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」(マタイ26:39)との言葉が痛切に響きます。マルコのギリシア語が拙いと思ったのか、原語ではだいぶ最後の辺りなど換えられていますが、日本語訳ではそれが出せません。わたしの願いではなくて、そうではなくてむしろ、あなたの……という切実な響きがここにあります。
 杯は、審きのことを含んだ表現です。その杯には、審くための素材が一杯詰まっていることでしょう。人間が重ねてきた罪がぎっしりとそこに湛えられています。イエスは、そのための審きを自分が一身に引き受けることについて、苦しんでいるとは言えないでしょうか。
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「鶏が鳴く前に、三度」(マタイ26:34)

2010-10-16 | マタイによる福音書
 弟子の筆頭ペトロが言います。「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」(マタイ26:33)と、いかにも思いついたことをパッパッと口にしたい性格のようです。マルコに加えて「決して」を入れてくれました。分かりやすくなりました。
 人は自分の熱意を伝えるために、オーバーな態度をとることがあります。ペトロもここでは、目立つ発言をすることになりますが、イエスはそんなこともすっかり見抜いていました。人が、絶対に、などと口にするのは、実に頼りないことなのです。
 イエスはアーメン入りで「はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう」(マタイ26:34)と強調しました。鶏は朝早く鳴きます。それよりも前に、三度も、というのが、ドラマチックでありますが、本当かと思われるような内容となっています。
 当然ペトロは反論します。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」(マタイ26:35)と、おそらく興奮した姿ではっきり告げたことでしょう。さらに「弟子たちも皆、同じように言った」(マタイ26:35)として、人間たちの気持ちが一様であることを確認しておきます。しかし、自分が信仰しているということについてを、いかにも興奮して発言を焦るということは、むしろ信頼感を減らすようなことにはならないでしょうか。
 鶏はもう夜明け前に鳴くことでしょう。その声は、暗い朝に響き渡ったことでしょう。その鶏の前に、ペトロは三度もイエスを裏切ります。いえ、ユダのようなやり方で裏切るというのももちろんありますが、ここでペトロの興奮した発言が、沈黙するようにしているイエスと強い対照を示しているようです。イエス自身の歩みに、律法学者や祭司長との厳しい対立感や危機感があったのは当たり前です。だから、一緒に死ぬという言葉を付けているのですが、命を懸けても、知らないなどとは申しません、と言っているのです。知らないというのは、経験することがないという雰囲気や、もう全く関係がないこと、自分とは縁がないことを明言する言葉だと言えます。
 このペトロのように、大声で目立つことを言えば信仰があるということにはならない例を、ここではっきり私たちは知ります。神の恵みを受けるためには、マタイのペトロはあまりに孤独です。自分ではまだ気づかないこの勘違いは、どう解決されていくのでしょうか。
 
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「あなたがたより先に」(マタイ26:32)

2010-10-15 | マタイによる福音書
 イエスは弟子たちに、ショッキングな事実を告げました。「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散ってしまう』/と書いてあるからだ」(マタイ26:31)と、マルコに倣ってマタイも記します。このあたり、ルカは独特の編集と改変をしていますが、それについては今ここで触れるのは目的に適うことではありませんので、拘泥せずにいきます。
 ゼカリヤ13:7からの引用が施されていますが、羊をマタイが「群れ」としています。ただ個々が散り散りになるというよりも、教会としてまとまっているものが、ばらばらになることがあるのだ、という前提を構えているように見えます。事実イエスの許から弟子たちは去っていったのですが、マタイの時代の信徒たちも、こうした目に自分が遭うということが当然のことのように予想される日々であったので、心して読んだことだろうと思われます。
 イエスはそれに続けて「しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」(マタイ26:32)と告げました。「先へ」という言葉が、先に立ってという感覚で、先頭になった進もうという気持ちであるのか、それとも予めそこへ行って、あとから弟子たちを待つのだ、ということを言っているのか、曖昧になっています。地上のイエスに従って歩みたいマルコと、救い主として律法の完成として購いの約束を果たすイエスを描くマタイとでは、この言葉の響き方が違ってくると考えておくべきでしょう。マタイだと、もう復活のシナリオが完成しており、イエスがヒュッと先に行ってしまっているからね、というふうにも受け取ることが可能でしょう。
 ガリラヤは、故郷でもありますが、そこからまた旅路を始めてみようとするマルコに対して、マタイは、もはやガリラヤのほうでしか活動できなくなった教団の現状を盛り込んで描いたということもできるでしょう。しかし、ルカは微妙にしても、時代的にマタイに先んじるとは言えないヨハネまでが、エルサレムでの復活を専ら描いているようであるのは、どうしたわけでしょう。マルコがガリラヤなのは分かります。ではマタイは、素直にマルコを継承しただけということなのでしょうか。マタイの教会自体も、このガリラヤに深く関係していたということなのでしょうか。
 しかも、考えてみればそこに「復活」がさりげなく紛れ込んでいます。復活するためには、死ななければなりません。弟子たちは、どんな思いでこの言葉を聞いたでしょう。何かの聞き間違いだと感じたかもしれません。しかし、弟子たちの頭であるペトロは、そういう思いで聞いていたわけではありませんでした。優等生弟子が、それに相応しい答えをもたらそうと考えていました。これはメシアの受難と復活を描く物語である、という認識が十分この筆者に理解できて、それから再びイエスの最期の場面へと空気が流れていきます。
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マタイが削除している珍しい例

