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エウアンゲリオン

新約聖書研究は四福音書と使徒言行録が完了しました。
新たに、ショート・メッセージで信仰を育み励ましを具えます。

ユダの立場に身を置いて

2013-02-25 | ルカによる福音書
 イエスはさらに続けて、その理由を述べます。「人の子は、定められたとおり去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ」(ルカ21:22)というわけです。決められたそのままに去らねばならない運命を告げた後、しかしながら、と強調した上で、「わざわさなるかな」と叩きます。呪われよ、と言わんばかりの表現です。ちょっとした不幸なくらいではありません。引き渡す役割を背負ったその者は呪わるべし、と強い口調で告げます。きついようですが、マルコのほうは、生まれなかったほうがよかった、と言っていますから、むしろそれを和らげたと言えるのかもしれません。マタイのほうが平穏です。マルコの言葉は辛辣です。いったいどうすればよいのか、救いもありません。このユダの立場に身を置いて考える文学者もいたわけで、私たちはユダのような者だと感情移入することにより、果たしてユダはこれでよかったのだろうか、と問うのです。神の愛は、このようなユダには及ばなかったのだろうか、と考察するのです。不幸というよりは、わざわいそのものです。しかしそれを背負う訳を当てられたのだからキリストはユダをわざと用いたのだ、などともっていくと、もはや福音からは外れていってしまいます。人間の思いに斉合性を与えるために、神の計画をねじ曲げて決めようとするのはやめたほうがよいでしょう。「そして」の流れで「そこで使徒たちは、自分たちのうち、いったいだれが、そんなことをしようとしているのかと互いに議論をし始めた」(ルカ22:23)と弟子たちの様子が描かれます。もちろん弟子なのですがルカの趣味で「使徒」と称されています。互いの議論は不毛のものでしょう。先ほど、この宴会会場についてとてつもない千里眼を発揮した事実を見せつけられた弟子たちです。今また謎がかけられ、引き渡す者がいるなどと言われているのですから、不気味でたまらなかったことでしょう。
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引き渡す

2013-02-24 | ルカによる福音書
 しかし逆に、それにも拘わらず、というように強い接続詞とともに「しかし、見よ、わたしを裏切る者が、わたしと一緒に手を食卓に置いている」(ルカ22:21)と告げられました。このユダの裏切りの予告は、マルコもマタイもこの聖餐に先行しているのですが、ルカは後に置きました。どういう理由かは分かりません。しかしマルコもマタイも、ユダの裏切りの情景については説明を異としています。それぞれに味わいがあります。どれもまたひとかどの真実を伝えているのではないかと思われます。ルカは、ユダの言動とは関係なしに、イエスがずばりと切り込むように描いています。周囲からはそのように見えたことでしょう。誰も、ユダにサタンが入るところを見たわけではないのですから。この「裏切る」は先にも触れたように、「引き渡す」という語です。結局のところ裏切る意味をもつ行為をしてしまうわけですが、言葉はあくまでも引き渡すことです。たんに心で裏切るようなニュアンスとは違い、明白に引き渡すことをするのですから、さらに大きなことと言えるかもしれません。一緒に手を置くというのは、マルコが描いた、鉢に食べ物を浸すということをルカが焼き直そうとして、ルカなりに考えて表現したと思われます。過越の習慣をルカが知らなかったとは思えませんが、やはりなじみがなかったのかもしれません。あるいは、異邦人には分かりにくいと思って、その食べ方のシーンをぼかしたとも考えられます。そのままに訳しておくのが訳者としては親切というものです。
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杯における血の契約

