さらに「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」(マタイ27:49)と言う者がいたということで、ユダヤ人たちの身勝手な論理を感じてしまいます。イエスを真に助けようという思いでやったというよりも、どこか実験的な手段として、気付け薬を用いているように聞こえるからです。
こうして「イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた」(マタイ27:50)のでした。マルコの記述に従っています。この最期について、ルカは殉教者のようなイエスの描き方をしているように見受けられます。ヨハネは、子としての使命を完了したことを自ら宣言して息絶えます。マタイは、「霊を引きとった」という2語で表しています。「霊を引き渡した」という感じでしょうか。マルコはまさに「息絶えた」というふうな1語です。
ここで何を大きな声で叫んだのでしょうか。そこに、ルカあるいはヨハネの踏み込み余地があったのかもしれません。意味不明だったのかもしれません。とにかくそれは叫びでした。言葉にならない叫びだったのでしょうか。もはや言葉というものを超えた悲鳴だったのでしょうか。それは謎です。私たち読者の耳に何度も残るような印象を与えるこの効果は、十字架の描写における、読者への問いかけであるのかもしれません。信仰者は、これをどう受けとめるのか。何と聞くのか。ひとりひとりに対して、別々の言葉を用意するために、神が空白にしておいた台詞なのでしょうか。
ルカが描いていることなのですが、これは「太陽は光を失っていた」(ルカ23:45)という情景に相応しい出来事だったのでしょう。
こうして、静かに時が止まります。
こうして「イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた」(マタイ27:50)のでした。マルコの記述に従っています。この最期について、ルカは殉教者のようなイエスの描き方をしているように見受けられます。ヨハネは、子としての使命を完了したことを自ら宣言して息絶えます。マタイは、「霊を引きとった」という2語で表しています。「霊を引き渡した」という感じでしょうか。マルコはまさに「息絶えた」というふうな1語です。
ここで何を大きな声で叫んだのでしょうか。そこに、ルカあるいはヨハネの踏み込み余地があったのかもしれません。意味不明だったのかもしれません。とにかくそれは叫びでした。言葉にならない叫びだったのでしょうか。もはや言葉というものを超えた悲鳴だったのでしょうか。それは謎です。私たち読者の耳に何度も残るような印象を与えるこの効果は、十字架の描写における、読者への問いかけであるのかもしれません。信仰者は、これをどう受けとめるのか。何と聞くのか。ひとりひとりに対して、別々の言葉を用意するために、神が空白にしておいた台詞なのでしょうか。
ルカが描いていることなのですが、これは「太陽は光を失っていた」(ルカ23:45)という情景に相応しい出来事だったのでしょう。
こうして、静かに時が止まります。