2010-10-14 | マタイによる福音書
 イエスは「言っておくが、わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい」(マタイ26:29)と言いました。どの福音書もこれを告げています。ただ、マルコが付けている「アーメン」をマタイが削除している、珍しい例です。そして、「神の国」というふうに「神」という語を使いたがらないマタイの特性により、「わたしの父の国」と言い換えられています。ここはマタイらしくなっています。
 また、「あなたがたと共に」というのも、マタイの挿入です。弟子たちが天の国にいる様子が明確に描かれています。マタイにとり、教会組織、そしてそれを築いたペトロを中心とする弟子たちは神聖な存在です。天の国は、イエスの次にはまず彼らの姿が描かれなければなりません。しかしまた、これを読者を意識しているとするならば、この聖書を読んでイエスを信じこの教会に従っていく決意をし、またそれに相応しい行動を続けていくことができたクリスチャンたちもまた、その宴会に与ることができるのだ、ということを伝えています。ただ客観的に神の国が実現されるというのでなく、読者に直に「あなたはどうか」と突きつけてくるような印象すら感じられます。血が流されるのは多くの人のためではありますが、共に再びこれを飲むというのは、選ばれた者だけに与えられる特権なのです。
 それにしても、これが体であるというのは、どういうことなのでしょう。さらに、杯では、契約の血がここれである、とも言われています。それは一種の謎として残るわけで、奥義のような役割を果たすことになるでしょう。だからこそ、キリスト教会は現在に至るまで、この秘蹟を守ってきたのです。さらにヨハネの福音書のような意義付けがなされると、なおさらです。イエスが遺した言葉の中にすでにそういうものがあったわけですし、弟子たちもそれをずっと大切にしてきたことが窺えます。
 こうして「一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた」(マタイ26:30)のでした。それは、ゲッセマネの祈りに導くための設定でもあったのですが、そこへ至る前に、ひとつ重要なことに触れなければなりません。
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「取って食べなさい」(マタイ26:26)

2010-10-13 | マタイによる福音書
 先ほどと同じように「一同が食事をしているとき」(マタイ26:26)と並べられますから、事の進展がどうだったのか分かりにくくなります。「イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた」(マタイ26:26)わけですが、「賛美の祈りを唱えて」は、マルコの時と同様、意訳に意訳を重ねているものと理解されます。原語では「祝福して」という一言です。祝福するというのはいかにもユダヤ的な重みのある内容の言葉ですが、それを限定してしまう訳語には同調しかねます。では祝福とは何か、そうした問題を、私たちは問うていけばよいのであって、祝福とは賛美の祈りのことだよ、とイメージを植え付けられることがよいことであるとは、思えないのです。
 聖餐式で語られる言葉は、パウロの手紙も関係しますが、この晩餐のシーンに基づいています。「取って食べなさい。これはわたしの体である」(マタイ26:26)は、マルコに加えて「食べなさい」がマタイ独自です。ルカはパンが後になるという、順序の転倒があります。
 続いて「また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」(マタイ26:27-28)と、おそらく葡萄酒のことを指して告げています。それを血の色と見ているのは、イエスが流す血に関係していることになります。パンや血については、ヨハネの福音書にこだわりが見られますが、共観福音書においては、ことさらに深い説明が施されているようには見えません。しかし、キリスト教会は、これを大切に守り続けてきました。洗礼と共にプロテスタント教会にも引き継がれた、二つの秘蹟のうちの一つとなりました。そのために、パウロも触れている上に、共観福音書が丁寧に叙述しています。
 マタイは、主にマルコの叙述を引き継ぎながら、あまり大きな改変をしていません。ただ、「罪が赦されるように」という句を入れたことによって、より教会の教えを正しく伝えることになりました。マタイが、教会の中で読まれ教科書として用いられることになる福音書であることを意識していることの現れでもあります。救いは、罪の赦しによってなされるということをはっきり伝えています。
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「それはあなたの言ったことだ」(マタイ26:25)

