ガラルダ神父さま 土曜入門講座・聖書研究会 カトリック麹町 聖イグナチオ教会  †St.Ignatius Church†

キリスト教への理解を深め イエスさまの愛と救いを学ぶ 聖書のわかりやすい箇所を読み生きる愛するという意味を考えます

†10月13日の講義録†

2007年10月20日 | 講義録
★ルカ17章11~19節:重い皮膚病を患っている十人の人をいやす★
・律法の根本は愛であり、イエスは律法よりも愛を守った。罪は汚れというより、罪によって神から離れること。
・神があなたを抱きしめて赦して下さることを信じると共に、神から赦されていることを実感して感謝する。
・悪霊は自分の中にあるエゴイズムやうぬぼれ(=弱い人を裁き軽蔑する)と言っても良い。
・綺麗になった心にイエスキリストを入れて、キリストに生きる。キリストと共に、キリストの様に生きることに感謝する→この信仰があなたを救った。
★マタイ19章16~22節:金持ちの青年 ★
・永遠の命とは、神を知り深く体験し、神が望んでいる生き方をすること。(ヨハネ17章)
・神は憐れみ深い故、私たちも人の立場で物事を考える心の暖かさのある人であることを心掛ける。
・人間の財産は天国に持って行けないが、愛の行いはいつまでも残り、奪われること無い。
★入門式→洗礼式→志願式、代父母の望ましいあり方などについて神父さまよりご説明あり★
†振り返って†
・昨日、今年ご主人を心不全で亡くされたと聞いていた知り合いの女性から、実は自殺で亡くなったのだと知らされた。ご主人とも少しの知り合いで、体格も良く豪放磊落な方だった為、単純に病気というものは怖いなと思っていたのだが…。
・死を選ぶほどの辛い気持ちが如何ばかりのものであったか偲ぶ由も無いが、人懐っこい明るい笑顔の中にどんな悩みがあったのかと、故人の心中を思った。私にとっては“信仰に導かれていなければ”人ごとでは無い話しであった。死に擁かれることを選んだ人と、死の前に微かな希望を神に托した私の違いがそこにあった。
・どちらも苦しい選択であろうが、神の前にひざまずき自分が罪びとであることを認め、そんな自分でさえも神が抱きしめて赦して下さることを信じることにした、私にはまだできることがある。神父さまが仰った、人の立場で物事を考える心の暖かさのある人であることを心掛け愛の行いを証する、こと。
・この女性は、一緒に住んでいる家族、親戚にもショックを与えないために病気ということにして、自殺であることは自分の胸にしまいこみこれまで1人で背負って来たのだと、涙ぐみながら教えてくれた。
・小さきものに多くの証は出来ないが、この女性の痛みを心の暖かさで少しでも癒して差し上げたいと想った。日々の生活の中でも、天に富を積む様な生き方を心掛けたい。(K)

