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エウアンゲリオン

新約聖書研究は四福音書と使徒言行録が完了しました。
新たに、ショート・メッセージで信仰を育み励ましを具えます。

「息を引き取られた」(マタイ27:50)

2010-12-02 | マタイによる福音書
 さらに「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」(マタイ27:49)と言う者がいたということで、ユダヤ人たちの身勝手な論理を感じてしまいます。イエスを真に助けようという思いでやったというよりも、どこか実験的な手段として、気付け薬を用いているように聞こえるからです。
 こうして「イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた」(マタイ27:50)のでした。マルコの記述に従っています。この最期について、ルカは殉教者のようなイエスの描き方をしているように見受けられます。ヨハネは、子としての使命を完了したことを自ら宣言して息絶えます。マタイは、「霊を引きとった」という2語で表しています。「霊を引き渡した」という感じでしょうか。マルコはまさに「息絶えた」というふうな1語です。
 ここで何を大きな声で叫んだのでしょうか。そこに、ルカあるいはヨハネの踏み込み余地があったのかもしれません。意味不明だったのかもしれません。とにかくそれは叫びでした。言葉にならない叫びだったのでしょうか。もはや言葉というものを超えた悲鳴だったのでしょうか。それは謎です。私たち読者の耳に何度も残るような印象を与えるこの効果は、十字架の描写における、読者への問いかけであるのかもしれません。信仰者は、これをどう受けとめるのか。何と聞くのか。ひとりひとりに対して、別々の言葉を用意するために、神が空白にしておいた台詞なのでしょうか。
 ルカが描いていることなのですが、これは「太陽は光を失っていた」(ルカ23:45)という情景に相応しい出来事だったのでしょう。
 こうして、静かに時が止まります。
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「そこに居合わせた人々」(マタイ27:47)

2010-12-01 | マタイによる福音書
 改めて、「そのうちの一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとした」(マタイ27:48)とあるのは、「そこに居合わせた人々」(マタイ27:47)の誰かです。「そこを通りかかった人」(マタイ27:39)はイエスを罵ったのに対して、居合わせた人々は助けようとしたのです。これは勇気ある行動だったと思います。どうやら「居合わせた」というのは訳しすぎのようで、そこに「立っていた」という程度だとも言われますが、立っていた者のうちのある者がそのようにしたのです。
 水と酢、それにたぶん卵も混ぜたものがその正体ではないかと言われていすま。これは麻酔の効果を与えようとしたと理解されます。あるいは、日本でいう「末期の水」の意味合いもあったかと思われます。
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「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46)

2010-11-30 | マタイによる福音書
 ここで「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46)と意味を説明しているのは、マルコに倣ってのことと思われます。これはユダヤ文化に由来するものですから、ルカはこの一件を削除しています。これは詩編22編の冒頭ですが、その最後は神を讃美するゆえに、イエスはそこを示すことを意図したのだ、という解釈もあります。いかにも福音的なのですが、それでは少なくともマルコの理解を曲げることになりかねません。マルコは、地上を歩まれたイエスの背中を描きます。私たちはそれに従いたいのです。あの弟子たちも失敗ばかり繰り返した、そのイエスへの従順を、読者はどこまで追うことができるのか、マルコは問うています。イエスは、苦しみを背負われたのです。その苦しみと痛みをまともに示すこの絶望的な言葉を、読者はどう聞けばよいのか、問うているのです。マタイはそこまでマルコの路線を辿っているわけではありませんが、このマルコの意図を改変するほどまでに、この十字架の事件を変更しようとは考えませんでした。イエスは苦しみを代わりに受けてくださった救い主であることについて、マタイは外すことはありませんから、イエスは私たちの受けるべき苦しみを、ここで完全に背負わなければなりません。絶望でも、構わないのです。
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「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(マタイ27:46)