2010-10-12 | マタイによる福音書
 続いてイエスは、「人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった」(マタイ26:24)と語りました。マルコと同様です。とくにマタイは、「彼について書かれてあるように」という部分を感慨深く受けとめたことでしょう。もちろん「聖書」なる語が丁寧に書かれてあるわけではありません。しかし、要するにそういうことです。律法の預言の成就をここに見たマルコに共感したことでしょう。
 生まれなかったほうがよかったというフレーズもまた、マルコに従っています。なんと厳しい言葉だろうか、とも思います。ここでは、ユダのことを指していると見なされますが、この「不幸だ」もまた、「わざわいだ」を冒頭に掲げ、むしろ「わざわいあれ」という呪いであるように受けとめるほうが、マタイを読んできた私たちは納得がいきます。マルコもここではこのような言い方をしているわけですが、マルコにおいてはここともう一箇所に登場するフレーズです。しかしマタイでは、このような箇所が十数カ所もあるのです。それはしばしば律法学者やファリサイ派に対して投げかけられていました。
 あるいはもしかすると、このユダへの呪いは、クリスチャン仲間において、マタイたちの教団を離れ去った者や、意見が対立している者たちを描いている、と受け取ることができるかもしれません。
 そして「イエスを裏切ろうとしていたユダが口をはさんで、「先生、まさかわたしのことでは」と言うと、イエスは言われた。「それはあなたの言ったことだ」」(マタイ26:25)と、この一件をまとめることになりますが、やはりユダの行方を私たちは見失うことになります。この箇所はマタイ独自です。他の誰も描いていません。一つには、後でピラトに対してイエスが言う言葉を重ねている、という理解ができます。それは「それは、あなたが言っていることです」(マタイ27:11)という言い回しです。大祭司カイアファの訊問のところでも言われていました。語そのものは違いますが、同様に響く内容だと言うことができるでしょう。
 まさかわたしの……と、弟子たちが言うのと、ユダが言うのとでは、内容が違います。しかも当のユダ自身が、その違いを意識していないという背景があります。私たちの人生においても、それは真実のことだという気がしないでしょうか。それに対してイエスが、自分で言っていることの意味を考えてみよ、と投げ返してきます。イエスは、私たちに自分を見つめさせています。
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「主よ、まさか」(マタイ26:22)