†10月6日の講義録†

2007年10月13日 | 講義録
★ルカ17章5~10節:赦し、信仰、奉仕★
・「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう」という部分は誇張された譬え。
・ルカ18章25節の「金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」、マタイ26章24節の「人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった」などの箇所や、マルタとマリアなどにも見られる表現。
・この表現自体に引きづられずに、福音全体の中でその意味する所を捉えることが大切。
★マタイ19章3~12節:離縁について教える★
・結婚は愛における一体化であり、一体化における命。人生を分かち合う一体化、愛から生まれる一体化と言っても良い。お互いに全てを捧げ、2人の一体化から2つの命-①子供②2人の成長(精神的な命)-が生まれる。
・不法な結婚とはギリシャ語Porneiaの訳で、カトリックでもポルネイアな状態にある場合は、結婚自体が最初から無効であったとして離婚を赦している。
・キリストはSema<神を愛しなさい、人を大切にしなさい>という精神を最も大切にしている。この精神から一度結婚したら、忍耐と信頼感と忠実性で2人が離れないことを望んでいる。
・結婚には全ての人にGraciaがあるが、カトリックが定める7つの秘蹟の1つであり、洗礼を受けている人の結婚には秘蹟が支えるGraciaがある。洗礼によって秘蹟のGraciaを受け入れる心の門が開かれる。
・結婚の秘蹟は司祭は見届ける役目を果たすのみで、結婚する2人がお互いにGraciaを捧げるもの。この秘蹟は離婚を望まない為のGraciaであり、2人の愛を守る為の手段をお互いに約束する。
・結婚生活は狭い部屋に2人でいることに似ており、危機が訪れた時に①ドアから出て行く〝別れる〟②中から2人でドアを閉める〝一緒にいる〟という2つの選択肢がある。結婚生活に危機が訪れた際には、2つの“あい”で乗り切る→「話し合い」&「今の愛」。苦しいことがあっても、虚しいことがあっても、喜んで一緒にいる。但し、どうしても危機が避けられない場合は、神様がお赦しにならないということではない。聖書に書いてあることは、人を苦しめる為にあるのではない。
★マタイ19章13~15節:子供を祝福する★
・子供というのは、弱い立場の人と解釈しても良い。この福音は幼児洗礼について勧めているという解釈もあるがそれは拡大解釈。
・幼児洗礼は、大人になった時に危機が訪れる可能性があるがそれでも勧めたい。子供に4Kを避けることを早くから教え、深く喜んで生きる為の自信を付けられるから。キリストというぶどうの木に枝として結び付けられ、点滴の様に恵みを与えられるから、子供にとっても幸せである。
・もう一つの理由は、小さい時から教会の良い雰囲気に慣れさせて、「私の教会」という意識を持たせられる。
†振り返って†
・10月6日は、教会の向かう道すがらでさわやかな風の香りに気が付いた。何だろうこの懐かしいような不思議な匂いは…と思っていたらキンモクセイの香りだった。初めて研究会に参加した時にも、教会前のキンモクセイが香っていたことを思い出し急いで教会に向かった。キンモクセイは去年と同じ場所で期待通りに素敵な芳香を放っており、同じ場所から空を見上げていた苦しかった1年前が自然と思い出されて、感慨深くもあり、また時の経つ早さにも驚かされた。
・からし種一粒ほどの信仰~の様な譬えは、イエスさまが信仰などを語る際に使った極端な表現だが、信仰の薄い弟子たちに思わず大げさな表現を使っている様な感じがしてとても“人間味”があり好きだ。神父さまが仰ったのは、聖書を読む際には「テキスト」以上に「コンテキスト」の理解が重要ということだと思う。良く聖書の一部のみの表現を以って自己中心的な理解をしている人や、人を論破する材料にセンテンスを使っている人を見掛けるが、頑なな解釈で躓かない様に神父さまの話に耳を傾けたい。
・連休中、TVドキメンタリー『余命1ヶ月の花嫁~最後のメッセージ~』を見て、結婚がもたらすGraciaについてとても深く考させたられた。7月に放送された際にとても感動してしまい、もう一度見たかったので何とか再放送してくれないかとTBSにリクエストしていたもの。私の様に再放送を望む反響が大きかった様で、異例とも言える短期間で再放送が決定。個人的なブログではないのでここでは詳しく書かないが、花嫁長島千恵さん、父親貞士さん、恋人太郎さん、多くの友人の暖かい人間性に人の希望を感じ、普段泣くことなどない性格の私だが今回も涙が溢れて止まらず号泣。
太郎さん「元気になったら何がしたい?」
千恵さん「外に行きたい。こんな東京の外だけど風が吹いてきて気持ちいいんだよ」「風って気持ちいいんだよ…知ってる?」
太郎さん「病院で何してるの?」
千恵さん「生きてる!」
愛らしい笑顔で元気いっぱい微笑み「大丈夫、頑張る」と言い続けて最後まで治ることを信じ戦い続けた千恵さん。
本人以外は余命1ヶ月と知りながら悲しみを隠して笑顔で祝福した結婚式の参加者には、多くのGraciaが注がれていることを確信した。
「明日が来ることは奇跡」
「生きてるって事は奇跡。いろんな人に支えられて生きてるんだよね。私これで元気になれたらすごい人間になれると思う」
彼女にような素晴らしい女性が何で命を失うことになるのかと神様を恨めしいような悲しい気持ちになるが、この番組を見た人に生き方を変えさせる程の影響を残したことが、微かな慰めになるかと心の慰めを探った。長島千恵さんは天国に召され、神の豊かな恩寵に擁かれていると信じずにはいられない。
千恵さんの5月7日のmixiに最後の日記が残されている。
『みなさんに明日が来ることは奇跡です。それを知っているだけで、日常は幸せな事だらけで溢れています。』…真実なメッセージに泣かされます。
『もうりんこからは返事は来ません。りんこは返事をだしたくてもだせなくなってしまいました』という太郎さんのメッセージも切なくて…この太郎さんもとても素晴らしい方です。
11月末に書籍が発売されるそうですので、番組を見ていない方も是非手にとってみてください。http://www.tbs.co.jp/program/cancersp_20070718.html(K)

†9月29日の講義録†

2007年10月06日 | 講義録
★ルカ16章19~31節:金持ちとラザロ★
・金持ちはラザロに対して2つの罪を犯している。
 ①積極的に良いことをしないという罪
 ②気が付かないという罪
金持ちであることが罪なのでは無く、ラザロに対してすべきことを何もしなかったことが罪である。
マタイ25章に記されている『主よ、いつ私たちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか』。そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、私にしてくれなかったことなのである』
という福音が理解を深める参考になる。金持ちは、悪いことはしなかったが良いこともしなかったことが罪となった。
★ルカ9章18~22節:ペトロ、信仰を言い表す・イエス、死と復活を予告する★
・ペトロが言った「神からのメシア」とは救い主という意味。イエスは死んだ後も救い主であり続ける。
・なぜ苦しみやいたみを癒しに行くのか→苦しみを、愛と忠実性と信頼感で受け入れる。
★マタイ12章38~42節:人々はしるしを欲しがる★
・私たちは決定的なご利益的なしるしを求めてしまうが、それは避けなければならない。素直な謙虚な自信で人からの愛を信じて受け入れることが大切である。
★マタイ20章20~28節:ヤコブとヨハネの母の願い★
・ヤコブとヨハネの母は愛する人を大切に思う心でイエスに二人の息子の権威を望んだ→権力、権威などを求める心、目立とうとする精神などは避けるべきである。
†振り返って†
金持ちとラザロの朗読を聞いている時に、ヤコブの手紙2章“行いを欠く信仰は死んだもの”を思い出し、朗読中に拘わらず思わず14~26節を開いて読み返した。
『わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたのだれかが、彼らに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです』
研究会に参加し、聖書対する理解を深める自分に満足していてはいけない。キリストを想い、日々の生活の中で実践することでキリストの精神に寄り添うことができたならば。忙しい日々の生活の中でも、優しさや思いやりを失わずに、より誠実で真実なキリスト者でありたいと強く願った。(K)