しかしヘロデは無邪気な反応を示します。「彼はイエスを見ると、非常に喜んだ。というのは、イエスのうわさを聞いて、ずっと以前から会いたいと思っていたし、イエスが何かしるしを行うのを見たいと望んでいたからである」(ルカ23:8)と記されています。権力者は、人民が素直に従っていることを願うくせに、毛色の変わった存在が現れることに興味を示すものです。それが敵でなければ面白がり、それが敵であるならば手の内にあることに快感をもちます。その敵が自分に従うように転じることはまたとない快感ですし、従わなければ自分の権力を見せつけるチャンスでもあります。どこか見世物のように、ヘロデはイエスを網の中で何かさせようとしているのかもしれません。決して敬意を表してのものではありません。またユダヤの王たる者が、一介の変人にそのような思いを抱くことはありません。ここは「だが」との対比的なニュアンスの語で「それで、いろいろと尋問したが、イエスは何もお答えにならなかった」(ルカ23:9)と続いています。ヘロデの思惑が外れたということを意味するのかもしれません。あれこれ言葉を費やして、という形で問いかけた旨が記されています。もう一度「だが」と転じて、イエスがヘロデに何も堪えることがなかったとしています。
ルカもしつこく「これに対して」の連続を示します。「これを聞いたピラトは、この人はガリラヤ人かと尋ね、ヘロデの支配下にあることを知ると、イエスをヘロデのもとに送った。ヘロデも当時、エルサレムに滞在していたのである」(ルカ23:6-7)と説明されました。ピラトは簡単に挑発には乗りません。あくまでもローマ法を守る姿勢を貫きます。実務的にはそれで十分です。イエスがガリラヤ人であることを確認すると、ガリラヤの領主であるヘロデの判断領域だと理解しました。あるいはまた、この宗教的にややこしい問題にへたに自分が関わるのも厄介なことを招きかねないと考えたのかもしれません。ただ、ルカがそのように考えた理由も分かりますが、それにしては、やたらイエスがVIP待遇のようになっているように見えます。たしかにローマ市民権をもつパウロは、ローマ皇帝に直訴するというような特別扱いを受けて、ローマにまで護衛をつけられて送還されることになりました。しかしイエスは元来そのような待遇を受ける立場ではなかったはずです。わざわざヘロデに送り返すような人物ではなかったというのが客観的な見解ですが、しかしルカにとり、このユダヤの王、世界の王は、それに相応しい扱いをやはりどこかで受けなければならなかったのでしょう。ヘロデもまたガリラヤの王でありながら、このときにエルサレムに都合良くいた、という説明をルカは加えています。そうしなければ、この裁判がすぐには始まらなかったのです。しかしこのヘロデの登場は、他の福音書にはありませんでした。
ついにこの場面の最後まで、対照性を示す接続小辞をパレードさせて、「しかし彼らは、「この男は、ガリラヤから始めてこの都に至るまで、ユダヤ全土で教えながら、民衆を扇動しているのです」と言い張った」(ルカ23:5)と、互いに噛み合わないやりとりを展開することになりました。ガリラヤからエルサレムまで。この一連の動きはルカの意図そのものです。キリストは、ガリラヤに始まりエルサレムに至る過程において、ここまでその役割を果たし続けました。それはユダヤ全土に至りました。そして国民を騒がしていると訴えました。煽動するというのは、ピラトに対しては刺激的な言葉となったでしょう。それはローマ帝国への反抗の最たるものです。しかもそれは近年ユダヤの中であちこちに起こっている反乱を意味するものでもありましたから、ローマ側も手を焼いていました。ピラトもまた、これを放置すると自分の首が飛びますから、敏感に反応したことでしょう。訳出は「揺るがす」というような具合でちょうどよいのでしょうが、ピラトの耳には「煽動」と聞こえたのではないかと思われます。しかし、それは直接ピラトの怒りを買うようなところまではいかなかったようです。
