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エウアンゲリオン

新約聖書研究は四福音書と使徒言行録が完了しました。
新たに、ショート・メッセージで信仰を育み励ましを具えます。

「ユダヤ人の王、万歳」(マタイ27:29)

2010-11-17 | マタイによる福音書
 兵士がイエスを侮辱した様子については、マタイはマルコと大きく変えることはしていません。外套を着せる前に最初の着物を脱がせたはずだという論理的な補足を加えるのはマタイらしいのですが、この脱がせるという語は逆に着せたという語だという写本の説があるというので、微妙な判断になるかもしれません。他には、イエスに葦の棒を持たせたことが違うのも、細かなことと言えましょう。修正は、服の色です。マルコは紫だったのが、マタイは「赤い外套」(マタイ27:28)に換えています。正確に言えば、緋色です。紫は最高級の色なのでどこか不自然な設定だとマタイは考えたのではないかと思われます。ローマ兵は緋色の外套を羽織っていました。だからこのほうが自然です。
 兵士たちは「ユダヤ人の王、万歳」(マタイ27:29)と言いました。それは、なぶるための言葉でした。聞くに堪えない言葉でした。はたして、「お前がユダヤ人の王なのか」(マタイ27:11)という問いに対して、読者は、この兵士たちは別の意味で、この言葉を発するのでしょうか。
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「部隊の全員を」(マタイ27:27)

2010-11-16 | マタイによる福音書
 イエスはローマ兵たちの侮辱を受けます。不思議なことに、ルカはこのシーンを描いていません。
 それはともかく、マタイはここでマルコと明確に対立します。「総督の兵士たちは、イエスを総督官邸に連れて行き、部隊の全員をイエスの周りに集めた」(マタイ27:27)と記しています。そもそも新共同訳では、マルコもまたこれとあまり差が感じられない訳にごまかしてあるのですが、マルコの表現は曰く付きの箇所であり、要するにマルコのギリシア語が上手でないために、通常なら理解しづらいような、端折った表現になっているのです。それで新共同訳はそこをうまく回避して、流暢な日本語にしてしまっているために、逆にマタイとの差が見えなくなってしまいました。マルコは、兵士たちがイエスを、総督邸の中から中庭に引いて行き、そこで辱めたとしています。それに対して、マルコのギリシア語を直そうと添削を加えたマタイは、兵士たちが総督邸の中にイエスを連れて行って辱めたことにしてしまいました。いったいそれでは、イエスの裁判は、どこで行われていたのでしょう。マタイは、中庭でしていたようになってしまいます。それも、ローマ式にはありえないことではないようです。むしろ、自らの身の汚れを避けるために異邦人の家に無闇に踏み込まないユダヤの律法に従う祭司長や長老たちは、いとも簡単に総督邸の内部に入り込むはずがないという理解のためか、中庭の公開の場で裁判をしたことにして、邸宅の外から群衆が逐一反応したのだという状況設定をうまく創りだしたことになるでしょう。つまり、マルコとマタイとでは、裁判をした場所と辱めた場所とが正反対の構造になっているというわけです。ただ、ヨハネの福音書の細かなやりとりを考慮に入れると、実はこちらが事の次第を正確に伝える役割を負っているようで、このマタイとマルコの矛盾が解消される、とも言われています。ヨハネでは、群衆の反応を見るために、ピラトは邸宅の中から外にわざわざ出て行くのです。ヨハネを見る限り、不自然さは感じられません。マタイはマルコのまずいギリシア語を中途半端に直した結果、状況の説明も中途半端になってしまったということになると思われます。
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「十字架につけるために引き渡した」(マタイ27:26)