2013-02-23 | ルカによる福音書
 また「そして」で続き、「食事を終えてから、杯も同じようにして言われた」(ルカ21:20)のでした。他の福音書と異なり、ルカは、食事を終えてからというふうに、一定の時間的な隔たりを示しています。すると、この聖餐は、まさに食事であって、しばし食べる時間が必要なものであった、ということになるのでしょうか。写本によっては、この19節の後半から20節が欠けているものがあるといいます。ルカは元来この個所をもっと簡潔に描いていたものを、後から補ったのではないか、と。補ったのがルカ自身であるのか、後世の人物であるのか、分かりませんが、パウロの定式をルカに埋め込んだのが別人物であるとすると、これまた教会の中におけるルカの福音書の用いられ方や、当時のパウロ書簡の価値などについて、重視することができる研究となるかもしれません。また、もしそうなら、ここの部分の複雑な構成もすっきりしますし、ルカの最初の記述は、杯が先でパンが後であったことになります。その後キリスト教会は、パンを先にし、杯を後にするという形で聖餐式を行っています。が、それがすべてなのかという議論にもなりうるものです。ワインは食前酒でもあり、先に飲んだということになっても問題は起こらないように思えるのです。イエスは「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である」(ルカ22:20)と言います。マルコというよりもパウロの文です。これは契約です。神との契約は、血により締結されることが多くありました。しかしまた、ノアのように虹が契約の証しになることもありました。今こうしてイエスの救済のなされた特異な歴史上の一地点から、終末におけるまた特殊なある時に至るまで、この杯における血の契約が効力を発揮します。契約は重いものです。命を懸けることにもなります。そしてまさにイエスはを命を捨てて、この契約を交わしたのでした。
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パウロの考え方や言い方

2013-02-22 | ルカによる福音書
 しかし、ルカは他の福音書と決定的に違うところがあります。「そして」という流れで、「それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた」(ルカ22:19)と言います。一見、杯が先で、パンが後と順序が逆転しているかのようにさえ見えます。しかしよく見ると、この後実際に飲食のシーンが描かれる際に、やはり先にパンを与え、それを食べてから、杯を渡しています。すると、先に杯を取り上げて飲みなさいと告げたときには、まだ渡していなかったことになります。これは状況を思い描くのが難しい、ややこしい構成です。ルカのイエスは、実際に食する前に、その説明をふんだんに成し遂げているような印象です。ここで注目すべき比較があります。それは、パウロによるコリント書の第一の11章にある、聖餐についての記述です。細かな言い回しにおいて、ルカのこの聖餐のシーンは、他の福音書と比べて驚くほどパウロと一致しているのです。語の順序や挿入、そしてマルコには全くないフレーズなどを見ると、ルカは明らかにパウロと通じていることが分かります。もちろんルカは、一時的にせよパウロと共に行動していますから、接点はあるのですが、このように見ると、マルコを下敷きとして物語を描きつつ、パウロの考え方や言い方をそのまま採用していることは確実です。となると、当時の異邦人教会では、パウロの言い方が一般的だったであろうことになり、そのためのテキストをルカが作成する必要があったであろうこともうかがえます。パウロ書簡はすでに一定のテキストの役割を果たしていたのだろうとも思われますが、それ以上にまた、それを福音書という文学形式の中に定置させることも必要であったのでしょう。この19節の中にも、マルコと違いパウロに従っている点がいくつか指摘可能です。もちろん、「祈り」を唱えたというような記述はありません。感謝したのです。
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「祈り」という語はない

2013-02-21 | ルカによる福音書
 そして他の福音書では、聖餐の儀式が終わった後で、ぶどう酒が終わりの時までもう飲むことはない、という点への言葉だけ載せているのに対して、ルカは公平にも、食事のほうについても同様のフレーズを記しています。「言っておくが、神の国で過越が成し遂げられるまで、わたしは決してこの過越の食事をとることはない」(ルカ22:16)というのですが、確かにそのほうがつりあいがとれています。パンとぶどう酒と、どちらも適切に扱っているのです。ただ、「成し遂げられる」の主語が原文では書かれていません。省略したとなると、主語はここにあるように「過越が」となるでしょうが、それで意味が判明するでしょうか。示されていないものは、無理に補わなくてもよい場合があります。何が成し遂げられるのでしょう。それは、読者ひとりひとりの胸の内に生ずる答えであるかもしれません。終末における神の国では、きっと驚くべきことが成し遂げられるのでしょう。「そして、イエスは杯を取り上げ、感謝の祈りを唱えてから言われた」(ルカ22:17)と、続いてぶどう酒を示します。感謝の祈りとありますが、もちろん「祈り」という語はありません。感謝したとあるだけです。新共同訳独特の脚色で、感謝は祈りでないといけないと考えているようです。確かに感謝したとあれば、誰に感謝をしたのか、分からない人には分からないかもしれません。「回して」のところが目立ちます。マルコやマタイも、言い回しが微妙に違うのですが、ひとつの杯を渡したような気配があります。ルカはその点をいっそう分かりやすく述べているのかもしれません。教会での聖餐はもちろんこの記事を基にしていますが、当時はそのようにひとつの杯から分けて飲んでいたのでしょう。その儀式を明確にするために、ルカはより正確に伝えようとしているものと思われます。そして「言っておくが、神の国が来るまで、わたしは今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい」(ルカ21:18)という点は、他の福音書とそう違うものではありません。終末までの時間が別枠でとられるということの表明です。
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聖餐式のプログラム