続いてまた「これに対して」の流れで、「そこで、ピラトがイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」とお答えになった」(ルカ23:3)のでした。あなたはそのように言っている。なんとも問いかけられる言葉です。イエスはまた、読者に向けても、あなたがそのように言うのかどうか尋ねています。ギリシア語では、疑問文も見た目は同じですから、読む側が、あなたは言うのか、と尋ねられているように聞こえることもあるのです。それにしても、ピラトは、納税という実務的なところではなく、まず王の件について尋ねています。あるいはこれこそが、最も重罪になりうるのかもしれません。皇帝への最大の反逆だと言えるからです。しかし、イエスは自ら肯定はしませんでした。ピラトは、当初からこの人物に、そのような反逆心を見いださなかったのでしょう。あなたがそのように言っているだけだ、というように聞いたとすれば、自らは基本的に否定していることになります。あるいは、自らそのように言い張れば罪状は一目瞭然ですが、イエスはそのように断言してはいないのです。「ピラトは祭司長たちと群衆に、「わたしはこの男に何の罪も見いだせない」と言った」(ルカ23:4)のも尤もなことでした。ここも対比的な接続ですから、このあたりは「そして」が封じられ、互いに牽制しあっているようなやりとりが続いていることが分かります。ところでここには「罪」という語は使われていません。文語訳が「とが」としているほか多くの邦訳が「罪」と訳しているのには少々問題があります。原語のもつ意味は、「罪となる事情」のようなことですから、たとえば「落ち度」のような言葉に近い意味をもっているように思われます。田川建三は「事由」がぴったりだ、と言っています。法的にはそれが相応しいと言えるでしょう。
章は変わりますが、ここも「そして」とつながれます。「そこで、全会衆が立ち上がり、イエスをピラトのもとに連れて行った」(ルカ23:1)と、ややオーバーな表現も、普通の言い回しです。すべての人々であるはずがない、とは考えるべきではありません。むしろここは、この最高法院にいた有識者メンバーを指すというのが素直な理解ですので、最高法院のお偉方が皆立ち上がった、と読んではどうでしょう。それならば、掛け値なしに「皆」であってもよいでしょう。ユダヤ人たちは全員一致で、イエスの処分を決めたのです。連れて行く先はピラト、総督とされますが、ローマの役職については政治的な理解も必要ですが、私たちの感覚では、県知事のようなものでしょうか。ただしこれはユダヤ地方ですから、ローマ帝国の支配地、すなわち外国人の自治地区に近いようなところですから、ローマ直々の派遣によるピラトは、明治期の知事以上に圧制を敷くことになりますし、そもそも人民を見下しているであろうと思われます。しばしば残酷な仕打ちをしてユダヤ人に憎まれていた、ともいいます。このピラトは、祭の時期だということで特別にこのエルサレムに来ていたものと思われます。死刑にするためには、被支配者のユダヤ人だけでは不可能とされていました。ローマのお墨付きがなければ死刑執行はできなかったのです。ここでギリシア語では「これに対して」に近い対照の言葉をもって、「そして、イエスをこう訴え始めた。「この男はわが民族を惑わし、皇帝に税を納めるのを禁じ、また、自分が王たるメシアだと言っていることが分かりました」」(ルカ23:2)と書かれています。新共同訳は「民族」と訳したがりますが、「民」が無難、あるいは「国民」を指していると思われます。フランシスコ会訳も「国民」ですから、どこから「民族」が来たか、よく分かりません。ユダヤ人差別につながりかねない訳と言えるかもしれません。イエスはユダヤ人たちを惑わしていること、ローマへの納税に刃向かっていること、そして自分を王としていることを挙げて、ピラトが厳しく処することを願います。「分かりました」は「見つけました」という語で表している気持ちです。
