ガラルダ神父さま 土曜入門講座・聖書研究会 カトリック麹町 聖イグナチオ教会  †St.Ignatius Church†

キリスト教への理解を深め イエスさまの愛と救いを学ぶ 聖書のわかりやすい箇所を読み生きる愛するという意味を考えます

†2008年10月25日講義録†

2008年10月25日 | 講義録
マタイによる福音書22章34~40節最も重要な掟

SHEMA 申命記6章5節 モーセの言葉

律法と預言者=聖書

SHEMAは全ての土台

SHEMAから律法がでる

SHEMA ①神を愛する
      ②人を愛する

存在が人を大切にすることは、神さまを愛している

人を愛している時には楽しくて一緒にいたい
神さまと一緒にいることが楽しいと感じる。

神さまがそばにいることを感じさせて下さいという祈り

神さまに愛されていることを感じさせて下さい

御父が待っておられる  

人を大切にすることも神のもの
主に弱い立場にある人を大切にする

幸せの王子(オスカーワイルド)

マタイによる福音書22章34~40節最も重要な掟

愛したい望み、愛されいるという実感

G.Bernanos(ジョルジュ・ベルナノス)

罪の汚れは汚れというよりも隔たり(距離感)

罪悪感を感じすぎて自己嫌悪におちいってはいけない

前向きの涙を流せば良い

人生は常に今という
時点から始まるベクトルである

体の復活を信じるか=体とはその人間そのもの

『見て愛する、愛して喜ぶ、常しえに』

永遠の命
みんな平等で親である神が一緒におられる

平等で仲良く一緒にいる

永遠の命はYADA(知る)ヘブライ語
アダムはイブをYADAする

永遠の命とは神をYADAすること

律法学者は神をYADA

神をYADAしているかどうか

この世の中の永遠の命は人間と仲良く生きる、神と仲良く生きる、自然と仲良く生きる、自分と仲良く生きる 

私を信じたい人は幸いである

信じるということは、心と行いで信じること

マタイによる福音書8章28~34節悪霊に取りつかれたガラダの人をいやす

イエスさまは困っている人を癒して歩いた

皆が嫌がるような人たちに近寄り、救いが今日訪れたという
普通は困っている人(お金の無い人、病気の人など)は負担になると考えてしまう。

「主よ好きなときにそっと降りてきて一緒に居て下さい」と願う。


†2008年10月18日講義録†

2008年10月18日 | 講義録
マタイによる福音書22章15~22節皇帝への税金

イエスさまを懲らしめる為のディベート
律法に矛盾する点を指摘する→姦淫の女など

Shma/Sema→律法に従い神を愛し隣人を愛すること

赦し合いなさいという教えから、カトリックは死刑制度に反対
但し、個人レベルでの色々な見解を否定するものでは無い。

神のものとは
Shma→隣人を愛することも神のもの

ミカ書6章8節
『人よ、何が善であり/主が何をお前に求めておられるかは/お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し/へりくだって神と共に歩むこと、これである』
神から求められていることは、もうすでに決まっている→正義を行う、慈しみを愛する、素直に謙って神と共に歩くこと

ルカによる福音書10章25~37節「良きサマリア人のたとえ」

祈れば良いと言うことではない

神のものは神に返す

イエスの答えに
パリサイ派の人々は返す言葉が無かった

使徒信条について学ぶ
救い主を受け入れる
キリスト教は人間が作ったものでは無く、神から頂いたもの

ローマ帝政時代の有名な史家タチトゥス(Tacitus)(紀元120年没)
なども、キリストの存在については認めている。

キリスト=メシア=救い主
クリスマ=聖べつされた油

メシアであるキリスト

新約聖書は歴史書では無い
アウグスティス住民登録、エジプト逃亡、ヘロデが子供たちを殺したなどの記述は信憑性が薄い

ピラト→残酷だが弱い人
キリストは人間として天に帰った
死んだ時に人間であり、今も人間である
ご聖体は今も生きているキリストの存在

右の座とは神と同じという意味

与えられた命、与えられた能力をどの様に生かしたのか
 
あなたの行いがあなたを裁く

困っている人にしてくれたことは私にしてくれたことである
あなたを必要としている人に何をして上げたのか?

キリストが来られるとは
精霊降臨=キリストが再び来るということ

イエスさま、私たちを迎えに来て下さい=マラナタ

マタイによる福音書8章1~8節らい病を患っている人を癒す

イエスさまは何時も困っている人の側にいた
ハンセン病に罹っている人を

私たちは困っている人を避ける
お金を求める人
病気の人
何時も寂しがっている人などを。

イエスさまは手を差し伸べる

困っている人の友達は本当の友達

血は本当の友達
呼ばれない内に血が飛んでくる

その人を触るのは

体を祭司に見せなさい→律法矛盾していない

〈休講予定〉
11月1日
11月22日

†2008年10月11日講義録†

2008年10月11日 | 講義録
マタイによる福音書22章11~14節「婚宴」のたとえ

「礼服」とは「生き方」のこと

Sema(Shma)聞きなさいイスラエル
祈り→神を愛し、隣人を愛すること

(良いサマリア人のたとえ)
私が飢えていた、裸だったとき、食べさせてくれた、着せてくれた→あなたが他の人にしてくれたことは、私にしてくれたことである

洗礼を受けることは簡単で、祈りと愛の生き方をしていくことは簡単ではない喜べるように生きる


使徒信条について学ぶ

本日はイエス・キリストについて学ぶ

イエス・キリストについて「知る」「好きになる」「従う」(3S)