2013-02-20 | ルカによる福音書
 ここも「そして」でつながります。イエスの指摘したとおりのことがすんなり起こっているという設定です。この言葉のとおりになったことを驚く弟子たちの様子を描くマルコとは違います。マタイに近い感じですが、マタイはちゃんと弟子たちが準備を施しています。時刻というのはもちろん夕方のことです。過越の食事が始まります。「時刻になったので、イエスは食事の席に着かれたが、使徒たちも一緒だった」(ルカ22:14)のでした。新共同訳だけが「が」でつないでいますが、誤解を招きます。弟子たちが一緒だといけないかのようです。また、そこがえらく強調されているように見えます。このときイエスが言います。「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた」(ルカ22:15)と。これはルカ特有のイエスの心情です。強く願うという意味の語を二つ並べて強調する、ヘブライ語の表現をギリシア語に移植しています。あるいはギリシア語でも、聖書関係の言葉はこのように使われるようになっていたのでしょうか。ユダの裏切りについての言明はここには載せられていません。理由ははっきりしません。そしてあたかもここに、聖餐式のプログラムを載せているかのようです。教会で行われていた聖餐の儀式の模範をはっきり示す働きがあったのかもしれません。これは苦しみの前にもたらされたイエスのたっての願いの成就です。
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力をもった言葉

2013-02-19 | ルカによる福音書
 言うべきその台詞とは、「先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をする部屋はどこか」とあなたに言っています」(ルカ22:11)というものでした。このあたり、ルカはマルコをそのまま受け継ぎながら、若干適切なギリシア語表現に変更しています。微妙な変更ですが、よりギリシア語としては分かりやすく流暢であると言われています。添削気分なのでしょうか。「すると、席の整った二階の広間を見せてくれるから、そこに準備をしておきなさい」(ルカ22:12)と指示を加えます。ここもルカは大きな変化を見せません。恰も千里眼のような当て方ですが、これを以て奇蹟と称するべきなのかどうか、議論が分かれるところでしょう。ことさらに奇蹟とするのか、何か当然のはからいであったのか、あるいはまた、後に勝手にそのようにまつりたてた創作話であるのか、いろいろな意見が出て来るでしょう。実はそこはある弟子の家であった、という説も有力です。すでに手配がなされていたか、あるいは何らかの話ができていたか、というような理解です。いずれも、人間が理解して安心しようという意図の現れですから、ことさらにどれかに決める必要はありません。読者がそれぞれの人生の中で、自分の席が決められていたという経験をすることはないでしょうか。そのとき、このイエスの指摘を思い起こすとなれば、それで一つの読み方です。聖書は歴史書ではないし、しかしまたたんなる伝説でもありません。それは現代に再現もします。現代の中で意味が見いだされます。読者の人生の中に関与してくる力をもった言葉です。神の力は今もまたはたらいているのです。
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必然的に出会う

