いろはの「イ」

真理は語れるのですか?

意識

2011-10-24 01:21:51 | Weblog
意識ってなんなんでしょうかという提案です

いろんなところで使われていますね、たとえば私はサッカーが好きなのですが
明らかに本田君が入ったことで今までの日本代表になかった「ゴールへの意識」が変わっているのが素人の私にもわかります、普通は見えないものなのにね
また事故や病気でよく「意識が戻った」というような表現を聞きます
どうでもいい話かもしれませんが昔むちゃくちゃ考えたことがあります
親友が自動車事故に遭い「意識不明の重体」に陥りました、心臓は動いていてお医者さん的には「あとは意識がもどるかどうかが問題」という状態が一ヶ月続き、結局24歳という若さで亡くなりました(合唱)

そのときに感じたのが「心臓より意識が重いのか?」という素朴でばかな疑問でした、大事かどうかは科学的には知りませんし、興味はないですが^^

それからというもの自分の意識が今の今どこを向いているかといったことを半年ほど観察しました(変な奴ですねw)一人山にもこもりました(爆)

詳しくは書きませんが、出てきた答えが、意識というものは肉体とか心とかからではなく、どこか違うところからつながっているという結果だったことがあります
後に信頼する修行僧のひとが私に「修行とは意識を変えることだ」とつぶやいた言葉になぜか脳天をぶち抜かれたような衝撃が走ったことがあります、「意識を変える???」

キリスト教の真我意識、そして自我意識、潜在意識、、、、なにこれ??と

たとえば宗教とはとの質問に「そらあ神さんにお願いすることやんかいさ」と思う人もいるでしょう「救ってくれるところ」かも「心のよりどころ」もあるかもしれませんし「宇宙との一体」と思う人もいるでしょう
これってある意味意識の違いと思います、たとえ誰かから学んだとしても意識の違いだと思います、またこの意識の違いにどれが高い低いという意味ではなく、「現世利益でんがな」という意識の人に「総てはひとつなのです」と説いても「アホちゃうか」となります、どちらが上や下ではなくそれがそれぞれの捉え方であってその意識を無理やり「あんたはんは間違ってる!無知?」ではだめでしょうということです(上手く書けません)
つまり幼稚園児に大学の問題は理解できず、その幼稚園児もその進化過程であっていつかは必ず大学を卒業するというだけなので、幼稚園児がだめではありません

だから何回も書きますがこれは私個人の認識です、皆が今こう思わなければならないというような意味合いでもなく強制でもなく私が進んでいるということでもなく正しくもなく間違いでもなく、できれば参考程度に読んでいただければと書いています
その意味ではリーマン信者さんはかつて私もそうだったようにその人の進む過程を魂のレベルで自ら選んで進んでいるのですが、できれば早く進んでほしいといったところです

わたしはこの意識が「大いなる意識」または「ただひとつの生命」「唯ひとつの宇宙」あまり書きたくないですが「神」から繋がっていると考えます
わかりやすく書けば、神や宇宙や仏と呼ばれるものがこのただひとつの生命であり、ここから私たち個々の肉体を通して外の世界を見ているような感じです
前にも書いた?かもしれませんが、どこかで読んだか聞いた話に映画の話があります
主人公が私の映画を私(神の側面)が観ています、この主人公の私が実際にこの世にいる(と錯覚してる?)私です、そしてそれを観ているのが本来の私です、、ややこしい?

で、その映画は私の身体は映りません、私の目線にカメラがあります、こんなシーンの画像ってよくありますよね
本来なら実相の私は分離感もなく無垢な魂の私ですつまり覚者です、その覚者の私が映画があまりにもリアルなのでまるでそこにもう一人の私(個人)が実際に存在しているように錯覚している状態です

その私と私を結んでいる(これも変な言い方ですが)のが意識です
亡くなると肉体は灰になりますが意識(魂)が次の表現場所に逝きます
幽界で天国と思うところへ逝くのも地獄へ逝くのも意識の違いです、魂の汚れ具合ではないです

そして現状の私たちの状態が制約された意識状態です

参照している側の私はこの個人の私に焦点が合っているために、外から入ってくる情報(世界)があるために、分離という波動の生じていない精妙な意識(キリスト教で言う真我)が五感という雑音にかき消されるように潜在意識の奥底に潜ってしまって、個人という制約された意識、つまり自我意識だけが表面に知覚されているということです
そして魂に垢などつかず、どのような人も魂のレヴェルでは純粋無垢な光を放っているのですがこの自我意識がそれを曇らせている、フィルターを通していると感じます

とうぜんこんな話は聞く人によってはトンデモ話ですし、ここにはもっと複雑な説明がいることも事実ですので、、あしからず(笑)

人間の心の中で造り出される観念で宗教や真理を把握しようとするとそこに議論や理論的な考えが生まれます
説明は難しいですが^^
理論的というものは西欧では当たり前なのですが、答えがないものに対して行うものです、んーなんと言うか^^
たとえば私は真理は目の前に在ると感じています、それを観るのが本来の意識状態です、因って真理を示すにはそれだけで事は足りるというか自分自身が観る(体験する)しかないと考えます
そこに理論的な証明はありません、リーマン氏の真理はもちろん示しているでしょう、でも信者には実感として把握できないので理論で捉えるしかありません、理論には好きや嫌いや有名やからとか心の状態からも生まれますし、信者側の意識や過去の経験などによって総て違います
要するに理論的に真理を考える?ようなことができるのかどうか、またたとえば釈迦が「十方無限世界即ち我の身体成り」と実感したことを言葉にして伝えることができるのかどうか、これは言葉を超越した体験だと思います
あらゆる宗教はこの総ての人に内在する叡智(いわゆる神の意識)に因るのではなく、観念として捉え、伝えていかなければいけない(なかった)ところになにか大きなヒントが隠されているように思います

「意識を変える」なかなか困難な問題かもしれませんね(笑)

『その日を境に、私には、私自身の無形の自己と異なるものは何も観えませんでした。そしてその自己の中には、全宇宙が小さな泡のように存在しているのです』マータ・アムリターナンダマ



あ!
すいません、今日から検証という立場を省いていきます
ただ今までみんなのブログというような場所でしたので、このブログは強く私個人のブログではないと私自身認識しています
もし、やっぱりこの検証ブログが抜けないようならまたそれが私のルール違反ならその時点で閉じさせてもらいたいと考えます
もちろん愛する(笑)リーマンさんの話題も時折入るかもしれませんが。。。。


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