YHAVE→神
イエス→救い、救う人(人を救うために生きる人)
インマヌエル(Inmanuel)Manual

神さまを理解する為の分かり易いたとえ

パソコン→私たちの人生
メーカー→御父
説明書→イエスキリスト(生き方のマニュアル)
教えてくれる友達→精霊

イエスキリスト=神

ヨセフとマリアは、イエスキリストという救い主を頂いた
マリアは神の子を頂き素直に受け入れた

救い主、救いそのものも、努力で勝ち取る〝権利〟ではない
救いは求めて、願って、初めて頂く贈りものと言える

三位一体について

愛における一体化(父と子と精霊が愛によって一緒になる)
オーケストラ(楽器は違うが1つのハーモニーを奏でる)
一体化における生命(夫婦は2人の生命から、子供が生まれる、命が生まれる)

神はお父さん、イエスさまは王子さま

ヨハネ1 1~18 言葉が肉となった

初めに言葉があった

神さまはイエスを作ったのではなく生まれた
上下関係はなく福音

キリストは「光」
ヨハネは光ではなく、光について証する為に来た

キリストは人を救うために生きる

信じるとは認めるだけでなく、神の子となり心と行ないで信じる

神さまがあなたを抱きしめて下さる、キリストは人間の姿をした神

恵みはGRACIA(神の身近な暖かさを感じさせてくれる恵み)
GRACIAは愛されていることを感じさせて下さる恵み

愛の魅力と価値を感じさせて下さる→人を赦したくなる

精霊が、すでに心の底にあったものが出てくる助けをして下さる

たとえるなら、コーヒーカップは「心」、お砂糖は「GRACIA」
底に沈んでいたお砂糖を、精霊がかき混ぜて甘さを感じさせて下さる

律法は道を見せてくれるが、救いをもたらすのはイエス・キリスト

†2008年10月4日講義録†

2008年10月04日 | 講義録
イザヤ書5章1~7節ぶどう畑の歌
マタイによる福音書21章33~43節「ぶどう畑と農夫」のたとえ

ぶどう畑とは
①イスラエル
②教会
③人間の心 のこと。

神が私の心であるぶどう畑で良いぶどうを植えたのに、何故すっぱいぶうが生まれたのか?

○2人の息子のたとえ(長男は悔い改めた、弟は悔い改めなかった→ヨハネを受け入れないなど)
○婚姻の披露宴のたとえ
○悪い農夫のたとえ(今日の福音)

捨てられた隅の親石が、真ん中で全てを支える
→この隅の親石こそが、イエス・キリスト

しもべは預言者たちのこと
息子はイエス・キリストである。

A・マチャド(スペインの詩人)
「風が私の庭に来てジャスミンを持ってきて、バラの香りを運んで行く」
(庭は私の心)

年を取ると、自分が普段考えること、普段することは自分の行いによって、自分になってくる。

人の心は、エゴイズム、自惚れ、妬み、不信感、不満などで暗くなる
→テサロニケ5章「いつも喜んでいなさい、絶えず祈りなさい、どんなことにも感謝しなさい」

どうすれ良いか?

「精霊を消さないでイエスを常に隅の親石にする」

YAHVEは「命そのものであり、生きる存在であり、私たちを愛して下さる」

肺の底まで入って、永遠の命を感じさせて下さる

人間の苦しみと神の愛について
イエスさまは、全能の父である神という

信じる人は信仰をすてる
信じない人は不信仰の確認

神さまに対する二元論
「苦しみは悪魔のせいで、喜びは神様という考え方」

アルベール・カミュ
「私たちの制度を作るのを私たちに任せてくれれば、もっと良い制度を作った」

キリストが一緒に苦しんで下さるので、人間の自然法則から幸せを自分で作る

神さまは人間に自由を与えた

イマヌエル・カント
「神さまは既に作られた幸せを人間に与えたのではない、自由と理性を与えられた」→自分の自由を理性を、正しく使って自由や幸せを掴む

キリストの苦しみに対する態度から学ぶ
①自分が苦しんでいる時に、何故と質問しない
②不幸は天罰では無い
③人の苦しみを癒す

苦しみを無くしたいという姿勢→苦しんでいる人は幸いである

イエスさまの判官びいきは、同情から生まれる
「貧しい人、苦しんでいるいる人は幸いである」

キリストの価値観は不幸は罪であり、幸せは愛
貧しい人は、愛に近いので幸いである

貧しい人、苦しんでいる人は、謙遜になる、感謝の気持ちは愛に近い

①謙遜は愛に近い、
②感謝の気持ちが深くなる
③苦しんでる人は共感できる
④忍耐力ができる

人間関係には忍耐が必要、忍耐力が無ければダメ

マタイ7章、ルカ5章に学ぶ
謙遜な姿勢→綺麗な心の貧しい人は幸いである

心の綺麗な人は、外から入って来るものを良くすることができる

アローモ
「アンデス山脈で自分の苦しみを花にしてくれた」→心が綺麗だから感じられる

何故キリストを信じるのか

①信じたければ信じる
②信じたくなければ、信じない

キリストの生き方は、素晴らしい、好き。今は説明が無いが信じたい、何時か分かる。思い込みでは無く、信じたい人は、幸いである

11月 1日(休講)*ハロハロ会のコンサートがあります
11月 8日(入門式)17時~マリア聖堂
11月22日(休講)
11月30日(志願式)10時30分~教会合同(主聖堂)にて