2010-11-15 | マタイによる福音書
 マタイはそれだけで飽きたらず、さらにユダヤ人の責任を前面に出してきます。ピラトが彼らに、イエスの悪事はいったい何かと尋ねると、そんな質問にはまともに答えようともしないで、「群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び続けた」(マタイ27:23)のでした。こちらも同じように、イエスが十字架につけられよ、という形の命令です。どこまでもイエスを滅ぼそうとたたみかけてやまないユダヤ人たちをマタイは描こうとしています。
 そのために、マタイがまた独自のエピソードを挿入します。ピラトは手を洗い、この事態とは無関係であるけじめをつけたとした上で、「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ」(マタイ27:24)と宣言しました。直訳すれば「おまえたちは自分で見るだろう」のような言葉になっています。これは未来形ですが、「見るがいい」のニュアンスである可能性が高いはずです。だいぶくだけた言い方ですが「ざまあみろ」の元の意味のようなもので、自分で自分の行く末を決めたんだから自分で悟って悲しんでおけ、というふうな捨てぜりふにも聞こえます。ユダヤ人たちは口を揃えて「その血の責任は、我々と子孫にある」(マタイ27:25)と答えました。「民」(マタイ27:25)とはイスラエルの民です。イスラエル人、ユダヤ人は皆、こう言ったというのです。いいですとも、後はどうなってもそれは自分の責任ということにしますから、さあとにかく早く死刑にしてくださいな、と。この事が、後世のユダヤ人迫害に結びついていくのは、マタイがひどくユダヤ人を憎んだことに端を発するものですが、マタイの福音書が福音書の頭として掲げられたことと無関係でもないと思われます。とにかくペトロに由来するキリスト教会は、ユダヤ人が全責任を負うと言ったことを忘れはしませんぞ、と宣言しているのです。
 マタイの時代に、クリスチャンはユダヤ人の迫害を強く受けていました。そのこととこれは関係しているとも言えます。しかし、悲しい歴史をも生んでいくことになるわけです。
 こうしてピラトは、法に従って、「バラバを釈放し、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した」(マタイ27:26)のでした。
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「十字架につけろ」(マタイ27:22)

2010-11-14 | マタイによる福音書
 ピラトは「二人のうち、どちらを釈放してほしいのか」(マタイ27:21)と尋ねます。祭司長や長老たちの説明を受けて群衆もその気になっていたため、人々はバラバのほうを釈放しろと要求しました。こういうときに、一つの意見が優勢になると、傾いた天秤のように、もうそちらのほうに一方的に傾いていってしまいます。
 群衆が望んだ一人を釈放するというのが慣習です。群衆が望んだのは、バラバの釈放だということが決まりました。「では、メシアといわれているイエスの方は、どうしたらよいか」(マタイ27:22)と、ピラトが案じます。法的には、どうにかしないといけないわけです。ユダヤ人たちはこぞって「十字架につけろ」(マタイ27:22)と叫びます。
 日本語訳ではただそれだけのことなのですが、興味深い事実があります。それは、この「十字架につけろ」の動詞の活用形が違うということです。マルコだと、他動詞の形でいわばその日本語の通りなのですが、マタイは三人称単数となり、イエスが十字架につけられるように、という感じに聞こえます。ピラトの問いに対して、ピラトがどうすればよいか、というのではなく、二人のうちのそのイエスは十字架へ、という強い憎しみとなって攻撃してきているようにも響きます。
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「群衆を説得した」(マタイ27:20)

2010-11-13 | マタイによる福音書
 しかし事態は突き進みます。「祭司長たちや長老たちは、バラバを釈放して、イエスを死刑に処してもらうようにと群衆を説得した」(マタイ27:20)のです。マルコのように「扇動した」の表現が少し強いのかもしれませんが、「説得した」というのもあまりにも弱気です。その中間くらいの響きが適切ではないかと感じます。何もわざわざ説得するまで、群衆を変えたわけではありませんが、何も判断できない群衆をただ操ったというのもどうでしょうか。マタイは、ユダヤ人である群衆全体にも責任をきちんと被せます。ここにいたすべての者に、罪があります。
 読者は、イエスによって「あなたは私をユダヤ人の王だと言うか」と問いかけられており、ここでこのユダヤ人たちになってしまうのか、と突きつけられています。しかも、一旦はそうだったのだ、と肯定するしかありません。私はイエスを十字架につけた張本人なのです。これを肯定しないのは、クリスチャンではない、と言い切れるほどです。
 イエスよ滅べ。群衆は、その意見になびきました。なびきましたが、ただ扇動されたのではありません。自ら納得して、そのように主張したのです。たとえ誰かの意見に惑わされたにしても、人々は自らイエスを追い込んだのです。そこに、罪があります。人のせいでなく、自分の罪だという意識がはたらきます。これなしには、クリスチャンはありえません。
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マタイの「夢」