2010-10-11 | マタイによる福音書
 弟子たちが準備をした上で、「夕方になると、イエスは十二人と一緒に食事の席に着かれた」(マタイ26:20)といいます。すでに日が暮れて除酵祭の第一日が始まっていたわけですから、この「夕方」という語は、私たちの感覚よりもずっと夜をイメージすべきかと思われます。聖書の「夕方」の訳は、決して日暮れ前ではないのです。
 十二人いることが強調されています。イスラエル十二部族がマタイの頭にあるのかもしれませんが、マルコにもその数字があります。教会にその伝承はしっかり伝わっていたのでしょう。ただしルカにはその数字がありません。
 食事が始まり、イエスが語ります。アーメン句を入れた上で、「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」(マタイ26:21)と、ユダのことを挙げるのです。
 それで「弟子たちは非常に心を痛めて、「主よ、まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた」(マタイ26:22)のでした。ルカはどちらかと言えば、最後の晩餐の場面を大きく切り出し、その後にユダの裏切りをひっそりと入れている感じがしますが、マタイは、マルコと共に、ユダを大きくまず取り上げています。晩餐の様子はその後になります。ただ、こうした描写はどの福音書も取り上げていますので、教会にとってこの晩餐は非常に重要であったことが分かります。ヨハネにしても、13章という早い箇所でこのユダを実に陰のある者としてドラマチックに描き、ユダがその場を離れてから後に、弟子たちへの惜別の説教が長々と執り行われることになっていました。共観福音書では、ユダがどこまで行動を共にしたのか、明らかだとは言えません。
 マタイはマルコに加えて「非常に」心を痛めたことを書いています。マタイにとり弟子たちは尊崇すべき使徒たちですから、そこまで書いておかないと気が済まなかったのではないかと思われます。しかも「主よ」と付け加えないではいられません。恐れ多くもイエスに話をするというのには、この句がないと落ち着かないのでしょう。
 イエスは「わたしと一緒に手で鉢に食べ物を浸した者が、わたしを裏切る」(マタイ26:23)と断言します。このとき、誰か一人のことを言ったというよりも、この弟子たちの中から、という感覚が伝わってきます。イエスと共に寝食を共にした者の誰かが裏切る、という感じです。これは、マタイがつい先ほどまで述べてきた、クリスチャンたちの中にも厳しく審かれる者が出てくるという精神と合致します。
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「わたしの時が近づいた」(マタイ26:18)

2010-10-10 | マタイによる福音書
 過越の食事の準備をすることになります。それは「除酵祭の第一日」(マタイ26:17)でした。マルコが、「過越の小羊を屠る日」(マルコ14:12)としているところを、マタイは削りました。夕刻から一日が始まるユダヤ暦からすれば、たとえ現代でいえば同じ日に属するとしても、その夕刻前、すなわち除酵祭の前日に屠ることを、同じ日にカウントすることは、マタイは許せなかったのでしょう。
 イエスは、この除酵祭の第一日に十字架刑に処せられることとなりました。しかし、ヨハネの福音書だけは、この日程に対する意見を異にしています。ヨハネによれば、その前日、すなわち小羊を屠る日に、まさにその小羊として、イエスが十字架に架かったということになっています。この食い違いは、一致した解決をいまだにもっていません。
 弟子たちが、過越の食事の会場の心配をします。イエスは、すでに会場が決まっているということで指示をするのですが、マルコとマタイとでは、描き方がずいぶん違います。マルコが若干神秘的な選び方を呈しているように見えるのに対して、マタイでは、ある話が特定の人とできている印象を与えます。「都のあの人のところに行ってこう言いなさい。『先生が、「わたしの時が近づいた。お宅で弟子たちと一緒に過越の食事をする」と言っています』」(マタイ26:18)と弟子に答えているからです。
 イエスが「わたしの時」だとしている点が、共観福音書の中でも独自の視点です。これはヨハネの福音書で顕著な考え方ですが、もちろんマタイがヨハネを読んでいるということはまず無理であって、このような捉え方がすでに信徒たちの間にあったことが窺えます。ヨハネはこれを強調したのです。
 気になるのが「都のあの人」とは誰かということですが、もちろん判明するのではありません。エルサレムの町へ、ある人のところへ行けと命ずるわけですが、その後その家にクリスチャンたちが集まり、集会を開くようになったことが推測されます。使徒言行録1:13がそれではないか、というのです。古来の伝説ではその家主は囁かれていますが、聖書本来の内容から逸脱するかもしれませんので、ここでは取り扱わないようにしておきます。ただ、その場所は、エッセネ派の影響の強い地域であったのではないか、という研究もありますから、その点は聖書の成立などについても示唆を受けることがあるかもしれません。
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「銀貨三十枚」(マタイ26:15)

