ガラルダ神父さま 土曜入門講座・聖書研究会 カトリック麹町 聖イグナチオ教会  †St.Ignatius Church†

キリスト教への理解を深め イエスさまの愛と救いを学ぶ 聖書のわかりやすい箇所を読み生きる愛するという意味を考えます

†2008年11月8月講義録†

2008年11月08日 | 講義録
今日は講義の後「マリア聖堂」で入門式を行い、18時~お食事会を行った。入門された方々、代父母を務められた方々、お食事会にご参加頂いた方々、お疲れ様でした♪

講義箇所は以下の通りでした。

ヨハネ14章1~4節イエスは父に至る道

マタイ9章9~13節マタイを弟子にする

マタイ9章18~26節指導者の娘とイエスの服に触れる女

告悔(≠秘蹟)のやり方について

神父さまが「亡くなった方に残されたものができること」についてのお話しをされていた時、いつものあの曲が心に浮かび上がって来て神父さまのお話しを書き留めることが出来なくなってしまった

愛する人の復活を静かに待ち望み、再会することを見返りを求めることなくただひたすらに待ち続ける。簡単なことの様でとっても難しいことだ。しかも、そこにあるのは、絶望ではなく希望なのだから、いっそう素敵だなと思わずにはいられない。「愛の希望は人を救うことができる」ということを、信じたいと願う。

「thanks」

時が流れるのは早いね
あれから2年の月日が流れ
私も2つ歳を取った
でもあなたはまだ眠っている

穏やかな顔で 今もまだ
静かに眠っている
待つ事が 辛いわけじゃない
でも少し寂しい・・・
早く起きないかなぁ・・・

あなたの声が聴きたい 優しさ溢れる
耳に心地いい その声を
あなたの笑顔が見たい 優しく暖かな
幸せになれる その笑顔を

窓から気持ちの良い朝日が差し込み
あなたが起きるのを待つ
いつものように 日々の出来事を
あなたに語りかける

ふと 瞼が動いた
息をすることすら忘れて
見守る中 あなたの目がゆっくり
開かれて目を覚ます

夢なら覚めないで 溢れる気持ちが
涙と一緒に 零れ落ちた
夢でもこのままで やっと訪れた
幸せをもう 離したくない

ようやくこの日がきた 待っている時は
とても長く感じた日々も
今この瞬間には
それは全て 過ぎ去った
遠い過去の思い出

おはよう
そして・・・
お帰りなさい

†2008年11月1日†ハロハロチャリティーコンサート

2008年11月08日 | 講義録
ハロハロチャリティーコンサートにご参加頂いた方ありがとうございました!

第9回 ハロハロチャリティーコンサート~Smile!えがおによりそうもの

日時  2008年11月1日(土) 17時開場18時開演
場所  世田谷区北沢タウンホール
料金  ¥3,000(全席自由)
出演  川畑伊知郎(Pf)
主催  フィリピン支援NGOハロハロの会
共催  上智大学ハロハロの会
協賛  メトロポリタン銀行 
後援  上智大学ソフィア会  東京都社会福祉協議会 

*ハロハロの会では、フィーディングプログラム支援のためのチャリティーコンサートを年に1回行っています。このコンサートの収益はフィーディングセンターでの食材や設備投資に使われます。<ハロハロ会の支援している給食プログラムの1食分の値段が約7円、一日のサービス受給者は約80人です。(子どもの他に栄養不足における胎児への影響から母親も含まれます)>

†2008年10月25日講義録†

2008年10月25日 | 講義録
マタイによる福音書22章34~40節最も重要な掟

SHEMA 申命記6章5節 モーセの言葉

律法と預言者=聖書

SHEMAは全ての土台

SHEMAから律法がでる

SHEMA ①神を愛する
      ②人を愛する

存在が人を大切にすることは、神さまを愛している

人を愛している時には楽しくて一緒にいたい
神さまと一緒にいることが楽しいと感じる。

神さまがそばにいることを感じさせて下さいという祈り

神さまに愛されていることを感じさせて下さい

御父が待っておられる  

人を大切にすることも神のもの
主に弱い立場にある人を大切にする

幸せの王子(オスカーワイルド)

マタイによる福音書22章34~40節最も重要な掟

愛したい望み、愛されいるという実感

G.Bernanos(ジョルジュ・ベルナノス)

罪の汚れは汚れというよりも隔たり(距離感)

罪悪感を感じすぎて自己嫌悪におちいってはいけない

前向きの涙を流せば良い

人生は常に今という
時点から始まるベクトルである

体の復活を信じるか=体とはその人間そのもの

『見て愛する、愛して喜ぶ、常しえに』

永遠の命
みんな平等で親である神が一緒におられる

平等で仲良く一緒にいる

永遠の命はYADA(知る)ヘブライ語
アダムはイブをYADAする

永遠の命とは神をYADAすること

律法学者は神をYADA

神をYADAしているかどうか

この世の中の永遠の命は人間と仲良く生きる、神と仲良く生きる、自然と仲良く生きる、自分と仲良く生きる 

私を信じたい人は幸いである

信じるということは、心と行いで信じること

マタイによる福音書8章28~34節悪霊に取りつかれたガラダの人をいやす

イエスさまは困っている人を癒して歩いた

皆が嫌がるような人たちに近寄り、救いが今日訪れたという
普通は困っている人(お金の無い人、病気の人など)は負担になると考えてしまう。

「主よ好きなときにそっと降りてきて一緒に居て下さい」と願う。


†2008年10月18日講義録†

2008年10月18日 | 講義録
マタイによる福音書22章15~22節皇帝への税金

イエスさまを懲らしめる為のディベート
律法に矛盾する点を指摘する→姦淫の女など

Shma/Sema→律法に従い神を愛し隣人を愛すること

赦し合いなさいという教えから、カトリックは死刑制度に反対
但し、個人レベルでの色々な見解を否定するものでは無い。

神のものとは
Shma→隣人を愛することも神のもの

ミカ書6章8節
『人よ、何が善であり/主が何をお前に求めておられるかは/お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し/へりくだって神と共に歩むこと、これである』
神から求められていることは、もうすでに決まっている→正義を行う、慈しみを愛する、素直に謙って神と共に歩くこと