2013-02-18 | ルカによる福音書
 さて、「過越の小羊を屠るべき除酵祭の日が来た」(ルカ22:7)のでした。除酵祭の中の過越の日が訪れました。ヨハネはこれがイエスであるという重ね方をしています。そしてヨハネの理解を最近は尊重するようになりましたが、ルカはマルコ以来の伝統に従っています。ここから食事の準備が始まります。「イエスはペトロとヨハネとを使いに出そうとして、「行って過越の食事ができるように準備しなさい」と言われた」(ルカ22:8)のです。二人の遣わされた弟子は、ペトロとヨハネであったとしています。ルカは、十二弟子の中でも特にリーダーたるに相応しい二人の名を挙げたのでしょうか。二人を歴史的に調べたというよりも、代表者二人の名を使ったという可能性のほうが高そうな気がします。イエスはただ命じただけでした。二人は質問します。「どこに用意いたしましょうか」(ルカ22:9)というここには、「けれども」と対照させる語がはさまれています。弟子たちはイエスの流れを一度切るのです。しかしイエスは再び「けれども」により流れを元に戻します。「都に入ると、水がめを運んでいる男に出会う。その人が入る家までついて行き、家の主人にはこう言いなさい」(ルカ22:10-11)と言うのです。偶然ではなく、必然的に出会うことになっている、という感じがあります。これから起こることをマジシャンのように告げるわけですが、すべては神の計画の中で起きることです。旧約聖書のときにも、イサクの嫁探しにおいてこうした予言がなされていました。その人にでなく、その人を使っている家の主人に頼むという、至って自然な成り行きが展開されています。マタイはここのところを省略していました。ルカはマルコに従います。
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銀で引き渡す

2013-02-17 | ルカによる福音書
 ユダはユダヤのお偉い人のところにこっそりと行き、イエスの引き渡しの相談をしました。「ユダは祭司長たちや神殿守衛長たちのもとに行き、どのようにしてイエスを引き渡そうかと相談をもちかけた」(ルカ22:4)というこの守衛長は、この表現に比してかなり重要な地位であったと思われますが、確かなことはよく分かりません。神殿についてかなりの責任をもっていた立場の名前に聞こえます。これは神殿全体で行う陰謀となりました。ユダヤの学者などの感情で片づけられる問題ではなく、もはやユダヤ教全体がイエスに牙を剥くのです。このあたりは「そして」の羅列です。「彼らは喜び、ユダに金を与えることに決めた」(ルカ22:5)というのもそうです。翻ってユダは、と対照を示した3節に続くところは「そして」で自然に流れていきます。ユダに与えたのは「金」でした。これは金属の意味ではなく、「おかね」のことです。ユダヤにおいて「おかね」を表す語は、私たちのようなゴールドではなく、シルバーでした。そこでここも「銀」という語が使われています。単数形で「金銭」を表します。マタイは銀三十という具体的な表示で、複数形でしたから、こちらは銀貨をそのまま表しています。「ユダは承諾して、群衆のいないときにイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた」(ルカ22:6)のでした。しきりに「引き渡す」という大切な語が言われます。それは一種の裏切りでありましたが、聖書ではイエスが無力にも引き渡されていく様子を描きます。それを引き渡したのは人間です。風評被害がなんとなくなされているかのように報道する日本においては、風評を流した責任を自分が感じることはありません。しかし、紛れもなく、自分もそれに加担しています。風評加害をなしているという自覚がもてない文化ではなく、ここでいえば引き渡したというところに自己の責任を覚える者が、神の前に赦しの救いが与えられることになるでしょう。無知蒙昧の群衆の目から隠された中で、イエスは引き渡されます。明るみの下でではありません。
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十二という数の中の一人