2010-10-09 | マタイによる福音書
 そうして、ユダが登場します。「そのとき、十二人の一人で、イスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところへ」(マタイ26:14)来たのです。マタイは、「イスカリオテのユダと呼ばれる者が」と、少し距離を置いて書いているようにも見えます。マルコよりも時間の隔たりがあるせいか、それとも、教会とは無関係な者だという距離感を示したのか、いろいろな含みがあったのかもしれません。ユダがどのような過程でイエスを裏切ることになったのか、そのあたりは詳述しようとはされていません。次の食事の場にもユダは残っていますが、いつ出て行ったのかは判然としません。この辺りは、事態のからくりよりも、とにかくユダが権力側と通じていた事実だけがはっきりしていればよかったのでしょう。その行動の細かなところを把握していたのではなかったでしょうから、ここにある取引についても、間接的な資料だと想像されます。
 ユダは「あの男をあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか」(マタイ26:15)と持ちかけたように描かれています。マルコにもないやりとりを記すのはマタイにしてみれば、よほどのこだわりがあったものと思われます。普段ならば、マルコの冗長な場面をできるかぎり縮めようとするマタイですから。ここではマタイが、彼らが置いた「銀貨三十枚」(マタイ26:15)を描きたかったからだと考えられます。ゼカリヤ11:12以降の「銀三十シェケル」を念頭に置いていたのかもしれません。この値段は、出エジプト記21:32によれば、奴隷を牛が突いた場合の補償金として同額が規定されています。古代のレートが変わることなく保たれているかどうかは怪しいものですが、旧約聖書の律法の成就にこだわるマタイですから、明確な引用がないにしても、「銀三十シェケル」といえばあのことだな、と思わせるやり方をとっていることは否めないでしょう。「シェケル」は重さの単位ですが、これを理解しやすく「枚」としているものと思われます。「支払うことにした」(マタイ26:15)とありますが、「支払った」のですから、予約ということではありません。「置いた」というニュアンスの言葉です。
 こうして「そのときから、ユダはイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた」(マタイ26:16)と描写されるユダの姿が、共観福音書それぞれにおいて微妙に異なるのが面白いかもしれません。マタイは、マルコの言い回しを上手な文に直したのかもしれませんが、ルカはまた、「承諾して、群衆のいないときに」(ルカ22:6)と、何かと説明を加えようと努めています。「良い」とまで言った言葉はなく、「機会」という語が使われているだけでした。機会は、それを狙う人にとって良いものであるはずですが、はたして人間の思い図ることがすべて良いものであるのかどうかは、考えさせられるところです。
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「この福音が宣べ伝えられる所では」(マタイ26:13)

2010-10-08 | マタイによる福音書
 イエスは「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない」(マタイ26:11)と言い、律法において貧しい人々を助ける必要のあることを弟子たちに伝えています。隣人愛は、律法の観点からも守られなければなりません。
 そして最後に「はっきり言っておく。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」(マタイ26:13)と、アーメンを含めたフレーズで、イエスがこの事態についての判断を下しています。心に留め忘れないようにしておく、まさに「記念」の語を使っているのは、福音書の読者がはっきりとこのことを思い起こすべきだという注意を表しています。私たちの、どこか他人事気分な「記念」の感覚ではないと考えましょう。これは、私たち読者が、これを読んでしかと思い起こせ、これからが福音書でよく見ておかなければならないイエスの生き様なのだ、という覚悟をもつように、というふうにも聞こえそうな気がします。そのためにも、マルコあるいはマタイのように、まさに受難物語の冒頭にこれが掲げられることで、読者に適切なサインが送られていると考えられます。もちろん、ルカの場合は目的が異なります。できるかぎり様々な人のエピソードを大切にするルカが、特別に明確な人物像を描き出そうとするために、当時おそらく教会でも有名であった、マグダラのマリアの姿をここに重ねて描いたと思われます。ただし、名前を出しているのはヨハネのみです。ラザロの姉妹としてのマリアです。
 なお、マタイは「この福音」としており、マルコのように端的に「福音」とはしていません。これはマタイの特性で、マルコがとにかくその福音書の冒頭から「福音」というものをイエスの生き方そのものとして強く打ち出すのに対して、どうしても「福音」だけで何かを伝えようとすることをマタイは避けたがっており、各所でこの語には何か限定的な言葉を付け加えています。マルコにとり、福音書の目的、そして最も信徒が重んじるべきものは「福音」であるのに対して、マタイはどうしても律法を最大限に持ち上げなければならないと思っている事情がここに隠れています。そのために、ここでも細かな言葉ですが、端的に「福音」とは告げずに、せめてもの抵抗であるかのように「この」を付け加えているのが分かります。
 また、「この人」は、さきほどのように女と言い捨てた感じは見られず、「彼女」という普通の指し方がしてあり、マルコの表現を踏襲しています。ここまで直すのはくどいと思ったのか、それとも見落としなのか、あるいは「福音」を変更したことで満足したのか、そのあたりは想像以上のもので片づけることはできません。
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マタイは「この女」としている

