バンマスの独り言 (igakun-bass)

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ディランのしばしの沈黙、そして・・・

2016年10月30日 | 雑感
多くの人が驚いた、ミュージシャンのノーベル文学賞受賞の報。

なんでディランなの?と今もってとても座りが悪い気分の僕の興味はやはり受賞決定後のディランの対応なのです。
今回のことで僕はノーベル賞、そのものについてちょっと考えるようになりました。(実際は大したことありませんが:笑)

この賞はどう考えても「化学、物理学、医学、生物学、天文学、その他の学問」といった真理を探究し物の本質を見極め、原理を証明し、多くの分野での技術発展・人類繁栄に寄与する重大な発明・発見をするという努力や研究成果に対して与えられるものであるべきだと思うのです。

少なくとも芸術分野において、これはジャッジに個人の好みが反映されてしまう分野ですが、科学分野のような結果が存在しうるわけもなく、その芸術性に対し文学賞だ平和賞だと訳の分からないくくりの中に封じ込めてしまうなどという暴挙は一切理解できないわけです。そしてそれは例えばフィギア・スケートやシンクロの採点に「芸術点」があることと同様に、そもそも芸術性の評価は人それぞれであってそこに客観性など無きに等しいということなのです。
だからこそ物理学や化学や医学分野での発見や発明は客観的に評価できる対象となるので、そこにノーベル賞があってもいいのです。


ディランの受賞に首をかしげる人の多くのコメントの最初の部分に共通性があるのに気がつきましたか?
彼ら・彼女らはほとんどこう前置きをしています。

「私はディランの音楽は好きだが・・・しかし・・・」なんていやらしいコメントの出だしでしょうか。

別にこんなフォーク歌手、知ってても知らなくても、好きでも嫌いでもいいじゃないですか。
いまやもう古臭いフォークソングですよ。ノーベル賞のお墨付きなんてどうでもいい分野のすでに名声の確立したアーティストですよ。

ディランのレジェンドに対しみんなが迎合する必要はないのです。嫌いな人、興味が全く無い人はそのままでいいのです。

彼、ディランもその辺のことを理解していると思え、それはけっして彼が偏屈な老人だとか無愛想なアーティストだとかのような
人格評価とは関係なく、今や物事や社会の風潮にとらわれない孤高の生き方を選択できる幸せなお金持ちさんの一人なのだと世間が認識しているのを意識の中に感じているからです。

だから僕は思います、彼にはいまさらカネも名誉も必要ないのだと。

受賞決定後のディランの沈黙はとても面白いです。そしてそれは彼の音楽よりも考えさせられることが多いです。

新聞報道によるとノーベル賞の委員長ベストベリィ氏がディランの沈黙について「無礼で傲慢だ。でもそれが彼ってものだ」と話したそうですが、この人、ずいぶんバカですね。腹が立っているのに最後は例によってエクスキューズしていますね。

無礼で傲慢なのは上から目線のこの人達ではないですか? 別に欲しいとも思っていない賞を突然、さぁ受け取れ、っていったいノーベル委員ってどんだけ偉いのでしょう。
こういう上から目線をディランという人はもっとも軽蔑し嫌悪するのではないかと想像しています。

世界中のすべての人間がノーベル賞受賞を人生の総仕上げだとばかりにありがたがるなんてことは考えられません。

ノーベル賞関係者はこの際、自分たちが絶対権威ではないことを考えるべきです。

ディランにはこのまま完全無視を決め込んでくれたら面白いんだけどなぁ・・・。



・・・と昨日ここまで書いたところで夕方にさらに驚く報道がありました。


「ディラン氏 受賞の意向」 沈黙2週間「言葉失っていた」 (新聞見出し)

なんでもディランは「信じられない」「すばらしい。最高だ。いったい誰がこんなことを想像しただろう?」と述べたようです。

僕はただ、そういうことか!これ以上何を言うべきか・・・言葉もありません。
良かったじゃないですか、すばらしい賞をもらえて。なにより本人が喜んでいるのだから他人は喜んであげるべきでしょう。
どうしても納得が出来ない人は・・・「沈黙」でしょうかね?

いっそのことノーベルは新たに「音楽賞」を創設するのがよいと思うのは僕だけでしょうか。




(余計な:参考までに)

アメリカでディランより「文学的な」いい詩を書いたミュージシャンを知っています。
彼らの詩は本国で教科書にも掲載されました。 「シールズ&クロフツ」がそのコンビ名です。

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