私は、学問の目的は、個人のためだけでなく、社会、国家に寄与するためにあると考える。
国家を否定し、その国の歴史や文化を正当な根拠なく、悪し様に語る行為は、学問する価値がないのではないかと思えて仕方がないのである。
たとえば、教科書裁判で有名となった、家永三郎という歴史学者。明らかに、日本という国家など、どうでも良かったのであろうと思えてならない。家永三郎の蔵書は没後、中国の大学に寄付されたそうだが、中国人に日本人と歴史論争させ、日本を中国人に乗っ取らせるつもりでそうしたと考えれば、説明がつくかもしれない。
続いて、在野の研究者をその著書で嘲笑した国文学者小松英雄のケースを紹介したい。
http://blog.livedoor.jp/waninoosewa/archives/1482783.html
納税者が、自分で調べたことをどこかで発表した際に、こういう言われ方をされたらどう思うであろうか?
職業上得た知識で納税者を馬鹿にするにもほどがある、公僕としての自覚のない学者でいいのか?
という反論が浮かんできそうである。
次に、田母神論文の間違いを指摘した秦郁彦のケース
http://blog.goo.ne.jp/tuneari/e/d7c5d794e09c63b2c4e997da59d9521d
この中で気になるのは、「史実が確定している」とか「学問的には誰も認めていない」という言葉が気になる。
自らが歴史学者として係わる権威を以て、田母神論文を否定する傲慢な言い分でないかと思う。
この種の学者たちの、言動などから、言えることは、学問で得た知識を、正当な用途で使うことがない学者について、血税で養う必要があるのか、という意味である。
また、権威をひけらかすような言い方で批判する手法は、学者としてあるまじき行為であると、言わざるを得ない。
小母方晴子のようなマナー違反続出の研究者だらけなら、大学教官や研究者に対する、言論マナー講座があってしかるべきかもしれない。
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