初めての海外での生活。そのスタートはあこがれの人が身近にいる、賑やかな大人の街でした。
ジャズクラブで目と目が合ってビールを飲みあったプレーヤーとオーディエンスはあたかも旧知の友のようになんとなく寄り添うように数分歩いてヴィレッジの一角にあるオールナイトのティーショップのような店に入っていったのでした。
そのころ僕は彼のソロアルバム「パステルズ」をいつも涙して聴いていたのでそのことを話すと二人の会話はジャズを離れ、一気にクラシック、それもバッハの偉大さに関してのものになりました。しかし残念ながらそう長いデートにはならなくて約一時間ちょっとだったでしょうか、その店を出て「今度は日本で会おう」と短くハグをして別れました。僕はバッハの事なら一晩中でも話せる気がしますが、自分の英語力ではお互いの胸の中にある熱いものをやりとりするには荷が重過ぎて、たとえジェスチャーを入れても微妙なディテールの表現には100歩1000歩及ばず、悔しさばかりが残されました。
欲求不満の塊りのようになった僕は、さぁ帰ろうかと思った瞬間、外国の旅行者がこんな時間に一人でふらふらするような所ではない所にいることに急に恐ろしさを覚え、あたりの闇を見回したのでした。あのカドには僕を狙う誰かがいるんじゃないか・・・そう思ったらもう急いで大通りを探し、たとえ一方通行(マンハッタンはほとんど一通)が44丁目の方向と逆に向かっていても構わずにタクシーの黄色を探すんだ、と悲愴な気分で小走りしたのです。
あちらの人は別れ際がさっぱりとしている人が多く、See You とか言ってさっさと帰られてしまうと「さっきまでの盛り上がりはどこいったんだ~!」と一人ポカンと口をあけてあきれてしまう日本人の僕だったんです。
あの夜の予期せぬ出会いとさっぱりとした別れ。僕はここNYに来て初めて孤独という自分だけの時間が自分に絶えずくっ付いていることを実感したのでした。
さてそんなことがあった数日後、僕は昼間から6番街(通称アメリカズ・アヴェニュー)50丁目のアール・デコ調の建物にいました。
そうです、有名なラジオ・シティ・ミュージック・ホールです。マーヴィン・ゲイのミッドナイトショウを見るためのチケットを買う列の中でした。この由緒あるコンサート・ホールは約6000席の規模があり超大物アーテストをここで観るのが僕の夢でしたので、この日の2時間待ちの行列には浦安のテーマパークで並ぶほどのストレスはありませんでした。
さらに数日が経ったある日。ゆっくりと夕食を済ませ近くのケーキ屋に行ってデザートをしっかり食べた僕はもう21時を回った48丁目を歩いていました。例の50丁目に近づくとあたりの雰囲気がいつもの夜と違う事にすぐ気づきました。黒人さんが正装をして華やいだ顔つきで続々とラジオ・シティに向かって各ブロックから集まって来るではないですか。僕はあまり見かけない黄色人種ということで・・・ちょっとうつむき加減で彼らの集団に飲み込まれていきました。
マーヴィン・ゲイは当時のNYの黒人社会ではカリスマ的人気を誇るアーティストだということを6000分の1の聴衆になってみてやっと分かったのです。彼らの正装はこの偉大なボーカリストへのリスペクトであり、一方では人種の団結を誇示するような意図さえ感じる壮観なものでした。コンサートはむせ返るような体臭とマリファナ臭が混じりあった中で聴いた事も観たこともないような熱気とともに爆発していったのです。肝心の音楽よりもその聴衆たちの醸し出す異次元空間に魂を抜かれたように口を開けっ放しにした僕がいました。このコンサートが終了したのは24時。これがマーヴィン・ゲイとの最初で最後の出会いになりました。NY地下鉄は24時間走っているので、帰れなくなるということはないのですね。実に大人にやさしい街なのです、NYは。
さて深夜、徒歩で家路を急ぐわけですが、歩き始めて5分も経った頃でしょうか。それまでの異様な正装集団がいつのまにか視界から消えていて僕は一人でとぼとぼと歩いている事に気が付きました。歩く道は同じ場所に行く時でも安全な道と多少(相当)気をつけたほうがいい道とがあるので経験的に安全とされる方を歩いていました。
後ろに数人の人の気配が感じられました。います。十数メートル後方に2~3人。
こちらは一人。しかもさっきまでの異次元熱狂空間で気持ちはポ~っとしています。危ないととっさに思いました。小走りした次の瞬間・・・囲まれました。こういう時は英語ができても外国人はしゃべれないことをアピールしたほうが良いのです。なまじっかしゃべるともっと怖い事になるという一瞬の判断が当りました。こちらはヤツらの言っている事が分かりましたが「え~?え~?」と言う感じで事態の収拾を試みていたのです。
訳のわからぬ身振り手振りをして最後に指差したのは自分の胸ポケット。ここに約$20が入っていたのです。自分で出そうとポケットに手を入れてはいけません。ピストルでも出すと思われて命に関わります。この場合は指を差してカネのありかを示せばいいのです。・・・ヤツらは「シット!」と言ってその札を持って走って暗闇に消えました。
実は多くの人が取られてもいいような額の札を取り出しやすい所にわざといれています。まとまったカネを持ち歩く時は靴下の奥(うへ~っ)やヘンな所にしまって歩くのです。
きっとかの国でクレジットカード(キャッシュレス)が発達したのは、みんなヘンな所にお札をしまうので臭くなって触るのが嫌だと思ったからだと勝手に解釈?しています。
とまぁ、事なきを得た僕でしたが、意外にもあまりショックではなくこの事件は気持ちの中では尾を引きませんでした。
その数日後、これも有名なプラザホテル(59st 5th Ave)の近くにある(記憶が曖昧です)こじんまりした高級っぽい映画館に映画「ラウンド・ミッドナイト」(デクスター・ゴードン、ハーヴィー・ハンコック他)(Jazz映画)を見に行ったのですが、その時の僕の隣に座った物静かな男性は?
