いろはの「イ」

真理は語れるのですか?

諸刃の剣

2011-10-11 14:40:16 | Weblog
簡単に霊媒体質について書いてみます^^

肉体を肉の塊(笑)へんないい方ですね^^、物質と捉えているとややこしくなりますが、肉体も媒体つまり粒子とか原子とかのレヴェルで診ればわかりやすいのですが、つまり肉体も物質原子によって構成された物質です
その他にエーテル体とかメンタル体、神智学ではメンタルレヴェルなどと言われています、つまり体ではなくレヴェルというニュアンスなのですね

その中のアストラル体と呼ばれている媒体がありますが、これはよく聞きますよね

このアストラル体というのが人間の感情を知覚して表現するという役割を果たしています、簡単に書けば感情はアストラル体で司られるということです(全てではないです)

そしてよく言われている幽界がそのアストラルレヴェルの世界となる、つまり肉体という媒体ではなく幽界へ行くのはアストラル体がいくと言うニュアンスです

で、そのアストラル体というものは普通は肉体の中にあります、中という表現はちょっと違いますね、肉体に隠れているというほうが近いでしょうか

このアストラル体が霊媒体質の人はどこかが肉体よりはみ出している(表現は適切ではないかも?)人のことを言います、余談ですが霊媒体質の人は感情の起伏が激しいというのもこれに影響されます、普通ならアストラル体が「ムカッ」としても肉体が押さえるという感じですが、押さえられない部分があるのです

このアストラル体に霊との繋がりの大きな接点があります。

まず、幽界と繋がるとよく言いますが、これってなにが繋がる道となるのでしょうか、特別な儀式をするとかではなく多かれ少なかれ誰でも簡単に道は繋げられます、私達が普段起きているときに常に表現しているこの「意識を向ける行為」です

意識を幽界へ向けるだけで人によって差はありますが道はつながります

単純で簡単な例で説明するとです^^

私と姉が心霊スポットへ行ったとします、二人ともそのスポットのことを話しをしながら車で向かいます、話をするほどですのでもう意識はそのよからぬ存在へ繋がっています

自縛霊のAさんはその意識を当然キャッチしています、だんだん近づいているのが当然わかります、そして現場に着き、ふたりは歩いてそこの特定の場所へ行くのですがAさんにも近づいてくるのがわかります

そして二人が視界に入る、つまり私達がその場所が見えるほどの距離まで来ればAさんはその意識を向けているの方を見るのですが、人間がアストラル体(幽体)が見えないのと同じようにAさんからも肉体は見えません、が、私のはみ出たアストラル体は見ることが出来ます

見ることが出来るということは向こうからも性格に私への道を繋げるという意味でわたしにはそのAさんが見えたり感じたりするのですが、姉には見ることができないという理屈です

これは幽界へ意識を向けない限り繋がらないという法則にも関係するのですが

これを三本供養に置き換えれば自ずと問題があるのがわかると思うのですが。。。

ただ問題はこの私の文章も恐怖を煽る可能性もあるということですが、もし心当たりがあるようでしたら、別に必ず霊能者に徐霊してもらうこともいりません、要は「忘れる」ことです。
多かれ少なかれ人間にはそのような因果はついていますから、何回も書きますが、よからぬ存在とは影でありますので、それに意識を向ければ向けるほど強力となります。影と戦っても終わりはありません。意識が向けられなければ「なんやしょうもない」っと自分から出て行かざるをえません、思っているほど複雑でもありません、その自分の心が複雑にしてしまい意識を向け強化させるという悪循環をしてしまうのです

私の友人に神智学を学んでいる人がいますが、訳わかりません^^

一番簡単で一番難しいよからぬ存在に憑かれない方法をひとつ

「わたしは霊なんかにとり憑かれたりするもんか!」という真に強い意志で済みます

以前私は精神世界を学ぶにこの恐怖はつきものだと書きました、そうですよね、神を学ぶと悪や魔がオマケのように付いてきますから^^、リーマン氏は直接魔を強調していますが(笑)

これもごくこぐ解りやすくかけば、たとえば10レヴェルを悟りとします(方便です)、10まで行けば魔は心の中からなくなるのですが、たとえば2レヴェルならマイナス2の魔が8レヴェルならマイナス8レヴェルの魔がオマケでついてきます

8レヴェルまで進んだ人がなにかの弾み(現実界にはいろいろなことがあります)で自我意識を働かせ、嫉妬や恨みの心を持った時その8レヴェルが諸刃の剣となるのです。

もし仮にリーマン氏が2チャンネル時代には純粋な5レヴェルだったとしましょう、ブログを立ち上げてどこからか「出版しませんか?儲かりますよ」と誘われたり、熱心な信者から「あなたは凄い」と絶賛され、違う方向へ違う方向へ心が働いてしまったとします、この元のレヴェルが高ければ高いほど逆のレヴェルも高いということになります

なにごとにも否定的な心や存在は実在しない影だと思い、無視することで私も最近では一切否定的な存在は見えなくなりました

ただ影の名誉のために言っておきます(笑)
宇宙の大いなる表現の中で、唯一の生命の光と、迷妄に囚われた心に遮られて生じる影が私達の前で現象化し、そしてこの両者がお互い入り乱れて私達に一人一人の人生のドラマを演じさせてくれているのであって、これは分離感のない他の星では決して得ることが出来ない特別な魂の経験をするという意図があります、この世は修行の場という意味です

そしてなにより影やよからぬ魔と呼ばれる存在も、本当はより深い愛を必要とする、つまり私達と同じ同胞と言えます

影も私達も同じ自分の表現を通して成長しようとしている点では同じということを付け加えておきます、意識や強い感情を向ければ向けるほど影が「強くなってしまいます」これは彼らのためにもなりません

まあ、とにかくどのような教えでも魔や影を意識させる教えは疑ってかかるのに越したことはありませんね

追伸、これはあくまでも私の意見です、人の意見は人の数だけあります、実相である真理(神)を理論で説明することはあまりにも困難で不可能です、これは私個人の参照でありますので当然反する意見もあります、信用するしないはその人の意見ですので、参考までに読んでもらえればそれでいいですし、そのことで理論のやり取りや正しいか間違いなのか、つまり否定的な方向が見えるようなこのなら私はこのブログをやってる意味もありません


と、言うことです^^



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