精神世界の旅

精神世界のいくつかの領域を探求します。

掲示板より:生体エネルギーの活性化と霊的覚醒13

2007年04月07日 | 掲示板より
◆MH氏  2000/08/18
ishiinbrさん、
おっしゃるように、気の問題を軽視して、心理学的説明に終始するのが、トランスパーソナルの物足りないところですが、これはそもそも、禅やヴィパッサナ瞑想などの「生体エネルギーを使わない技法」をモデルとして作られた理論ですから、当然でしょう。 そこで、「使う技法」を視野に入れて理解を拡大していくというのが、私の問題意識ですね。

一つだけ、

<これは私は少しだけ引っ掛かっていたのです。上位のレベルが、下位のレベルを引きずっている、ましてそれをコントロールできないのは奇妙だという疑問があったのです。>

霊的次元のエネルギーが「動く」ということと、霊的次元で覚醒している、ということは全く別種です。 どの次元でもそうですが、はじめに「無自覚的な動き」から始まって、断片的にその次元がわかりはじめ、それが最終的に、完全なコントロールを達成する「覚醒」に至るには、動き始めてから長い時間を要します。

ですから、物質や気の次元の現象がコントロールできずに起こるというのは、まだごく初期の段階に見られることです。コントロール能力は一気にではなく、徐々についてきます。

◆ishiinbr 2000/08/19
MHさん、ありがとうございます。

<気の問題を軽視して、心理学的説明に終始するのが、トランスパーソナルの物足りないところですが、これはそもそも、禅やヴィパッサナ瞑想などの「生体エネルギーを使わない技法」をモデルとして作られた理論ですから、当然でしょう。
そこで、「使う技法」を視野に入れて理解を拡大していくというのが、私の問題意識ですね。>

わたしは、まさにその心理学的説明を一生懸命やっていたんです。
(その中のいくつかは論文集の中に順にアップします。)
その中で、心理学的説明では説明のつかない事例にいくつか出会って、
それと臨死体験者の生体エネルギーの活性化の事実などが重なって、
これは一体どう捉えるべきなのかと興味を持っていたのです。

それでまんだら浩さんにいくつか質問させていただいたのですが、おおよその見取り図をお見せいただいた感じで、目が開かれるような思いでした。

ケン・ウィルバーが、東洋の瞑想の英知と西洋の心理学とを統一的な視野のもとに把握したことは、学問の領域を拡大する、視野を広げるという意味でたいへん功績のあったことだと思います。

さらに、生体エネルギー、気をも包括する形で説明できるようになれば、これはまた、たいへんな視野の拡大になることでしょうね。
ただしこれは心理学領域だけにおさまらないので、さらにさらに険しい道程という感じもしていますが。

MHさんの探求に期待します。私も少しづつ勉強をして行きたいと思います。

ところで、生体エネルギーのコントロールの件ですが、ご説明はよくわかりました。ありがとうございます。 ただ、けっこう一流といわれる気功師が電気器具を壊したりしているので、やはり不思議でした。エネルギーをコントロールすることは、それだけ難しいことなのでしょうね。

掲示板より:生体エネルギーの活性化と霊的覚12

2007年04月02日 | 掲示板より
◆ishiinbr 2000/08/18
MHさん、私の疑問に長い書き込みで答えていただき、本当にありがとうございます。今度は、だいぶなっとくできました。

<まず「気」(物質次元に近いエネルギー)を活性化させると、物質次元からの固着から離れる第一歩となります。 …その第一歩を踏み出すことができれば、あとはそのエネルギーに集中し、これを光明波動への意識と接続させて、エネルギーを純化していけば、「気」よりももっと微細な「拡大した自己」の意識が覚醒してきます。>

この部分は、とくになっとくできます。「気」が「拡大した自己」の覚醒につながっていくだろうという漠然とした予感もあります。そういう予感があったからこそ、優柔不断がふっ切れて站トウ功で行くしかないと気持ちが定まったのです。

わたしの中での疑問は、今まで覚醒を人間性心理学などの自己理論、自己超越理論でなっとくしていたものですから、波動やエネルギーの問題とどうようにドッキングさせていけばよいのか、その接点をどのように考えるかということです。わたしのこれからの課題となりました。

でもそのためには、私自身がチベット仏教などをもっと学ぶ必要があるのでしょう。MHさんの言う、トランスパーソナル心理学の限界がここにもあるのかも知れませんね。ともあれ大変刺激になるお話でした。