驚く無かれ、有名ディオ、○&GのP.S.さんだったのです!
次回はそのあたりのお話を書きます。
ジャズクラブで目と目が合ってビールを飲みあったプレーヤーとオーディエンスはあたかも旧知の友のようになんとなく寄り添うように数分歩いてヴィレッジの一角にあるオールナイトのティーショップのような店に入っていったのでした。
そのころ僕は彼のソロアルバム「パステルズ」をいつも涙して聴いていたのでそのことを話すと二人の会話はジャズを離れ、一気にクラシック、それもバッハの偉大さに関してのものになりました。しかし残念ながらそう長いデートにはならなくて約一時間ちょっとだったでしょうか、その店を出て「今度は日本で会おう」と短くハグをして別れました。僕はバッハの事なら一晩中でも話せる気がしますが、自分の英語力ではお互いの胸の中にある熱いものをやりとりするには荷が重過ぎて、たとえジェスチャーを入れても微妙なディテールの表現には100歩1000歩及ばず、悔しさばかりが残されました。
欲求不満の塊りのようになった僕は、さぁ帰ろうかと思った瞬間、外国の旅行者がこんな時間に一人でふらふらするような所ではない所にいることに急に恐ろしさを覚え、あたりの闇を見回したのでした。あのカドには僕を狙う誰かがいるんじゃないか・・・そう思ったらもう急いで大通りを探し、たとえ一方通行(マンハッタンはほとんど一通)が44丁目の方向と逆に向かっていても構わずにタクシーの黄色を探すんだ、と悲愴な気分で小走りしたのです。
あちらの人は別れ際がさっぱりとしている人が多く、See You とか言ってさっさと帰られてしまうと「さっきまでの盛り上がりはどこいったんだ~!」と一人ポカンと口をあけてあきれてしまう日本人の僕だったんです。
あの夜の予期せぬ出会いとさっぱりとした別れ。僕はここNYに来て初めて孤独という自分だけの時間が自分に絶えずくっ付いていることを実感したのでした。
さてそんなことがあった数日後、僕は昼間から6番街(通称アメリカズ・アヴェニュー)50丁目のアール・デコ調の建物にいました。
そうです、有名なラジオ・シティ・ミュージック・ホールです。マーヴィン・ゲイのミッドナイトショウを見るためのチケットを買う列の中でした。この由緒あるコンサート・ホールは約6000席の規模があり超大物アーテストをここで観るのが僕の夢でしたので、この日の2時間待ちの行列には浦安のテーマパークで並ぶほどのストレスはありませんでした。
さらに数日が経ったある日。ゆっくりと夕食を済ませ近くのケーキ屋に行ってデザートをしっかり食べた僕はもう21時を回った48丁目を歩いていました。例の50丁目に近づくとあたりの雰囲気がいつもの夜と違う事にすぐ気づきました。黒人さんが正装をして華やいだ顔つきで続々とラジオ・シティに向かって各ブロックから集まって来るではないですか。僕はあまり見かけない黄色人種ということで・・・ちょっとうつむき加減で彼らの集団に飲み込まれていきました。
マーヴィン・ゲイは当時のNYの黒人社会ではカリスマ的人気を誇るアーティストだということを6000分の1の聴衆になってみてやっと分かったのです。彼らの正装はこの偉大なボーカリストへのリスペクトであり、一方では人種の団結を誇示するような意図さえ感じる壮観なものでした。コンサートはむせ返るような体臭とマリファナ臭が混じりあった中で聴いた事も観たこともないような熱気とともに爆発していったのです。肝心の音楽よりもその聴衆たちの醸し出す異次元空間に魂を抜かれたように口を開けっ放しにした僕がいました。このコンサートが終了したのは24時。これがマーヴィン・ゲイとの最初で最後の出会いになりました。NY地下鉄は24時間走っているので、帰れなくなるということはないのですね。実に大人にやさしい街なのです、NYは。