ルカによる福音書10章25~37節「良きサマリア人のたとえ」

祈れば良いと言うことではない

神のものは神に返す

イエスの答えに
パリサイ派の人々は返す言葉が無かった

使徒信条について学ぶ
救い主を受け入れる
キリスト教は人間が作ったものでは無く、神から頂いたもの

ローマ帝政時代の有名な史家タチトゥス(Tacitus)(紀元120年没)
なども、キリストの存在については認めている。

キリスト=メシア=救い主
クリスマ=聖べつされた油

メシアであるキリスト

新約聖書は歴史書では無い
アウグスティス住民登録、エジプト逃亡、ヘロデが子供たちを殺したなどの記述は信憑性が薄い

ピラト→残酷だが弱い人
キリストは人間として天に帰った
死んだ時に人間であり、今も人間である
ご聖体は今も生きているキリストの存在

右の座とは神と同じという意味

与えられた命、与えられた能力をどの様に生かしたのか
 
あなたの行いがあなたを裁く

困っている人にしてくれたことは私にしてくれたことである
あなたを必要としている人に何をして上げたのか?

キリストが来られるとは
精霊降臨=キリストが再び来るということ

イエスさま、私たちを迎えに来て下さい=マラナタ

マタイによる福音書8章1~8節らい病を患っている人を癒す

イエスさまは何時も困っている人の側にいた
ハンセン病に罹っている人を

私たちは困っている人を避ける
お金を求める人
病気の人
何時も寂しがっている人などを。

イエスさまは手を差し伸べる

困っている人の友達は本当の友達

血は本当の友達
呼ばれない内に血が飛んでくる

その人を触るのは

体を祭司に見せなさい→律法矛盾していない

〈休講予定〉
11月1日
11月22日

†2008年10月11日講義録†

2008年10月11日 | 講義録
マタイによる福音書22章11~14節「婚宴」のたとえ

「礼服」とは「生き方」のこと

Sema(Shma)聞きなさいイスラエル
祈り→神を愛し、隣人を愛すること

(良いサマリア人のたとえ)
私が飢えていた、裸だったとき、食べさせてくれた、着せてくれた→あなたが他の人にしてくれたことは、私にしてくれたことである

洗礼を受けることは簡単で、祈りと愛の生き方をしていくことは簡単ではない喜べるように生きる


使徒信条について学ぶ

本日はイエス・キリストについて学ぶ

イエス・キリストについて「知る」「好きになる」「従う」(3S)

YHAVE→神
イエス→救い、救う人(人を救うために生きる人)
インマヌエル(Inmanuel)Manual

神さまを理解する為の分かり易いたとえ

パソコン→私たちの人生
メーカー→御父
説明書→イエスキリスト(生き方のマニュアル)
教えてくれる友達→精霊

イエスキリスト=神

ヨセフとマリアは、イエスキリストという救い主を頂いた
マリアは神の子を頂き素直に受け入れた

救い主、救いそのものも、努力で勝ち取る〝権利〟ではない
救いは求めて、願って、初めて頂く贈りものと言える

三位一体について

愛における一体化(父と子と精霊が愛によって一緒になる)
オーケストラ(楽器は違うが1つのハーモニーを奏でる)
一体化における生命(夫婦は2人の生命から、子供が生まれる、命が生まれる)

神はお父さん、イエスさまは王子さま

ヨハネ1 1~18 言葉が肉となった

初めに言葉があった

神さまはイエスを作ったのではなく生まれた
上下関係はなく福音

キリストは「光」
ヨハネは光ではなく、光について証する為に来た

キリストは人を救うために生きる

信じるとは認めるだけでなく、神の子となり心と行ないで信じる

神さまがあなたを抱きしめて下さる、キリストは人間の姿をした神

恵みはGRACIA(神の身近な暖かさを感じさせてくれる恵み)
GRACIAは愛されていることを感じさせて下さる恵み

愛の魅力と価値を感じさせて下さる→人を赦したくなる

精霊が、すでに心の底にあったものが出てくる助けをして下さる

たとえるなら、コーヒーカップは「心」、お砂糖は「GRACIA」
底に沈んでいたお砂糖を、精霊がかき混ぜて甘さを感じさせて下さる

律法は道を見せてくれるが、救いをもたらすのはイエス・キリスト

†2008年10月4日講義録†

2008年10月04日 | 講義録
イザヤ書5章1~7節ぶどう畑の歌
マタイによる福音書21章33~43節「ぶどう畑と農夫」のたとえ

ぶどう畑とは
①イスラエル
②教会
③人間の心 のこと。

神が私の心であるぶどう畑で良いぶどうを植えたのに、何故すっぱいぶうが生まれたのか?

○2人の息子のたとえ(長男は悔い改めた、弟は悔い改めなかった→ヨハネを受け入れないなど)
○婚姻の披露宴のたとえ
○悪い農夫のたとえ(今日の福音)

捨てられた隅の親石が、真ん中で全てを支える
→この隅の親石こそが、イエス・キリスト

しもべは預言者たちのこと
息子はイエス・キリストである。

A・マチャド(スペインの詩人)
「風が私の庭に来てジャスミンを持ってきて、バラの香りを運んで行く」
(庭は私の心)

年を取ると、自分が普段考えること、普段することは自分の行いによって、自分になってくる。

人の心は、エゴイズム、自惚れ、妬み、不信感、不満などで暗くなる
→テサロニケ5章「いつも喜んでいなさい、絶えず祈りなさい、どんなことにも感謝しなさい」

どうすれ良いか?

