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エウアンゲリオン

新約聖書研究は四福音書と使徒言行録が完了しました。
新たに、ショート・メッセージで信仰を育み励ましを具えます。

運命が定められた

2010-11-02 | マタイによる福音書
 この大祭司の前の裁判で、ユダヤ側からは、死刑を宣告されました。が、ユダヤはローマ領です。ユダヤ内部で死刑を執行することはできない決まりでした。それを許すと、親ローマの勢力を死罪にするようなことをするかもしれません。「夜が明けると、祭司長たちと民の長老たち一同は、イエスを殺そうと相談した」(マタイ27:1)というのは、もはや死罪しか頭にない彼らが、正式にローマの裁判を受けて、それを遂行しようとする気持ちの現れのように思われます。ですから、「相談した」は少し奇妙です。「会議を開いて議決した」というふうなことでないと、意味がありません。なにしろ「イエスを縛って引いて行き、総督ピラトに渡した」(マタイ27:2)のですから、相談しただけではそうはなりません。少なくとも、相談した結果、イエスを殺すことの決定を確認するようなものでなければなりません。大祭司の前での有様から、これはユダヤとしては公的に死刑台へ送ることが然るべき方法であるということに決定したことがここに認められたことになります。ここに、運命が定められたことになります。
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私たちも外に出て

2010-11-01 | マタイによる福音書
 マタイにとりペトロは、やはり、「激しく」泣かなければなりませんでした。この語は不思議なことに「苦く」という意味の語です。「苦々しく」泣いたのでしょうか。もちろん、それは「ひどく」という意味に使われることのある語であり、辛辣なものを感じさせる言葉だったことでしょう。また、たぶん心の中に苦いものとして残るような泣き方を言うのではないかとも想像されます。
 ペトロ自身が、この経緯を語ったのでしょう。マルコはそれを記事にしました。マタイは、もはや広まっているマルコの福音書によって、その記事を取り消すような真似はできませんでした。ただ、鶏が鳴いてもなお拒むほどまでに鈍感な人としてペトロを記すことはできませんでした。また、明らかに疑われている中で突然泣き始めるとまずいのではないかという配慮もあってか、外に出て行かせました。
 私たちも、その事態の外に出ることを学びます。我を忘れてその現場で感情に身を委ねるのではなく、そこから一歩出て、自分の姿を確認し、そのうえで神の前に出て嘆くのです。私たちも、外に出て、悔い改めるのです。それが、祈りです。私たちは、奥まったところで、神と差し向かいになります。世俗を出て、泣くのです。
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「外に出て、激しく泣いた」(マタイ26:75)

2010-10-31 | マタイによる福音書
 さて、「するとすぐ、鶏が鳴いた」(マタイ26:74)ということで、ペトロはイエスの言葉を思い出します。ここで、マルコが、鶏が二度鳴くというふうに描写しており、事実二度だとイエスは告げているし、女中とのやりとりの途中で一度鶏が鳴いているとしているのですが、マタイは二度だとイエスが言ったことにはせず、従ってこのペトロの悔悟のときにも、鶏は一度きりしか鳴いていないことにしました。マタイと同様、ルカも一度に直しています。このルカは、イエスが振り返るシーンを描きます。ヨハネは、鶏が鳴いたことだけを記して、ペトロの反応は描いていません。イエスがヨハネの福音書の中心であり続けるために、ペトロの感情を表に出すことをしなかったのかもしれません。
 しかしマルコもまた、ペトロが泣き出したことを描き、マタイは、「外に出て、激しく泣いた」(マタイ26:75)と描写しました。こちらは、そのイエスの眼差しを除いては、ルカと一致します。このルカの語とマタイとが、細かな部分に至るまで完全に一致することから、これらはただマタイ独自の文であるというよりは、共通の資料にそのように記してあったと見る見方が支配的のようです。ただ、果たしてルカがこのマタイのほうを写本家がルカにも写したのではないか、という可能性もあるわけで、解釈は様々許されるようです。
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ペトロを擁護するような姿勢