2010-11-12 | マタイによる福音書
 マタイは、バラバのことを「評判の」(マタイ27:16)と、マタイの視点による編集をしているように見えます。「ねたみのため」(マタイ27:18)というのはマルコも同じですが、ねたんだのはマルコのように祭司長のねたみのみならず、人々という言い方にしています。さらに、妻のエピソードはこれまた独特のものとなります。果たして資料に基づくものなのか、マタイの演出であるのか、そのあたりさえもよく分かりません。
 夢は、マタイの福音書の最初でも大きな役割を演じていました。聖霊降臨のヨエル書引用のほかには、新約聖書で「夢」を取り扱っているのは、マタイのみなのです。この夢の物語は、決して小さな扱いではないはずです。
 ユダヤ文化において、夢はたんなる夢想ではなく、現実にはたらきかける神からの知恵であったので、この異邦人の妻にさえも、はたらくとなると、ただごとではありません。「あの正しい人に関係しないでください。その人のことで、わたしは昨夜、夢で随分苦しめられました」(マタイ27:19)という台詞です。「昨夜」は恐らく「今日」を間違えて訳しているのでしょう。わざわざ換える必要のない配慮です。
 こうした夢に従う、ヨセフなどのユダヤ人と、異邦人ピラトとの違いが際立ちます。ピラトは、どこか理知的に振る舞いためらいながらも、地位保全から理知に拠らぬ結論に流されていってしまうのです。この夢のお告げにも従うことなく。
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「イエス」という名

2010-11-11 | マタイによる福音書
 ここにいたのが、「バラバ・イエスという評判の囚人」(マタイ27:16)でした。語感としては、たまたまそういう者がいたのだが、という感じでしょうか。「イエス」という名を付けているのは、マタイのみです。しかも、ここには問題が発生します。この「イエス」は、ややマイナーな写本にしか付いていないことです。そこで、通例これは訳出する必要がない、あるいは括弧付きで説明に留めるというのが普通なのです。新共同訳は、この配慮をせずにそのまま出してきました。これは、「どちらを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか。それともメシアといわれるイエスか」(マタイ27:17)というピラトの台詞をより劇的に示すためにしたことではないかと推測されます。イエスという名そのものは、特別珍しいものではありませんでしたから、バラバの名がイエスであったとしても、不思議ではありません。ただ、同じ名をもつこの二人のうちのどちらを許すことにするのか、という問いかけは、なかなかドラマチックです。そこで、この訳語を新共同訳では外すことができなかったのではないか、という見方です。
 ただし、原文では「イエス・バラバ」の語順となっており、この点でも、新共同訳の順序は素直ではありません。訳出の意図というものでしょうか。これは、口語訳でもしていないことだったので、おそらくはカトリック教会側の意見を通したことになるのではないでしょうか。マタイの福音書については、カトリック側は妥協しないところがあるのでしょう。
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「民衆の希望する囚人」(マタイ27:15)

2010-11-10 | マタイによる福音書
 ピラトは、これまでの反乱とは違い、この目の前のイエスに、ローマ的な犯罪性を見出すことができないと判断しました。暴動自体起きていない。罪状は、ユダヤ人の何か宗教的な規定のようだ。もしかすると内部的な分裂や諍いに過ぎないのかもしれない。少なくともローマに手向かい刃を向けたという証拠を見出すことができない。ローマ本国の裁判の中では、これは法的に、少なくとも死刑のようなところまでたどり着くような事例ではない、と冷静には判断できたのでしょう。しかしながら、このユダヤ人の大群は、飢えた野獣のように、この弱々しい男を死刑にしたがっている。もしこの大群の意向に自分が反対の結論を下したら、今度はこの群衆が怒りの拳を向けるかもしれないし、まかり間違えば暴動が発生するかもしれない。すると、ローマから派遣された自分の政治的生命にも関わる事態となる。さすが政治的に長けた人間は、一瞬のうちに、こうした事情を腹の中で計算し、どうすればこの矛盾する状況を打開することができるか、知恵を絞り出すことができるのです。
 ピラトは思い出しました。「祭りの度ごとに、総督は民衆の希望する囚人を一人釈放することにしていた」(マタイ27:15)という習慣を。マルコが「願い出る」と用いている表現を、マタイは「希望する」に換えました。この場合は、わざわざ願い出たことにはならないから、マタイはこの状況に合わせたのかもしれません。
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「お答えにならなかった」(マタイ27:14)

