ガラルダ神父さま 土曜入門講座・聖書研究会 カトリック麹町 聖イグナチオ教会  †St.Ignatius Church†

キリスト教への理解を深め イエスさまの愛と救いを学ぶ 聖書のわかりやすい箇所を読み生きる愛するという意味を考えます

†2008年7月12日の講義録†

2008年07月19日 | 講義録
★冒頭に神父さまより聖書についてのお話し★
旧約:ヘブライ語(一部アラマイ語)ラテン語によって翻訳されたものをVULGATAと呼ぶ(S.Ieronimusによる)
新約:ギリシャ語
聖書を記したのは人間なのに、どうして神の言葉といえるのか?
→神の言葉とするのかどうかは教会が定める。(これはキリストらしい美しい言葉か?)
神の言葉と定められたものをCANON(正典)、異なるものと判断されたものをAPOCRYPHA(=“本物ではない”の意で外典)と分けた。

★続いて聖書の解釈についてのお話し★
1)聖書の解釈(イエスが何を言いたかったかを理解しようとすること)は学者によってなされるが、解釈(理解)は私たちの文化的、文明的な成長に合わせて、時代と共に変わっていく。(例.女性の人権に対する解釈が時代とともに変わるように)
2)聖書の記述には一見意味がよく分からないこと、間違っているのではないかと思われる記述がある(例えば、イエスの奇跡とは本当にあったことなのか?)が、聖書とはそれが事実であるかどうかということではなく、その記述から教えようとしていることは何か(教えようとしていないことは何か)をさまざまな解釈の中から考えることが大切である。つまり、神の言葉が誤りでないといえるのは、教えようとしていることに誤りはないからである。
神の言葉の泉は、プロテスタントは「聖書」のみ、カトリックでは「聖書」と「伝統」である。(例えばプロテスタントでは聖書に記述されていない“堅信式”は行われない。)
3)聖書とはキリストが関わった“救いの歴史”である。
現代の民主主義や実存主義による「人間の自由」に対する価値観の変化によって、神の言葉が絶対であるということが信じがたいものと感じられるようになっている。その「傲慢さ」によって神の言葉が分からなくなりはしないだろうか。よく聖書を読み、福音になじみ、自分の具体的な状況、生活のなかで、どのように福音の言葉を受け入れるのかということを考えながら味わうことが大切である。聖書を読みながら祈る、黙想する。“そういうイエスに私もなりたい・・!”と願いながら。その願いながら聞こえる神の言葉は安心と刺激と希望をくださる。

★ヨハネによる福音 16章29節~33節
“わたしはひとりではない、父が共にいてくださるからだ”(32節)
「私は神のうちにおり、神は私のうちにおられる」
人間にとって仲間の中の孤独(家庭、職場、友人・・)とはもっとも辛いことであるが、「LONELINESS=孤独」、と「SOLITUDE=充実した沈黙(祈り)」はまったく異なることである。「SOLITUDE=充実した沈黙(祈り)」とは深い自分と仲良く話すこと、深い自分と話すことができるひとは神と話せるひと。深い次元で、神に近いところで出会えたひと同士はより親しくなれる。
深い自分と出会うことは「祈り」によって可能であるが、現代に生きる私たちは忙しすぎて「祈る」暇がない。そのようなときは「インスタント祈り」によって神様と少しコンタクトを取るようにする。「私は神のうちにおり、神は私のうちにおられる」ということを確信し、認識することができる。

★ヨハネによる福音 17章1節~11節
(※司祭であるヨハネのみ書いている箇所である)
“父よ、時が来ました”(1節)
「時」とは受難、死、復活を意味する。苦しみの中に命、犠牲の中に愛がある。(例.お産は苦しみの中から新しい命を生み出す愛の行いである)その実現の時が来た、と解釈できる。
“あなたの栄光”(1節)
「愛の力の表れ」が“神の栄光”である。日常のささいなことでも、忠実と信頼と愛によって行ったときに人間の平和が訪れる。
“永遠の命”(3節)
神とキリストを知ること。知るとは、「祈り」と「愛」で体験し、心で経験することである。「知る」ことをヘブライ語ではYADAH(=互いに愛しあっている夫婦にように、神を尊重し賛美しほめたたえ感謝するの意)と呼ぶ。つまり、親しく心で感じ合うことを意味する。“永遠の命”のシンボルのひとつには“開かれた宴会”がある。皆で同じものを食べ、分かちあうことは「愛」ある行いである。
地獄と天国は同じ場所に存在するものである。その違いは我々の「愛」の行いが存在するかどうかである。長い箸で食べ物をとったとき、それを自分の口に入れようとしたら食べられない(地獄)が、お互いに口の中に入れてあげたら皆が満たされる(天国)。神の言葉を聴いてそれを行うことが「永遠の命」である。SEMA(=「聞きなさい」「行きなさい」の意で自分を愛する様に隣人を愛しなさいという約束)の実現こそが、神と仲良く生き、人間と自然と仲良く生きることであり、神から与えられた“永遠の命”の実現である。

†振り返って†
久々にブログ再開しました。今回、上記原稿はヘルパーY嬢が作成してくれました…多謝!
神父さまの仰った聖書の福音が「安心感」「刺激」「希望」を与えてくれるという言葉に大きく頷きつつも、SEMA-自分を愛するように隣人を愛する-を実践することの難しさを改めて感じながら神父さまのお話しを聞いた。翌日、子どもとともにささげるミサに参加し、待者となる子供たちの幼い声で発せられた共同祈願を聞いて、純粋なままの信仰心に励まされる。
7月26日は前期最後のクラスなので、講義終了後にお食事会を予定しております。場所は四ツ谷、18時スタートで参加費は4千円です。皆様ご参加下さいませ。会場は↓をご参照願います。
http://gourmet.yahoo.co.jp/0007510264/Cfg70098366/
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