「精霊を消さないでイエスを常に隅の親石にする」

YAHVEは「命そのものであり、生きる存在であり、私たちを愛して下さる」

肺の底まで入って、永遠の命を感じさせて下さる

人間の苦しみと神の愛について
イエスさまは、全能の父である神という

信じる人は信仰をすてる
信じない人は不信仰の確認

神さまに対する二元論
「苦しみは悪魔のせいで、喜びは神様という考え方」

アルベール・カミュ
「私たちの制度を作るのを私たちに任せてくれれば、もっと良い制度を作った」

キリストが一緒に苦しんで下さるので、人間の自然法則から幸せを自分で作る

神さまは人間に自由を与えた

イマヌエル・カント
「神さまは既に作られた幸せを人間に与えたのではない、自由と理性を与えられた」→自分の自由を理性を、正しく使って自由や幸せを掴む

キリストの苦しみに対する態度から学ぶ
①自分が苦しんでいる時に、何故と質問しない
②不幸は天罰では無い
③人の苦しみを癒す

苦しみを無くしたいという姿勢→苦しんでいる人は幸いである

イエスさまの判官びいきは、同情から生まれる
「貧しい人、苦しんでいるいる人は幸いである」

キリストの価値観は不幸は罪であり、幸せは愛
貧しい人は、愛に近いので幸いである

貧しい人、苦しんでいる人は、謙遜になる、感謝の気持ちは愛に近い

①謙遜は愛に近い、
②感謝の気持ちが深くなる
③苦しんでる人は共感できる
④忍耐力ができる

人間関係には忍耐が必要、忍耐力が無ければダメ

マタイ7章、ルカ5章に学ぶ
謙遜な姿勢→綺麗な心の貧しい人は幸いである

心の綺麗な人は、外から入って来るものを良くすることができる

アローモ
「アンデス山脈で自分の苦しみを花にしてくれた」→心が綺麗だから感じられる

何故キリストを信じるのか

①信じたければ信じる
②信じたくなければ、信じない

キリストの生き方は、素晴らしい、好き。今は説明が無いが信じたい、何時か分かる。思い込みでは無く、信じたい人は、幸いである

11月 1日(休講)*ハロハロ会のコンサートがあります
11月 8日(入門式)17時~マリア聖堂
11月22日(休講)
11月30日(志願式)10時30分~教会合同(主聖堂)にて

†2008年9月27日の講義録†

2008年09月27日 | 講義録
フィリピの信徒への手紙2章1~11節
マタイによる福音書21章28~32節

聖パウロ
口だけで行いが伴っていただろうか?
何について回心するか? 
⇒「利己心」と「虚栄心」   
 利己心=エゴイズム   
 虚栄心=自惚れ 
全ての悪はここから始まる。(私さえ良ければ、という思い。)
何事においても相手は自分よりも優れていると思いなさい。 
人に「仕える」
へりくだるよりも相手を「高める」
相手のよいところについて神様と話し合う。ここから謙遜が生まれる。
本当に心から相手の良いところを誉め、感動する。(お世辞ではなく)
見本はイエス・キリスト。自分が損して、痛みを感じても仕える。  

カトリックの教えについて学ぶ 『使徒信条について』
”天地の創造主”
創造とは、無から何かを作ること。
ビックバンの前に何かがあったのでは? 
→神の存在があったのでは?
アウグスチヌス
トマスアクイナス
神を定義したり証明することはできない。
神は理性と経験と想像を超えるものだから。
ヨハネ ”神は愛である”
→神の特徴であるが定義ではない

YAHVE(I am〝the I am〟)
 ①存在の源、命の源、愛の源
 ②命そのもの、愛そのもの
③生きる存在(理性と自由のある独立した存在=ペルソナ)
④共にいて下さる存在(”私は神の内におり、神は私の内におられる”)

「唯一の神」ということの解釈
(戦争)神は唯一である、だからあなたの神は本物の神ではない。
(平和)神は唯一である、だから皆兄弟である。協力によって尊敬し合い、友情と愛が生まれる
”天におられる私たちの父”
 「天」とは ・恵みの源        
       ・上から見ている      
       ・神秘的である(圧倒されるspaceである) ということの象徴。
空気は私たちを超えると同時に肺の中まで入り込む。
空気をもたらす天は、心の最も深いところにいらっしゃるというシンボル
神は親
様々な疑問が残っても、なぜ神を信じるのか?
 ⇒”私の行いを見て信じたい人は幸いである”  

マタイ福音書5章33~37節 『誓ってはならない』
神にかけて誓うときは、絶対に嘘はない。
真実を誠意に言えば嘘はない。
事実の半分しか言わないのも嘘。(自分の都合の良いことしか言わない)
自分に誠実であるとは、正当化しない、美化しないということ。
自分を信じられなければ、誰も信じられない。


11月22日は休講です。
入門希望者は神父様と面接を致します。
    15時45分にアルペホールにお集まりください。(来週以降も随時行います。)

†2008年9月20日の講義録†

2008年09月20日 | 講義録
イザヤ書55章6~9章御言葉の力
マタイによる福音書20章1~16章「ぶどう園の労働者」のたとえ

「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」
→現代の私たちにはなかなかできない考え方

当時のユダヤ人の考え方には
①一番先に信仰を得た
②立法を守っている
という驕った優越感が強かった。

この為、ユダヤ人よりも異邦人が、キリストの精神を素直に受け入れた。

私たちが大切にされるのは権利でなく送りもの
=私たちが愛されるのは権利でなく送りもの
という謙虚な考え方で人と接して生きる。

「ぶどう園」とは「神の国」のたとえ。
「ぶどう園」で働くということは「神の国」で働くということ。

人を大切にするときには、純粋な愛(=無償の愛)であるアガペーでする
結果として来るご褒美を期待することはあっても、感謝などの報酬を期待したり
目的にしてはいけない。