2010-11-09 | マタイによる福音書
 もはやこの福音書記者はそれを詳述しませんが、「祭司長たちや長老たち」(マタイ27:12)は、イエスの罪状を訴えていました。ルカはその事情が分かりづらいと思ったのか、やや演出めいてヘロデまで登場させてその内容を少しでも説明しようと努力しています。マルコとマタイはそのままです。ヨハネは、ここにやや哲学的にも聞こえる問答を交えています。ともかくしかしイエスは、「これには何もお答えにならなかった」(マタイ27:12)のです。
 このことは、ピラトには意外でした。被告人は、弁明をするはずです。それが、全くしようとしないのですから。「あのようにお前に不利な証言をしているのに、聞こえないのか」(マタイ27:13)と、イエスに問いかけました。「それでも、どんな訴えにもお答えにならなかったので、総督は非常に不思議に思った」(マタイ27:14)とあるように、ピラトはこの裁判に何らかの異常性を感じてはいたのです。
 というのは、これまでにもユダヤの救世主だと言ってローマに刃向かい、暴動を起こした首謀者については、ピラトはたくさんの情報を得ていたはずであり、この裁判においても、また同じようなことかと呆れてあるいは侮蔑の気持ちで出向いたことでしょうが、この孤独な力無い首謀者は、それまでの謀反事件とはあまりに違う姿に見えたに違いないからです。
 イエスはついに、「あなたが言う」という一言だけを、この裁判では口にしたのみでした。それは繰り返しますが、読者へ向けて、あなたが言っている、と問いかけるかのような響きを残しています。ただ一言しかなかっただけに、この言葉の重みを感じないではいられません。
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「お前がユダヤ人の王なのか」(マタイ27:11)

2010-11-08 | マタイによる福音書
 ピラトの裁判が始まりました。「総督」ではなく「代官」であると田川建三は主張します。ともかく、まず訊かれたことは、「お前がユダヤ人の王なのか」(マタイ27:11)ということでした。この質問は、四福音書すべてが問うています。それほど、この裁判にとって重要な問いでした。
 ピラトの裁判を、どうやって福音書記者は描くことができたのでしょうか。それは謎です。何かの取材資料があったはずです。しかし、ヨハネを含む四つともが、この問いを掲載していることは、この裁判にとって、この問題が如何に重要であったかを明確に物語っています。イエスの裁判は、この点で争われたものだったのです。
 また、これに対するイエスの返答も「それは、あなたが言っていることです」(マタイ27:11)と、四つに共通しています。ヨハネの場合は、多少込み入った議論が交わされたことが記録されていますが、つまるところ、この返答に行き着いています。共観福音書は、即座にこの返答がなされています。「あなたが言う」というのがその原文の形式です。
 これは、読者ではないでしょうか。もはやピラトだけの問題ではなく、この福音書を読む読者が、イエスを王と言うのかどうか、そこが突きつけられているのではないでしょうか。もちろん、政治的な王だという意味で終わるものではありません。王の王、主の主としてのキリストを、果たして読者は答えるのかどうか、そこが問われているわけです。
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「血の畑」(マタイ27:8)

2010-11-07 | マタイによる福音書
 祭司長たちは、この銀貨を拾い上げました。「これは血の代金だから、神殿の収入にするわけにはいかない」(マタイ27:6)のだそうです。律法に従うマタイですから、血はいのちだという規定から説明しなければならなかったのでしょう。彼らは協議の上、「その金で「陶器職人の畑」を買い、外国人の墓地にすることにした」(マタイ27:7)のでした。これには謂われが続き、そのためにこれは「血の畑」(マタイ27:8)と呼ばれていること、これはエレミヤ書の記述に基づいていることが触れられます。マタイの解釈でもあるでしょうが、エレミヤの引用でないのではないか、という疑惑が古来なされていました。むしろ、ゼカリヤ書11:13に「主はわたしに言われた。「それを鋳物師に投げ与えよ。わたしが彼らによって値をつけられた見事な金額を。」わたしはその銀三十シェケルを取って、主の神殿で鋳物師に投げ与えた」とあるほうが相応しいのではないか、と言われています。「鋳物師」も「陶器職人」も内実としては同じものを指すわけで、その点で問題はありません。ただ、エレミヤ書に陶工の話があるわけで、こじつけようとすればエレミヤ書に関連させることはできるかもしれませんが、やはりそれはマタイの権威を落としたくない教会の伝統のための強弁であるように見えてしまいます。
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「お前の問題だ」(マタイ27:4)

2010-11-06 | マタイによる福音書
 ユダが、銀貨を返してなんとかこの罪から逃れようとしたのに対して、当局は「我々の知ったことではない。お前の問題だ」(マタイ27:4)と冷たく返答します。政治というのはそういうもので、個人的な事情に左右されている余地などありません。大局を動かすことこそ重要です。政府や権力の建前を健全にし、それを維持していくことにこそ重きがありますから、この言明はまさにその通りです。「私たちに対して何なのだ。お前自身で片づけよ」というふうな言葉です。これを冷たく感じるのは読者誰しもそうでしょうが、果たして私たちはこのような言い方をすることはないでしょうか。隣人に対して、私たちはたいていの場合、このような考え方をしていないでしょうか。イエスが愛することを命ずるとき、このようには考えるな、と言っているのではないでしょうか。
 この結果、「ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ」(マタイ27:5)のでした。神のものは神に返したのでしょうか。死ぬにしても、金はそこまで持って行けなかったのです。あるいは、せめて償ったつもりだったのでしょうか。しかし、イエスの果たした償い、つまり購いというのは、これとは全く異質のものでした。イエスがこの後殺されます。他方、ユダが首を吊ります。高いところに架けられて死ぬというのは、非常に屈辱的なことであるはずです。エステル記のハマンが「自分がモルデカイのために立てた柱につるされ」(エステル7:10)たことを想起します。この対照的な死は、極めて対照的な結果につながります。復活と永遠の命、そして永遠の滅び。
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「罪を犯しました」(マタイ27:4)

