よく映画評や宣伝文句で聞くこの言葉は正しくないので大いに気になるんだ。
例えば映画の感想をあの<おすぎ(おすぎとピーコの)>が話す。それが涙のラブストーリーだか感動の英雄モノだか知らないがよくこう言っている。
<全米が泣いた>
あるいはファッションやグルメの話で、
<今、ニューヨークはこれよ!>
みたいな言葉をよく聞く。
宣伝なら美辞麗句でオーバーな表現もシャレとして許されようが、こと評論家やコメンテーター、あるいはメディアがこういう言い方を平気でしているのは問題だ。
どんな現象が起こったって、どんなに注目を集めた事柄だって、どんなにおいしい食事が提供されたって、ましてやどんなに傑作映画が作られたって、ぜったいに<全米が・・・>などということはない!
アメリカは我々の日本よりはるかに多くの人種、宗教、土地風土を持った国(歴史は日本にはかなわないだろうが)なのだ。
一つの価値観で統一できるわけがないし、一つの表現で事足りるわけもない。
ニューヨーク、これも同じだ。人種のルツボといわれるこの大都市でみんながみんな同じ価値観で流行を作れるわけがないしそれに左右される事もない。
世の中は必ず支持派と反対勢力が同居する。
ついでながら、おすぎなどという映画会社の宣伝マンの映画評は鼻持ちならない。
いつから映画評論家の看板をかかげたかは知らないが、まったく何の指標にもならない無駄口ばかりの論評は上滑りのまま、垂れ流されている。
僕はそういう軽薄でためにならないコメントを聞きたくない。
勉強しているようで実は物事を深く勉強していないのは一目瞭然である。
とにかく<全米が・・・した>という表現は厳に慎むべきだ。
あの国はそんな簡単な国ではないし、NYという街も然りだ。
今日はふと感じたことを書いたが、言いたかったのは物事を強引にしかもガサツに一つにまとめて表現してはいけないんだということだ。
例えば映画の感想をあの<おすぎ(おすぎとピーコの)>が話す。それが涙のラブストーリーだか感動の英雄モノだか知らないがよくこう言っている。
<全米が泣いた>
あるいはファッションやグルメの話で、
<今、ニューヨークはこれよ!>
みたいな言葉をよく聞く。
宣伝なら美辞麗句でオーバーな表現もシャレとして許されようが、こと評論家やコメンテーター、あるいはメディアがこういう言い方を平気でしているのは問題だ。
どんな現象が起こったって、どんなに注目を集めた事柄だって、どんなにおいしい食事が提供されたって、ましてやどんなに傑作映画が作られたって、ぜったいに<全米が・・・>などということはない!
アメリカは我々の日本よりはるかに多くの人種、宗教、土地風土を持った国(歴史は日本にはかなわないだろうが)なのだ。
一つの価値観で統一できるわけがないし、一つの表現で事足りるわけもない。
ニューヨーク、これも同じだ。人種のルツボといわれるこの大都市でみんながみんな同じ価値観で流行を作れるわけがないしそれに左右される事もない。
世の中は必ず支持派と反対勢力が同居する。
ついでながら、おすぎなどという映画会社の宣伝マンの映画評は鼻持ちならない。
いつから映画評論家の看板をかかげたかは知らないが、まったく何の指標にもならない無駄口ばかりの論評は上滑りのまま、垂れ流されている。
僕はそういう軽薄でためにならないコメントを聞きたくない。
勉強しているようで実は物事を深く勉強していないのは一目瞭然である。
とにかく<全米が・・・した>という表現は厳に慎むべきだ。
あの国はそんな簡単な国ではないし、NYという街も然りだ。
今日はふと感じたことを書いたが、言いたかったのは物事を強引にしかもガサツに一つにまとめて表現してはいけないんだということだ。
映画評論なら水野さんか荻さん、そして淀川長治さん。
決して映画作品をけなさないし勉強していた。 映画を愛していた人。 監督も主演も助演もチョイ役もスタッフまでも隅々まで鑑賞し褒めて誉めてホメまくった。 TVのロードショーの前説で視聴者を映画に引き込む語り口や、終わったあとの作品のエピソードまで面白おかしく話し「それではまたお会いしましょう。サヨナラ・サヨナラ・サヨナラ」
不世出でしょう。 きっと。
<おすぎ>の批判を目的にしていたわけじゃないけど、こと映画の批評を語る時、多くのメディアに登場するあの人のコメントは全くダメだ、という<例>を挙げたわけです。
あの人のしゃべりにつられて映画を見に行って、がっかりして帰ってくる人を僕はたくさん知っています。
もっと勉強してからしゃべりなさいな、おすぎ。