2010-10-30 | マタイによる福音書
 ペトロが描写されます。これは、四福音書すべてに記録されています。よほど大切な、そして印象深い事件であったことでしょう。マタイのように、ペトロを崇拝し高める福音書においても、この記事を省くことは許されませんでした。ただ、マルコに微妙に手を加えて、ペトロを擁護するような姿勢を感じさせるものとすることについては、やはりマタイらしさがあるのかもしれません。
 まず「ペトロは外にいて中庭に座っていた」(マタイ26:69)のでした。マルコが「下の中庭」と記しているのを、分かりやすく修正しました。そこへ女中がやってきました。マルコの表現を少し洗練したものに直し、また「大祭司に仕える」という限定を取り払いました。そんなのは当たり前だからでしょうか。
 女中は「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた」(マタイ26:69)と言いました。マルコの「ナザレ」を「ガリラヤ」に換えました。マルコと同様、三度否む必要がありますから、三度指摘されることになりますが、指摘のされ方が微妙に異なります。マタイは、同じことをまず二度繰り返しています。ルカはマルコをほぼ踏襲していますから、マタイがわざわざ変更したのは確実です。「ナザレ」の名は二度目に出しています。まず知れたのは、ガリラヤということで、そこから絞って、ナザレの名を出すという組み立て方がなされています。しかも「言葉遣いでそれが分かる」(マタイ26:73)と、その理由を最後に明確にするという説明まで備えています。読者に、事の次第を明らかにすることに成功している書き方であると思われます。
 つい先ほど、ゲッセマネに至る直前に、ペトロは死に及ぼうとも否むことなどない、と豪語したのでした。ところが「確かに、お前もあの連中の仲間だ。言葉遣いでそれが分かる」(マタイ26:73)の一言に、ついに「ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「そんな人は知らない」と誓い始めた」(マタイ26:74)というのです。呪いとは、災いがあるようにとのきつい言葉から発したのでしょう。
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「神を冒涜した」(マタイ26:65)

2010-10-29 | マタイによる福音書
 イエスは続けて「しかし、わたしは言っておく。あなたたちはやがて、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に乗って来るのを見る」(マタイ26:64)と言いました。ダニエル書7章のこの黙示的表現は、すでにマルコも引用していました。自分はメシアだとイエスの口から言ったわけでもなく、この「人の子」が自分であると明らかにしたわけでもなく、イエスが一般的なことを口にしたのだとすると、この後の「神を冒涜した」(マタイ26:65)という大祭司の興奮した宣言は、的を射たものではないと言わざるをえないのですが、マルコに続いてマタイの描く裁判は、これを以て有罪の決定的な証拠としています。マタイは、イエスに少しの落ち度も見せないようにしているかのようです。他方ルカは、このユダヤ的な内実を理解しづらかったのか、あるいはそれはもはや解読する必要のない謎と考えたのか、最高法院におけるやりとりが、淡々と掲載されているだけで、そこには駆け引きも説明もありません。
 衣を引き裂くことは、怒りなどの感情を強く表す表現です。本当に裂いたかどうかは知りません。大祭司は、ある意味で若干飛躍しながらも、これが神を冒涜したことだと宣言しました。「これでもまだ証人が必要だろうか。諸君は今、冒涜の言葉を聞いた」(マタイ26:65)と、人々をも自分の側のものの見え方に誘い込みます。人々は「死刑にすべきだ」(マタイ26:66)と答えるしかありません。裁判では、ひとつのきっかけによって、天秤が一気にどちらかに傾いていくものなのです。
 この後人々が、「イエスの顔に唾を吐きかけ、こぶしで殴り、ある者は平手で打ちながら」(マタイ26:67)、罵声を浴びせることになります。「メシア、お前を殴ったのはだれか。言い当ててみろ」(マタイ26:68)という嘲りは、マルコにあった、「目隠しをしてこぶしで殴りつけ」(マルコ14:65)という表現がなければ、少し分かりにくい表現であるとも言えます。わざわざ省いたというのは、たとえそれが見えている相手であっても、それが誰か分かるまいという、人間の側の思い上がった態度がますます浮かび上がるからなのでしょうか。
 イエスには、見えています。それが誰かも分かっています。しかし私たちは、見られていることが明らかであっても、神に対して、こんなことは神には見えていないだろう、分からないだろう、と高をくくるのです。それが私たちの常日頃の生き方です。神が見ていることも分かっているはずなのに、それでもまた、罪を犯してしまうのです。この人間の愚かさを、よけいにはっきりと浮かび上がらせてくれます。
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「あなたは」を明示している