バラ差し上げる手にはバラの香りが残る
バラの綺麗な花を失っても、その香りが残るだけで素敵
→純粋に人を大切にする。

理解・関心・感謝
・笑顔
・人が助かる
・神さまが喜ぶ(助けられた人を見て喜ぶ、助けた人を見て喜ぶ)
・自分を好きになる(自己嫌悪から救われる)
・反省する機会を与えられる(相手の立場からものごとを考える)
・純粋な愛をもって考える

ヨハネによる福音書3章13~17節イエスとニコデモ

十字架は愛のシンボル

上げられるとは
①十字架に上げられる
②天に上げられる
という意味。
 
十字架と救いと痛みには意味がある
十字架と救いと痛み自体には何の意味もない
そこ(その犠牲的精神)に愛を込めて、そして初めて意味が生まれる。

キリストが十字架につけられた時の言葉
○主よできればこの苦しみを避けたい、杯を遠ざけたい
○私が公に言っていることは真実、私が悪いことを言ったのならば悪いところを教えて下さい
○主よなぜ私を見捨てられたのですか?(主よ私が見捨てられていないことを感じさせて下さい)

このキリストの試練に立ち向かう姿から
私たちも苦しいことがあっても余り文句を言わないようにして生きることを学ぶ。
悲しい試練があるときには、キリストのように静かに耐えて、苦しみを受け入れる。
いつも不平不満の雰囲気を持っているのはダメ、神さまに向かって、人に向かって、いつも文句を言うのは良くない。

イエスと共に、文句を言わないで黙って歩くようにする

__________________________________________


『ひぐらしのく頃に』

Frederica Bernkastelの詩より

(鬼隠し編)

どうか嘆かないで。
世界があなたを許さなくても、私はあなたを許します。

どうか嘆かないで。
あなたが世界を許さなくても、私はあなたを許します。

だから教えてください。
あなたはどうしたら、私を許してくれますか?

(祭囃し編)

誰だって幸せになる権利がある。
難しいのはその享受。

誰だって幸せになる権利がある。
難しいのはその履行。

私だって幸せになる権利がある。
難しいのはその妥協。

(綿流し編)

あなたの乾きを癒せない。
真実を欲するあなたがそれを認めないから。

あなたの乾きを癒せない。
あなたの期待する真実が存在しないから。

それでもあなたの渇きを癒したい。
あなたを砂漠に放り出したのは私なのだから。

(祟殺し編)

井の中の蛙は幸せでした。
井戸の外に何も興味がなかったから。

井の中の蛙は幸せでした。
井戸の外で何があっても関係なかったから。

そしてあなたも幸せでした。
井戸の外で何があったか知らなかったから。

(Gファンタジー)

私が一番不幸だった。
この迷路に出口がないことを知っていたから。

次に彼が不幸だった。
この迷路に出口がないことを知らなかったから。

その他大勢は不幸ではなかった。
自分たちが迷路の中にいることすら知らなかったから。

(ガンガンパワード)

何が罪かわかりますか。
知恵の実を口にしたからではありません。

何が罪かわかりますか。
蛇の甘言に耳を貸したからではありません。

まだ罪がわかりませんか。
それこそがあなたの罪なのです。

(盥回し編)

あなたの見たいものは、なんですか?
私がそれを見せてあげましょう。

あなたの聞きたいことは、なんですか?
私がそれを教えてあげましょう。

だけど、期待はしないでください。
目と耳を閉じているあなたにはきっと無駄なことだから。

†2008年9月6日の講義録†

2008年09月06日 | 講義録
★エレミア20章7~9章:エレミアの告白★
★マタイ16章21~27章:イエス、死と復活を予告する★
イエスに従って、厳しい道を歩む。
永遠の命とは、次の4つに当てはまる。

①神と仲良く生きる
②人間と仲良く生きる
③自然と仲良く生きる
④自分と仲良く生きる

惑わすとは、引き連れられて、神さまが呼んで下さる、誘ってって下さる
→そして実を任せる。神のグラチアが心の中に入って、愛を感じさせて下さる。

★マタイ10章7~13章:イエス、死と復活を予告する★

お金に頼らない、何も持たない、良い心を信じる
平和を作るために、人を癒すために、というとっても綺麗な使命感。
そして悪を追い出す。
現代人は飽きっぽい、簡単に飽きる、友達、配偶者などもすぐ捨ててしまう。
人間に対しても、めんどくさくなったら、直ぐ別れるが、それではいけない。
便利でない人は無視する傾向があるが、我慢して、仲良く生きるようにする。
その人の良い所を、痛みを感じるまで愛する。
冷たい態度はダメ、この人を失ったら全てを失う気持ち。

★マタイ5章20~26章:イエス、死と復活を予告する★

義人とは人間の前でも神さまの前でも正しい人。
隣人とは近くにいて利益になる人ではない。
隣人とはあなたを必要としている人のこと。
愛の反対の言葉は憎しみよりも無視することと言える。
人の目に見える、見られて褒められる為に、良い行いをするのは、神さまは喜ばない。
右の手のすることを、左の手に教えない。
パリサイ派の人たちは、見られる為に、良い行いをしていたが、私たちもその傾向がある。パリサイ派の人と謙虚な徴税人のたとえ。パリサイ派の人は人を裁いた。
心の綺麗な人は人を見下したり、人を裁いたりしない。
神を知らない人は、愚か者。人を殺すには武器はいらない、口の暴力で人を傷つけるのは、決してしてはいけない。
神さまは人間関係から逃避する道具ではない→神さまは逃げ所ではない。
人と喧嘩になった時には、相手の立場で考える。場合によっては、離れた方が良い場合もある