ところがこのイエスの言葉は、いわば神を冒涜するものでした。マルコやマタイはその旨記しています。しかしルカは唐突にこの場面をこれで終えます。それが冒涜に当たるという指摘は、削るほど長くありませんし、また削ってはいけない言葉であるように感じます。それをルカは平然とマルコから削除しました。冒涜の具体的な内容も意味も隠されたままで、この後裁判を引き回され、そして十字架へと進みます。どこか理不尽なものを感じます。もちろん他の福音書は筋が通っているとかそういうわけでもないのですが、ルカの場合は裁判の記事のあまりの省略に、どういう事態でそれが進められたのか、分からなくなりそうです。これもまた、よけいな裁判内容に触れて、ローマ法の見地から問題視されることを嫌った、と理解することも可能であるような気がします。この後ピラトに対しても、あなたの言うとおりだという返答をイエスはします。さらに、そこからはもう口を開かなくなり、ただもう引きずり回されるだけとなっています。単に謙遜であったなどというにしては、あまりにも淡泊過ぎます。しかしこれも、たとえばローマ法から見て、この理屈が通っているなどという事態になると、ピラトの責任が増したり、あるいはローマの裁判制度への批判と受け取られる可能性もあります。できることは、ユダヤ人の攻撃の一方的で身勝手な点を見せておくことです。異邦人への伝道ということを考えても、これならば問題は少なくなります。ユダヤ人の群衆へのルカの批判はここまでもたっぷり見せつけられてきました。それに加えて、私たちはこのルカに要請された条件を理解すると共に、それが後世に与えた影響について考えざるをえません。私たちもまた、無意識のうちに、そのように傾けられていってはいないか、と考えてみることも必要でありましょう。
ユダヤの長老などの問いかけに対して、「イエスは言われた。「わたしが言っても、あなたたちは決して信じないだろう。わたしが尋ねても、決して答えないだろう。しかし、今から後、人の子は全能の神の右に座る」」(ルカ22:67-69)となっています。これが人々の怒りに火を注ぎます。このあたりはルカ特有の記事です。メシアであるかどうかという問いに対して、イエスが、あるいはこの福音書が、明確な答えを出すことはしませんでした。その答えは、読者自身が出さなければなりません。ひとりの人間として、神の前で、神に問われて、イエスに見つめられて、その中で返答に責任をもって、つまり返答に命を懸けて、答える必要があります。これが信仰の告白ということです。イエスは後に全能の神の右に座すとだけ告げます。後のこと、これを信ずるかどうかで、返答は決まるでしょう。だからまた、つねに開かれた問いであり続けるのです。このイエスの問いに対して、「そこで皆の者が、「では、お前は神の子か」と言うと、イエスは言われた。「わたしがそうだとは、あなたたちが言っている」」(ルカ22:70)という成り行きがあったことをルカは記します。深い意味をこめてのことだろうと思います。お前はキリストか、と先に尋ねたようなものでした。イエスはそれに対して、そう言っても信じまい、と突き放しました。それで、ではお前は神の子なのか、と聞き直す人々。イエスは、そうだと自ずから言っているのではないか、と返します。問い詰める人々は、信仰に入るための狭い門に読者を連れて行きます。
ここもまた「そして」でつながれて、「夜が明けると、民の長老会、祭司長たちや律法学者たちが集まった」(ルカ22:66)と描写されます。夜が明けてしまいました。言葉としては「昼」ですが、日の出からこの言葉が使えるそうです。日本語でも、「昼」という言葉がそのようにして使われることがあります。昼の長さは12時間、というように。とにかく最高法院での裁判の時点ですでに日が昇ってしまいました。他の福音書だと、この裁判は夜中です。夜明けとともにイエスはピラトに送られています。ルカは必然的に、マルコが記した十字架の時刻をそのままには掲載することができなくなりましたが、その後マルコを引用したままにした部分と、非常に整合的に考えにくくしてしまったのです。さて、この裁判にはユダヤ教の主立った面々が揃い集まりました。「そして、イエスを最高法院に連れ出して、「お前がメシアなら、そうだと言うがよい」と言った」(ルカ22:66-67)のでした。本来、証言が必要なはずです。そして他の福音書では、神殿を打ち壊して云々という証言がなされたことを記しています。ヨハネは少し違いますが、大祭司とのいきいきとしたやりとりを残しています。