2010-10-28 | マタイによる福音書
 メシアなのか。直接的で、かわすことのできない問いです。イエスは、肯定の返事をとるしか残されていない場面ですが、これに対して絶妙な返答をします。「それは、あなたが言ったことです」(マタイ26:64)と。こう聞くと、少し回りくどい返答をイエスがしたように感じられるかもしれません。しかしながら、原文は実にシンプルです。書いてあるのはただの2語、「あなたは言った」だけなのです。ただし、このような場合に主語を必要としないギリシア語において、「あなたは」を明示している点は注目に値します。ほかならぬあなたが言ったことだ、という意味で、含みの多い表現だということになるでしょう。
 マルコは「そうです」(マルコ14:62)と答えていましたが、これは「わたしはある」という神の称号でした。マタイはこれを避けました。その代わりに、きわめて人為的な発言のほうに焦点を当てました。ピラトの尋問における返答を、大祭司に対しても用いたのがマタイです。「わたしはある」は、マタイにとっては、神の御名にも等しい表現だとマタイには受けとめられます。これを安易に使いたくなかったのでしょうか。あるいは、この裁判の席では、イエスは堂々たる神の位格で振る舞っているのではなくて、人としての側面で裁判を受けていることから、「わたしはある」を輝かせる場面ではないと考えたのかもしれません。
 だから「あなたが言った」も、ここが人の側面でやりとりされている中での一コマだというわけなのでしょう。
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「お前は神の子、メシアなのか」(マタイ26:63)

2010-10-27 | マタイによる福音書
 大祭司は、立ち上がりました。興奮したことを現しています。「何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか」(マタイ26:62)と、マルコを引き継いでいます。マルコは、証人の証言が食い違っている点を指摘していますが、マタイはこれを省いています。食い違ったのでは、不利にはならないと気づいたのでしょうか。マルコで食い違ったというのは、記者マルコの立場、あるいはクリスチャン読者からの視点であって、それを唐突に入れたのでは、ストーリーの展開においては混乱を来します。それらは客観的に見ても食い違ったのかもしれませんが、この裁判の場ではそれが明らかにされていたわけではありませんでした。ですから、これは不利な証言としてもたらされたということになるのです。
 イエスは黙ったままでした。マルコの、答えなかったフレーズは消しています。たしかに必要ありません。しびれを切らした大祭司は、「生ける神に誓って我々に答えよ。お前は神の子、メシアなのか」(マタイ26:63)とイエスに問います。「お前はほむべき方の子、メシアなのか」(マルコ15:61)という問いと、微妙に違います。誓いを持ち出すことについては、マタイはマタイなりの考えをもっていました。それは、神に対してそれを返す義務を背負うことでした。ただ、おそらくイエスがその誓いそのものを退けたのに対して、マタイは、誓うことすべてを否むようにはしなかったものと考えられます。マルコだと、誓いそのものが出てこなかったのに対して、マタイは、誓うことに触れられるのはそのためです。
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「偽証」(マタイ26:59)

2010-10-26 | マタイによる福音書
 ユダヤの範囲でも、イエスを死刑にするための手段が画策されます。祭司長たちと最高法院の全員が、死刑にするために躍起になっている様子は、マルコも同様に描いています。マタイもそれを引き継いでいる、と言うべきでしょうか。ただマタイは、それを最初から「偽証」(マタイ26:59)だとしています。さらに「偽証人」(マタイ26:60)とも言い、もはや単に教会側からの解説ということに徹底しているかのように見えます。しかし、それは所詮偽証に過ぎません。その結果マタイははっきりと律法を踏まえて、「最後に二人の者が来」(マタイ26:60)たことを告げます。証人は二人以上でなければならないという規定があるので、それをはっきり示すわけです。
 彼らは、「この男は、『神の神殿を打ち倒し、三日あれば建てることができる』と言いました」(マタイ26:61)と証言しました。これに対する見解ははっきりと検討されていません。マルコは、食い違っていたことがありますが、マタイはこれがどうなのか、全く触れていません。もちろん、それはイエスの復活をにおわせていることは間違いないのですが、それは読者が信仰の下で理解すればよいことです。まるで、その場にいた者がこれをどう受けとめたかということなど、眼中にない様子です。
 面白いのは、マルコが、この神殿は「人間の手で造った」(マルコ14:58)としているのに対して、マタイがそれをばっさり削っていることです。マタイにとり神殿は神聖なのです。人間が造ったものに過ぎない、などという見解は、許せないわけです。その気持ちが、よく表れた改訂であると言えるでしょう。
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「事の成り行きを見ようと」(マタイ26:58)

