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エウアンゲリオン

新約聖書研究は四福音書と使徒言行録が完了しました。
新たに、ショート・メッセージで信仰を育み励ましを具えます。

神の国が近づいている

2013-02-10 | ルカによる福音書
 次も「そして」と流れるように、「それから、イエスはたとえを話された」(ルカ21:29)と展開します。ただし今度はそれが譬えであることが説明されています。「いちじくの木や、ほかのすべての木を見なさい。葉が出始めると、それを見て、既に夏の近づいたことがおのずと分かる。それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい」(ルカ21:29-31)と、目をいちじくの葉に移させます。マルコが、終末が近いことを匂わせる程度だったのを、ルカははっきりと神の国が近づくのだと示しました。そのほうが分かりやすく、また希望ももてるかもしれません。ルカは、他の福音書記者と異なり、圧倒的にこの「神の国」という言葉を使うことが多くなっています。黙示においても分かりにくかろう表現を神の国に変更しているほどです。また、いちじくは、イスラエルを象徴する木です。イスラエルに関心をもつことは必要なのです。そこに終末のしるしが現れるのですから。異邦人とて、イスラエルといちじくの関係くらいならば知れ渡っていたことでしょうし、教会でも語られていたことでしょう。私たちもまた今、そのように承知した上で聖書を読むのです。
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身請け

2013-02-09 | ルカによる福音書
 次も「そして」でつながりつつ「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る」(ルカ21:27)と、人の子の伝承が取り上げられます。明らかにダニエル書の幻を踏まえています。メシアの到来です。特別な時が、ただ一度のその時が現れます。雲の中に人の子が現れる、というのは何も孫悟空のように飛んでくるとは限りません。もやもやとした朧な中に神の審きが始まることが想定されます。おそらくその中にも光のある姿でありましょう。対照的に「このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ」(ルカ21:28)との命令です。怯えるばかりであってはなりません。この終末を覚えたら、天を見上げよと言います。マルコやマタイが、選民を集める記事を書いていましたが、ルカにはそれが煩わしく思われたのか、省かれてしまいました。選民を強調すると、異邦人の位置づけが難しくなると思ったのでしょうか。不思議ななのは「解放の時」という訳です。普通そのようには訳されていませんでした。日本的に言えば「身請け」のことです。奴隷の解放のために、金銭を支払うことです。これは聖書の用語としては「贖い」と言います。フランシスコ会訳でも「あがないの時」ですから、新共同訳独自の言葉です。十字架の贖いがベースにあります。その贖いの完成の時を言いたいのにほかなりません。十字架の救いを受け容れて信仰により救われたというのは、いわば証書のレベルです。それが現実に効力を発揮して執行されるのがこの完成の時です。やはりどこか将来的に、それは終末の中で完成します。解放は解放ですが、罪の世界に囚われたことからの完全な解放です。あるいは、地上において他国に虐げられていたり、為政者の圧力の下で苦難に喘いでいたりする事態から解放されていくのは確かです。そのことを言うのかもしれません。こうしたことを全部含むと理解するのが妥当ではないかとも思われます。マタイはどこか悲しみの眼差しで見る人々がいました。それは、救いに与ることのできなかった国民です。まさに、それぞれの著者はそれぞの視点で気づいたことに触れて記しているのです。
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地上の自然の乱れ

2013-02-08 | ルカによる福音書
 終末の風景が続きます。「それから、太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る」(ルカ21:25)という言葉は「そして」で流れるので、前の発言と別物とする必要はなさそうです。一連の終末の情景がここにあります。しかし、マルコは天体までも滅びる様を描いたのに対して、ルカは若干違う強調をもっているようです。地上の自然の乱れを説明しています。もちろん、これはルカが考えたというよりは、おそらく当時の教会の思想に基づくものと思われます。文自体、ルカらしくないとも言われています。やや曖昧な表現により、訳しづらい部分があるようです。「人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである」(ルカ21:26)も先の文に続いています。それは恐怖の出来事だといいます。しかし実に正当な心理です。ユダヤの黙示に慣れていない異邦人は、まさに人間としてこのように覚えることでしょう。宇宙の滅亡を予感させる出来事となります。
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異邦人の時代の完了