2010-11-29 | マタイによる福音書
 マタイは、イエスの叫びを「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(マタイ27:46)と記しています。マルコは「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」(マルコ15:34)でした。アラム語とヘブライ語との違いであるとか、ローマ兵にはそう聞こえたのだとか、いろいろな説がありますが、マタイがわざわざ換えているところには、意味があるというよりも、マタイがマルコの下手なギリシア語を修正しようとして手を加えたとするほうが、これまでの状況からしても自然な解釈です。マタイにしてみれば、こちらが適切だと判断したということなのでしょう。また、それが「この人はエリヤを呼んでいる」(マタイ27:47)という捉え方を誘った点も、マタイは気にしていたのではないでしょうか。エリヤの助けは、ユダヤ人の素朴な信仰の一つでした。
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「昼の十二時に、全地は暗くなり」(マタイ27:45)

2010-11-28 | マタイによる福音書
 マタイは基本的にはマルコに従っています。独自の脚色をこの場面では好まなかったせいであるのか、あるいはこの場面に自分がことさらにこだわりをもっていなかったせいであるのか、それは推測の域を出ません。
 こうして「昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた」(マタイ27:45)とあるのは、共観福音書に共通する記述です。ヨハネだけが、どうやら十字架に磔にされたのが午後であるようなので、他は午前のうちにと推測されます。マルコはそれを九時に設定していましたが、マタイはそこを略しました。はたして日蝕のせいであるのか、とにかく人類の闇がそこにあったというのは、そういうことはこだわりすぎないようにしましょう。とくにマタイは、どこか荒唐無稽に聞こえる記述さえしています。が、それらもユダヤ文化の中では意味のあることであったでしょうし、そういう見方や考え方をするものであったとすべきだと思われます。私たちの文化からそれを一方的に嘲笑するようなことはできません。
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「強盗たちも、同じように」(マタイ27:44)

2010-11-27 | マタイによる福音書
 マタイにとり、この十字架のイエスが特別に大きな象徴となっているわけでもなく、またマルコもそのように記していることから、「一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった」(マタイ27:44)と、ルカのような美しい対比をここには持ち出してはいません。資料の上からは、そちらが史実に近いのではないかと思われますが、どうでしょうか。尤も、このように死に瀕してなお叫ぶ力があるという状況は、まさに断末魔の悲鳴に似たものであったことでしょうから、この政治犯たちを私たちが非難する理由は何もありません。私たちはそのような立場に置かれていないのですから、高みに立つような考え方はとりたくないものです。福音書記者にとっては、この政治犯たちもなお、イエスを正しく理解しなかった者であるに過ぎないのです。それだけのことです。
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ユダヤ教側の悪辣な部分

2010-11-26 | マタイによる福音書
 十字架刑に処せられる者に対して、同情は禁物です。それを否定するような素振りをするとなると、体制に反逆するものと見なされるかもしれないのです。しかし、それにしても、あまりに惨い要求です。マタイは、ユダヤ人に対して明確にこの十字架についての責任を負わせようとしているかのようです。もちろん、マルコもそのあたりを淡々と描いています。しかし「祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に」(マタイ27:41)と、長老たちも仲間に加えたのはマタイです。「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう」(マタイ27:42)と罵り、イエスの弱みをさらに突き立てます。こうなると、荒野の悪魔以上の痛めつけ方です。マタイは付けていませんが、ここは「イスラエルの王ならば」の感覚で語られているように思われます。「神の子なら」に近い感覚です。
 マタイはさらにこのユダヤ人権力者たちの罪を明示するためにか、「神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから」(マタイ27:43)と侮蔑の言葉を付け加えています。ユダヤ教の論理を背景に、誘惑を続けているようなものですが、それにしても、マタイが徹底的にユダヤ教側の悪辣な部分を描こうとしている姿勢を強く感じないではいられません。彼らが、彼らこそが、イエスを十字架につけたのであり、イエスをとことん罵り続けたというふうに描くのです。
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「神の子なら」(マタイ27:40)

2010-11-25 | マタイによる福音書
 マルコと同様にマタイも、「そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって」(マタイ7:39)、「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」(マタイ27:40)と記しています。詩編22:8にあるように、頭を振っているのでしょう。ルカは、この言葉を兵士たちに言わせています。また、審かれる囚人の一人も同様に文句を言っています。ただしそれは、自分をも救えという言い方にはなっています。ヨハネはこうした部分は描いていません。
 宣教に先立つ荒野の試みにおいて、石をパンに換えてみよと悪魔がイエスに迫りました。しかし、イエスはいのちの根拠を示すことにより、能力をそのようなことに使うことを拒みました。マタイの中では、この人々の罵声もまた、悪魔の誘いと同様のものに聞こえていたのかもしれません。「神の子なら」というのは、まさに荒野の悪魔と同じではありませんか。マタイは完全に同じフレーズをここで用いているのです。
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三本の十字架