2010-10-25 | マタイによる福音書
 イエスは、大祭司カイアファの許で裁判を受けます。マタイはその名をも明らかにします。律法学者たちもそこにいます。これは正式な裁判としての機能をどれほど有しているかは分かりませんが、でたらめであったようでもありません。要はこれが、宗教裁判であったということです。政治的には、そして死刑宣告を与えるためには、ローマの法廷を待たなければなりませんでしたが、さしあたりユダヤの域内で有罪とすることはできたのでしょう。それは、ユダヤ独自の宗教的な考えに基づいての裁判でなければなりませんでした。とにかく、ユダヤ人たちがユダヤ教というもので、どのようにイエスを取り扱ったのか、ということが大きな問題とされるわけです。マタイは、その教会のために、このことは明確にしておかなければならなかったのです。ですから、その大祭司名も疎かにすることはできませんでした。
 このとき「ペトロは遠く離れてイエスに従い、大祭司の屋敷の中庭まで行き、事の成り行きを見ようと、中に入って、下役たちと一緒に座っていた」(マタイ26:58)とマタイは描きます。マルコによると、ただペテロがなんとなくそこにいたようなことに過ぎないのに、マタイでは、ペトロは事の成り行きを見届けようとしている心理を描写しています。つまり、ペトロは理由があって、このような行動をとった、ということです。
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「このとき、弟子たちは皆」(マタイ26:56)

2010-10-24 | マタイによる福音書
 他方イエスは、群衆に向かっても言葉を投げかけたといいます。誰に向かって言ったのかについては、共観福音書の間でも差異があります。マタイは、群衆に向かっていいます。これは、教会の外の人々に対する言葉でもあります。マタイは、群衆というときには、そのような設定の下に言葉を発しています。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。わたしは毎日、神殿の境内に座って教えていたのに、あなたたちはわたしを捕らえなかった」(マタイ26:55)と、ほぼ三つの福音書にあるのと同様の言葉が、教会外の人々に対するメッセージとして告げられています。この場合、救いに至るかもしれない群衆とは少し違うようで、やはりイエスに敵対する勢力ですから、弟子たちを取り囲む敵たちを想定しているものと考えられます。そして、この「強盗」というのは、たんなる泥棒のようなもののことを言うのではありません。イエスと共に十字架に架けられたのもそうだとされますが、それは、政治犯です。ユダヤの独立などを求めて暴動を起こした過激派のことです。従ってここでも、イエスは、自分が政治的にユダヤ独立を図るとか、政治的な王になるとかいうわけではないということを、はっきり示していることになります。
 マタイにとり、聖書の預言の実現は重大な関心事でありますから、さきほどと重なろうとも繰り返されて、「このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書いたことが実現するためである」(マタイ26:56)とまとめられます。この後、イエスは沈黙に入ります。聖書の実現がもう宣言されてしまったのです。
 マルコはこの聖書の実現について、一度だけ触れており、ルカはもはやこの場では触れません。それぞれの関心がよく現れていると言えるのかもしれません。
 ルカはこれすらも省略しているのですが、「このとき、弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」(マタイ26:56)のでした。マタイは「このとき」と強調します。聖書の実現の一部であるかのように印象づけます。メシアは孤独になるのです。ですから、弟子たちが殊更にへまをしたというふうには聞こえにくいような気がします。
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「必ずこうなると書かれている聖書の言葉」(マタイ26:54)

2010-10-23 | マタイによる福音書
 イエスは、旧約聖書の預言の実現がこの救い主の犠牲につながるものであることを、この場においても明確にしようとします。「わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう」(マタイ26:53)とイエスは、剣を取った一人に対して手厳しく告げます。剣という方法をイエスは天の国の実現のために用いるのではないということを、明確にしておきたいかのようです。その天使の姿や当時の人々の理解については、よく分かりません。マタイの教会で、もしかするとこうした実際的な復讐や報復のことが、話題になっていたのかもしれません。神が果たしてローマ軍を滅ぼすのか、地上の私たちは何もしなくてよいのか、そんな議論が起こったとしても、不思議ではありません。
 ですから、まるで教会の信徒としての読者に対して教えるかのように、「しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう」(マタイ26:54)と言い、聖書すなわち律法の成就がここに成り立ったことを努々疑うことなかれと確認するのです。もちろんこの「聖書」という言葉は、「書かれたもの」ということですが、私たちが言う旧約の律法を指していることは明白です。それは「必ずこうなる」というレベルでなく、「そのように起こらなければならない」というほどの絶対性を有したものです。
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重要な事実