2013-02-16 | ルカによる福音書
 ここで、人間の計算にはなかった事態が生じます。「しかし、十二人の中の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った」(ルカ22:3)というのです。ルカにおいては、荒野の誘惑でサタンが一時的にイエスから離れていたのが、ここで戻ってくるようなイメージを抱かせます。ここまでのイエスの伝道旅行の時は、サタンが関わらない、特異な時でした。マルコがそうしたイエスの歩みに読者を誘うのとは対照的に、ルカはこれは特別な歴史上のひとこまであり、もう二度と戻ることのできない唯一の出来事です。私たちはこの後イエスが十字架につけられ復活するという、ただ一度の出来事から始まる新たな歴史の中に生きることになります。ユダにサタンが入ったのは他の福音書でも同じですが、食事のときイエスの発言の後に入ったとするなど、それぞれ観点が違います。ルカにとりこのユダの行いは、神聖な過越の最中に起こるべきことではなかったのかもしれません。ここで「十二人の中の一人」と訳されているところには、原語に「数」という語がはっきりと入っています。十二という数の中の一人だと記されています。元来完全であるはずの12の数のうちに数えられていたユダが裏切るのだという印象を伝えます。ユダヤ人に与えられていた救いの約束は、その内に悪魔を惹き入れるものであったということなのでしょうか。ルカは何らかの意図を以て、「数」に読者を注目させようとしています。
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ユダヤ教の王道

2013-02-15 | ルカによる福音書
 場面が変わります。「さて、過越祭と言われている除酵祭が近づいていた」(ルカ22:1)との説明です。厳密には除酵祭の期間において最初に過越の食事をすることから、この二つを完全に同一視することはできません。祇園祭と山鉾巡行とは同一でないのと同様です。ルカの書き方は曖昧でした。そして、とつなぎ「祭司長たちや律法学者たちは、イエスを殺すにはどうしたらよいかと考えていた。彼らは民衆を恐れていたのである」(ルカ22:2)と記されます。イエスを亡きものにしようとのたくらみですが、ここまでひどく悪意をもって対立されてはいなかったものが、急に殺意となっています。チャンスを殊更にうかがわなければならなかったのは、民衆の目があったからでした。民衆の信頼を得られなければ、どんな企みもその後が続きません。何もイエスをただ殺せばよいのではなくて、その惑わす教えが否定され、ユダヤ教の王道をこれからも通していかなければならなかったのです。ベタニヤのマリヤの香油の話はルカはここから省きました。すでにその話題を記述し終えていたこと、また小さな村についてはもう触れずにエルサレムに一気に入っていく効果を狙ったらしいことなどがその理由ではないかと思われます。
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イエスを理解する人々

2013-02-14 | ルカによる福音書
 そこへつなぐために、「それからイエスは、日中は神殿の境内で教え、夜は出て行って「オリーブ畑」と呼ばれる山で過ごされた」(ルカ21:37)とルカは記します。意外にもルカだけの記事です。度々オリーブ山あるいは畑を訪ねていた、という記事はマルコにはありません。ルカは小さな村々の名前は挙げることなく、おおまかにエルサレムとオリーブ畑とを紹介します。地理に疎いルカと呼ばれるのはこういうところからも来ています。使徒言行録を見ると、ルカもエルサレムに来たことはあることが窺えますが、あまり詳しく近辺を知る機会はなかったのかもしれません。知っていたら、ルカのことですから、きっと何らかの形で触れたでしょう。ベタニヤすら略すほどのことはなかったと思われます。そのとき「民衆は皆、話を聞こうとして、神殿の境内にいるイエスのもとに朝早くから集まって来た」(ルカ21:38)とありますから、ルカはイエスにはそれなりの取り巻きがいたことを表現しています。これならば、権力者もむやみに手出しはできなかったことでしょう。そのうえ、イエスを慕う人々がたくさんいたことにも触れています。これは、訳の分からない群衆という語を使わずに書かれています。弟子とまでは言えなくても、それなりにイエスを理解する人々であることが窺えます。朝晩、祈りの時をイエスは過ごしていました。そしてエルサレムに着いたイエスに、いよいよ最期の時が近づいてきました。
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目を覚ましているということは