2010-11-24 | マタイによる福音書
 もちろんその「強盗」というのは、物盗りのことではなく、政治犯だということを意味しています。その首謀者あたりは間違いなくこのような刑になることでしょう。バラバではなかったわけで、はたしてバラバはこのときにどこにいたのか、気になります。またこのとき、イエスより前に二人が十字架につけられていたかのように日本語訳では読めますが、原語はそういうふうには伝えていません。まずイエスであって、次に二人です。このあたり、マルコと何ら違ったことをマタイは告げているのではありません。
 十字架は、ときに一本ではなく、三本立てられます。中央がイエスです。そのとき、神の審きがなされることを示すために、山羊と羊とに分けるごとく、一方を善ととるときがあります。ルカの福音書がそれを大きく描き分けています。しかし、他の福音書記者は、そのようには意識していません。ルカはエルサレムに大きな関心をもっていますから、そこでのこの十字架の出来事については、できるだけ詳しく描こうという意図をもっています。この十字架にも何か意味を見出して、しかもそれがユダヤ人だけにしか分からないような背景ではなく、異邦人に広く理解でき受け容れられやすいようなあり方で説明を施そうとする傾向がありますから、そのように明瞭に描いているのかもしれません。
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「これはユダヤ人の王イエスである」(マタイ27:37)

2010-11-23 | マタイによる福音書
 いわゆる罪状書きには「これはユダヤ人の王イエスである」(マタイ27:37)と書かれてありました。マルコは「ユダヤ人の王」(マルコ15:26)でした。ルカは「これはユダヤ人の王」(ルカ23:38)、ヨハネは「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」(ヨハネ19:19)でした。マタイだけが、「である」を含んでいます。まるでヨハネが神の顕現として用いるような動詞を含ませていますが、マタイにはそのような意図はないはずです。マタイが、名詞の羅列ではなく、文として正式に成立させたのは、注目に値します。
 いずれにしても、どの福音書も、読者に迫るのです。あなたはこのイエスを何と呼ぶか。ユダヤ人の王なのか。とすれば、それは政治的な王であるつもりなのか、それとも……。
 このとき、イエスだけが刑に処せられたのではなくて、他に二人の囚人がいたことが明らかにされます。「折から、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられていた」(マタイ27:38)とあります。マルコもマタイと同様「強盗」だと呼び、ルカは「犯罪人」としています。ヨハネはそのような呼び方はありません。ただ「男」であることは分かるのですが。
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若干あっさりしている

2010-11-22 | マタイによる福音書
 さらに兵士たちは「イエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合い、そこに座って見張りをしていた」(マタイ27:35-36)とあります。このあたりのことも、四福音書それぞれに描かれています。たしかな事実かと思われます。ただ、マタイは旧約聖書の預言の実現についてはかなりうるさいにも拘わらず、ここを引用扱いにはしていないようです。ヨハネが引用を明らかにしています。マタイにとり、これがそれほどに明らかであったのか、うっかり忘れたのか、それは分かりません。全体的に、マタイはこの十字架のシーンについては、細かな点でマルコの表現を改めていますが、概ねマルコに従っているように見えます。それどころか、マルコの定めた時刻などの問題を、一部省略してさえいます。まるでマタイは、この十字架そのものには、ひどく執着していないかのようです。もちろん、福音書記者はそれぞれ、十字架にひどく詳細な記述をしようとはせず、その描写を克明に描くという趣味はなかったようで、それが当時の方法でもあったことでしょう。なにもマタイだけが淡泊に描いているというわけではないのですが、その中でも比較すると、若干あっさりしているように窺えるということです。
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「なめただけで、飲もうとされなかった」(マタイ27:34)

