イエスは向こうで祈りました。園の入口でしょうか、「ここに座っていなさい」と称された場所に、弟子たちは残されていました。イエスはそこに戻ります。すると、そこにはペトロがいました。イエスに連れられてまだ深いところにいて、イエスのそばを離れなかったのではなかったのでしょうか。若干シチュエーションを把握し損ないます。ペトロは、イエスと共に目を覚ましていよ、とは命じられました。実はこのとき、少し進んで行ったことが記されていました。この「少し」が案外、いくらかの距離があったということになるはずです。そしてイエスが戻ってきたのは、この三人のところに、少しだけ戻ってきたということになるのです。「ここに座っていなさい」と言われた場所ではありません。「ここを離れず」と言われた場所です。
もしかすると、離れるなと言われた場所は、教会のことを含ませてマタイが記したのかもしれません。「わたしと共に」(マタイ26:38)がマタイでは挿入されています。教会には、イエスがいます。ペトロを初代指導者として、キリストの教会が建てられました。マタイはそのグループに属しています。マタイは、この教会を離れてはいけない、と言いたかった気持ちがあり、マルコの叙述に重ねるとそれが伝えられる、と喜んだのではないでしょうか。この教会を離れてはいけません。ここから出て行くというのは、終末のときに、たとえクリスチャンだなどと口で言っていても、神は厳しい審きを下すことになる、そのことをこの直前まで長々と説いてきたところでした。
弟子たちは眠っていました。「あなたがたはこのように、わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い」(マタイ26:40-41)
まだ、キリストが目の前に姿を見せなくなって、半世紀ほどです。これを踏まえたマタイは、再び「わたしと共に」の句をマルコに付け加えて念を押し、たったこれくらいの間でもイエスの教会と共に目を覚ましていなかったのか、と読者に訴えます。聖なる弟子たちを決して馬鹿にしたり貶めたりしないマタイですが、ここばかりは、教会に厳しく沿わない分子を完全に排除するためにも、魂が腐ったわけでなく、たんに肉体が弱いということのゆえに、くじけそうになっていると弟子たちを庇いつつ、誘惑に負けるなと読者を励まします。マルコを踏襲しながらも、マタイの意図を伝えやすくしているのかもしれない、とそんな読み方を、ここではしてみました。
もしかすると、離れるなと言われた場所は、教会のことを含ませてマタイが記したのかもしれません。「わたしと共に」(マタイ26:38)がマタイでは挿入されています。教会には、イエスがいます。ペトロを初代指導者として、キリストの教会が建てられました。マタイはそのグループに属しています。マタイは、この教会を離れてはいけない、と言いたかった気持ちがあり、マルコの叙述に重ねるとそれが伝えられる、と喜んだのではないでしょうか。この教会を離れてはいけません。ここから出て行くというのは、終末のときに、たとえクリスチャンだなどと口で言っていても、神は厳しい審きを下すことになる、そのことをこの直前まで長々と説いてきたところでした。
弟子たちは眠っていました。「あなたがたはこのように、わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い」(マタイ26:40-41)
まだ、キリストが目の前に姿を見せなくなって、半世紀ほどです。これを踏まえたマタイは、再び「わたしと共に」の句をマルコに付け加えて念を押し、たったこれくらいの間でもイエスの教会と共に目を覚ましていなかったのか、と読者に訴えます。聖なる弟子たちを決して馬鹿にしたり貶めたりしないマタイですが、ここばかりは、教会に厳しく沿わない分子を完全に排除するためにも、魂が腐ったわけでなく、たんに肉体が弱いということのゆえに、くじけそうになっていると弟子たちを庇いつつ、誘惑に負けるなと読者を励まします。マルコを踏襲しながらも、マタイの意図を伝えやすくしているのかもしれない、とそんな読み方を、ここではしてみました。