ガラルダ神父さま 土曜入門講座・聖書研究会 カトリック麹町 聖イグナチオ教会  †St.Ignatius Church†

キリスト教への理解を深め イエスさまの愛と救いを学ぶ 聖書のわかりやすい箇所を読み生きる愛するという意味を考えます

†2008年7月26日の講義録†

2008年07月27日 | 講義録
★マタイ13章24~30節「毒麦」のたとえ★

毒麦とは敵であり誘惑 私たちの人生には毒麦がある
自分の中にあるエゴイズムと自惚れ、自分が何時も正しいと考え、人を見下す態度などが毒麦である。周りの悪い雰囲気に交われば赤くなる。ファッション・マスコミ・ドライな常識や私さえ良ければという考え方から、毒麦が入る
自分が麦になることもあれば、毒麦になることもある。私たちは、ばい菌を人にうつして病気にすることもあれば、病人を癒す人になることもある。癒す人になるように生きる。
嘘をついて勝ち取ったものや、暴力や戦争で勝ち取ったものは、更なる嘘や暴力を生む。話し合いで解決したら信頼感の雰囲気が残るので手段が大切。何故なら、信頼感は最後まで残るから。

25節の-人々が眠っているとき-とは、神から愛する人から、心が離れているときのこと。
-聖書の起きなさい、目を覚ましていなさい-
神父さまが、ある少女に、起きて目をさましているにはどうしたら良いのか?と聞いた時の話し。幼い少女は、子供らしい考えで、起きるには目覚し時計を使えば良い、目を覚ましているには顔を洗えば良い、と真面目に答えたという何とも微笑ましいエピソード。
その愛らしい答えをヒントにした神父さまの解釈では
「目覚まし時計」とは神の声。人を癒し実を結びたいと願う神の声。
「顔を洗う」とは、自分の中の神さまと話をして祈ること。神は私は命の水であると言った。その命の水で心を洗い、人を癒せる人でいること。

『列王記上3章5~12節』ソロモンの知恵
明日の典礼のポイントは価値観。
知恵とは、神の御胸を知る、理解できる、聞き分ける力。ソロモンの答えに神さまは喜んだけど、世間は理解できなかった。神を愛するとは神の掟を守ること。しかし、私たちにはなかなか出来ないこと。

★マタイ13章44~52節「天の国」のたとえ★

宝とは、真珠とは、何か。
それは「gracia」。主なる神にgraciaをもたらす精霊を願いなさい。
graciaとは、神の身近な暖かさを感じさせてくれる恵み。神の愛だけではなくて、神の愛を感じさせて下さる心を呼び覚ます。孤独な人間は寂しい。人間からも、神さまからも、愛されていることを感じさせて下さる喜びを感じる。愛されている実感と共に、愛したい気持ちにさせて下さる恩寵。見た目には幸せをもたらしてくれそうなことでも、忍耐と信頼感で譲った方が良い場合もある。graciaは心の元気を感じさせて下さる。4K(金・肩書・権力・快楽)を全否定する訳ではないが、何よりも私たちに本当の喜びをもたらして下さるgraciaを求める。

★マタイ5章1~12節山上の説教を始める★

テーマは幸福論
キリストの価値観は簡単明瞭→「罪は不幸、愛は幸せ」
神から見ても人間から見ても良い人になれるように望む。
自分を愛に近寄らせるものは幸せ 自分を愛から離すのは不幸
「愛は幸せ」を実践する為の4つのポイント。
○謙遜(貧しさは人間を謙遜にする、謙遜は愛に近い)
○感謝(感謝は人間を愛に近寄らせる)
○共感(苦しみを知っている人は苦しんでいる人の気持ちが分かる)
○忍耐(人間関係には忍耐が必要)

貧しくても心が美しい人は綺麗

元気な心であれば入ったものを消化できる、そうでないと消化できない
イエスさまの判官びいきは尊敬から生まれる

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講義後にお食事会を催し、前期最終回を無事終えることができました。ガラルダ神父さま、クラスの皆さま、食事会にご参加頂いた方々、ご協力ありがとうございました。
次回講義は、9月6日(土)からです。翌週、13日は休講ですので、お気を付け下さい。