次に霊的な覚醒に生体エネルギーの活性化が自然発生的に伴うという問題です。
<霊的エネルギーと電気エネルギーには何らかの親和性があります。>
これは、間に気を置いて考えるとますますはっきりすることですね。
気と電気的現象との関連は、数々のデータが明らかにしていますから。

<霊的次元でのエネルギーの動きは、それより下位の、気や物質の次元でのエネルギー現象を付随的に発生させることは不思議でなない。>
これは私は少しだけ引っ掛かっていたのです。上位のレベルが、下位のレベルを引きずっている、ましてそれをコントロールできないのは奇妙だという疑問があったのです。

わたしとしては、ともあれこうした事例を集めて事例から何が語れるかを確認したいという気持ちがあります。

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サイト臨死体験・気功・瞑想は、同名の掲示板を備え、精神世界に関して広く活発に議論したり、情報交換を行っていた。(現在は休止中)ここでのやりとりのなかで、再録する価値のあるものを選んで、ここに随時保存している。(発言者のHNは頭文字に変えた。)

掲示板より:生体エネルギーの活性化と霊的覚醒11

2007年04月01日 | 掲示板より
◆MH氏   2000/08/18
生体エネルギーの位置づけですか?

<つまり波動一元論でこの世界を説明しようとしたとき、「エネルギーの凝固した自我の想念を溶かしていけば、光明波動はおのずとそこにあるのです」から、生体エネルギーという別種の波動を想定しなくても、光明波動への道は通じているし、説明もできるのではないでしょうか。>

私の考えでは、生体エネルギーは「別種の波動」ではないです。根源は光明波動です。 「生体エネルギーを想定しなくても光明波動への道は通じている」のは確かですから、だから「生体エネルギーを媒介としない行法」が存在しうるわけでしょ。

霊的エネルギーは、チャクラや経絡系を通して、微細次元から物質次元に変換されています。これはおわかりですよね。問題の要点は、「物質次元に固着した意識の状態」を破るということにあります。

この時、まず「気」(物質次元に近いエネルギー)を活性化させると、物質次元からの固着から離れる第一歩となります。そして、徐々に、「肉体の限界を超えて拡がる自己の意識」に気づいていきます。

その第一歩を踏み出すことができれば、あとはそのエネルギーに集中し、これを光明波動への意識と接続させて、エネルギーを純化していけば、「気」よりももっと微細な「拡大した自己」の意識が覚醒してきます。(ここの説明は、わかりにくいかと思いますが、瞑想を実践していれば、感覚的にわかるはずです)

どうしてそうなのか? という疑問には私は答えられません。これは、長い人類の経験から、そのようにすれば覚醒への道が開かれる、という経験知であるのだと思います。

「気を媒介にすると、肉体への固着を超えて行きやすい、という経験的智慧」によって、そういう方法が存在している、というのが私の答えということでしょうか。多くの人にとって、気の感覚は、初めて出会う「肉体よりも大きな自分」の経験ではないかと思います。

それから、エネルギーが霊的次元で動くと、電気系統に異常が出ることはよくあります。これも、理論的には説明できませんが、霊的エネルギーと電気エネルギーには何らかの親和性があります。霊的存在が人間に何らかのシグナルを送るときにも、良く電気的なものが使われます。

各次元のエネルギーは連続的なスペクトル状の存在になっているようです。霊的次元でのエネルギーの動きは、それより下位の、気や物質の次元でのエネルギー現象を付随的に発生させることは、私は不思議なことだとは思いません。

修行の過程でも、直ちに霊的次元のエネルギーに直接アクセスすることはできず、多くの場合、はじめは気の次元、そして気の次元とともに霊的次元が動き始める、という具合に進むようです。

要点は、

エネルギーは、霊的次元から、アストラル次元、気の次元、物質次元と「スペクトル状」に存在しており、各次元には連動関係があること、だからこそ、気の次元を出発として、「エネルギー変換」の方法によって霊的次元に到達できる、という道がある

ということになります。

気功を修練していれば、「すべて物質と見えるものも、エネルギーの一形態に過ぎない」ということが、理屈ではなく、感覚として了解できてくると思うのですが・・・

そこに至れば、自分の内部の感情や想念をエネルギーの状態として理解することもできるはずです。そうすると、それよりも純粋な状態のエネルギーを思い出すことができるようになるので、その中に想念を投げ入れて融解させるようにしていくわけです。それが瞑想の過程ということだ・・・というのが、今の私の理解レベルです。

