幸福の里・・・

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一億も稼げるだろうか?・・・

2016-01-20 22:42:51 | 副収入で稼ぐ

2014・01・21

 

お仕事お疲れさまで、

ございます。

 

 

毎日同じようなご連絡を、

差しあげておりますが、

 

 

本日は一億円の近道でございます。

 

一人では稼げません、

 大勢の皆さんとの、

お付き合いの中で、

 ほんの少額の、

稼ぎがうまれます・・・

 

 

 1年で一億円を稼いだ友達は、

 僕の周りに大勢おります。

 

 

この方々の目標は大きく、

30億円を目指して奮闘中・・・

 

 

然し毎年9千万円は、

更に授業料として再投資しております。

 

 

本を購入する、講演を聴く、旅行をして情報を得る、

つまり、自分自身に投資して階段を、

登ります・・・

 

 

お金を稼ぐことは、

日頃の努力の積み重ねでありまして、

ある日突然、

入手出来る物ではないように、

僕は考えております。

 

 

違う思考で考えてみましょう・・・

自分は成りたい自分になれますと、

最近特に思います。

 

 

目的や目標のたてない旅行は気まぐれに、

時間と肉体の浪費で自己満足にすぎません。

 

 

皆さんこんな旅行で、

気分わくわくできますか?

 

 

僕は無理です、なぜならば、

思考の伴わない行動は、

記憶に残らないのでございます。

 

 

そこで、90日余暇を惜しんで僕とともに、

インターネッツトに、

お時間を投資して見ましょうね・・・

 

 

この事が1億円の、

始まりでございます・・・

 

 

インタネットでお友達を作ります。

 

 

Twitterde,Facebooku,ご自分のブログで、

この事が、

面倒くさいとか思うときは、

満員電車を、思い出してください・・・

おおよそ比べものにはなりませんね、

頑張りましょう・・・

目標1億円のために。

 

 

なぜこの事にこだわるかと申し上げれば、

多くのお方は、定年後30年は生活が、

続きます。

 

 

平均寿命が世界一と進んだからです・・・

50代頃迄の暮らしは世界の所帯平均で、

年収600万円で豊かな生活が出来ます・・・

55歳定年のお方は、更に30年以上の、

楽しい生活が待っております。

 

 

その暮らしに、毎年400万円はと考えても・・・

1億のお答えが・・・

みなさんご承知のように、

 

 

年金だけを当てに出来ましょうか?

 

 

そこで皆様に、余分に収入の生み出せる、

ビジネスが必要ではございませんか?

此でしょうしょ安心の兆しが・・・

 

 

次はこの電磁友達(でんゆう)とお会いして、

会食して、すぎ日の昔を語り合う、

懐かしむことが出来ます。

 

 

更にわくわく致しますね・・・

西欧諸国の生活は、

元々優雅にみえますが、

 

 

我が国でも、

開国以来百数十年もたち、

優雅な生活が、方々で見られるように、

成って参りました。

 

 

本当に喜ばしいことでございます。

 

 

其れでは亦・・・

 

 

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■愛・・称 【青年の乃呟(つぶや)き】
■発行者 御料地(ごりょうち)の僕
■解・・除 sumai@chive.ocn.ne.jp

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床材の歴史あれこれ・・・

2016-01-20 01:31:15 | 副収入で稼ぐ

2016・01・20

 

畳の歴史・・・

奈良時代(710~794)、

現存する畳の古いものは、奈良東大寺の、

北西にある正倉院に、

聖武天皇が、

使用された「御床畳」(ごしょうのたたみ)、

と言うのがあり、

木製の台の上に置かれ、

寝台として使われたものである。

 

 

これは現在の畳と同じように、

真薦(マコモ)を編んだ筵のようなものを、

5~6枚重ねて床として、

表にイ草のコモをかぶせて、

錦の縁をつけたものである。

 

 

この台を二つ並べて、

ベッドとしていた。

 

 

平安時代(794~1192)、

この時代に入って、

貴族の邸宅が寝殿造の、

建築様式・・(寝殿造(しんでんづくり)は、

平安時代の都の、

高位貴族住宅の様式。

 

 

