ガラルダ神父さま 土曜入門講座・聖書研究会 カトリック麹町 聖イグナチオ教会  †St.Ignatius Church†

キリスト教への理解を深め イエスさまの愛と救いを学ぶ 聖書のわかりやすい箇所を読み生きる愛するという意味を考えます

†9月15日の講義録†

2007年09月29日 | 講義録
★マタイ9章9~13節:マタイを弟子にする★
・キリストは、自分が罪びとと認める人の為に来た。
・自分が罪びとだからキリストに呼ばれたことに感謝する。感謝してキリストに従う。
★ルカ16章1~13節:不正な管理人とたとえ★
・不正な管理人の抜け目の無い‘やりかた’を褒めた。その鋭さとやる気を褒めている。忙しい人や心に余裕の無い人はお金の奴隷になり、富に使えるようになってしまう→4Kを避けるようにする。
・お金については、そのお金を手に入れる方法、そのお金を使う目的、そのお金を手に入れる為に何を失うのか、などに心を向けることが大切。人はお金を基準にして価値を定める傾向があるが、それは避けなければならない。
・お金のあげ方には、4つのやり方がある。
①自分にあり余ってもあげない
②あり余っているものをあげる→やもめの献金の金持ちたち
③自分の財産の半分をあげる→ザアカイ
④全部あげる→やもめ
★マタイ10章24~33節:迫害を予告する・恐るべき者・イエスの仲間であると言い表す★
・私が伝えた教えをみんなに広めれば酷いことをされるが恐れてはならない。肉体は滅んでも魂は滅ばない。
・神を恐れるとは、神の教えに喜んで従うこと。神が魂(=永遠の命の源)を殺すことはない。自らにキリストから離れることによって、人間が殺す。
★マタイ12章1~8節:安息日に麦の穂を摘む★
・安息日はモーセが定め、立法学者が後から色々な規則を決めたが、これを意味の無いものとしてイエスは安息日の規則を破る。人の子であるイエスは安息日の主であるから。
・人間は規則の奴隷になるのでは無い。
†振り返って†
「見失った羊のたとえ」「無くした銀貨のたとえ」「放蕩息子のたとえ」に続く、『不正な管理人とたとえ』は、聖書の中でも最も難解で色々な解釈がなされて来た福音だと思う。この様に解釈の難しいたとえを読むと、ルカ8章10節を思い出し、もっと理解を深めたいと思う。教皇ベネディクト16世は、今月23日にイタリアヴェッレトリ市の市民参加ミサ福音朗読で、このたとえを取り上げられ、福音書は彼の不正ではなくその利口さを倣うべきものとして示していると説明されたそうだ。↓http://www.radiovaticana.org/japanese/japnotizie0709c/japcronaca070923.htm(K) 
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†9月8日の講義録†

2007年09月21日 | 講義録
★ルカ5章33~39節:断食についての問答★
・断食の目的は元々イスラムの人々が清められて自分がメシアであると信じられることにあるが、イエスにとっては自分がメシアであり、断食という形式、立法、習慣にとらわれた形だけの行為は意味のないものと考えた。
・キリストは形式では無く精神を重視し「私があなたがたを愛したように互いに愛し合いなさい」と定めた。
★ルカ12章49~53節:分裂をもたらす★
・オーケストラは1つのメロディー・1つの曲を演奏することで一体化するように、人間は皆で譲り合って協力し合い真の平和を作ることが大切。
・この節の真意は「偽りの平和を壊す」という意味である。
★マタイ9章18~26節:指導者の娘とイエスの服に触れる女★
・イエスが指導者の娘とイエスの服に触れる女に起こす2つの奇跡。
・十二年間も患って出血が続いている女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れた。その時イエスが娘よ元気になりなさい、あなたの信仰があなたを救ったと言い彼女は治った。指導者が、わたしの娘がたったいま死にました、でもおいでになって手を置いてやってください、そうすれば生き返るでしょうと言い、少女の手を取って起き上がらせる。
・イエスを信じて自信を持って祈るころが大切である。
★マタイ10章16~23節:迫害を予告する★
・キリストの精神を実現する→最後の審判→地球は終わって→エルサレムの敗北
・コリントの信徒への手紙13章を参照。
†振り返って†
奇跡が起こるほどにキリストを信じることが出来ればどんなに幸いなことかと思い、深く信仰を育てたいと思う。私があなたがたを愛したように互いに愛し合いなさいという簡単なみ言葉の実践でさえ、私たちの日々の生活では如何に難しいことか。キリストの弟子になることは簡単だが、弟子であり続けることは難しいという神父さまの言葉に深く頷かせれた。(K)