2013-02-07 | ルカによる福音書
 ところがここにある、異邦人の時代の完了ということが、たいへんユニークです。旧約聖書にはまず見られない思想だからです。イスラエルの救いしか基本的に描かない聖書の思想の中で、異邦人にとってその時が満ちるという考えが、この時代に出てきていたのです。もちろんやがてそれはイスラエルの救いに戻るという構図があります。パウロもそのように考えています。しかし、異邦人は異邦人で、神の計画の中で、その数を満たすまでの過程が用意されているというわけです。この完了というのは、満ちるという言葉です。時はカイロスですから、ある特定の時をイメージしているように見えます。ただ、ルカも自分の著作の他の部分では、このようなことを繰り返すことがなくなります。どうもここだけで出てくるということは、何らかの教会のメッセージの中で出てきたことをそのまま入れ込んだのではないかという気がします。ルカ本来の思想として一定の構図や教義めいたものがあるのでなく、あるときのメッセージに含まれていた考えをスッとここに入れた、というような気がしてなりません。もちろん、これは文学的な推測に過ぎませんけれども。いずれにしても、エルサレムはこのままでしばらくの間、終末まで、時が進むのです。それは決して遠いものではないとは思われていたでしょうが、マルコの時期のような緊迫感が薄れていたのではないかとも思われます。パウロが第一テサロニケでもう焦っていたような書き方をしていたのが、しだいに落ち着いていくのと同様に、ルカの時代には、落ち着いた世界観を築く必要があることも要求されていたのではないでしょうか。
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はもはや済んでしまった

2013-02-06 | ルカによる福音書
 ルカはさらに「書かれていることがことごとく実現する報復の日だからである」(ルカ21:22)と告げます。「報復」とは穏やかならぬ語を選びました。田川建三はこれを非難し、「懲罰」だと述べています。舌足らずですが、新共同訳の訳者も、言いたかったのはこの意味であろうと思われます。神の報復すなわち神の懲罰だ、と。これは、ユダヤ人が受けるべくして受けた罰である、というのがルカであり、また異邦人社会に理解されやすい論理だったと思われます。エルサレム神殿の崩壊は、神罰であるというのです。「それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。この地には大きな苦しみがあり、この民には神の怒りが下るからである」(ルカ21:23)というのはマルコの言葉を踏襲していると言えますが、そのようなことが起こらぬように祈れというフレーズをルカは省きました。その切実感はもはやなく、一定の出来事はもはや済んでしまったことであるという感覚があるのでしょう。その結果、マルコに比べて、人々のことを心配していないような口調に聞こえるようになりました。そして次の「人々は剣の刃に倒れ、捕虜となってあらゆる国に連れて行かれる。異邦人の時代が完了するまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされる」(ルカ21:24)は全くルカ独自の付け加えです。言葉の感覚としては、イザヤ書やエレミヤ書などを連想させるものがあります。つまりは、すでにこうしたフレーズが当てはまるとして、教会の説教に用いられていたのではないでしょうか。ルカが聞いてそれは相応しい重ね合わせだと考えて、ここに取り入れたのではないかと想像されます。そしてエルサレムが異邦人すなわちここではローマ人に支配され、貶められたことを踏まえて描いているように見えます。
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臨場感と現実感

2013-02-05 | ルカによる福音書
 間髪を置かずイエスは続けます。「エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、その滅亡が近づいたことを悟りなさい」(ルカ21:20)と物騒な言い方になります。ルカはマルコを下敷きとしながら、マルコに適宜変更を加えています。ということは逆に、変更したところは、ルカの考えです。あるいは、ルカの教会、またはルカの時代のキリスト者の思想だということになります。ダニエルの見た事態に重ねて、また恐らくカリグラによる像の建立を指しているのでしょうが、ローマ帝国の時代にも見た荒らす憎むべきものを目印としたマルコに対して、ルカは軍隊です。もはやユダヤ戦争は現実のものとなりました。ユダヤ人は離散することになりました。エルサレム神殿は地上においてはすでに崩壊しました。ルカの時代には、エルサレムにローマの偶像の神殿ができてしまったのです。まさに世の終わりのように思われたことでしょう。それは私たちが、東日本大震災で津波の痕を、あるいは福島の原子力発電所の後の街を見るとき、自分は被災地を離れていてもなお呆然とせざるをえないことと考え合わせても、そしてまさに当地の方々が見たときの思いをわずかでも想像するときに感じるならば、きっとそうだろうと思うしかないような事態でしょう。ルカの時代の信徒にとっては、こちらのほうがより臨場感や現実感を覚える表現だったのでしょう。また、教会の説教がまた、このことを重ねて強調していたのも確かだと思われます。このことは、終末の兆候なのです。「そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。都の中にいる人々は、そこから立ち退きなさい。田舎にいる人々は都に入ってはならない」(ルカ21:21)とありますが、マルコは緊迫した脱出の様子を生活に即した形で語っていたのに対し、ルカはこのエルサレムを出よ、という言い方にしています。この方がルカの時代には合うからです。ユダヤの中心部にはもはやいることができません。脱出せよ。外部の者はユダヤに入ってはならない。これがこの時代の現状に合致しています。
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不条理に流された血