神さまは、次の3つを望んでいる。
①復讐を望まない
②その人の不幸を望まない
③その人の本当の幸せを祈る

「休講の予定」
9月13日
11月1日
12月27日

入門式
11月8日に変更

†2008年7月26日の講義録†

2008年07月27日 | 講義録
★マタイ13章24~30節「毒麦」のたとえ★

毒麦とは敵であり誘惑 私たちの人生には毒麦がある
自分の中にあるエゴイズムと自惚れ、自分が何時も正しいと考え、人を見下す態度などが毒麦である。周りの悪い雰囲気に交われば赤くなる。ファッション・マスコミ・ドライな常識や私さえ良ければという考え方から、毒麦が入る
自分が麦になることもあれば、毒麦になることもある。私たちは、ばい菌を人にうつして病気にすることもあれば、病人を癒す人になることもある。癒す人になるように生きる。
嘘をついて勝ち取ったものや、暴力や戦争で勝ち取ったものは、更なる嘘や暴力を生む。話し合いで解決したら信頼感の雰囲気が残るので手段が大切。何故なら、信頼感は最後まで残るから。

25節の-人々が眠っているとき-とは、神から愛する人から、心が離れているときのこと。
-聖書の起きなさい、目を覚ましていなさい-
神父さまが、ある少女に、起きて目をさましているにはどうしたら良いのか?と聞いた時の話し。幼い少女は、子供らしい考えで、起きるには目覚し時計を使えば良い、目を覚ましているには顔を洗えば良い、と真面目に答えたという何とも微笑ましいエピソード。
その愛らしい答えをヒントにした神父さまの解釈では
「目覚まし時計」とは神の声。人を癒し実を結びたいと願う神の声。
「顔を洗う」とは、自分の中の神さまと話をして祈ること。神は私は命の水であると言った。その命の水で心を洗い、人を癒せる人でいること。

『列王記上3章5~12節』ソロモンの知恵
明日の典礼のポイントは価値観。
知恵とは、神の御胸を知る、理解できる、聞き分ける力。ソロモンの答えに神さまは喜んだけど、世間は理解できなかった。神を愛するとは神の掟を守ること。しかし、私たちにはなかなか出来ないこと。

★マタイ13章44~52節「天の国」のたとえ★

宝とは、真珠とは、何か。
それは「gracia」。主なる神にgraciaをもたらす精霊を願いなさい。
graciaとは、神の身近な暖かさを感じさせてくれる恵み。神の愛だけではなくて、神の愛を感じさせて下さる心を呼び覚ます。孤独な人間は寂しい。人間からも、神さまからも、愛されていることを感じさせて下さる喜びを感じる。愛されている実感と共に、愛したい気持ちにさせて下さる恩寵。見た目には幸せをもたらしてくれそうなことでも、忍耐と信頼感で譲った方が良い場合もある。graciaは心の元気を感じさせて下さる。4K(金・肩書・権力・快楽)を全否定する訳ではないが、何よりも私たちに本当の喜びをもたらして下さるgraciaを求める。

★マタイ5章1~12節山上の説教を始める★

テーマは幸福論
キリストの価値観は簡単明瞭→「罪は不幸、愛は幸せ」
神から見ても人間から見ても良い人になれるように望む。
自分を愛に近寄らせるものは幸せ 自分を愛から離すのは不幸
「愛は幸せ」を実践する為の4つのポイント。
○謙遜(貧しさは人間を謙遜にする、謙遜は愛に近い)
○感謝(感謝は人間を愛に近寄らせる)
○共感(苦しみを知っている人は苦しんでいる人の気持ちが分かる)
○忍耐(人間関係には忍耐が必要)

貧しくても心が美しい人は綺麗

元気な心であれば入ったものを消化できる、そうでないと消化できない
イエスさまの判官びいきは尊敬から生まれる

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

講義後にお食事会を催し、前期最終回を無事終えることができました。ガラルダ神父さま、クラスの皆さま、食事会にご参加頂いた方々、ご協力ありがとうございました。
次回講義は、9月6日(土)からです。翌週、13日は休講ですので、お気を付け下さい。

今日は神父さま司式の主日ミサに参加し、神父さまの昨日の講義を思い出しながら福音を拝聴。ミサ後、シスターに聖パウロ女子修道会の「アレオパゴスの祈り」-聖パウロと共に祈る-に誘われる。以前からお誘いを受けていたが、開始時間が19時30分~とクラス後なのでなかなか参加できなかったもの。毎月第一土曜日に開かれていて、次回は8月2日(土)なので、是非参加させて頂くとお約束。
http://www.pauline.or.jp/areopagus/index2008.php

1ヶ月もの間クラスが休みになってしまうけれども、内なる神さまと向き合って信仰を深め実践する充実した夏休みにしたい。大好きな八木重吉の詩集を、改めてゆったり読んで見ようと思う。(K)

〝ゆるし〟
神のごとくゆるしたい
ひとが投ぐるにくしみをむねにあたため
花のようになったらば神のまえにささげたい

〝愛〟
うつくしいこころがある
恐れなきこころがある
とかす力である
そだつるふしぎである

〝キリスト〟
(最後の2行)
このさびしさを誰に告ぐべきか
神に告ぐべし

〝花がふってくると思う〟
花がふってくると思う
花がふってくるとおもう
この てのひらにうけとろうとおもう

〝幼き歩み〟より
このかなしみを
よし と うべなうとき
そこにたちまち ひかりがうまれる
ぜつぼう と すくいの
はかないまでの かすかな ひとすじ

〝不思議〟
こころが美しくなると
そこいらが
明るく かるげになってくる
どんな不思議がうまれても
おどろかないとおもえてくる
はやく
不思議がうまれればいいなあとおもえてくる

〝明日〟
(最後の7行)
ほんとうに
自分の心に
いつも大きな花をもっていたいものだ
その花は他人を憎まなければ蝕まれはしない
他人を憎めば自ずとそこだけ腐れてゆく
この花を抱いて皆ねむりにつこう