掲示板より:生体エネルギーの活性化と霊的覚醒10

2007年04月01日 | 掲示板より
◆ishiinbr 2000/08/17
MHさん、
<光明波動というのは自己の本体だと思います。自分の外側にあるものではありません。自我的なさまざまな想念が、その光明波動を覆い隠しているのではないでしょうか。光明波動のレベルでは、宇宙=自己であって、宇宙のあらゆるものはこの光明波動によって創造されているわけです。>

これは、とてもよくわかる気がします。臨死体験者が出会う光も、

      自己の本源の光=宇宙の根源の光明波動

と捉えるのが、一番なっとく出来る気がしています。どのくらいの深さで、それに出会うかは人それぞれなのでしょうが。

ところで、臨死体験者は、体験後に生体エネルギーが活性化するのか、腕時計が壊れてしまったり、パソコンを故障させたり、電気機器に様々なトラブルを巻き起こすことが多い。気功家にもこういう例は、非常に多いのです。かつてこの(旧)掲示板に投稿くださっていた人達も、この話題になったら、実は私も私もと、何にかの人が同じ体験をなさっていたのです。これはなんなのでしょうか。

<高次の波動を「取り入れる」のではなく、自己そのものが光明波動であり、それは初めからそこにあるのですから、光を覆っているものを取り除くだけです。>

これも非常によくわかるのですが、 <自我的な想念も、光明波動の周波数の落ちたもの>だとして、瞑想の過程で活性化されていく、物質レベルに近い生体エネルギーとは何でしょう。

つまり波動一元論でこの世界を説明しようとしたとき、「エネルギーの凝固した自我の想念を溶かしていけば、光明波動はおのずとそこにあるのです」から、生体エネルギーという別種の波動を想定しなくても、光明波動への道は通じているし、説明もできるのではないでしょうか。

そうすると「生体エネルギーの感覚を媒介として使う方法」とは何ですか。そして、臨死体験者が自覚したり、瞑想の過程で自然発生的に出現したりする生体エネルギーの位置付けは?

また、電気製品を壊してしまうような生体エネルギーとは? どうも、この辺がまだ、わたしの中ではうまく整理ができません。

掲示板より:生体エネルギーの活性化と霊的覚醒09

2007年04月01日 | 掲示板より
◆MH氏  2000/08/17
光明波動というのは自己の本体だと思います。自分の外側にあるものではありません。 自我的なさまざまな想念が、その光明波動を覆い隠しているのではないでしょうか。

光明波動のレベルでは、宇宙=自己であって、宇宙のあらゆるものはこの光明波動によって創造されているわけです。自我的な想念も、光明波動の周波数の落ちたものです。想念も結局はエネルギーの形態ですね。

チベット密教では、すべての想念や感情を、純粋なエネルギーとしての存在状態に還元して自覚する、という修行を行うようです。つまりは、自我というもの自体が、エネルギーの凝固したものだという自覚を持つことです。凝固したものを溶かしていけば、光明波動はおのずとそこにあるのです。

高次の波動を「取り入れる」のではなく、自己そのものが光明波動であり、それは初めからそこにあるのですから、光を覆っているものを取り除くだけです。

・・以上の説明は、密教の教えにほぼ沿ったものだと思っているのですが・・

掲示板より:生体エネルギーの活性化と霊的覚醒08

2007年04月01日 | 掲示板より
◆ishiinbr 2000/08/17
かなり話は深まってきていますね。

自分を小さく有限なものにしてしまう窮屈なエゴ(「自己」)から解放されていく、そのいくつく先に覚醒があるという見方はおそらく間違ってはいないと思います。 霊的な覚醒を、いわば心理学的なプロセスとして理解する仕方ですね。トランスパーソナル心理学は、この立場です。

それに対し生体エネルギーの活性化との関係で理解していく仕方もある。生体エネルギーの活性化が覚醒を誘導するような事実があることを知ったとき、心理的な過程とはまったく異質な要素が入り込んで来たようで、とても興味をもちました。
まったく別の要因なのでしょうか。とすると心理的な面とエネルギーの面との関係はどうなるのか。

気が物質的な面から霊的な面まで幅をもつというのは、そのように言えると思います。気の世界を旅するでも、その辺を考察しましたので、ご参照ください。

それにしても「光明波動」というのは面白い表現ですね。