転ばぬ先の杖・・・
建築施工管理は、管理者の魂が宿ります。
引き揚げ者が村に戻って来た・・・
昭和20年8月15日
終戦を迎え、
引き揚げ者が村に戻って来た。
初めはみんなが協力して、
励ましたりしていたが、
やがて村中が、
飽和状態となり、
其の手当に大変苦慮した。
公共施設や住宅も、
増改築が進んだが、
高齢の大工頭領の姿は、
見られなかった。
僕も新制中学高学年、
進路を模索していた。
普通校、商業校、工業校、
難しいな・・・
工業学校建築科に進んだ。
経済的に困難になり、
途中退学して勤め乍ら、
進学を考えていた。
大学入学資格検定試験に挑戦。
商業系の短期大学を目指し
28年合格。
31年卒業。
東証1部上場の、建設会社に入社。
経理課、資材課、土木工事現場、
建築工事現場、建築工事課、
住宅付き、診療所等を担当。
宅地建物取引主任者資格取得。
専任の主任者となり、
顧客相談の難しさを学ぶ。
お客さまは神様です
と思いながら・・
昭和40年、
四年制大学、3年に編入して、
経済学を学ぶ。
必要で進学した大学であり、
教授もゼミを中心に仲良しとなり、
親しい学友もふえた。
経済人や政治家初め諸々の専門職を、
排出している大学であった。
成功した先輩の、
講演も時々聴いた。
それなりに、
興味と関心が持てた。
私の独立への足がかりが、
出来たのも、
この時期であった。
昭和41年4月1日会社設立の、
基本になる、
定款ができあがった。
建設会社は以前から、
建設業は、
技術、と商業を一緒にした、
企業と考えていたので、
迷うことなく、
社名は、
日本商工株式会社とした。
然し請負と商いを共にして、
中間搾取的内容が強い企業と、
常に思わずには、
いられなかった。
思行錯誤を繰り替えしたが、
昭和42年大学卒業と同時に
独立に至る。
3)独り立ちになって・・・
土地の売買にも進出して、
それなりの成果もあがった。
古い土地付家屋を買収して、
改修して売り出した。
当時はやりの原野分譲など、
自分の土地の、
分譲販売も行った。
前に進めるだけ進んだが、
何年か繰り返している内に、
疑似宅地としての原野分譲は、
改善に向かい小面積区画数など、
取り締まりの網が張られて、
商売がしづらく成る。
初和62年2月私の
お世話に成っていた、
お坊様のお言葉も
応援して頂いき、
東京に移転して参りました。
最初は知人と農地を買って、
建て売り業者に、
販売したのでございます。
まもなく東京都より、
宅地建物取引免許を、
取得致しました。
大手の見積もりにも参加致し
会社は力も着いて来ました。
大手より応援の方も
入社致しました。
大型景気も過ぎて
不動産業界も整理され、
資本の弱小な会社は
経営も難しい
見通しになりました。
大手銀行も貸し付けが
出来なく成る事を、
教えて呉れました。
そこでやむをえず、
不動産業は、
縮小致しました。
亦思行錯誤が
繰り替えされ、
東京都知事許可、
建築業登録を、
受けまして、
小規模改修工事などに
着手しました。
三歳の頃から木の香りと、
細工する大工さん、
最初から大先生(大工頭領)の、
知らずと、
薫陶(くんとう)を受け、
其のセンスが少年の僕に、
芽生えていたのでしょう。
技術の陶冶(とうや)は、
田舎も東京も、
遜色(そんしょく)はないと自負しながら、
良い大工を探し、
手元には真面目な
青年を選び付けました。
仕事は量より質を選び、
手の込んだ仕事を施工した。
協力者もできて
資本参加して頂き、
3倍5倍ついに
会社の払い込み、
資本金は平成2年8月、
1億円に増資、授権資本は4億円と、
成りました。
仕入れは現金、支払いも現金、
帳簿は、
予算差っ引き簿を、
(私が考案した)使う。
常に現金の残高が判明出来る、
やり方であったので
経理人を、
雇わず自分で作成。
その割に、
銀行の信用は付かない。
あっという間に
拾数年が過ぎた。
前ばかり見て、
ふりかえることを、
知らなかった。
建物と付帯する浄水装置を、
お客に勧められ、
会社の仕事の一部に、
取り入れた。
此はこれで社業に
利をもたらした。
単純でロスのない仕事であった。
時々住宅改良の、
相談も受けるように成って、
相談にのった。
親切を売り物に頑張った。
連載 Page1~16迄2015/11/07
其れでは亦・・・
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■愛・・称 【青年の乃呟(つぶや)き】
■発行者 御料地(ごりょうち)の僕
■解・・除 sumai@chive.ocn.ne.jp
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