〝ねがい〟
きれいな気持ちで
花のような気持ちでいよう
報いをもとめまい
いちばんうつくしくなっていよう

世に 花咲かば
神あるを しれよ

世に 無心 なるものあらば
神あるをしれよ

神のこえは
ほそく かすかなりとか

〝祈り〟
ゆきなれた路の
なつかしくて耐えられぬように
わたしの祈りのみちをつくりたい

てんにいます
おんちちをよびて
おんちちうえさま
おんちちうえさまとなえまつる
われはみなをてありよぶばかりのものに

〝神の道〟
自分が
この着物さえも脱いで
乞食のようになって
神の道にしたがわなくのよいのか
かんがえの末は必ずここへくる

この聖書のことばを
うちがわからみいりたいものだ
ひとつひとつのことばを
わたしのからだの手や足や
鼻や耳やそして眼のようにかんじたいものだ
ことばのうちがわへはいりこみたい

〝仕事〟
信ずること
キリストの名を呼ぶこと
人をゆるし出きるかぎり愛すること
それを私の一番よい仕事としたい

基督になぜぐんぐん惹かれるか
基督自身の気持ちが貫けているからだ

きりすとを おもいたい
いっぽんの木のように
おもいたい
ながれのようにおもいたい

イエスの名を呼ぶと
イエスの像を心に描くこと
イエスについて人に述べること
出きるかぎり人がゆるし人にやさしくし
素直おな瞳をもちつづけること
そういうことを趣味にしたい
結局いつもそこえ考えが落ちてゆくようにしたい
ものの尺度がそこへ落ちてゆく様にしたい
イエスに近づく為に最后の一銭を支払うことが
出来るようになりたい

〝私の詩〟       
(私の詩をよんでくださる方へささぐ)
裸になってとびだし
基督のあしもとにひざまづきたい
しかしわたしには妻と子があります
すてることができるだけ捨てます
けれど妻と子をすてることはできない
妻と子をすてぬゆえならば
永劫の罪もくゆるところではない
ここに私の詩があります
これが私の贖(いけにえ)である
これらは必ずひとつひとつ十字架を背負ふてゐる
これらは私の血をあびてゐる
手をふれることもできぬほど淡々しくみえても
かならずあなたの肺腑へくひさがって涙をながす

-八木重吉-

処女詩集『秋の瞳』の「序」に書かれた八木重吉の言葉。
私は、友が無くては 耐へられぬのです。しかし、私には、ありません。
この貧しい詩を、これを、読んで下さる方の胸へ捧げます。そして、私を、あなたの友にしてください。

†2008年7月19日の講義録†

2008年07月21日 | 講義録
★マタイによる福音 12章14節~21節
”見よ、わたしの選んだ僕。わたしの心に適った愛する者。”(18節)
愛とは「忍耐と信頼感」である。
大きなりんごの木のたとえ話。”カップルが木に寄りかかり仲良く話をした。木もとても幸せだった。子供たちが来ておいしそうなりんごの実を全て取っていった。その子供たちを見て木はうれしかった。枝を全て取られても・・・木はそれでうれしかった。最後は幹を切り取られ、切り株になってしまった。そこへ、人生に疲れてへとへとになった一人の男が来た。私は座りたい。木は、この古ぼけた切り株でよかったらどうぞお座りください、と言った。男はそこに腰かけた。木はそれでうれしかった。”
木は最後まで、そこに集まる人の望みに応えることを喜びとした。
相手の幸せを積極的に待ち望むこと、強く純粋に愛すること。
この木はまさに、イエス・キリストの姿そのものである。
”愛がのこる限り、幸せも残る。愛が消えるとき、幸せも消える”

★ヨハネ17章11節~19節
 ※ヨハネのみ記載した、司祭としてのイエス様の祈りの箇所である。
”わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪いものから守ってくださることです”(15節)
この世には悪い雰囲気がはびこっている。徴税人や売春婦と食事をともにしたイエスは、世の価値観ではなく、神を、人間を愛したからこそそのようになさったのだ。
「この世にいても心が汚れないようにしなさい。」

”真理によって、彼らを聖なるものとしてください。あなたの御言葉は真理です。”(17節)
この世の損得を基準に考えると、自分自身を妥協しそれに縛られてしまう。
しかし聖書に書かれている神の言葉は、縛られない自由なものである。分厚い聖書の中で、「自分にとってピンとくる言葉」が私にとっての「神の言葉」である。私の心の底にある良いこと、願いと交わる神の言葉が「真理」である。

★要理 教会についてのお話し★
1)*この世における神の国   :Ecclecia =教会 
                 Kyriakon =主の家 (Kyrie=”主”の意)
   天にある(本当の)神の国 :Basileia
  *宗教 Religion
      Religare(Ligare =”結びつける”の意)
   宗教とは、”人間を愛である神により強く結びつける様々な手段”
  *”信仰が成長できる場”が教会である。
   また神様とコンタクトをとれる場でもある。洗礼を受けてもごミサに授かる   ように・・!そして教会維持費の納入を・・・

2)*司祭の役職(階級)について
   助祭
   司祭
   司教
   枢機卿
   ローマ教皇
  *聖書の解釈、モラル、神学については公会議にてローマ教皇が決定する。
   公会議で決まったことをDOGMAと呼ぶ。

3)修道会について
 私に従いなさい、との神の命を受けた者が集う。自分の持ち物を全て売り、貧しい人に与え、十戒を守ることを日々の業とする。

4)プロテステントとの相違について
 ・司祭の階級制度
 ・修道会の存在
 ・聖書の解釈に教会が注釈をつけるかどうか
 ・ミサ(礼拝)における説教の長さ  等

†振り返って†
”彼らのために、わたしは自分自身をささげます。”(ヨハネ17章19節)の箇所を読むたびに、この上ないイエス様の愛に圧倒される。裏切られても最後まで人間を愛しぬく… 日々の自分の行いを省みると、自身の弱さやエゴイズムを痛いほどに感じ、情けなくも思う。しかしそのような思いでさえ、イエス様の愛に気づかせていただくために私に与えられた試練でありお恵みなのだと気づかされると、その到底私には及びもつかない神様のお計らいにすがすがしさを感じ、生かされている存在であることに安堵するのである。(Y)