今日は神父さま司式の主日ミサに参加し、神父さまの昨日の講義を思い出しながら福音を拝聴。ミサ後、シスターに聖パウロ女子修道会の「アレオパゴスの祈り」-聖パウロと共に祈る-に誘われる。以前からお誘いを受けていたが、開始時間が19時30分~とクラス後なのでなかなか参加できなかったもの。毎月第一土曜日に開かれていて、次回は8月2日(土)なので、是非参加させて頂くとお約束。
http://www.pauline.or.jp/areopagus/index2008.php

1ヶ月もの間クラスが休みになってしまうけれども、内なる神さまと向き合って信仰を深め実践する充実した夏休みにしたい。大好きな八木重吉の詩集を、改めてゆったり読んで見ようと思う。(K)

〝ゆるし〟
神のごとくゆるしたい
ひとが投ぐるにくしみをむねにあたため
花のようになったらば神のまえにささげたい

〝愛〟
うつくしいこころがある
恐れなきこころがある
とかす力である
そだつるふしぎである

〝キリスト〟
(最後の2行)
このさびしさを誰に告ぐべきか
神に告ぐべし

〝花がふってくると思う〟
花がふってくると思う
花がふってくるとおもう
この てのひらにうけとろうとおもう

〝幼き歩み〟より
このかなしみを
よし と うべなうとき
そこにたちまち ひかりがうまれる
ぜつぼう と すくいの
はかないまでの かすかな ひとすじ

〝不思議〟
こころが美しくなると
そこいらが
明るく かるげになってくる
どんな不思議がうまれても
おどろかないとおもえてくる
はやく
不思議がうまれればいいなあとおもえてくる

〝明日〟
(最後の7行)
ほんとうに
自分の心に
いつも大きな花をもっていたいものだ
その花は他人を憎まなければ蝕まれはしない
他人を憎めば自ずとそこだけ腐れてゆく
この花を抱いて皆ねむりにつこう

〝ねがい〟
きれいな気持ちで
花のような気持ちでいよう
報いをもとめまい
いちばんうつくしくなっていよう

世に 花咲かば
神あるを しれよ

世に 無心 なるものあらば
神あるをしれよ

神のこえは
ほそく かすかなりとか

〝祈り〟
ゆきなれた路の
なつかしくて耐えられぬように
わたしの祈りのみちをつくりたい

てんにいます
おんちちをよびて
おんちちうえさま
おんちちうえさまとなえまつる
われはみなをてありよぶばかりのものに

〝神の道〟
自分が
この着物さえも脱いで
乞食のようになって
神の道にしたがわなくのよいのか
かんがえの末は必ずここへくる

この聖書のことばを
うちがわからみいりたいものだ
ひとつひとつのことばを
わたしのからだの手や足や
鼻や耳やそして眼のようにかんじたいものだ
ことばのうちがわへはいりこみたい

〝仕事〟
信ずること
キリストの名を呼ぶこと
人をゆるし出きるかぎり愛すること
それを私の一番よい仕事としたい

基督になぜぐんぐん惹かれるか
基督自身の気持ちが貫けているからだ

きりすとを おもいたい
いっぽんの木のように
おもいたい
ながれのようにおもいたい

イエスの名を呼ぶと
イエスの像を心に描くこと
イエスについて人に述べること
出きるかぎり人がゆるし人にやさしくし
素直おな瞳をもちつづけること
そういうことを趣味にしたい
結局いつもそこえ考えが落ちてゆくようにしたい
ものの尺度がそこへ落ちてゆく様にしたい
イエスに近づく為に最后の一銭を支払うことが
出来るようになりたい

〝私の詩〟       
(私の詩をよんでくださる方へささぐ)
裸になってとびだし
基督のあしもとにひざまづきたい
しかしわたしには妻と子があります
すてることができるだけ捨てます
けれど妻と子をすてることはできない
妻と子をすてぬゆえならば
永劫の罪もくゆるところではない
ここに私の詩があります
これが私の贖(いけにえ)である
これらは必ずひとつひとつ十字架を背負ふてゐる
これらは私の血をあびてゐる
手をふれることもできぬほど淡々しくみえても
かならずあなたの肺腑へくひさがって涙をながす

-八木重吉-

処女詩集『秋の瞳』の「序」に書かれた八木重吉の言葉。
私は、友が無くては 耐へられぬのです。しかし、私には、ありません。
この貧しい詩を、これを、読んで下さる方の胸へ捧げます。そして、私を、あなたの友にしてください。

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