2010-10-07 | マタイによる福音書
 ところが「弟子たちはこれを見て、憤慨して言った」(マタイ26:8)のでした。マルコでは主語が明確にされていなかったのを、当然それは弟子であるのですから、マタイが主語として補いました。「なぜ、こんな無駄遣いをするのか。高く売って、貧しい人々に施すことができたのに」(マタイ26:8-9)という憤りの声です。「三百デナリオン以上」(マルコ14:5)のような具体的な金額は省略しています。この価格を引き合いに出した上で、これを言ったのはイスカリオテのユダであった、とするのがヨハネの福音書です。こちらはこちらで、ユダの立場や考えを明確に浮き彫りにしようとしています。ユダは、貧しい人のことなど考えておらず、会計係としての立場を悪用して、横領をしていたのだと記されていました。マルコの資料では、これを口にしたのは一人というわけではなかったとされています。この辺りは、なんとも判断の仕様がありません。
 イエスは、この人を困らせるようなことを言うな、という意味の返答をしました。「この人」(マタイ26:10)とマルコと同じ日本語で不用意に訳されていますが、マルコの場合と違って、ここは「彼女」とは言われていません。マタイは「この女」としているのです。マタイは女性を、律法主義的観点からか、ほぼ見下したように捉えていますから、ここでもマルコの通常の言い方をわざわざ言い換えているのです。ここを訳出しなければ、マタイの福音書にはならないのではないでしょうか。
 しかしイエスにとりこの女は、イエスのために「良いこと」(マタイ26:10)をしたのでした。はっきりと「良い行い」というふうに描いています。この「無駄遣い」は「良い行い」なのでした。なぜか。「この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた」(マタイ26:12)からです。「準備」という言葉が意訳のようです。「葬りのために」したというふうな感じです。たしかに、準備とまで言ってしまうと、いかにもそれが分かってやっているかのようですが、ここではイエスが死ぬということを納得してこの女がしているとは思えませんから、ただイエスの観点からのみ、この女がそのためにしたのだという程度に留めておくほうが無難であると思うし、マタイもそのつもりで描いているのだと思われます。
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珍しく個人名

2010-10-06 | マタイによる福音書
 舞台はベタニア。「重い皮膚病の人シモンの家」(マタイ26:6)とあります。マタイにしては珍しく個人名を残していると言えるかもしれません。それほどに、ここの受難物語そのものについては、マルコを改変するつもりがなかったのでしょうか。あるいは、さしたり資料をもっていなかったのでしょうか。その点、この後に編集されたと言われるヨハネによる福音書は違います。こちらは、独自の調査で受難物語を調べ上げ、マルコでは不十分だった点を洗っていると言われています。数の上ではマルコにマタイにルカと三つの資料があるように思われますが、マタイもルカもマルコを踏襲しているのが基本なので、要するにマルコの資料とヨハネの資料というのが基本的な対立となります。ただマタイは、マタイ的に、マルコだけでは不十分と思われたところを補っている点は注目に値します。マタイ的律法成就のためには、マルコの記述で不十分だと思われたら直さなければならないし、何よりも、救い主イエスの復活を中途半端で終わらせることはできません。それが旧約聖書の預言にあるという点を全うさせなければならないし、また、ユダヤ人たちから復活について嫌疑を掛けられている点についても、弁明しなければなりません。マタイはそのために、熱心に資料を探したと思われます。そのために、時としてそれは荒唐無稽に見える記述となることもありましたが、マタイなりに調べたものを精一杯盛り込んだという点を評価すべきかと思われます。ルカは、これをガリラヤ宣教の時期に、だいぶ違った空気の中でエピソードとして盛り込んでいますが、マルコ並びにマタイは、これを明確に葬りの準備として描いています。
 細かな語の改変はありますが、マタイはマルコと同様に、一人の女が壺から高価な香油をイエスの頭に注いだことを記述しています。香油を頭にかけたのか足にかけたのかという点においては、マルコとマタイが頭、他が足ということで差が出ています。頭に注ぐのは明確なメシア像であるとも考えられます。
 また、イエスが「食事の席に着いておられる」(マタイ26:7)と形容されていますが、これはローマの風習で、横たわる姿勢を指すと考えられています。ユダヤ人がはたしてローマの風習に従ったのかどうか、それは定かではありません。おそらく、という想像は可能ですが、確定してよいのかどうかは分からないとしておきましょう。
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「人の子は、十字架につけられるために引き渡される」(マタイ26:2)

