僕は若い頃に比べて、驚くほどTV番組を見なくなった。
理由は簡単。いつも決まった芸能人が出て、どうでもよいようなバラエティばかりを垂れ流しているからである。
歌番組はジャニタレ。司会はみのもんた、島田紳助・・・彼らを見ない日は無い!
ニュースを取り上げるにしてもワイドショーなどは新聞記事を大写しにしてコメンテーターなどにしゃべらせている。
なんでTV局が独自のニュース・ソースでこういったコーナーを作らないのか?
情けないじゃないか。ライバルであるはずの新聞報道を利用させてもらうなんて。
同じ報道機関として、これではあまりに手抜きであるとは、みなさん思わない?
大きくアップにした新聞記事にアンダーラインを引いたり、棒などでその部分を指し示し、あたかも自分が考えてしゃべっているかのような読み手。・・・おもえばこういった手法は昔「やじうま新聞」(TV朝日系)がパイオニアであったが、今ではどの局もこればかりだ。
で、数は少ないながらもTVで僕が見る番組といったらおのずと<自然紀行>ものになってしまっている。
NHKはこういう番組作りでは他局を圧倒しているが、それでさえ最近の僕には不満があるのだ。
懐かしい話だが、この局の「新日本紀行」という番組は秀逸だった。
富田勲作曲のあのメインテーマが流れてくるだけでもう涙がでそうになったものだ。
世界を旅してその土地や特色を紹介する番組も好きだ。
世界遺産や大自然ものは録画しておくほどのマニアでもある。
そういった意味では冒頭の<TVはあまり見ない>というのはウソになるが・・・。
でもそんな大好きな番組でもこの頃歳のせいか、妙にハナにつく映像表現に閉口することがあるのだ。
先日、新聞を読んでいるとこんな僕と同じような感想を映像表現に対して抱いている人のコメントが載っていた。
僕はこの短文を読んでまさしくそのとおり!と膝を叩いたので、それを以下に要約して紹介したい。
「定型表現」(仲畑貴志:コピーライター)
映像表現には定型がある。
その中には、よく考えるとおかしいと思うのだが、漫然と見ていると心を奪われている自分に気付くものもある。
それは喜怒哀楽でいうと哀方向の表現に多いように思う。いわゆる感動ものだ。
画面に雄大な風景が映っている。 雪を頂いた山脈である。そのふもとの集落にカメラが寄っていく。
雪山から流れ出た川がひと筋。 降りしきる雪の中、川で老婆が一人、大根の泥を洗っているのだ。
そこへ、きわめて穏やかな男性のナレーションが入る。
「雄大な自然の中を流れるひと筋の清流。その清冽な水で、取れたての大根を洗うおばあさんです。
都会ではもう得ることの出来ない、自然と調和の取れた生活がここにあります」
これまずいでしょう。
「こんな寒いところで、手が切れるような冷たい水で、大根なんか洗いたくないやい。集中暖房の部屋で、ちょいと温めた水で洗いたいやい。金も設備も無いからこんな嫌な事、仕方なくやってるんだい」と、おばあちゃんは言いたい。
しかし、ドキュメント番組は容赦しない。
画面全体に顔を大写しにして言う。「顔に刻まれた一筋一筋のしわに、彼女の人生が刻まれているのです」
ときた。
「しわなんか無いほうがいいやい」と、おばあちゃんは泣くぞ、しまいに。
理由は簡単。いつも決まった芸能人が出て、どうでもよいようなバラエティばかりを垂れ流しているからである。
歌番組はジャニタレ。司会はみのもんた、島田紳助・・・彼らを見ない日は無い!
ニュースを取り上げるにしてもワイドショーなどは新聞記事を大写しにしてコメンテーターなどにしゃべらせている。
なんでTV局が独自のニュース・ソースでこういったコーナーを作らないのか?
情けないじゃないか。ライバルであるはずの新聞報道を利用させてもらうなんて。
同じ報道機関として、これではあまりに手抜きであるとは、みなさん思わない?
大きくアップにした新聞記事にアンダーラインを引いたり、棒などでその部分を指し示し、あたかも自分が考えてしゃべっているかのような読み手。・・・おもえばこういった手法は昔「やじうま新聞」(TV朝日系)がパイオニアであったが、今ではどの局もこればかりだ。
で、数は少ないながらもTVで僕が見る番組といったらおのずと<自然紀行>ものになってしまっている。
NHKはこういう番組作りでは他局を圧倒しているが、それでさえ最近の僕には不満があるのだ。
懐かしい話だが、この局の「新日本紀行」という番組は秀逸だった。
富田勲作曲のあのメインテーマが流れてくるだけでもう涙がでそうになったものだ。
世界を旅してその土地や特色を紹介する番組も好きだ。
世界遺産や大自然ものは録画しておくほどのマニアでもある。
そういった意味では冒頭の<TVはあまり見ない>というのはウソになるが・・・。
でもそんな大好きな番組でもこの頃歳のせいか、妙にハナにつく映像表現に閉口することがあるのだ。
先日、新聞を読んでいるとこんな僕と同じような感想を映像表現に対して抱いている人のコメントが載っていた。
僕はこの短文を読んでまさしくそのとおり!と膝を叩いたので、それを以下に要約して紹介したい。
「定型表現」(仲畑貴志:コピーライター)
映像表現には定型がある。
その中には、よく考えるとおかしいと思うのだが、漫然と見ていると心を奪われている自分に気付くものもある。
それは喜怒哀楽でいうと哀方向の表現に多いように思う。いわゆる感動ものだ。
画面に雄大な風景が映っている。 雪を頂いた山脈である。そのふもとの集落にカメラが寄っていく。
雪山から流れ出た川がひと筋。 降りしきる雪の中、川で老婆が一人、大根の泥を洗っているのだ。
そこへ、きわめて穏やかな男性のナレーションが入る。
「雄大な自然の中を流れるひと筋の清流。その清冽な水で、取れたての大根を洗うおばあさんです。
都会ではもう得ることの出来ない、自然と調和の取れた生活がここにあります」
これまずいでしょう。
「こんな寒いところで、手が切れるような冷たい水で、大根なんか洗いたくないやい。集中暖房の部屋で、ちょいと温めた水で洗いたいやい。金も設備も無いからこんな嫌な事、仕方なくやってるんだい」と、おばあちゃんは言いたい。
しかし、ドキュメント番組は容赦しない。
画面全体に顔を大写しにして言う。「顔に刻まれた一筋一筋のしわに、彼女の人生が刻まれているのです」
ときた。
「しわなんか無いほうがいいやい」と、おばあちゃんは泣くぞ、しまいに。
本当にバカ・キャラばかりでTVから得るものなんて無いのですよ!
紀行番組やニュースなどで見る「旭川」の生活や自然は、さすがに厳しそうですなぁ。
そういった厳しさを美しい生活だと印象付けるあざとさに、しばしば閉口するのも事実です。
冬は暖かい沖縄か千葉の房総あたりに住み、夏は涼しいここ北海道がいい。 自然紀行の実写版だ。
想像を絶する極寒の地「旭川」は特別だ。 昔、氷点下30度にもなったら小学校は休み。 学校の暖房が追いつかなくなるからだ。
今は温暖化が進み氷点下20度にもなかなかならないが寒いものは寒い。
俺もTV番組はスポーツ以外はあまり観なくなった。 お馬鹿キャラ(芸人含む)ばかり出っ放しでムカツク!!