2010-10-22 | マタイによる福音書
 ユダの接近に対して、マルコはイエスの返事を載せていませんが、マタイとルカはそれぞれにイエスの返答を記しています。ルカは、裏切るのかとある意味で正当な反応を示していますが、マタイのイエスは「友よ、しようとしていることをするがよい」(マタイ26:50)と威厳高い態度で臨みます。ただしこの原文を直訳するとこれとは全く異なり、ある解釈のもとに意訳がしてあると見なされます。直訳は「このためにあなたは来たのか」という感じです。ルカとの距離が縮まるような気がします。
 ユダよ、私のもとに来るというのが、救いを求めて来るというのならともかく、私を売るためにやってくるというのは、悲しくないか。これまであなたに忠告もしていたが、その意味がついに分からなかったのか。こんなことをするために、あなたは来てしまったのか。私たちは、小説家にでもなったように、ここの表現を各人が考えていくことができるように思います。
 イエスは捕らえられました。「そのとき、イエスと一緒にいた者の一人が、手を伸ばして剣を抜き、大祭司の手下に打ちかかって、片方の耳を切り落とした」(マタイ26:51)というのは、マルコにも記述があります。ルカも触れていますから、多少の記事の相違はあるにせよ、教会に伝えられていた、重要な事実であったものと想像されます。マルコやマタイは、その行為者を、弟子の一人であるというふうには受け取っていないようです。ルカはよく分かりませんが、医者であると言われるルカは、すぐにこの怪我人をイエスが癒したことを書きとめています。また、ヨハネはこれを明確にペトロだと指摘しています。その意図はまたヨハネに委ねるとして、マタイに戻りましょう。
 マタイのイエスは、やはり権威をもってこの場で語ることを必要としていたようで、小さな演説をします。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」(マタイ26:52)というのは、ひとつには、ユダヤ戦争のことをちらつかせているのではないかとも予想されますが、ともかく神の子の救いなるものに目を向けさせるための一つの布石であったことになるでしょう。剣をもたらすのがメシアの救いではないのである、と。
 私たちの時代、これの受け止め方は慎重でなければなりませんが、マタイがマタイの意図の中で提示したこの言葉も、まさにイエスからの言葉であると受けとめて、剣をさやに納めることの必要性を、もっと重大な原則として捉えたいものです。
 なお、この「さや」という言葉は原文にはなく、「その場所に」と記してあります。こうなると、カイザルのものはカイザルに、という響きと重なるように聞こえなくもありません。剣を取る者が剣で滅びるという後半の文と、実は全く同じことを述べていると理解できます。原文の真意はそのあたりにあったのではないでしょうか。
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ユダの備えた悪意ある皮肉

2010-10-21 | マタイによる福音書
 イエスを裏切る者が来たという言葉に引っ張られてきたように、「イエスがまだ話しておられると、十二人の一人であるユダがやって来た」(マタイ26:47)のでした。共観福音書の記者たちは、いずれも、ユダが十二人のうちの一人であることを強調しています。イスラエルの十二部族に由来するであろうこの十二という数の中で、ひとつがイエスを裏切ります。かつてのイスラエルでは完全ではなかった、という意味なのでしょうか。
 剣なり棒なりを握って集まってきます。「祭司長たちや民の長老たちの遣わした大勢の群衆」(マタイ26:47)がイエスを捕らえるという流れになっていますが、ヨハネの福音書によれば、ここにローマ軍が関わってきます。現実的に考えて、ローマ軍がいなかったはずはないと思われます。暴動だと鎮められることになるでしょう。しかし、マルコはそれを記述しませんでした。マタイやルカも、それに従っています。
 ユダは、接吻することで、イエスであるというサインを送ることを決めていました。混乱した闇の中では、たしかに誰が誰だか分からないのが実情です。私たちの時代の環境に合わせてはいけません。このサインは、妥当なものだったと思われます。ユダにはイエスが分かりますが、他の人々には、暗闇ではそれが必ずしも分からないのです。あれほど世間を騒がせたイエスでさえ、その姿を明確に判別できるのは、限られた人物でしかなかったということでありましょうし、それだけまたイエスが目立った恰好をしてはいなかったということをも思わせます。
 ユダは「先生、こんばんは」(マタイ26:49)と言って、イエスに接吻しました。これは挨拶としてはごく普通のものであったと思われます。ユダは、ごく普通の行為でイエスを示すことに成功するわけです。「こんばんは」という訳も難しいものです。これもまた普通の挨拶言葉であるわけですが、原意としては、喜ばしいことであるとか、幸いであるとか、そういうニュアンスを含んでいますから、もしその原意をこめた訳があったとすれば、ユダの備えた悪意ある皮肉がより伝わったことであるでしょうし、さらに言えば、それがすべての罪人の救いにつながるものだとすれば、たしかに喜ばしい出来事であったに違いありません。受難を「良い日」と英語で称しますが、その謂われはともかくとして、この一言のうちに、そういう部分にまで言及することができたのではないでしょうか。
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「時が近づいた」(マタイ26:45-46)