2010-10-05 | マタイによる福音書
 イエスが説教にひと区切りを置いたことは、マタイらしい「イエスはこれらの言葉をすべて語り終えると、弟子たちに言われた」(マタイ26:1)のフレーズではっきりします。これは読者にも明確に伝えるために、わざわざ毎度同じ形式をとったと考えられます。私たちもそのくらいは心得て読まなければなりません。
 イエスは「あなたがたも知っているとおり、二日後は過越祭である。人の子は、十字架につけられるために引き渡される」(マタイ26:2)と語ることによって、これから受難物語に入ることを示します。そうして、マタイはマルコそしてルカとも異なり、この内容をイエスの口を通して語らしめています。受難の人の子イエスは、何もかも見抜いて知っているがために、堂々とこれからの運命を宣言して、死刑へと向かっていくというふうな姿が思い浮かぶ表現です。「引き渡される」ことに、マルコはイエスの一つの本性を重ねて描いていましたが、マタイにとりそれは重要な概念ではなくなっているものと思われます。
 他方、「そのころ、祭司長たちや民の長老たちは、カイアファという大祭司の屋敷に集まり、計略を用いてイエスを捕らえ、殺そうと相談した」(マタイ26:3-4)のでした。これがマルコの叙述の始まりでした。ただ、マルコが記した律法学者を長老たちにわざわざ入れ換えたのは、真意は不明ですが、学問的というよりも政治的な背景を際立たせたかったためではないかと推測されます。大祭司の名もここで暴露されます。
 けれども彼らは、過越祭にさしかかることを懸念し、「民衆の中に騒ぎが起こるといけないから、祭りの間はやめておこう」(マタイ26:5)と相談していました。暴動になると、ローマ兵の出動が必至です。そうなると、ユダヤ人たちそのものが制圧されてしまいます。これはまずいのですが、歴史的にはその後ユダヤ人たちはこの騒ぎを起こしてユダヤ人の運命を決してしまうことになります。マルコはまだ知らなかったかもしれませんが、マタイは第一次ユダヤ戦争を知っています。
 ここで直ちにユダを登場させたルカは、ある意味で物語の展開をよりドラマチックに演出しているようにも見えます。受難の世界へ一気に流れ込んでいくような展開です。しかしマタイは一応マルコに従って話を進めます。ただし、細かく見ると、マルコの表現の拙いところを、細かく修正している様子が見て取れます。マタイがこの作業に拘泥している限り、実はストーリーそのものはあまり大きく動かしてこないのではないかと思われます。
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永遠の罰と永遠の命(マタイ25:46)

2010-10-04 | マタイによる福音書
 マタイの結論は、「こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである」(マタイ25:46)というものでした。これを言い切って、マルコに従うイエスの受難の物語を辿っていくことになります。マタイ独自にどうしても言わなければならなかったことは、こうして幕を閉じることになります。それは、クリスチャンとしてイエスを口で告白しただけでは十分でなく、その後に律法に従い律法を全うする行為をするかどうかが決定的な要因となって、天の国に与る者となるということでした。そのためには、教団に従うことが求められます。ペトロを礎として建てられた教会の中に属し、ユダヤ人の迫害に耐え、再臨の遅れた主を待つことを厭わず、日々律法を完成させるべく生活していくことが要求されるのでした。
 この「刑罰」という語は、アリストテレスによれば、受ける人への懲らしめや懲罰という意味に傾き、別の語において、報復としての刑罰が表され、こちらでは、被害者サイドの満足を生む方に傾くとされているようですが、聖書の時代には必ずしもそれが区別されていたとは考えにくいようです。それでも、この場合も、山羊側が永遠の罰を受けるゆえに羊側がそれを見て喜ぶというようなものではありませんから、ただ羊としては、自分たちが永遠の命へと入っていくことを恵みとして受けているだけでよいように思えます。どちらにしても、「~へ入る」という動きのある言い方がなされています。「受ける」「あずかる」の語の区別はなく、どちらも「入る」となっています。
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