今まで聴いてきた膨大な量の音楽の中でも特に大好きでかつ思い出深く、そして自分の音楽スタイルやライフ・スタイルに少なからず影響を与えた曲を一曲づつ紹介していくシリーズの11回目。
今回の曲
ヴェルディ作曲 「レクィエム」
正直言ってこのブログにクラシックを登場させてもあまりレスポンスを期待できない。
クラシック音楽が多くの人に縁遠い存在なのか、僕の選曲が特殊なのか、はたまた他に何か理由があるのか、それは分からない。
分からないが僕にとってこの<ヴェルレク(と略す)>は多感な16歳の頃の出会いからずっと傍らに置き続けている音楽なのでどうしても取り上げておきたかったんだ。
高校一年生の初夏、部活の上級生が学校にレコードを持ってきていた。なぜかは忘れたが後日そのレコードを借りて聴くことになった。
その頃、すでにロックバンドを組んでGFRやツェッペリン、パープルなどなどをコピーしていた僕であったが同時にクラシックの曲もかなりの量を聴いていた。しかし大規模な合唱曲あるいは宗教音楽の類にはあまり縁が無かったのでこのヴェルレクも名前だけで実はあまりよく知らなかった。
それより少し前、僕は今は亡き母と夜遅い時間にNHK教育で放送されたこの曲のライブ中継をたまたま見ていた。演奏者(指揮者)はバーンスタイン/ロンドン交響楽団で、ライブの映像はロンドンのセント・ポール大聖堂から。豪華絢爛の大聖堂の内部装飾に母は見とれていたが僕は初めて聴くその音楽のすさまじい大迫力と涙が出るような美しいメロディーに呆然とし感動の真っ只中にいた。
その時の曲の名、ヴェルディのレクィエムを忘れるわけがなかった。
そしてその後、ひょんなことから上級生がたまたま持っていたその演奏のレコードを貸してくれた、というのがこの曲との長い付き合いの始まりだった。
この曲は長大である。
1.レクィエム
2.ディエス・イレ
3.オッフェルトリウム
4.サンクトゥス
5.アニュス・デイ
6.ルックス・エテルナ
7.リベラ・メ
全7曲からなる4人の独唱(ソプラノ、アルト、テノール、バス)と4部合唱、場外トランペット(バンダという)とオーケストラによる大曲だ。
数あるレクィエムのなかでモーツァルトやフォーレなどと並んで最も人気が高く、上演回数も多いクラシックの名曲で、この曲の一部「ディエス・イレ(怒りの日)」の冒頭などはTVや映画のBGMで耳にする機会も多い。
例えば邦画の「バトルロワイヤル」・・・この映画のタイトル曲はこれを使っているし、他にもドキュメンタリーなどで劇的なシーンなどでよく聞く。
レクィエムとはカトリック典礼における「死者のためのミサ曲」のことだ。
したがって多くのレクイエムは教会で厳かに演奏されるよう作られている。が、ヴェルディは何と言っても歌劇(オペラ)の世界の第一人者である。
そのためかこのレクイエムは典礼用というより劇場用といった趣がある。
すさまじい迫力の部分があると思えばオペラティックなアリア(独唱)や二重唱などがちりばめられ、教会関係者の中にはカトリック的ではないとの指摘もあるが、この曲の美しさと巨大さはしばしばローマのサン・ピエトロ大聖堂のシスティーナ礼拝堂を飾る大壁画「ミケランジェロの<最後の審判>」に比較されうるものである。
僕はこの曲からとても多くのものを学んできた。
歌うということ(カンタービレ)、シンプルだが効果的な和声変化、ラテン語の発音、涙の出るような美しいメロディ、リリシズム、劇的変化の妙・・・。
この曲の最も迫力のある部分<ディエス・イレ>は全管弦楽と一台の大太鼓(バスドラム)が交互にバトルをするところがある。
ここで録音関係者はあることを考えた。大太鼓奏者の大きなバスドラムの脇に平行に並ぶようにさらに巨大なちょっと皮を緩めた大太鼓を置いたのだ。奏者の叩く大太鼓の振動が隣に置かれた巨大な太鼓の皮も振るわせる。(これをドローン効果という)
これによって恐ろしいまでの重低音で激しく鳴る大太鼓の音を録音することに成功した。
もちろんこの例はバーンスタインのこの録音のみで使われたテクニックであったが。
僕はヴェルレクのCDを12セットもっている。
どの演奏も微妙にあるいは極端にその表情が違う。聴き終えた後の感動が違う。
ここがクラシックの楽しさでもある。
長い曲だが、いたるところに感動的なメロディが出てくる。
2部に分かれた8声の大合唱がブラス軍団とチェイスする#4やチェロが天国的なメロディを弾く#3、ステンドグラスから光が差し込んでくるような#6、そして全曲の中心的存在の#2・・・死者に対する哀れみの気持ちとともに明るく天国へ送り出そうというどこかイタリア的発想の明るさが交互に感じられてすばらしい。
僕はいまでもこの曲のエッセンスを自分の音楽表現や文章表現に無意識に取り上げているように思う。
キリスト教的表現方法と東洋の仏教的表現方法の差こそあれ、多様な表現を体験する事はとても大事だと思っている。
音楽で気軽にそれを体験してみてはどうだろうか。
面白い事に東洋的諦観(ていかん)をヨーロッパの作曲家が見事に表している音楽がある。
