石野真琴のなんでもあり?

多趣味な石野真琴が、普段感じている事、将棋、祭り、甲冑等々、趣味の内容を描きます

長崎県五島列島へ(その6)

2009-05-25 21:32:36 | 趣味
 本日の東京地方の天候は曇後晴でした。朝方は曇っていたのですが、午後になって急速に晴れ間が広がり、強い日射が射してきました。そのまま今日は晴となり、明日もそのまま晴れそうな感じです。都心部の最高気温は22℃、最低気温は16℃。三多摩地域の最高気温は24℃、最低気温は15℃でした。東京地域の明日は安定した晴れとなりそうですが、今週は不安定な天気模様になりそうだそうです。週間天気予報によれば土曜日に雨マークが付いているだけですが、木曜日・金曜日の天気も変わりそうです。

 津和崎灯台の近くまで行くと、そこには椿の木が密集して咲いている津和崎椿公園がありました。
 五島列島と言う名称ですが、実際には数多くの人が住む島が数多くあります。北側から中通島、若松島、奈留島、久賀島、福江島の五つの大きな島を示します。この五島列島は福江島を中心とする五島市、中通り島を中心とする新上五島町、五島に数えられない宇久島、小値賀島があり、小値賀島は北松浦郡小値賀町として1島で独立しています。宇久島は佐世保市に合併されています、五島列島は4つの自治体によって構成されていると言って良いようです。
 この津和崎灯台から北には小値賀島と宇久島があり、この津和崎灯台とXX島との間の海峡が船の航路になっていたそうです。特に遣唐使船等の古代、中国に渡る船の航路のようです。
 今では無人の津和崎灯台ですが、椿の公園から歩くと距離があるので、遠く眺めて帰りました。
 江戸時代の五島列島は、福江藩1万五千石で五島氏の領地でした。この五島氏は平氏を名乗っており、当初は宇久氏を名乗っていた事から、当初はもっとも北側の宇久島にいて、この宇久を名字の地とした事は間違いなさそうです。
 源平の時代から平氏と言えば水軍、海を渡って島嶼にその勢力を広げるのは平氏であると言って良いかも知れません。
 狭い島嶼から1万5千石の米が取れるというのは大したものです。江戸時代、いかに海産物が取れても取れ高には計算しなかったはずです。もっとも、蝦夷地(北海道)の松前藩は、全く米が取れませんでしたが、海産物の収穫により3万石扱いとなっていました。
 そう考えると、島嶼に住んでいた人々は、米は食べる事が出来なかったけども、海産物が豊富なだけに、豊かな生活をしていた事が想像できます。
 1万五千石であるから、これは大名格で、外様とは言え立派な大名です。江戸時代、1万石を超える所領を持てば大名となります。
 一時期三千石を叔父に分領していたようです。この分領された三千石の家は寄合格と言う事なので、江戸へ参勤交代で向かう必要があったようです。三千石なので大名ではなく、江戸幕府の旗本扱いです。旗本寄合と言う格式という事であったようです。

 この日の夕食には、かずろう殿の奥方と二人のお子さんも参加して、十人ほどの宴会となった。奥方は我々を送っていく車の運転をするために、来られたようで申し訳なかった。
 お子さんの話を聞く限り、自分が生まれ育った三十年以上前の伊豆の状況に近い用である。それだけまだまだ豊かな海産物が取れると言う事である。
 伊豆の場合、乱獲によってアワビ、サザエ、トコブシ、シッタカに至るまで、養殖が行われ、漁業権と称して許可が必要になっているが、中通島に限って言えばまだまだ大丈夫のようである。
 願わくば、いつまでも漁業権などによって縛られずに、自由に潜れる海であってほしいものである。
  

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2 コメント

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宇久島 (sin)
2009-05-25 22:34:16
宇久島に一度行った事があります。

もちろん仕事です。

佐世保からカーフェリーで専務と二人っきり(笑)

湾から出て外洋に出た途端ものすごく船が揺れました。

思い出しただけで酔いそう。
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宇久島 (石野真琴)
2009-05-25 23:12:41
>sin様
 専務さんと二人ですか・・・、それはそれで楽しそうな旅行ですね。
 宇久島は五島氏のかつての名字の地。
 平氏が移り住んだとか。

 船は慣れないと・・・いや、多少慣れても・・・。
 自分も船酔いするので・・・辛いです。
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