こうしたやりとりを誰が知り、記録したか、という問題はありますが、それも誰かが聞いていれば取材することは可能です。何もヨハネ本人が聞いていなければならないきまりはないわけです。そこでこうした証言ややりとりがルカの許にもあったかもしれず、ましてマルコもまた書いているにも拘わらず、ルカはそれを掲載しませんでした。つまり、わざわざマルコから削りました。しかも、この場に大祭司がいないという、いたって不自然な描写にしてしまっています。マルコからいろいろ削り落としたときにうっかりその情報も消してしまったことに気づかなかったのでしょうか。ルカ自身、ユダヤの裁判について実はあまり知らなかったがために、細かな点をアバウトにしてしまったのでしょうか。あるいはまた、ルカは十字架と復活そのものに焦点を当てることこそ大切だと考えたために、ここは軽く流していくような扱いを心がけたのでしょうか。後に触れますが、ルカはピラトについても扱いが淡泊です。ピラトの関与を弱くすることで、ローマ側にこの福音書が受け容れやすいように図ったのかもしれません。
ここは「そして」でつながれて、「さて、見張りをしていた者たちは、イエスを侮辱したり殴ったりした」(ルカ22:63)という場面が描かれます。裁判の後、見通しがたったところでこのように嘲弄するというのが他の福音書ですが、ルカは順番を入れ替えました。裁判の前にイエスがただじっとしていたわけではないということなのでしょうか。想像するだけでここもおぞましい個所ではありますが、読者はそれを、本来自分へなされるべきことだったのだと理解することにより、このイエスへの仕打ちを贖いのための定めとして受け容れる準備をすることになります。ずっと「そして」でつながれつつ、この愚弄の様子が伝えられます。殴るというのも、素手ではありません。殴るための棒のようなものがちゃんとあるそうです。「そして目隠しをして、「お前を殴ったのはだれか。言い当ててみろ」と尋ねた。そのほか、さまざまなことを言ってイエスをののしった」(ルカ22:64-65)とあります。これらはすべて、十字架直前の仕打ちでした。ユダヤ人の王、と嘲る言葉はここには載せられていません。異邦人に対する配慮かもしれないし、ルカ自身がこのような趣味を嫌ったのかもしれません。しかしこれもやはり、献呈されたローマの役人に対しての配慮とも理解することができるのではないでしょうか。つまり、たとえからかいであっても、「王」という名で愚弄するのはまずい、と。イエスを王と見なすことの懸念もありましょうが、ローマ皇帝その人を同様にからかう可能性があるのだという様子を見せるのは、決定的によくないことです。ルカの福音書がどういう立場の人に晒されているかということが、随所に影響を与えていると言えましょう。
それよりもここでは、重要な問題が起きてしまいました。鶏がずいぶんと先に鳴いてしまったのです。鶏は、何も光が射さないと鳴かない、ということはないのですが、一応夜明けに鳴くというのが筋です。もちろんまだ暗い未明に鳴くのが普通でもあるのでしょうが、それにしても、裁判がごたごたと進み、その末にペトロが否認をして鶏の声を聞いたという展開だと、このペトロの否認は深夜というよりはやはり未明であるとしてさほど問題は感じません。つまりその後のピラトの裁判を経て十字架への道が始まったとしても、ゴルゴタの丘に着くのがひどく遅くなることはないからです。しかしルカではこの鶏を早く登場させすぎました。ここからイエスは愚弄され、その後に最高峰院に連れ出されます。そこからまたピラトという運びです。時間がかかりすぎます。ルカ自身もこのことに気づいていたようで、この後言葉を選ぶときにその辻褄を合わせようと記述してゆくのですが、だとするとどんどん時間がずれてしまいました。いずれにしても、先にペトロが裏切り、鶏が鳴いてしまいました。先に夜明けを迎えてしまうことになりました。