2010-11-21 | マタイによる福音書
 兵士たちは「苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはなめただけで、飲もうとされなかった」(マタイ27:34)といいます。ルカはこのあたり、ドラマチックに脚色しているように見えます。ヨハネは、イエスの最期の瞬間のためにこの場面を遺しています。マルコは、この苦いものを、没薬のせいだとしながらも、イエスは少しも受けることがなかったと記しています。このマルコとマタイは、十字架のかなり早い位置にこのエピソードを置いていますが、ルカも、時間的にはその後しばらくあったことが分かるようになっています。つまり、結局のところ、ヨハネがこれを最後にどうしても起きたかった意図が目立っています。ヨハネが描く、カナにおける最初の奇蹟を思い起こします。渇いていることに対するレスポンスとしての意味もあるのでしょうか。あるいはまた、屠られた小羊としてのイエスを描くために、ここが大切であったのでしょうか。
 では、どうしてマタイでは、それを「なめた」のでしょうか。たしかに飲んだとはしていないのですが、なめたとしているのです。痛み止めの意味もあるといいますから、つい欲したのだというよりも、もう朦朧としている中で、兵士の差し出す棒が無理矢理イエスの口に付けられた、というあたりではないでしょうか。それでもイエスを拒否をしたのですから、マルコと結局同じことを述べていることになるでしょう。
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「されこうべの場所」」(マタイ27:33)

2010-11-20 | マタイによる福音書
 こうして「ゴルゴタという所、すなわち「されこうべの場所」」(マタイ27:33)に着ました。「ゴルゴタ」という名をルカが直接出していないほかは、すべての福音書が、この事実を記録しています。ヨハネは最も後れた分、時代的には遠い福音書なのですが、その分綿密に調べ上げ、マタイとルカがマルコの資料に基本的に引きずられているのに対して、別の調査をきちんと行っていることを思うと、ヨハネまでが一致しているというのは、恐らく紛れもない事実であったと思われます。さらに、クリスチャンにとってその場所は、決して忘れることも間違えることもできない場所であった、ということになるのでしょう。いかにユダヤ戦争でエルサレムが崩壊し、ユダヤ地域から人々が散らされていった後であれ、その場所だけは必ず伝えなければならないという熱意が、そこから感じられるような気がしてなりません。
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間近で見ている

2010-11-19 | マタイによる福音書
 悲しみの道を歩むイエスは、沿道の人々の目に、どのように映ったことでしょう。「十字架につけろ」と叫んだ群衆が取り巻いていたのでしょうが、その背後に、切ない思いで見守る人もいたのではないでしょうか。時折、ホサナとエルサレム入城を讃えた群衆が、掌を返したように「十字架につけろ」と叫ぶほどに人間の心は変わりやすい、という解説がなされることがありますが、扇動されて叫んだのが、迎えた人々と同一だという保証は、聖書を見るかぎりありません。祭司長たちについてきた群衆は、そもそもファリサイ派などの側についていたと思われますから、イエスの裁判の席にまで同行してきたのは、いわばその血に飢えたメンバーであったと推測すると、こうして朝にイエスの死刑執行が知れ渡り驚いてかけつけた人々は、イエスを温かく歓迎した素朴な人々であったケースが多いものと推測されます。中には、イエスに癒された本人がいたかもしれません。私たちは、様々な人の立場で、このドラマを間近に見ることになるのでしょう。もちろん、中には、イエスを迎えておいて、その後に裏切ったという者がいたとしても、何らおかしくはないのですが。
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「無理に担がせた」(マタイ27:32)

2010-11-18 | マタイによる福音書
 イエスは疲労困憊だったかと思われます。その状態で「兵士たちは出て行くと、シモンという名前のキレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に担がせた」(マタイ27:32)のでした。マルコはこのシモンの子の名を二人挙げていました。マタイはそれを不要と思い略していますから、マルコの教会ではこの子たちが特に知られていたことになります。この父シモンにしても、おそらく教会の中で知られた人物だったのでしょう。イエスの代わりに十字架を背負ったなどというのは、いわばひとりの英雄です。キレネというのは、ユダヤ人居住者が多い北アフリカの大都市のことです。そこの出身だったのではないでしょうか。過越祭のためにエルサレムを訪れていたのでしょうか。私たちの想像力を刺激します。イエスを助ける人物など、めったにいないものですから。
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