2013-02-04 | ルカによる福音書
 ルカは必ずしも逆接を強調していません。ここにあるのは「そして」です。「しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない」(ルカ21:18)には、ルカの脳裏では、意外な出来事や対立的な事態ではなく、そのまま当然起こることなのだというふうであるように聞こえます。神はそのようによくしてくださるのです。神の手の内にあることは、すべての災いを超えているのです。マタイにもありましたが、ルカでも12:7に類似表現がありました。これは、実害が何もないのだということを言っています。田川建三のように、髪の毛がなくなっても殺されないほうがよい、という抵抗は、少なくともイエスの言葉とは次元が違うと言えるでしょう。そしてもはや接続詞もなく「忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい」(ルカ21:19)とこのフレーズが終了します。マルコは救われることを単純に述べたようなものでしたが、ルカは少々気取った言い方に替えています。自ら命を得るような表現を、パウロもとらないわけではありませんが、本来命は神からの賜物です。やや違和感を覚える表現となってしまいました。もちろん、神がそのようにしてくださるのだから、忍耐をせよ、そうすれば与えられる、というのが自然な理解です。そのように理解してよいかと思います。しかし、反対者に隙を与えるような表現になったことも事実です。聖書がここだけを取り出したら、違うように理解されていく可能性があるのです。そして、そちらを正当な教義だと言い張るようになるところに、不毛な争いが生まれるのです。そのようにして、歴史の中で、どれほど多くの血が不条理に流されたことでしょうか。人の罪はどこまでも深いものです。
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引き渡す

2013-02-03 | ルカによる福音書
 それでも、という雰囲気の語をはさみながら、「あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる」(ルカ21:16-17)とイエスは続けます。「裏切る」には違いないのですが、原語のニュアンスは「引き渡す」。これは福音書の中で重要な概念です。キリストもまた引き渡されました。ユダの裏切りもそうですが、これは当局に引き渡す動きをいいます。キリストと同じような目に遭うこともあるのだということです。しかもそこには、親族や友人までもが加わるのだ、と。結局のところ、最後の友はキリストのほかいないのです。このような考え方は、聖書に限らず、黙示的な文学の中でしばしば見られる表現です。世の終わりには、こうしたことが起こるというのは、ユダヤ文化の前提的背景であったに違いありません。また、キリストの名というのは実体を含んだ表現ですから、イエスを信じるというその信仰の故に、人々から憎まれることをも背負っているといいます。キリスト教徒、キリスト教会というその名前だけで憎まれるということも含んでいますが、たしかにキリストという信仰を握りキリストが内に住むほどの信仰の持ち主について、そういうことが起こることがここにある構図です。
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イエスが助ける

2013-02-02 | ルカによる福音書
 迫害は恐ろしいことです。けれども「それはあなたがたにとって証しをする機会となる」(ルカ21:13)といいます。接続小辞はありません。ごく当たり前に文が続けられて並べられているのです。証しは何らかのテストということです。またそれは、犠牲を払うことにも通じます。たんに信仰を告白するのです、というに留まらず、命がけのものであり、それができるかどうか、大変難しいということでもあるのです。逆に私のような者だと、こういう切羽詰まったところにまで追い込まなければ、証しをすることができないのか、と叱責を受けているような気になります。イエスはそのような厳しさで告げているとは思えませんが、受け止める側によってはそのように聞こえることもあるでしょう。「だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい」(ルカ21:14)というのが要点です。予め自ら想定して練習をしたりしないのです。それは人間の知恵に傾きます。「どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである」(ルカ21:15)というのが、神の与える知恵です。神が教えてくれます。神が主体となります。人のこざかしい策略で神の国が証しされるのではないということです。「わたしが」がわざわざ書かれています。つまり強調されています。ほかでもない、このわたし、イエスが助けるというのです。もちろん同じことではあるにせよ、父なる神が教えるのか、聖霊が伝えるのか、というあたりで一人一人の受け止め方も違ってくるかもしれませんが、ここでは間違いなく、イエスが教えます。私たちも、イエスだったらどうするだろうか、という思考法を確かにとることがあります。それもまた、イエスの授ける知恵となりうるのです。イエスの知恵に対して、人はもはや対抗できません。それはここまでのファリサイ派やサドカイ派などの挑んできた様子を見れば明らかです。
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迫害する