寝殿(正殿)と呼ばれる中心的な、

建物が南の庭に面して建てられ、

庭には、

太鼓橋のかかった池(遣り水)があり、

東西に対屋(たいのや)と呼ばれる、

付属的な建物を配し、

それらを渡殿(わたどの)でつなぎ、

更に東西の対屋から渡殿を南に出して、

その先に釣殿(つりどの)を設けた)・・。

 

 

 

となると、板敷の間に、

座具や寝具などとして、

畳が所々に置かれるようになった。

 

 

この置き畳として使われている様子は、

絵巻物等に描かれている。

 

 

そして使う人の位によって畳の、

厚さや縁についての規定があり、

 

その種類によって、

使う人も、

決まっていたのである。

 

 

京都御所の、

清涼殿は寝殿造を、

今に伝える建物として、

知られているが、

ここに使われている畳は、

平安時代の古い制度を、

残している。

 

 

「夜御殿」(よんのおとど)は、

天皇の寝室で、

部屋の中央に繧繝縁(うんげんべり)の、

厚畳二枚を敷き、

その上にさらに一枚置いて、

 そのまわり、

を大宋屏風(たいそうびようぶ)で、

囲ってある。

 

 

「昼御座」(ひのござ)は繧繝縁の厚畳二枚を並べて敷き、

上に御茵(おしとね・・しきもの)が置かれ、

儀式のときだけ、

御座されたと言われています。

 

鎌倉時代(1192)~室町時代(1338)~江戸時代(1603)、やがて鎌倉時代から、

 

 

室町時代にかけて、

書院造(日本の室町時代から、

近世初頭にかけて成立した、

住宅の様式である)が、

完成される。

 

 

この頃になると、

部屋の周囲に畳を敷き、

真ん中を残す使い方から、

部屋全体に畳を敷きつめる、

使い方になった。

 

 

それまでの客を、

もてなす座具であった畳が、

建物の床材に、

なり始めてゆきます。

 

 

こうした贅沢な使い方が出来るのは、

貴族でも一部で、

富の象徴であったようです。

 

 

畳が貴族階級に普及し始めると、

今度は畳縁の文様によって座る人の、

階級を規定したのである。

 

 

それは「海人藻芥」(あまのもくず)、

であります。

 

 

天皇は当時でも貴重な最高の織物である、

繧繝錦の繧繝縁が用いられ、

又神仏の前に座る半畳にも、

繧繝縁が使われた。

 

 

ついで親王や大臣は大紋の高麗縁。

 

 

公卿には小紋の高麗縁で、

僧正や僧侶や四位、五位の人は紫縁。

 

 

六位の侍、

 

 

寺社を統領する三種の役僧は、

黄縁を使うように、

定められていた。

 

 

この頃になると布団と、

畳の役割が分かれ、

小さな部屋割りに

畳を敷きつめるようになる。

 

 

桃山時代(1573~1603)から、

江戸時代へと移るにしたがい、

書院造は茶道の発達によって、

軽快な書院造、

それは本格的な格式ばったものではなく、

茶室の工夫や手法を取り入れた、

数寄屋風の書院造に、

なっていきました。

 

 

茶室建築から畳はやがて、

町人の家に引き継がれてゆき、

 

 

畳が一般庶民のものとなったのは、

江戸中期以降のことであり、

農村においてはさらに遅く、

明治時代になってからである。

 

 

「起きて半畳、寝て一畳」

「千畳敷に寝ても一畳」

「畳の上の水練」(理論や方法を

 知っているだけで、

 実際の役には、

立たないことのたとえ。

 

 

「新しい畳でも叩けば埃がでる」

「女房と畳は新しい方がよい」

このような故事が生まれるほど、

一般に普及したのである。

 

 

この頃長屋では、

畳は長屋を借りる店子が運び込んで、

使ったと言われており、

 

 

大家が用意して、

おくものではなかった。

 

 

それだけに畳の手入れをして、

長持ちさせる知恵を、

身につけていた。

 

 

畳み干しをこまめにして、

傷むのを防ぎ、

表がやけたら裏返しをして、

使っていた。

 

 

こうした習慣は戦後まで続いたが、

過密化した最近の都市では、

干す場所もなく、

家具も多くなって畳を、

上げるのが面倒になり、

姿を消しつつあるのである。

 

 

其れでは亦・・・

 

 

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