次は「そして」に続いて、「主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた」(ルカ22:61-62)と書かれています。ここがルカ独特です。イエスを主と称するのもそうですが、ここでイエスの視線をペトロが受けるのです。なぜならば、ペトロが否認したときに、イエスがその視界の中にいるからです。ほかでは、ペトロの否認は裁判をはさんで後に置かれていますから、イエスはすでに目の前から姿を消しています。ところがルカは、ペトロの否認を、まとめるつもりだったかもしれませんが、先回りさせました。そこで、この否認は裁判の前になりましたから、イエスがこの鶏の鳴き声のときにペトロの近くにいることになりました。そこで、イエスの視線を浴びることにもなったのです。それはドラマチックでもありました。ルカはそういう効果をもたらしたとも言えます。また、マルコのようにその場で泣くとよけいに怪しまれましょうから、外に出たことにしています。マタイもそうです。このように、ペトロが後に幾度と泣く繰り返し語ったであろう思い出話も、福音書に収録されるときに、揺れが生じています。しかもそれは、筆者の好みや設定によって変えられていると思しき面があります。また、この62節の部分は、ラテン語訳の写本の中に見られないことがあるそうで、その場合、マタイ伝の表現をここに後に取り入れたという可能性を見ていることになります。同じような記事で不足した内容があれば、ここはスムーズに理解するために共通にしておこう、という配慮がはたらくというのです。しかしそれは、推測に留まるのも確かです。
しかしルカは「少したってから、ほかの人がペトロを見て、「お前もあの連中の仲間だ」と言うと、ペトロは、「いや、そうではない」と言った」(ルカ22:58)と、同じ女中ではなくて、他の人に切り替えています。果たして事実はどうであったのか、こうした記事からは断定できません。おそらくルカの脚色だろうと思われますが、その意味でも、ルカ伝は演劇的要素が多々あると言われるのでしょう。指摘された台詞そのものまでいじるつもりはなかったようで、会話進展については共通ですから。「一時間ほどたつと、また別の人が、「確かにこの人も一緒だった。ガリラヤの者だから」と言い張った」(ルカ22:59)とありますが、このあたりは「そして」の連続です。事が一方向に起こっている様子を伝えます。この「一時間」は、まさに現代の一時間に相当する長さを表す言葉で、不思議と昼を12で分割する知恵は共通だったのです。ただこれも、江戸時代の時刻と同様に、日の出から日の入りまでを12等分したようで、季節により変動する方法でした。この三度目にもまた人が変わっています。他ではどうやら複数の人に指摘されたようですが、ルカは一人に描いています。マタイのように、その出身地が言葉の訛りによって判明しているという理由もつけていません。マルコのままです。「確かに」は「真実において」という語による言い回しです。まるでイエスがアメーンと告げるかのような勢いです。ペトロの立場が非常に危うくなったことを示します。ここで「そして」でなく、出来事が対比的に起こる語により、「だが、ペトロは、「あなたの言うことは分からない」と言った。まだこう言い終わらないうちに、突然鶏が鳴いた」(ルカ22:60)と展開します。ここはマルコもマタイも、誓ったという描き方をしていますが、ルカはこれもあっさりしています。その割には、そう言っている間に、というような正確さを喫する思いで表現を少し変えました。マルコの、鶏が二度鳴いたことは、他の著者は受け継いでいません。一度のほうが適切だと誰もが思ったようです。
だが、という感覚で実は入るのですが、「するとある女中が、ペトロがたき火に照らされて座っているのを目にして、じっと見つめ、「この人も一緒にいました」と言った」(ルカ22:56)と、ペトロの否認のシーンが始まります。ここはルカの編集です。というのは、マルコもマタイも、一旦裁判が始まったその後で、ペトロが否認したことが告げられるのですが、ルカはこの裁判の冒頭でいきなりもうペトロが否認したということを、いわばペトロの登場とともにまとめて記していることになっています。しかし、このことが後で問題になります。もしもこの順序で事が進んでいたとすると、大変な事態に陥るのです。現れたのは女中でした。マルコは、それが大祭司の女中であると説明していますが、ルカにはさほど関心がないのか省いています。