†2008年7月12日の講義録†

2008年07月19日 | 講義録
★冒頭に神父さまより聖書についてのお話し★
旧約:ヘブライ語(一部アラマイ語)ラテン語によって翻訳されたものをVULGATAと呼ぶ(S.Ieronimusによる)
新約:ギリシャ語
聖書を記したのは人間なのに、どうして神の言葉といえるのか?
→神の言葉とするのかどうかは教会が定める。(これはキリストらしい美しい言葉か?)
神の言葉と定められたものをCANON(正典)、異なるものと判断されたものをAPOCRYPHA(=“本物ではない”の意で外典)と分けた。

★続いて聖書の解釈についてのお話し★
1)聖書の解釈(イエスが何を言いたかったかを理解しようとすること)は学者によってなされるが、解釈(理解)は私たちの文化的、文明的な成長に合わせて、時代と共に変わっていく。(例.女性の人権に対する解釈が時代とともに変わるように)
2)聖書の記述には一見意味がよく分からないこと、間違っているのではないかと思われる記述がある(例えば、イエスの奇跡とは本当にあったことなのか?)が、聖書とはそれが事実であるかどうかということではなく、その記述から教えようとしていることは何か(教えようとしていないことは何か)をさまざまな解釈の中から考えることが大切である。つまり、神の言葉が誤りでないといえるのは、教えようとしていることに誤りはないからである。
神の言葉の泉は、プロテスタントは「聖書」のみ、カトリックでは「聖書」と「伝統」である。(例えばプロテスタントでは聖書に記述されていない“堅信式”は行われない。)
3)聖書とはキリストが関わった“救いの歴史”である。
現代の民主主義や実存主義による「人間の自由」に対する価値観の変化によって、神の言葉が絶対であるということが信じがたいものと感じられるようになっている。その「傲慢さ」によって神の言葉が分からなくなりはしないだろうか。よく聖書を読み、福音になじみ、自分の具体的な状況、生活のなかで、どのように福音の言葉を受け入れるのかということを考えながら味わうことが大切である。聖書を読みながら祈る、黙想する。“そういうイエスに私もなりたい・・!”と願いながら。その願いながら聞こえる神の言葉は安心と刺激と希望をくださる。

★ヨハネによる福音 16章29節~33節
“わたしはひとりではない、父が共にいてくださるからだ”(32節)
「私は神のうちにおり、神は私のうちにおられる」
人間にとって仲間の中の孤独(家庭、職場、友人・・)とはもっとも辛いことであるが、「LONELINESS=孤独」、と「SOLITUDE=充実した沈黙(祈り)」はまったく異なることである。「SOLITUDE=充実した沈黙(祈り)」とは深い自分と仲良く話すこと、深い自分と話すことができるひとは神と話せるひと。深い次元で、神に近いところで出会えたひと同士はより親しくなれる。
深い自分と出会うことは「祈り」によって可能であるが、現代に生きる私たちは忙しすぎて「祈る」暇がない。そのようなときは「インスタント祈り」によって神様と少しコンタクトを取るようにする。「私は神のうちにおり、神は私のうちにおられる」ということを確信し、認識することができる。

★ヨハネによる福音 17章1節~11節
(※司祭であるヨハネのみ書いている箇所である)
“父よ、時が来ました”(1節)
「時」とは受難、死、復活を意味する。苦しみの中に命、犠牲の中に愛がある。(例.お産は苦しみの中から新しい命を生み出す愛の行いである)その実現の時が来た、と解釈できる。
“あなたの栄光”(1節)
「愛の力の表れ」が“神の栄光”である。日常のささいなことでも、忠実と信頼と愛によって行ったときに人間の平和が訪れる。
“永遠の命”(3節)
神とキリストを知ること。知るとは、「祈り」と「愛」で体験し、心で経験することである。「知る」ことをヘブライ語ではYADAH(=互いに愛しあっている夫婦にように、神を尊重し賛美しほめたたえ感謝するの意)と呼ぶ。つまり、親しく心で感じ合うことを意味する。“永遠の命”のシンボルのひとつには“開かれた宴会”がある。皆で同じものを食べ、分かちあうことは「愛」ある行いである。
地獄と天国は同じ場所に存在するものである。その違いは我々の「愛」の行いが存在するかどうかである。長い箸で食べ物をとったとき、それを自分の口に入れようとしたら食べられない(地獄)が、お互いに口の中に入れてあげたら皆が満たされる(天国)。神の言葉を聴いてそれを行うことが「永遠の命」である。SEMA(=「聞きなさい」「行きなさい」の意で自分を愛する様に隣人を愛しなさいという約束)の実現こそが、神と仲良く生き、人間と自然と仲良く生きることであり、神から与えられた“永遠の命”の実現である。

†振り返って†
久々にブログ再開しました。今回、上記原稿はヘルパーY嬢が作成してくれました…多謝!
神父さまの仰った聖書の福音が「安心感」「刺激」「希望」を与えてくれるという言葉に大きく頷きつつも、SEMA-自分を愛するように隣人を愛する-を実践することの難しさを改めて感じながら神父さまのお話しを聞いた。翌日、子どもとともにささげるミサに参加し、待者となる子供たちの幼い声で発せられた共同祈願を聞いて、純粋なままの信仰心に励まされる。
7月26日は前期最後のクラスなので、講義終了後にお食事会を予定しております。場所は四ツ谷、18時スタートで参加費は4千円です。皆様ご参加下さいませ。会場は↓をご参照願います。
http://gourmet.yahoo.co.jp/0007510264/Cfg70098366/
                                             (K)

11月3日は休講です

2007年11月03日 | 講義録
11月3日は休講です。
11月10日は16:30から17:00まで講座(いつもと同じアルペホール)、17:00から18:00までが入門式(マリア聖堂)になります。

