「人間って、死ぬもんなんだよね……」

私が明日、死ぬとわかったら「自分にも相手にも優しくなる」
人間は、いつ死ぬかわからないんだ…みんなに優しくしよう。

ーーー目には見えないが、一本の糸がある。 パート2

2012-12-23 12:18:05 | OSHOの講話
The Art of Dying Talks on Hasidism P.22~24

アリの一群が、朝早く、食べ物を捜しに地中の暗い巣穴から出て来た。アリたちは朝露に濡れた草の脇を通りかかった。

「これ、なんだろう?」「どこからやって来たのだろう?」と、一匹のアリが朝露を指差して言った。
あるものは「地面からだ」
別のものは「海からだ」
すぐに口論が始まったーーー海に固執するグループと、地面に固執するグループに分かれて。

一匹だけ、どちらにもつかない知的で賢いアリがいた。そのアリが言った、「少し待って様子を見てみよう。なんであれ、もともとあったところへ帰ろうとするものだ。すべてはその源へ帰っていく、って言うじゃないか。どんなに空高くレンガを投げたって、レンガは地面に落ちてくる。」「光の方へ向かうものがあったら、それは、もともと光に属していたということだ」

アリたちは まだ充分納得がいかず、口論を再開するところだった。しかし、陽が登り、朝露は 葉から離れ太陽の方へどんどん昇っていった。そして消えてしまった。

すべては その源泉に帰る、帰らなければならない。生を理解するなら、死をもまた理解する。
生は 源泉の忘却、死は その想起。生は 源泉からの離脱、死は 源泉への回帰。
死は 醜いものではない、死は 美しい。だが、美しいのは、制約や抑圧のない生を送った人の死だけだ。
美しく生きた人、生きることを恐れなかった人、つまり、愛した人、踊った人、祝った人の死だけだ。


生が 祝祭となれば、死は 究極の祝祭となる。
こう言っておこう、生がどんなものであるにせよ、死は それを曝け出す、と。
あなたが 惨めに生きていれば、死はその惨めさを露(あらわ)にする。死は 見事に暴露する。
幸せに生きていれば、その幸せを 露にする。
肉体的な慰めや喜びだけに生きていれば、死はーーー肉体から去らなければならないのだからーーー当然、非常に不快で嫌なものになる。
肉体は、夜泊まって 朝には立ち去る仮の宿、社(やしろ)に過ぎない。
永遠の住まいでも、あなたの家でもない。

OSHO,

(パート3に続く)

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