ナザレのイエス、ガリラヤのイエス、と名指している他の福音書と異なり、ルカのこの場面はあっさりしています。あの人といっしょにいた、という程度です。女中は、この裁判の中身を把握していないという理解なのかもしれません。それに対して「しかし、ペトロはそれを打ち消して、「わたしはあの人を知らない」と言った」(ルカ22:57)と、これまたあっさりと叙述します。他の福音書では、あなたが何を言っているか分からない、などとペトロが抵抗を見せます。しかしここではまるで、このペトロの事件には極力関わりたくないかのようなルカの書きぶりです。隠すわけにはゆかないけれども、あまり立ち入りたくないという心理がそうさせているように見えるのです。
こうしたイエスの言動にも拘わらず、ついにイエスは捕らえられます。しかし他の福音書と異なり、弟子たちはイエスを見捨てて逃げていません。「人々はイエスを捕らえ、引いて行き、大祭司の家に連れて入った。ペトロは遠く離れて従った」(ルカ22:54)だけでした。大祭司の名前もパスされており、裁判の細かな描写についてもルカは曖昧です。詳細に調べ上げたのではなく、マルコを編集している様子が想像されます。そしてペトロがちゃんと付き従っている様子が描かれます。間違っても、見捨てて逃げたなどと、ルカは書きません。従っているのです。とことん。マタイも遠く離れて従っていますが、一旦逃げたことが記されています。ルカは、逃げた証拠は残しません。そして「人々が屋敷の中庭の中央に火をたいて、一緒に座っていたので、ペトロも中に混じって腰を下ろした」(ルカ22:55)と、ペトロは堂々としています。見つかったら自分も裁判にかけられかねないという恐れは感じられません。その割には、この後イエスを知らないと逃げるのですから、どこかリアリティがありません。また、マルコとヨハネが、ペトロが火にあたっている様子を描いていますが、そうすると、心の寒々とした様子が伝わってきます。読み込みすぎかもしれませんが、ペテロの冷え切った魂が必死で暖をとろうとするのですが、それでも満たされないままに、イエスを知らないと告白する、人間のとことんさびついた心を伝えるのに対して、ルカはたいへん堂々としている印象を拭えないのです。
この不測の事態に「そこでイエスは、「やめなさい。もうそれでよい」と言い、その耳に触れていやされた」(ルカ22:51)と癒しの業を示します。窘めるマタイのイエスとは違い、イエスはすかさずこの傷害事件に対して憐れみを示しています。これもルカ独自の観点です。ローマの公人の目に触れる記事としては、イエスが傷害罪をそのまま見過ごしているというのはまずかったことでしょう。今度は向きを変えて、「それからイエスは、押し寄せて来た祭司長、神殿守衛長、長老たちに言われた」(ルカ22:52)のでした。どれもかなりの身分の人々です。書き落としなのかもしれません。こうしたお偉方が現場に来るとは思えないからです。その手下たち、あるいは兵隊などに対して言った言葉のはずでした。手下に向けて言う言葉は、その親方に言うのも同然です。従って、実際のところは手下に対して言ったのが、実質問題としては、そのボスたちに向けて言った、という意味ならば分かります。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってやって来たのか。わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいたのに、あなたたちはわたしに手を下さなかった。だが、今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている」(ルカ22:52-53)と言い放ちます。マタイほど長くはないにせよ、マルコに少し手を加えた形になっています。サタンは働いています。闇の力が働いています。イエスの洗礼以来、しばし隠れていたサタンの力が、ここから働くというわけです。ユダにサタンが入ったときから、とする他の福音書の描写も反映されているようなものです。闇の権力の働く時がついに来たのです。いわばここから、サタンの作用する歴史が再開したということになるでしょうか。光は閉ざされ、闇がしばし覆います。