†10月27日の講義録†

2007年11月01日 | 講義録
★テモテへの手紙ニ4章6節~8節:最後の勧め★
・キリストの恵みというものは、選ばれた人にのみ与えられるものではなく、
待ち望む人には、誰にでも与えられるもの。
・義の栄冠を受けるとは、自分が死ぬときにキリストに会うということ。
・これは、決して、死にたいと思うことではなく、キリストに会いたいと思うこと。

★ルカ18章9節~14節:「ファリサイ派と徴税人」のたとえ★
・この節に題名をつけるとしたら“謙遜”
・貧しい人とは、謙虚である。マタイ福音書にも「心の貧しい人は、幸いである」と
書かれている。これは「謙遜な人は・・」と置き換えて言える。
・ファリサイ派の人々は、自己の正しさを自己で誉め、感謝していると言っている。
これは、本当の意味で感謝している訳ではない。
・ファリサイ派は自己の見た目の行いを評価しているが、信仰は見た目では分からない。
それは、ちょうどワインのようなもので、見た目では分からなくても、飲めば分かる。

・謙遜とは、自分が返すことの出来ない思いを、素直に受け取るということでもある。
・文句を言うのではなく、感謝しながら愛を込めて、喜んで仕えることである。
・しかし、謙遜して神に許しを求めてばかりいるのも良くない。
 改心の気持ちを願ったほうがいい。本当に悪かったと思えば、自然と赦される。

★マタイ22章1節~14節:「婚宴」のたとえ★
・招かれると選ばれるは違う。選ばれる人は、残る人である。
・預言者というのは、大体殺されている。権力のある人に向かって“分かち合おう”といったから。
・“婚礼の礼服を着ていない”とは、クリスチャンになるのは簡単でも、クリスチャンでいるのは大変ということ。

★ヨハネ1章45節~51節:イエスは命のパン★
・人を大切にすることによって、神に近づきなさい。
・イエスは、真実を誠実にいうので、いつも、同じ事を言っている。
・ナタナエルは「どうして?・・」とイエスに尋ねる。一言でピンときて、心が変わる、
というのはよくあること。
・信仰とは、常に前進していなければならない。それは自転車が走っていないと倒れてしまうのと同じ。
・愛も、友情も、そのままでは駄目。いつも“より深めて”いかなければならない。

★マタイ23章1節~12節:律法学者とファリサイ派の人々を非難する★
・「だれでも高ぶるものは低くされ、へりくだる者は高められる」この一節は聖書の中で何度も出てくる。
・ファリサイ派と律法学者は立派なことを言うが、言うだけで実践していない。
大切なのは、“自分が”実践すること。
(R)

†10月20日の講義録†

2007年11月01日 | 講義録
★ルカ18章1~8節:「やもめと裁判官」のたとえ★
・祈りの力を信じる信仰を持っているのか?この福音は祈りの力について語られている部分である。
・祈りについては、マタイによる福音書7章7-8節「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」など聖書の様々な場面で語られている。
・祈っても一度神様に願いが断られてから、後に叶えられることもある。このやもめも祈りが断られたが、何度も頼んで神様に祈りが届いた。
・では、叶えられない時に祈りは何の意味を持つのか→無駄だったのか?2つの答えがある。
①知恵が与えられる
仕方がないので綺麗に諦めて落ち着きを感じる為の知恵が与えられる。
②大事なことが見えてくる
その悩みの小さいことや、それほど悩まなくても良いことが解る。特に、エゴイズムやプライド、妬みから生まれる悩みは、大したことではない。
・イエスさまのゲッセマネの祈りが参考になる。神様はイエスさまの悩みを取り除かず祈りは聞き届けられないが、「おまえの悲しみを知っている」と一緒に悩んで受け入れて下さる。ゴルゴダの丘に上がり、十字架の上で死ぬことを受け入れる勇気は祈りを通して得られた力である。
・人の為に祈る場合も、その人の為に祈ることで共感する心を育て、その人の痛みを感じることができる。
★マタイ19章23~30節:金持ちの青年 ★
・金持ちとは、分かち合いををしない金持ちのこと。神の国は分かち合いの場であり、平等である。
・人間は自分の努力だけでは救われない。愛されることは相手から頂く贈り物であり、その贈り物は感謝して謙遜に頂くことが大切。
・神は私たちにGraciaを下さり、神の身近な温かさを感じさせて下さる。家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てる、という表現があるが、優先しないという意味で、神の言葉を優先するということ。
★マタイ20章1~16節:「ぶどう園の労働者」のたとえ★
・ぶどう園は神の国の譬え。働くことができることに感謝して、働かせて頂いていると感謝することが大切。協力させて貰っているという感謝の心。
†振り返って†
・神父さまの祈りが叶えられなかった時の、祈りの意味についてのお話しは、とても参考になった。
・イエスさまでさえ、受難に向かう前に苦しんで、神に祈りを捧げたということ。神の御心に叶うことが行われます様にと、受難を受け入れる覚悟と心の冷静さを祈りによって得たということ。
「アッバ、父よ、
あなたは何でもおできになります。
この杯をわたしから取りのけてください。
しかし、わたしが願うことではなく、
御心に適うことが行われますように」
ゲッセマネの祈りが、弱い私たちに神を身近なものに感じさせてくれて、苦しみを受け止める謙遜な心を強めて下さる。
・先週、研究会をお休みさせて頂いて妹の結婚式に参加。お相手は4歳年下のとても誠実な男性で、2人の出会いを神に深く感謝すると共に、これからの永遠の幸せを祈った。
・プロテスタント系の教会のお式で賛美歌312番を歌ったが、結婚式で歌われる「いつくしみ深き友なるー」はとても神秘的に感じ、お祝いの席で歌われるイエスの受難と救い、愛について、キリスト者として受洗前とは異なる感動を受けた。
・聖書からコリント信徒への手紙一13章の「愛の賛歌」、私の大好きな「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」という一節が朗読された。この一節を読む度に、信仰を優先せず“愛”を一番すぐれているものとした使途パウロに感動を受け、その殉教に心の痛みを感じずにはいられない。(K)