マーラー作曲の交響曲「大地の歌」がそれである。
いずれ時が来たらこの曲の真髄についても書きたいと思っている。
今回の曲
ヴェルディ作曲 「レクィエム」
正直言ってこのブログにクラシックを登場させてもあまりレスポンスを期待できない。
クラシック音楽が多くの人に縁遠い存在なのか、僕の選曲が特殊なのか、はたまた他に何か理由があるのか、それは分からない。
分からないが僕にとってこの<ヴェルレク(と略す)>は多感な16歳の頃の出会いからずっと傍らに置き続けている音楽なのでどうしても取り上げておきたかったんだ。
高校一年生の初夏、部活の上級生が学校にレコードを持ってきていた。なぜかは忘れたが後日そのレコードを借りて聴くことになった。
その頃、すでにロックバンドを組んでGFRやツェッペリン、パープルなどなどをコピーしていた僕であったが同時にクラシックの曲もかなりの量を聴いていた。しかし大規模な合唱曲あるいは宗教音楽の類にはあまり縁が無かったのでこのヴェルレクも名前だけで実はあまりよく知らなかった。
それより少し前、僕は今は亡き母と夜遅い時間にNHK教育で放送されたこの曲のライブ中継をたまたま見ていた。演奏者(指揮者)はバーンスタイン/ロンドン交響楽団で、ライブの映像はロンドンのセント・ポール大聖堂から。豪華絢爛の大聖堂の内部装飾に母は見とれていたが僕は初めて聴くその音楽のすさまじい大迫力と涙が出るような美しいメロディーに呆然とし感動の真っ只中にいた。
その時の曲の名、ヴェルディのレクィエムを忘れるわけがなかった。
そしてその後、ひょんなことから上級生がたまたま持っていたその演奏のレコードを貸してくれた、というのがこの曲との長い付き合いの始まりだった。
この曲は長大である。
1.レクィエム
2.ディエス・イレ
3.オッフェルトリウム
4.サンクトゥス
5.アニュス・デイ
6.ルックス・エテルナ
7.リベラ・メ
全7曲からなる4人の独唱(ソプラノ、アルト、テノール、バス)と4部合唱、場外トランペット(バンダという)とオーケストラによる大曲だ。
数あるレクィエムのなかでモーツァルトやフォーレなどと並んで最も人気が高く、上演回数も多いクラシックの名曲で、この曲の一部「ディエス・イレ(怒りの日)」の冒頭などはTVや映画のBGMで耳にする機会も多い。
例えば邦画の「バトルロワイヤル」・・・この映画のタイトル曲はこれを使っているし、他にもドキュメンタリーなどで劇的なシーンなどでよく聞く。
レクィエムとはカトリック典礼における「死者のためのミサ曲」のことだ。
したがって多くのレクイエムは教会で厳かに演奏されるよう作られている。が、ヴェルディは何と言っても歌劇(オペラ)の世界の第一人者である。
そのためかこのレクイエムは典礼用というより劇場用といった趣がある。
すさまじい迫力の部分があると思えばオペラティックなアリア(独唱)や二重唱などがちりばめられ、教会関係者の中にはカトリック的ではないとの指摘もあるが、この曲の美しさと巨大さはしばしばローマのサン・ピエトロ大聖堂のシスティーナ礼拝堂を飾る大壁画「ミケランジェロの<最後の審判>」に比較されうるものである。
僕はこの曲からとても多くのものを学んできた。
歌うということ(カンタービレ)、シンプルだが効果的な和声変化、ラテン語の発音、涙の出るような美しいメロディ、リリシズム、劇的変化の妙・・・。
この曲の最も迫力のある部分<ディエス・イレ>は全管弦楽と一台の大太鼓(バスドラム)が交互にバトルをするところがある。
ここで録音関係者はあることを考えた。大太鼓奏者の大きなバスドラムの脇に平行に並ぶようにさらに巨大なちょっと皮を緩めた大太鼓を置いたのだ。奏者の叩く大太鼓の振動が隣に置かれた巨大な太鼓の皮も振るわせる。(これをドローン効果という)
これによって恐ろしいまでの重低音で激しく鳴る大太鼓の音を録音することに成功した。
もちろんこの例はバーンスタインのこの録音のみで使われたテクニックであったが。
僕はヴェルレクのCDを12セットもっている。
どの演奏も微妙にあるいは極端にその表情が違う。聴き終えた後の感動が違う。
ここがクラシックの楽しさでもある。
長い曲だが、いたるところに感動的なメロディが出てくる。
2部に分かれた8声の大合唱がブラス軍団とチェイスする#4やチェロが天国的なメロディを弾く#3、ステンドグラスから光が差し込んでくるような#6、そして全曲の中心的存在の#2・・・死者に対する哀れみの気持ちとともに明るく天国へ送り出そうというどこかイタリア的発想の明るさが交互に感じられてすばらしい。
僕はいまでもこの曲のエッセンスを自分の音楽表現や文章表現に無意識に取り上げているように思う。
キリスト教的表現方法と東洋の仏教的表現方法の差こそあれ、多様な表現を体験する事はとても大事だと思っている。
音楽で気軽にそれを体験してみてはどうだろうか。
面白い事に東洋的諦観(ていかん)をヨーロッパの作曲家が見事に表している音楽がある。
マーラー作曲の交響曲「大地の歌」がそれである。
いずれ時が来たらこの曲の真髄についても書きたいと思っている。