2010-11-05 | マタイによる福音書
 マタイはこう描きます。「そのころ、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言った」(マタイ27:3-4)
 ユダが、良心の呵責を覚えて、償いを図ったというふうにも見えます。エレミヤがベン・ヒノムの谷でエルサレムに向けて災いを告げるとき、「無実の人の血で満たした」(エレミヤ19:4)のがその理由だと記されている部分があります。マタイはここを頭に置いていたに違いないと思われます。だから、「預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した」(マタイ27:9)と触れられているのでしょう。
 なぜユダはイエスを裏切ったのでしょうか。このように直ちに後悔するくらいなら、もう少し考えて冷静に行動すればよかったのに。いえ、人間の判断とは、そのようなものです。その程度の誤った判断を容易に下すということは、誰でも経験があることです。
 金銭の問題があったのかもしれないし、政治的メシアとした期待したイエスに失望したのかもしれないし、聖書の叙述から考えられる様々な理由が検討されました。しかしまた、マタイにしろルカにしろ、それぞれの目的でそれぞれの観点からユダを描いたとなると、それらを統一した真実のユダ像というものがそこから推定できるかどうかさえも、疑問です。おそらく言えることは、私たち自分自身の中に、このユダがいる、ということに気づき、警戒していくことでありましょう。
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ユダの最期

2010-11-04 | マタイによる福音書
 ここでマタイは一服おいて、ユダについて語ります。もはやどの福音書記者もこのような語り方はしませんから、マタイ独自の編集ということになります。ただし、使徒言行録にもユダの末路について説明が施されています。このマタイのエピソードとは異なる内容です。こちらはルカの手によるとされていますから、ルカの福音書と、ユダの最期について別の資料があったということになります。
 イエスを裏切ったユダは、イエスの逮捕について決定的な役割を果たしていますが、それだけのことをした以上、ユダはその後どうなったか、という問題は、キリスト教会の信徒たちの関心を呼ばないはずはありませんでした。しかし、マルコがそれを問題としなかった点、本来信仰のためには必要がなかった内容であるとも思われ、事実、確実な資料が基盤としてなかったのだというふうにも理解されるでしょう。
 マタイは創作したのでしょうか。分かりません。マタイは、旧約の預言の成就に関心をもっていますから、このユダの最期についても、旧約聖書に関わるものでなければなりません。しかし、使徒言行録もまた引用を施しているにせよ、それとは引用箇所が異なります。そちらは詩編ですが、マタイによる引用はエレミヤ書です。マタイは、銀貨の価値に引っ張られています。ルカの場合は、その後継者をどう選ぶかという問題に関わっていましたので、また観点が違うものと思われます。
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総督

2010-11-03 | マタイによる福音書
 ところでここにも「総督」で通っているピラトの肩書きですが、さてどのようなものでしょうか。皇帝の直轄地の頭ということなのでしょうが、ユダヤは特別にそうした扱いになっていない地域でした。シリア総督のまた下の地位ではなかったかと想像されます。ピラトは、特別に高い地位にあったというわけではありませんでした。しかしそれ故にまた、こうした裁判に直接関わり、事務的なことを任されていたというふうにも捉えられるでしょう。
 イエスの側からすれば、引き渡されたことになります。屠り場に連れて行かれる小羊のように、すでに決定された死へと引き渡されたのです。それは、ヨハネほどに強く示されるものではないにしろ、マタイもまた、このことが救い主の道であるということが強く意識されています。なお、ヨハネはこの点で、総督官邸にユダヤ人が入って身を汚そうとしなかったことを指摘しており、細かな説明が施されているものと感心します。マタイもまた、律法にうるさすぎるほどうるさいのでありましたが、この点は解説しませんでした。それとも、あまりにも当たり前すぎて、書く必要もないということだったのでしょうか。
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