いろはの「イ」

真理は語れるのですか?

光or影(二)

2011-10-14 23:04:21 | Weblog
影について書いておきます

何回も書きますが、これは私個人の見解です、誰かに訴えるものでも強制するものでもありません細かい説明は置いておきますが、人にはそれぞれの考え方があります「これだけはぜったいだ」と肩を怒らせてもそれも。。。それは迷妄です^^
迷路に迷い込むだけです
わたしは影そのものが迷妄であるということを書いていますので、影について「こう対処しましょう」などまったくありません、無視できるなら無視し、常に光のみに意識を向けることが賢明な選択だと思っています

ただこれは影が全くの幻だと言っているのでは絶対にないです。実際には観えるし感じるものですがそこになんの意味もないということです、絵に描いた餅のようなものです
多分覚者にも確かにそれは観えるのですが、そこになんのリアルさも実感もわかないのだと思います


光と影はそれでひとつであって光のもっとも未熟な表現が影ですといっています。両方とも同じ表現で、これはたとえば幸せと不幸せや善と悪、愛と憎しみとか全てに当てはまります

私の感覚ですが、何らか(大いなる)の意志が動きます、これを神と呼ぶかどうかは別とします、たとえば大いなる生命とか大いなる宇宙といった表現でもかまいません

それが序々に降りてきます(これもあくまでも一表現です)そして最終的なところにこの物質的現象世界に原子というものを使ってこの世界を表現しています。

ただものの表現には必ず陰と陽が必要となります、上と下、右と左から幸せ不幸せ、善と悪、好き嫌いというふうにどちらか片一方が欠ければ成立しません

要するにただひとつのエネルギーが現象として何かを創造するのには本来ただひとつのものをふたつの極(火と水)に分離することが必要です

そのひとつに光と影があるだけです

影の存在が実在します、その影にかかわらない方法には、ややこしいことはいりません、が、そのものたちはなにに対して働くのかといえばそれは人間の否定的な心のみを通してしか働くことができません、たとえば利己的や敵対心、不満不安や恐怖、自己顕示欲や高慢な心、つまり人間の影の部分にのみ働くことができます
逆に言えば光の部分には働くことができません

「有料先生は魔です」この言葉に魔は存在すると学びます、存在するならこうしなさい、これを唱えなさい、ここへ行きなさい、つまりその行為がまちがいとかなんとかというより、魔を意識させる行為が偽者です

私たち人間の心の中には、光と影、言い方を変えれば真の我と自の我の両方の表現をする可能性があります、指導者が影や魔を強調すればするほどそれを信じる人の心の中に強力な分離感が生じます、まさにそのときに影の勢力はそれを利用して私たちの心の中に不調和な表現を行うのです
表現は極端かもしれませんが、汚い汚れた部屋にゴキブリが来ます、清潔な部屋には入る隙がないのと同じことです

影や悪が名札をつけているわけではありません、その外の世界に悪や魔が見える時にそれを悪だ魔だと考えるのはどうなんでしょう?
それ自体が外の世界と自分とを区別していることであって正しい視点とは言えません、わたしは日常にそれが見えた時は「神が自分の至らないところを未熟な相手を使って見せてくれている」と考えることにしています
なぜなら、外に影が実相として観えるということは自分の心の中に影が存在している証拠なのですから


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