2013-02-01 | ルカによる福音書
 これに対して、弟子たちに向けての強い注意が始まります。「しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く」(ルカ21:12)というのです。こうした現象の恐ろしさもさることながら、それ以前に重大な試練が待っているといいます。ルカはマルコと同じ内容でありながら、ここからはルカ自身の筆による執筆を試みています。「人々は」は主語として明示されていません。だからこそこれは一般的な人々のことを表すので間違いではありませんが、英語のThey sayと同様に、ここは主役は「あなたがた」ですから、あなたがたがこういう目に遭う、という読み方が適当だと思われます。あなたがたはこういう仕打ちに遭うのです、という予告です。迫害されます。牢屋にぶちこまれます。イエスを信じるということの故に、権力者の前に引きずり出されます、と。興味深いことに、マルコの福音書ではこの「迫害される」という意味の言葉が使われていません。つまり、まだ早い時期のマルコの福音書の時代には、クリスチャンへの迫害は一般的ではなかったのです。それがルカの時代になると、迫害ということが際立って言われるようになりました。もちろん迫害現象がそれまでもなかったわけではありません。ただ、いわゆる迫害が起こっている、という強い認識が通じるような状態になるのは、後の時代だということです。元来この言葉は、追いかける程度の意味しかなかったのですが、やがてそれが信仰故の弾圧のことを指すようになりました。これを教会用語で「迫害」と呼んでいるのです。マルコにも名詞形はあるようですが、動詞形がまるでありません。昔、「科学する」という言葉を使った政治家がいたそうですが、同様に、ルカに至って「迫害する」という言い方がポピュラーになってきたわけです。
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終末の様相

2013-01-31 | ルカによる福音書
 次に「そして更に、言われた」(ルカ21:10)とありますが、「更に」というよりは、「そのとき」のような語です。「そこで」でもよいでしょう。具体的にイエスが、これから起こるはずのことについてイメージを伝えようとします。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる」(ルカ21:10-11)という様子です。教会に一般的に伝わっていた言葉の一つでしょう。終末は、神がたんに天から罰を下すというような構図ではなさそうです。人間世界に争いがあり、乱れが起こるのです。そこへいわゆる天変地異が起こります。人の世の乱れに拍車がかかります。弱い人々がそのときに苦境に立たせられるのですが、権力者もきっと同じでしょう。それは人が予想もしない現象として目に見えて現れることもあるのだそうです。しかしこの天からのしるしについては、マルコはここで記しておりません。それまでの現象は、産みの苦しみに過ぎないのです。さらに、マルコ8章では、そもそもそのような天からのしるしについて、今の時代には与えられない、としていました。もちろん、だからこそ終末にそれが起きるといえばそれまでです。ルカはここで一気に、終末の様相を描くことに力を注いでしまいました。
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おたおたするな

2013-01-30 | ルカによる福音書
 イエスは「わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない」(ルカ21:8)と告げます。マルコに欠けていた「なぜなら」をわざわざ補っているので、ここもマルコとは違うという点を示すために、日本語でもはっきり書いてほしいところでした。因みにマタイも同様に補っています。それが自然なのでしょう。上に挙げたように、これは現代でも深刻な問題です。イエスの名を、キリストの名を名乗る者が現れます。しかも大勢だといいますから、ひとりやふたりではないということです。これはイエスの時代にもそうであり、だからこそ、イエスの裁判などでも、あの暴動者とは違うのかと囁かれたり、あるいは、イエスもまたそのような一味であるのかという疑いや懸念も加わって、ユダヤ人の王という罪状書きがもたらされたのかもしれません。「戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである」(ルカ21:9)と、なすべきこと、なすべき対応が告げられます。マルコでは、うろたえるな、という戒めでしたが、田川建三はこのルカの変更を「おたおたするな」となかなか味わいのある表現で工夫して示しています。なぜか。これらは起こるはずなのだからです。「からである」については、世の終わりがすぐには来ない、という部分を外す解釈もできます。起こるはずなのだからおたおたするな、とイエスが一度きちんと言い、これに付け加えるかのように、世の終わりはそんなにすぐに来はしないのだよ、と述べたことにすることの可能です。こうなると、ルカの言い分がより強く表されることになります。
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偽キリスト