2013-02-13 | ルカによる福音書
 ですからそのような目に遭わないように、「しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい」(ルカ21:36)と言い渡されます。逃れるとなると、ソドムとゴモラの様子が思い起こされます。ノアまで遡って考えることも可能です。歴史の中でかつてこのように、災難を逃れるチャンスに恵まれた信仰者がいました。人の子の前に立つというのは終末の審きを思わせるためです。これはこれで、キリスト教の教義としては避けることはできません。ルカはそのありさまをひどく強調はしませんが、もちろん否定などはしないのです。そしてユダヤのメシア観がちゃんと反映されていないと、権威がありません。目を覚ましていることは重要なテーマです。但し、ルカはその場に祈りを加えました。ルカは祈りが好きです。異邦人にも祈りそのものは受け容れやすい行為の一つです。神への祈りを、信仰生活には欠かすことができません。目を覚ましているということは、祈っていくということでもあります。やがて、オリーブ山にてイエスは、まさにそのような祈りの模範を弟子たちに示すことになります。もちろん、示すために祈ったのではありませんけれども。
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罠のように臨む

2013-02-12 | ルカによる福音書
 しかし、その時を人は知るものではありません。「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる」(ルカ21:34)という警告が言い渡されます。話題が変わったことを示す語が添えられていました。ここはルカ独自の言葉です。教会で具体的に注意される内容を反映しているのかもしれません。目を覚ましていよ、という戒めにおいて似たような部分がマルコやマタイにもありますから、ルカなりのバリエーションであるのかもしれません。少なくとも大幅な改訂ですから、ルカの時代や教会での考え方の違いが明確に出ているといえます。この「深酒」は、二日酔いの頭痛を表すのだそうです。もちろん聖書においてほかには出てこない珍しい語です。パウロも様々な教会にこの姿を見たのでしょうか、類似の注意を繰り返しています。心が鈍くなるのはもちろんですが、きっと頭痛で何もまともに判断ができない様子を意味しているのでしょう。神の終わりの時が、意図せずして訪れると警告しています。ルカはこうした訪れについて幾度か言及しています。それは罠のごとくだといいますが、以前はこの「罠のごとく」の部分が次節に組み入れられていました。ここには細かなギリシア語の使われ方の検討があるのだそうです。田川建三は、イザヤ書24:17との類似性も挙げています。ただそのためには、一部の写本にある語を一種の書き誤りだと判定しなければならないとのことです。「その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである」(ルカ21:35)がその句です。「罠のように臨む」というふうに読むのだそうです。この「襲いかかる」がまた珍しい語で、どう訳してよいのかめったにない語のために訳者も苦労するところです。「来る」に小さな語がまとわりついてふくらみ、他では殆ど見ない語になっているようです。罠云々は、前節との間に位置しており、難しい解釈を呼んでいます。たしかに罠は後の説のほうがきれいに読めるのは間違いないのですが、なんとも複雑なものです。終末は信徒だけの問題ではありません。すべての人類に及ぶのです。しかもそれは突然、いつになるのか分からないということです。
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終末を語る

2013-02-11 | ルカによる福音書
 ルカにしては珍しく、アメーンという語を明確に使っています。「はっきり言っておく。すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」(ルカ21:32-33)と、ほぼ既定の語録を踏襲している中で、思わずそのまま使ったのでしょうか。そのくせ、「これらすべてのことが」の「これら」は省くなど、自分の語感で処理はしているのですが。今ここでは終末の風景を紹介しています。滅びないとされた「時代」は、一つの「世代」を意味する言葉ですから、私たちの日常的な人間の世が脈々と繰り返されていくその世界をイメージしていると言えるでしょう。永遠を思わせるような言葉とははっきり区別されています。それは滅びるものです。この世界、現象にすぎないものです。ジェネレーションの元になった語です。時には子孫や種族のようなものを指す場合もありますが、マルコに従って写している場面です。草も花も枯れますが、主の言葉は永遠に立つと宣言したイザヤを思い起こします。終末を語るに相応しい情景です。ところで、マルコが、その日その時を自分も知らないと言ったイエスの言葉をそっくり削除しています。削ったのには理由があると思われます。イエスはそれを知っているとルカが感じていたのかもしれません。しかしはっきりそのように言うこともできないものですから、さしあたり自分の福音書の中ではその部分は要らないと考えたと思われます。あるいは、そのときの教会の教えに基づいているのかもしれません。
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