ハロハロ会チャリティコンサート

2007年09月04日 | 講義録
土曜講座でお預かりしたチケットは完売いたしました。
複数の方から、ご寄付の方もいただきました。
みなさま、ありがとうございました。

ご寄付の方は、今度の講座まで受け付けています。
宜しくお願いいたします。

佐藤

†9月1日の講義録†

2007年09月04日 | 講義録
行儀良くしていること、上手に生きること、正しさを貫くことだけではなく、愛を込めてそれを行い、感謝することが大事である。

[1]ルカ14-1,7~14「客と招待する者への教訓」
謙遜について
自分を愛してくれる人を大切にするのは普通のことであるが、たとえ感謝(お返し)されなくても、愛してくれない人をも大切にしなさい。
形式や行儀で謙遜するのではなく、心を添えることが大事である。
それは、喜んで、愛を込めて人に仕え、人の成功を心から喜び、人の良いところに感動することである。
そして、素直に感謝すること。
「実るほど頭を垂れる稲穂かな」~形式ではなく..

[2]ルカ12-35~40「目を覚ましている僕」
目をさましていれば、神は黙って側に来てくださると思い続ける。
そして、目をさましていれば、本当は側にいたことに気づき、実は、いつも側にいたことに気づくのです。
感謝し感動することが気持ちの良い刺激となり目を覚ましつづける。

神を見る
海の中の鐘のたとえ
かつて海中に沈んだ神殿の鐘の音が聞こえるという浜辺があった。
旅人がその鐘の音を聞きたいと思い、浜辺に何日も座っていた。
しかし、波の音、葉のざわめき、人の笑い声ばかり聞こえた。
一生懸命、それらの雑音を遠ざけても一向に鐘の音は聞こえてこなかった。
旅人はあきらめて、遠ざけようとしていた音を静かな心で聞き、自然や人の声を味わっていたら(感動していたら)、
海の中から鐘の音が静かに聞こえてきた。

[3]ルカ13-22~30「狭い戸口」、ミカ書6-8
狭い戸口とは、ミカ書にある神の望む道である。
正義を行う人とは、単なる「いい人」でいるのではなく己の責任を果たす人である。
慈しみを愛する人とは、心の暖かさがある人である。
正義は、「正しさ」と「慈しみ」を兼ね備えた事である。
「正しさ」は武器にもなる。相手の立場を思いやり、「なぜ」そうなったかを考えてみる。

ゲーテのことば
『「言った」ことより「言いたかった」ことを理解する』

「愛される」ことは権利ではなくプレゼントであると思う謙虚さで、「暖かさ」を持つことが出来る。
祈り、秘蹟、ミサ、講座で神の身近さ、暖かさを感じることが狭い戸口に入ることである。

[4]マタイ9-9~13「マタイを弟子にする」
罪の意識のある人がキリストに呼ばれる。
呼ばれたことに素直に感謝しなさい。
口先だけで罪を認めることは偽善である。
人に仕え、人を高め、人に感謝しなさい。


「人のよいところに素直に感動しなさい」
神父さまが時折話されるこの話題がとても大好きです。
その度に初心に返るように、そうなりたいと思いますが、いつの間にか感動するよりイライラしてしまっています。
[2]の海の中のたとえ話は、神の声を聞きたいと思うあまり、愛の無い行いをし、愛の無い態度の人は、結局、神の声も聞こえないという事だったと思います。
旅人は、自然や人を愛することで鐘の音を聞くことが出来ました。
私も、悔い改め、愛と責任を持ち、それを行える人になりたいと思いました。
いつか私も神さまの声を聞くことが出来たら

佐藤