2010-10-20 | マタイによる福音書
 また戻りました。弟子たちは眠っていました。ひどく眠かったことまでは、マルコのように記されていますが、マルコのように、どうこの場を切り抜けようかあたふたした様子を、マタイは省略しています。
 イエスは三度目の祈りをささげました。このような言葉を、眠っていた弟子が聞くことができるはずがない、と単純な疑問を呈するケースがあります。福音書記者はそれぞれの資料を用いていますから、何かしらルートがあってもおかしくありませんし、場合によってはそれは、別の弟子の証言であるのではないか、とも思われますが、その真相を探るのが目的でもありませんし、それを言い始めると、あらゆる聖書の記事に信用がおけなくなります。記録的な探究も意味がありましょうが、これをどういう意図で記したのか、そして読者はどう受けとめていけばよいのか、そちらから探るほうが有益です。
 イエスは三度戻ります。複数の証言という規定に基づくわけではないかもしれませんが、一度ではなく重ねた証拠によって、記事はより正当性を増すと考えられているのでしょう。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た」(マタイ26:45-46)と、場面は大きく動いていきます。眠り休むという言葉は、そのようにするといい命令調のようにも響くそうです。不自然なこの状況では、そのほうが的確かもしれません。また、「時が来た」というマルコの表現が、マタイでは「時が近づいた」になっています。これも、より正確な叙述であるかもしれませんが、穿った見方をすると、福音の時がもう来ているマルコに対して、終末がまだ来ていないという焦りすら見られる時代のマタイとでは、微妙に用いる語に影響を与えているかもしれません。
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「わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら」(マタイ26:42)

2010-10-19 | マタイによる福音書
 イエスは「更に、二度目に向こうへ行って祈られた」(マタイ26:42)のでした。「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように」(マタイ26:42)というその祈りは、マルコには書いてありません。ここはマタイの描いたイエスです。ルカに至っては、美しいフレーズを交えつつも、ごく短くこの記事を切り上げていますから、マタイがマルコを受け継ぎつつ、ここだけはどうしても言葉を添えたいと考えた箇所だとして注目されます。
 杯は審きですから、この審きは、イエスが受けなければならない、ということです。イエスは、まさに私たちの罪のために、罪の身代わりに死んでくださった、救い主だということです。教会でいつもそのように教えられているではないか、その通りなのだ、と、読者である信徒に重ねて訴えかける言葉となっています。
 イエスは、まるでイサクのようです。神の前に献げられることになった独り息子です。すると、父アブラハムは、まさに父なる神です。神は尊崇すべき対象であり気軽に話しかけられない方であると理解するマタイは、マルコのように、「おとうちゃん」のような「アッバ」(マルコ14:36)を省いたにせよ、天の父という観点を失うことはありませんから、天の父もまた、この杯については、イエスを献げることについて、多大なる痛みを覚えているに違いありません。アブラハムに対して、御使いがストップをかけるシーンがありましたが、ここではそのストップを誰もかけることができません。人の罪を背負うというのは、それほどに大きなことであるのです。
 はたしてイサクは、どんな思いだったのでしょうか。無言で従順についていっただけのようにしか描かれていませんが、もしかすると、このイエスの苦しみの祈りは、イサクの心情を解釈しているのかもしれません。
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