2013-01-29 | ルカによる福音書
 これに対して、弟子たちは意外さを覚えたというような雰囲気を伝えながら、「そこで、彼らはイエスに尋ねた。「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか」」(ルカ21:7)とイエスの言葉を導くように、決して主語が強調されない形で問われます。終末一般のことのようにぼかしたマルコと違い、ルカは直前の神殿の崩壊のことだけに限定した読み方ができるような表現にしています。マタイでは、キリストの来臨ないし再臨をも尋ねる形になっていました。ルカは、神の国が「いつ」来るかという質問自体を、内にある、と回避したことがありました。ルカはなるべく、「いつ」という形で終末を示したくないと考えているかのようです。ここで神殿が崩れるのは、救いのために必要な出来事です。ユダヤだけの救いを誇った牙城が滅び、異邦人の救いの時代に入っていくことを表すからです。「しるし」にしても、そのあたりを焦点にする必要があるのでした。この質問に対してイエスは「惑わされないように気をつけなさい」(ルカ21:8)とまず答えます。重い言葉です。もちろんこれは、当時の偽メシア運動の数々を前提しています。我こそはメシアなりと言って立ち上がりユダヤを救おうとした面々が悉く滅び去っていく様を見て、ルカは、イエスの救いはそのようなものとは違うのだと提示したいわけです。しかし、このことは現代にも通じます。現在に至るまで、あらゆる偽キリストが存在しているからです。あからさまに自分がメシアだと吠える者もいて、しかもそれについていく者が大勢いるというのは、傍目には信じられないようなことでもありますが、彼らは彼らで、何が正当なのか、そういうキリスト教会一般もおかしいのではないか、などと迫ります。おかしいのは確かでしょう。しかし、おかしいものでないほうが正しいという論理はありません。真理は二つに一つではないからです。けれども見えなくなった人々は、吸い寄せられるようにそこにつき、その仲間として熱心になっていってしまうのです。
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ほんの入口

2013-01-28 | ルカによる福音書
 しかし、流れは自然に「そして」です。やはりマルコにも記されており、マタイにもこのことは書かれています。「ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると、イエスは言われた」(ルカ21:5)とそれはスタートします。これは弟子たちの発言ではなかったでしょうか。それをルカは、弟子ではなく、「ある人たち」とぼかしました。何故でしょう。それは、これが間抜けな発言だったからです。権威ある弟子たちが、こんなふうにとぼけた質問をしてはいけなかったのです。マルコがわざわざ、なんとすばらしい、と感嘆する場面など、描いてはいけないとルカは考えていました。ユダヤの神殿などを褒め称えさせるわけにはゆかなかったのです。「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る」(ルカ21:6)というのがイエスの返答です。ルカはユダヤ戦争におけるエルサレム神殿の陥落を間違いなく知っています。その情景を描くに相応しい表現でもあったことでしょう。バビロン捕囚の後で再建され、かつてのソロモン神殿と比すれば貧弱なものに過ぎなかったとはいえ、それはイスラエルの希望でした。また誇りでした。神ここにいますという、確かな手応えでありました。実のところ、ローマ軍はこの神殿を崩落させたのみならず、火をつけたのでした。燃え上がる情景はこのイエスの予告には含まれていません。しかし、何も絵に描くように描写するばかりが言葉の真実というものではありません。イエスの言葉は、十分に弟子たちに恐ろしく響くものでした。私たちもまた、見事な建物や風景を見て、これは永遠のものだと思いたくなりますが、決してそんなことはありません。イエスはごく当たり前のことを述べたに過ぎないのかもしれません。しかしこれはまだ、終末の姿を描写するにあたり、ほんの入口に過ぎませんでした。
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賽銭箱とは別の語

2013-01-27 | ルカによる福音書
 イエスの言葉「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた(ルカ21:3)はやはり衝撃的でした。そんな馬鹿な、と誰もが言いたくなります。少なくとも、数学的には間違っています。「あなたがたに」と強調しているのが訳出されていません。もったいないことです。「アメーン」ではないのがルカのやり方ですが、意味合いとしてはそのようにして、「まことにあなたがたに言う」とイエスは厳かに宣言しているのです。「だれよりもたくさん」なのは、相対的なものです。このやもめにとり、その額は割合的には金持ちの捧げた比ではありませんでした。二枚としたところも巧みな設定です。二枚あるのだから、そのうち一枚を残しておくこともできたはずなのに、それでもなお、二枚とも捧げたのですから。ここに捧げる精神があります。イエスのこの不思議な命題は何故そのように言えるのか。「あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである」(ルカ21:4)と理由が付されます。分かりやすい説明ですが、同じ賽銭箱のことを別の言葉で載せているのが日本語訳では省略されてしまっています。文語訳では「納物」とはっきり訳出されていました。賽銭箱とは別の語です。ささげものや贈り物といった意味がある語です。はっきりと献げたというニュアンスが伝わるので、日本語として出して然るべきではなかったかと思います。マルコに沿ってこのことを伝えつつ、それが行き着く終末の描写に入ります。
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