さて深夜、徒歩で家路を急ぐわけですが、歩き始めて5分も経った頃でしょうか。それまでの異様な正装集団がいつのまにか視界から消えていて僕は一人でとぼとぼと歩いている事に気が付きました。歩く道は同じ場所に行く時でも安全な道と多少(相当)気をつけたほうがいい道とがあるので経験的に安全とされる方を歩いていました。
後ろに数人の人の気配が感じられました。います。十数メートル後方に2~3人。
こちらは一人。しかもさっきまでの異次元熱狂空間で気持ちはポ~っとしています。危ないととっさに思いました。小走りした次の瞬間・・・囲まれました。こういう時は英語ができても外国人はしゃべれないことをアピールしたほうが良いのです。なまじっかしゃべるともっと怖い事になるという一瞬の判断が当りました。こちらはヤツらの言っている事が分かりましたが「え~?え~?」と言う感じで事態の収拾を試みていたのです。
訳のわからぬ身振り手振りをして最後に指差したのは自分の胸ポケット。ここに約$20が入っていたのです。自分で出そうとポケットに手を入れてはいけません。ピストルでも出すと思われて命に関わります。この場合は指を差してカネのありかを示せばいいのです。・・・ヤツらは「シット!」と言ってその札を持って走って暗闇に消えました。
実は多くの人が取られてもいいような額の札を取り出しやすい所にわざといれています。まとまったカネを持ち歩く時は靴下の奥(うへ~っ)やヘンな所にしまって歩くのです。
きっとかの国でクレジットカード(キャッシュレス)が発達したのは、みんなヘンな所にお札をしまうので臭くなって触るのが嫌だと思ったからだと勝手に解釈?しています。
とまぁ、事なきを得た僕でしたが、意外にもあまりショックではなくこの事件は気持ちの中では尾を引きませんでした。
その数日後、これも有名なプラザホテル(59st 5th Ave)の近くにある(記憶が曖昧です)こじんまりした高級っぽい映画館に映画「ラウンド・ミッドナイト」(デクスター・ゴードン、ハーヴィー・ハンコック他)(Jazz映画)を見に行ったのですが、その時の僕の隣に座った物静かな男性は?
驚く無かれ、有名ディオ、○&GのP.S.さんだったのです!
次回はそのあたりのお話を書きます。
コメント、ありがとうございました。
今書いている話はずいぶんと過去の思い出話ですから、現在のNYとは固有名詞等で違う事もあると思います。
NJ在住との事、何か情報がありましたら、またコメントを。
チャカカーン、スティービーワンダーと仕事をしたベーシスト。
日本人で二十\歳の男のこ。
お知り合いだったりするんでしょうか?
サンセットパークより下
フランクリンアベニューより東に住めばグッとニューヨークしますよ。
また来月からそっちの生活に戻ります
今はニュー・ジャージー住まいですが。。
またパソ\コンのほうから拝見させていただきます
あなたのブログにはいろいろ勉強させてもらってます。
言葉に信念みたいなものがあってどんな軽い話題でもしっかりと引き締まってます。
「オヤジバンド」呼称の巻は全面的に同感でした。
またこちらにも来てください。
そしてテキフラかソケースでまた会いましょう。
コーラがこぼれたようなアスファルトですか~。
美術家は粋な表現を使いますね!
あの街に漂う匂いはいつだってピザの匂いでしたよ。
また・・・ね!
こんにちは。
ニューヨークは計2回、2週間ほどしか滞在したことはないんですが、大好きです。
エレクトリック・レディ・スタジオも行きました。
でもお休みの日で中は見られなかったです…。
ダコタ・アパートを訪ねて、そのあとセントラル・パークをのんびり散策っていうコースも好きですねえ。
NY。怖いけど良いですね。
1回だけ(2泊でしたが)行きましたが、コーラがこぼれたような匂い立つ真っ黒なアスファルトがなんともよかった記憶があります。
あの匂い…
あーまた味わいたい
今後も楽しみにしてます
楽しみに読んでくれてありがとうございます。
でもこれは小説ではないので展開に期待されると、肩透かしを食らう時もあるかもしれませんよ。
その時は勘弁願います。
「無音の音」?・・・・正解です!