ガラルダ神父さま 土曜入門講座・聖書研究会 カトリック麹町 聖イグナチオ教会  †St.Ignatius Church†

キリスト教への理解を深め イエスさまの愛と救いを学ぶ 聖書のわかりやすい箇所を読み生きる愛するという意味を考えます

†10月27日の講義録†

2007年11月01日 | 講義録
★テモテへの手紙ニ4章6節~8節:最後の勧め★
・キリストの恵みというものは、選ばれた人にのみ与えられるものではなく、
待ち望む人には、誰にでも与えられるもの。
・義の栄冠を受けるとは、自分が死ぬときにキリストに会うということ。
・これは、決して、死にたいと思うことではなく、キリストに会いたいと思うこと。

★ルカ18章9節~14節:「ファリサイ派と徴税人」のたとえ★
・この節に題名をつけるとしたら“謙遜”
・貧しい人とは、謙虚である。マタイ福音書にも「心の貧しい人は、幸いである」と
書かれている。これは「謙遜な人は・・」と置き換えて言える。
・ファリサイ派の人々は、自己の正しさを自己で誉め、感謝していると言っている。
これは、本当の意味で感謝している訳ではない。
・ファリサイ派は自己の見た目の行いを評価しているが、信仰は見た目では分からない。
それは、ちょうどワインのようなもので、見た目では分からなくても、飲めば分かる。

・謙遜とは、自分が返すことの出来ない思いを、素直に受け取るということでもある。
・文句を言うのではなく、感謝しながら愛を込めて、喜んで仕えることである。
・しかし、謙遜して神に許しを求めてばかりいるのも良くない。
 改心の気持ちを願ったほうがいい。本当に悪かったと思えば、自然と赦される。

★マタイ22章1節~14節:「婚宴」のたとえ★
・招かれると選ばれるは違う。選ばれる人は、残る人である。
・預言者というのは、大体殺されている。権力のある人に向かって“分かち合おう”といったから。
・“婚礼の礼服を着ていない”とは、クリスチャンになるのは簡単でも、クリスチャンでいるのは大変ということ。

★ヨハネ1章45節~51節:イエスは命のパン★
・人を大切にすることによって、神に近づきなさい。
・イエスは、真実を誠実にいうので、いつも、同じ事を言っている。
・ナタナエルは「どうして?・・」とイエスに尋ねる。一言でピンときて、心が変わる、
というのはよくあること。
・信仰とは、常に前進していなければならない。それは自転車が走っていないと倒れてしまうのと同じ。
・愛も、友情も、そのままでは駄目。いつも“より深めて”いかなければならない。

★マタイ23章1節~12節:律法学者とファリサイ派の人々を非難する★
・「だれでも高ぶるものは低くされ、へりくだる者は高められる」この一節は聖書の中で何度も出てくる。
・ファリサイ派と律法学者は立派なことを言うが、言うだけで実践していない。
大切なのは、“自分が”実践すること。
(R)

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